2024年11月6日水曜日

タンポポと死

タンポポが 拷問で死んでいった人の心になったとき

種は針ではなく 生の底にあった酒とネクタルの甘い雫が

死で氷になった冷たい優しさ


種が祈りさえ風に委ねて

家の壁 ファイヤーウォール クローゼットを

愛で貫通したら 貴方は微笑んでいたんだろうか

弓が文明に隠れた邪悪であったとしても


2024年10月31日木曜日

雷水晶

 


雷水晶

 歌 : 結月ゆかり

 作曲・演奏 : Haya


朝 夢 光たちは 夜の愛と悪戯に

窓 服 食器の歯で 食べられてから 蝋燭


青い悲しみ見て

雲の鉄格子


醒めないで あの空割れる?

カモフラージュ 風に迷宮

歩いてた ドアが響く

木の願いは 塔を崩さない

 

雷も 波を焼くの?

ワインを見て 凍った魚

それなら レモンの花

水晶割って 稲妻模様


青い悲しみ見て

グラス泣いてるの?


醒めないで あの空割れる?

断面図に 落書き禁止で

探してた ドアが響く

星歌って 鳥が羽ばたくの?


2024年10月30日水曜日

月とラクガキ



月とラクガキ 

 作詞・作曲: Haya 

 歌: 結月ゆかり 


回してたのティーカップ だって頭回らない 

そっと君のことをずっと 思い出してたんだ 

失くさないであの時計 いつか君に贈ったね 

今も元気してるのかな 別れの言葉忘れない 


今日は君の誕生日だったから 

赤いリボンの絵を描いてみた 


空に月がでたよでもね 涙流さないよだって 

ラクガキして退屈な 振りをして目をつむり 

今もちょっと好きさ嘘よ 少し会ってみたいけどね 

解けたリボン戻らない 星の飾りつけてもいいの ? 


遊んでたの猫とね だってひとりぼんやりと 

月を眺めているなんて そんなことすら飽きたから 


トランプ切ってみて 魔法をかけてみる 

紅茶の水面に 仲良しチェリー甘い味 


月が光るでもねもっと 星と夢を呼ぶよずっと 

君と会える夢の中 せっかくだから綺麗な絵で 

そんなことを口ずさんで どこに涙隠そうかな 

想い 願い 記憶 夢 そっと鍵で胸の中に 


神様くれた運命の糸 あの日々 笑顔を 

忘れないよう大事にずっと 一つ飾ってる 


月が綺麗でもねもっと 星と夢を呼ぶよずっと 

君と会える夢の中 せっかくだから綺麗な絵で 

だけど私 悲しいからね 滲んだ絵しか描けてないの 

ハッピーバースデー懐かしい 心の灯は消したくないわ

2024年10月28日月曜日

月の夜

 


月の夜

 作詞作曲: Haya
 歌: 結月ゆかり

夢で見た草原を 探し
小さな鍵穴 覗いたら
真っ赤な万華鏡

壊れてくあの糸を 引いて
泣いてる弓も投げましょう
月下の観覧車

あの夢ならいいの
遠くに忘れたの

通り過ぎた夜が ほら地平線
読んでみても 朝まで遠い雲
遥か向こう月の涙 数えても
いつまでも想い 溢れていく

消えていくあの空を 抱いて
空いた胸に 白い花
いっぱい咲かせたら

あの夢ならねいいの
遠くに忘れたの

通り過ぎた夜がほら 地平線
呼んでみても朝まで 遠い雲
遥か向こう月の涙 数えても
いつまでも想い 溢れていく

2024年3月16日土曜日

精神と地球

  情感豊かな自然科学者や博学な詩人(たとえばゲーテや宮沢賢治)の心のなかには、一個の地球がある。

 たとえば彼が心地よさを感じると、すぐにそれは肌を打つそよ風の感触に喩えられる。そして風がどんな仕組みで吹いているのか、その原理がすぐに彼の心の裡に想起される。

 太陽の熱で海が蒸発して大局的に上昇気流が出来、そのあたりでは気圧が下がり、大陸のところでは相対的に気圧が高くなる。水分を含んだ上昇気流ははるか上空へ達すると、気温とともに空気の飽和水蒸気量も下がるので水滴となり、それが集まって雲となる。下からまだまだ上昇気流がくるので、雲を纏った上空の大気は、他のところ、つまり気圧の高いところへ移動する。海抜近くでは逆に、気圧の高いところから低いところへ、風が吹く。地球の大気の対流。彼は風を想起しただけで瞬間的にこういう様を思い描き、雨が降る仕組み、雨や風によって大地が風化して地形が出来ていく仕組みなど、そのほか色々な地球の現象を思い描くかもしれない。


 彼は風を想起するだけでなく、リアルに精神の裡に現象させるのであり、しかもその現象の仕組みを地球全体の関連の中で理解しているので、他の色々な自然現象も同時に彼にリアルに現象する。彼の情感が豊かな場合、色々な自然現象が彼の心の中で起こっているうちに、別の感情を、あるいはその感情に関連する記憶を、思い浮かべることもあるだろう。

 地殻や火山の激動は怒りの隠喩となり、低気圧や湿気や雨雲は憂鬱な気分を表現する。過去の恋人は、月を映す夜の湖、その深くを独りで泳ぐ魚のように、静かに心の中を泳いでいる。無数の植物を生やした一個の山の光合成のように豊かな深呼吸をしながら、空想は風のように自由に飛びまわって、その風に葉っぱが揺れて森がざわめくかのように、漠然とした歌ができる。あるいは雨が長く降らないで水分が不足して生気を失っていく森のように、その印象の戯れの歌声はだんだん枯れてくるかもしれない。しかし突然、インスピレーションの雷が天を裂いて発光する。轟音とともに激情の嵐がやってきて、その勢いで新しい作品の荒削りな草稿を完成させる。森は多少被害を受けたものの、久しぶりの雨だったので動植物はその恵みによって豊かな活動を開始するかのように、作品を彫啄する。


 自分の記憶や感情と色々な自然現象が密接に結びついているので、あらゆる精神活動が自然の生気を帯び、豊かな研究や芸術活動を行うことが出来るのである。彼は科学を行うと同時に精神を芸術化し、職業として科学を行っていたとしても夕方からは創作を行えるであろうし、逆も然り、詩人でありながら自宅での研究も有効に行うことができるだろう。

2024年3月9日土曜日

元型について

 ”元型論”というのは、ユングの代表的な一著作のタイトルにもなっているし、その著作に限定せず、ユングの遺した学問的な遺産のなかでも際立って重要な、つまり、ユングの思想の根幹に位地する、理論あるいは仮説である。


 ユングは、同じひとつの概念に対して曖昧な何通りもの説明を下したりしていて、元型に関してもその例に漏れない。元型の定義をいろいろと違った方法で説明している。それは、たぶん元型というものが簡単には説明できない、極めて認識しづらいものであって、元型を直接理解することは不可能にちかいものだから元型論というのは色々な言説や無数の具体例の中から総合的に導かれた理論であり、だからそれを説明するには、色々な方向から多角的に説明するしかなかったのだと思う。だから、そのユングによって曖昧に何通りも説明されている元型を理解する側も、いろいろな方向から総合的に認識していく必要があるように思われる。立方体のような簡単な形の立体なら、一方向からみただけで大体その外観がつかめるものであるが、歪な形をした立体は色々な角度からみてはじめてその立体的な姿を把握できるものである。しかも一つ一つの写真をばらばらに個々に覚えるだけでは、その立体の姿はつかめない。自分の想像力によって、いくつもの写真が映す面を頭の中で合体させて立体化させてはじめて、その立体の形が浮かび上がるのである。とにかくユングの元型という多角的に綜合判断しなければならない歪な立体みたいなややこしいものについて、色々な角度から、書いてみます。


ユングは、神話や宗教を研究していくなかで、人間の心の振る舞いに、一定の本能的な傾向をみつけた。その心の振る舞いや働きを導くときのパターンがすなわち元型。世界各地の神話や宗教には、あらゆる共通点があるが、それは生得的なものつまり元型によって決定されているからだということになる。つまり人間の心は人類共通の形式によって方向付けられていて、無意識のうちにその形式に従って考えたり想像したり、その考えに従って行動したりしていることになる。まだ元型というのは仮説の域を出ない仮定的なものであって、直接的な証拠から導かれた理論ではないが、ユングの膨大な量の博学と膨大な数の患者を診てきた経験を考えると、ユング個人の心によってつくられた理論だとしても、いろいろな事例に適応しうる、限りなく客観的妥当性のある仮説的理論だといえる。


ユングが元型論という考えをもつようになった発端は、最初に勤めていた精神病院においてである。長期間隔離されていた不治の精神分裂病患者とユングは関係をもつようになった。その患者は、発症後、それまで誰からも意味不明の狂人だとして相手にされたことがなかったのだが、精神病といっても人間の心の病である限りなにかしら意味を秘めているだから患者をただ隔離するだけの精神医学はよくないと考えていたユングは、この患者に興味をもちはじめ、患者の支離滅裂な話を根気よく聞いていた。その患者の話のなかに、「太陽の男根がみえる。私が頭を左右に動かすと、それも同じように動く。それが風の原因だ。」というのがあって、当時のユングはもちろんそんな馬鹿げた話を理解できなかったのだが、とりあえずその患者の言葉をメモして覚えていた。そして、四年後、ユングが神話や神秘主義について研究しているとき、ミトラ教の儀典とされる文書のなかに驚くべきことが書いてあった。太陽からぶら下がっている筒があって、それが西に傾くと東風が吹き、東に向くと西風がふく、この筒が風の原因である、というような内容である。これは、精神病患者の支離滅裂な空想とほとんど一致している。こういうことがあって、ユングは人間はなにか共通した原イメージをもっているのではないか、ということを考えるようになり、世界各地の神話や宗教を研究していくなかで、それは確信に近づき、元型論として理論化されていくことになった。


後天的に経験したり記憶したり習ったりして形成されていく”意識”の内容ではなく、その意識よりも深層にある”無意識”、その無意識の中でも特に深層にあって後天的なものの影響を受けるものではなく遺伝によって与えられ先天的に決定されている要素のみで成り立っている”集合的無意識”。その集合的無意識は、意識の内容と比べればもちろん混沌としていて意識の側からすれば把握しづらいが、それは無意識を意識化していない意識の側からみたときの印象であって、実は無意識の深層の集合的無意識の内容も一定の秩序やパターンによって決定されているとユングは考える。集合的無意識の内容を方向付けるその形式を、ユングは”元型”と呼ぶ。


よく誤解されてきたことなのだが、元型は形式であって内容ではないとユングは繰り返し主張している。つまり元型それ自体は遺伝するが、集合的無意識の内容であるイメージや観念がそのまま引き継がれる、つまり死んだ先祖からの記憶として今生きる人間に受け継がれている、のではない。その無意識のイメージや観念を生む傾向、そのイメージや観念が生まれるときのパターンなどが遺伝するのであって、そのイメージや観念、集合的無意識の内容そのものが引き継がれるのではない。ユングの集合的無意識や元型をオカルト的に誤解する人は、今生きている人と古代の人々が、集合的無意識によって繋がっていると考えるが、ユングは、共時性という超常現象に関する仮説でたまにそういうのに類した発想を展開することがあっても、仮設の域を出ようとしているほとんど経験科学的な理論である元型論においては、そのようなことを一度も述べたことはない。もっと身体的で、古代からとかではなく時間的にも短い単位の、具体例で喩えるなら、運動神経のいい家系があったとして、その家系は運動神経のよさは遺伝しても、その家系に属するアスリートが訓練によってえた能力は遺伝しない。先天的な、身体の構造、筋肉の質、反射神経の鋭敏は遺伝するが、最終的な身体の構造、肉付き、反射の速さは、遺伝しない。もしそれが遺伝してしまえば、当然、後代になっていくにつれて身体能力は優れたものになっていくことになる。同じように、集合的無意識の内容が遺伝してしまえば、つまり観念やイメージが後代に受け継がれてしまっては、人間の記憶というのは個人単位でもだんだん増えていくことになってしまう。しかし事実はそうではない。集合的無意識については、その形式のみが、遺伝するのであって、内容が受け継がれたりすることはない。そのイメージや観念が生み出される傾向、それを方向付けるパターン、つまり元型のみが、遺伝される生得的なものであって、集合的無意識の内容は生得のものでもなく遺伝するものではない。その内容が、生得的なパターンによって決定されている、というのが、元型論のいうところである。ユングは、元型が無意識の内容であるとか、ある観念やイメージがそのまま遺伝されるとかいう誤解をなくすために、元型を、元型それ自体と元型的イメージにわけて考えることもある。引用すると「何度も何度も私は、元型はその内容に関して決定されている、つまりそれは一種の無意識的な観念であるという誤解にあっている。元型は、その内容に関して決定されているものではなく、その形式に関してのみであり、それも非常に限られた範囲においてのみそうであることを、再びここで指摘しておかなければならない。元型的イメージは、その内容に関して、それが意識化される問い、従って意識的経験の素材によって満たされるときに満たされるときにのみ決定される。しかしながらその形式は、結晶の軸構造と比較しうるものであろう。それ自身は物質的な存在ではないが、母液のなかの結晶構造をつくりあげるかのようなものである。(以下「……」は省略記号とする)……元型はそれ自体では空で形式的であり、先天的可能性にすぎない。それは先験的に与えられている表象可能性なのである。」『元型論』(元型と集合的無意識) つまり、元型それ自体という形式的なものだけが遺伝し、集合的無意識の内容である元型的イメージが遺伝するわけではない、そしてその元型的イメージは、元型によって決定されているのだから、そのまま遺伝することはないが、元型それ自体の作用を介して超時代的に似たようなものとして現れる、ということである。


ユングの「元型」は、プラトンの「イデア」とよく比較されることがある。両者は、類似点と相違点をもっている。プラトンは、生々流転する現実の背後には、イデアという永遠に普遍の鋳型があると考えた。椅子を作る人が椅子の観念を知っている限り何回椅子がこわれても新しい椅子がつくられるように、現実上にあるものは色々と生まれては消滅するというのを繰り返しているけれど、それでも一定の同じ現実をたもっていられるのは、現実の背後にイデア界というのがあってそこに存在するイデアにそって現実のものが作られているからだとする。円が円として現実にあるのは円のイデアという抽象的な鋳型がイデア界に存在するから、人間が何かを美しいと感じるのはあるいは美しいものがこの世にあるのは美のイデアが存在するから、そういうのが、イデア論の簡単な概説になると思う。そしてプラトンは、イデアは五感で知覚できるものではなく、理性によってのみ把握できるものであるとした。このイデア論と元型論は一部共通点をもっている。あらゆる現象に先立つ普遍的なものであるという点、具体的なもの、あるいは具体的なイメージを形作るための鋳型として作用するという点で、二つは共通している。また、ユングは元型それ自体は人間によって直接知覚できるものではなく、その元型によってつくられた元型的なイメージを介してのみ、元型がどんなものかを把握できるとしているが、このことはイデアが人間の五感によっては近く出来ない超越的なものであるというイデア論と類似している。一方、元型とイデアの大きな違いは、プラトンのイデアというのはイデア界というところに存在している実体であり、そのイデアが人間の知覚できる現象界の人間心理や物質を含めあらゆるものを決定しているとしているが、ユングの元型は、そうした見えない「実体」や存在者ではなく、人間の深層心理の動きの「形式」である。


元型というのは、無意識が生み出す夢、空想、神話、御伽噺を生み出す人間の意志でもなければそれらの内容でもなく、それら夢や神話にみられる型のことをいうのであって、その生得的な型によって無意識の内容が方向付けられているから、夢や神話には普遍的な共通点がみつかるのだといえる。またプラトンの理性によってのみイデアを把握できるとするイデア論とユングの元型論の大きな違いは、イデアというのが理性によって把握できる抽象的なものであるのに対し、元型は抽象的なものではなく具象的なものである。正確にいうと元型それ自体は抽象的なものでも具象的なものでもなく、形式やパターンとしか言いようがないのであるが、その元型が生み出す元型的なイメージが、かなり具象的なものであって、理性よりも直観や感情によって把握できるものであるといえる。この意味で、プラトンのいうイデアよりも、ショーペンハウアーがプラトンのイデア論を解釈して自分の思想体系のうちで言い直したイデアのほうが、ユングの元型的なものに近い。ショーペンハウアーは、イデアを理性によって把握できる抽象的なものではなく、天才の純粋認識によってのみ把握できる直観的なものだとした。「……イデアに到達できるのはただ天才か、それともせいぜいのところ、天才の作品がきっかけとなって自分の純粋な認識力を高めて天才的な気分になった人に限られる」『意志と表象としての世界』(49節) ここでいう、天才的気分、というのはユングの解釈によると感情状態だとされているし、ショーペンハウアーはイデアと芸術を結びつけることが多いので、ショーペンハウアーにとってのイデアというのは具象性をもち人間の心理に直接的に作用する実感的なものだということもいる。ユングは、ショーペンハウアーが、イデア(とくに芸術に関係する言説においてのイデア)が、自分が根源的なイメージあるいは元型的なイメージとしているものと同じようなものとして説明されている、と書いている。イデアという先験的に存在するものは哲学者によって理解のしかたが違うので、イデア的先験的なものを、理念という抽象的なものと根源的なイメージ(あるいは元型的なイメージ)という具象的なものにわけるなら、「理念」が理性によって認識される抽象的なものであるのに対し、「根源的なイメージ」という元型的なものは具象的に人間の心にあらわれるものであり理念とはちがって先験的な感情価を帯びている。ユングは、理念は根源的イメージという元型的なものの後にうまれるものであって、根源的イメージは全ての心理的なものの母胎であると考える。つまり最初に感情的で具象的な根源的なイメージがあって、その根源的なイメージを合理的に使用可能なものとするために感情価を抜き去ったあとにできる抽象的なものが理念であると定義している。ショーペンハウアーはイデアについて比喩的に次のような説明をしている。イデアと概念の違いについて「……概念は生命のない容器にも似ている。人がそのなかに入れたものは、容器の中に実際に並んだまま横たわっている。しかし容器のなかからは、こちらが入れただけのものより多くは、取り出すことが出来ない。これにひきかえ、イデアは、イデアを把握した人間のもとでさまざまな表象を展開する。この表象はイデアと同じ名前の概念のうちには含まれていない新しい表象だからである。つまりイデアは生命のある、発達する、生殖力をそなえた有機体に似ていて、こちらがあらかじめ入れておかなかったものをも自分で生み出す力をもっている」『意志と表象としての世界』(49節) このように、ショーペンハウアーは、概念という抽象物は無機的なものであるのに対し、イデアという直観的なものは有機的なものだといっている。ユングは、自分の著作でショーペンハウアーのこの言説を引用して、イデアを根源的イメージに言い換えれば、そのまま自分の言いたいことになると書いている。プラトンやカントのいうイデアは理念的なものであり、ショーペンハウアーのいうイデアは、ある意味では、元型的なものであるといえる。ユングは、理念的なものや概念的なものが明瞭性を持っているのに対し、元型的なものは生命力をもっているという。このことは、ショーペンハウアーの引用の「生殖力を備えた有機体」という喩えとも共通している。ショーペンハウアーのイデアについての言及をさらに引用するなら「概念は生活にとってどんなに有益であろうと、また学問にとってどれだけ有用であり、必要であり、生産的であろうと、芸術にとっては永久に不毛でありうるが、一方、イデアの把握は、あらゆる本物の芸術作品の唯一の、真の源泉である。……イデアを汲み出すのは本当の天才か、あるいは瞬間的な霊感によって天才の境地にまで達した人のみである。不滅の生命を宿す真正の芸術作品は、ただこのような直接の受胎からしか生じようがない」『意志と表象としての世界』(49節) ショーペンハウアーのいうイデアが、ユングの元型に近いものであるとすると、芸術は、元型に導かれて集合的無意識の内容を開示し、集合的無意識の元型的な力を発現し、元型的なイメージを体現することにおいて、真に価値をもつものであるということができるが、実際、ユングもそのようなことを述べている。芸術は、大衆の表層的な意識からはぼんやりとしか感じられない集合的無意識、しかし同時に人間の心理にとって重要な精神的源泉である集合的無意識の内容を語ることで、鑑賞者を内側から感化し、元型的な認識に至ることを手助けしてくれる。人は、芸術によって、ショーペンハウアーのいうイデアや、ユングのいう元型を把握することができ、永遠に生命にとって重要である心理的要素をくみ出すことができるのである。絶望的に暗鬱な世界に響く悪魔の歌声のようなボードレールの詩、文明から逃亡せざるを得ない無垢でありつづけた精霊の祈りのようなランボーの詩、女性を女神のように愛してしまったウェルテルの自殺などは、元型的なものの典型である。ただ、ユングは、芸術に美的な価値は見出しても重要視せず、意味的な価値のみをくみ出そうとする、あるいは美よりも意味を優先させるので、芸術に関して元型的という言葉をつかうときは、そういうことも考慮しておいた方がいいと思う。


天才の表現、芸術作品、神話や宗教には、元型的なものが現れている。あるいは元型的なものが現れているからこそ、それが永遠的な人間の精神的財産になったのだともいうことが出来る。天才や、集合的無意識の元型的なものへの認識に至った人は、個を超越する。「……ショーペンハウアーの作品は彼個人の人格をはるかに超え出ている。それは数え切れないほどの人間がぼんやりとしか考えたり感じたりできないことを表現している。ニーチェについても同じである。とくに彼の『ツァラトゥストラ』はわれわれの時代全体がもつ集合的無意識の諸内容を明るみに出しており、……」『タイプ論』とユングが書いているように、元型が生み出した集合的無意識の内容の認識に至ることによって、人間は刹那的な単なる個々の認識から開放され、もっと永遠的に普遍の価値をもつ真理を認識することができるのだといえる。ユングはこのような認識にいたることを、宗教的なことだと形容している。ユングのいう宗教的とは、決して神の信仰に関するものではなく、神に関していうなら、神の信仰というより神の認識に関するものであり、一般的に、元型的なものつまり集合的無意識の内容の認識に関することを宗教的といっている。「問題の解決は『ファウスト』の場合も、ワーグナーの『パルジファル』の場合も、ショーペンハウアーにおいても、ニーチェの『ツァラトゥストラ』においてさえ、宗教的である。……ある問題が宗教的に理解されるとすれば、それは心理学的に言うと、その問題が意味深いということ、特別に価値が在るということであり、人類全体に関わっている、それゆえ無意識にも関わっている、ということである。」『タイプ論』


元型、というのは個人を超越する生得的に普遍のものである。しかし元型の普遍性は、概念の表面的な一般性とは別のものである。ショーペンハウアーのいうように概念というのは生命力のないものであるが、元型は生命力を生み出す力を持っているものである。たとえば、本能的なものは元型によって導かれて元型的イメージとして人間に認識される、つまり元型的なイメージは本能に関するものであるからには強力な感情価を有している。概念というものが、具体的な事例や経験から抽象されてはじめて一般性をもつに至ったものであるのに対し、元型というのは生命が生得的に持っているという意味での普遍性をもっている。つまり、概念が、例えば先生と生徒の関係についてどう考えるかという質問の答えとして生徒は先生に従わなければならないという一般性を与えるものだとすると、元型は、例えば母親と子の関係についてどう感じるかというかというと多くの人がそこに愛をみるような意味合いで普遍的なのである。先生と生徒、という関係は、生得的なものに関するものではなく、人間のつくった様式にもとづくものであるが、母と子の関係は生得的なものであり、そのなかで生まれる感情は本能である。別の具体例でいえば、死に対する恐怖は本能的で生得的であるが、13や9という数字に対する恐怖というのは特定の文化においての経験のなかで決定されてきたものでしかない。概念と元型的なものはどちらも普遍性をもつものであるが、こういう点つまり概念が経験的なものから抽象されてはじめてできたものであるのに対し、元型は生得的という意味で先験的であるという点で、全く別種の普遍性をもっているといえる。


元型はこのように人類共通の普遍的なものではあるが、しかし、元型が元型的なイメージとして個人に把握されるとき、それは個人の心を介して行われるのだから、当然、個人によって彼が把握した元型的イメージというのは異なるものである。例えば、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、集合的無意識の内容をくみ出しているが、その認識や表現はニーチェの個人の精神というものに大きく左右されている。だから、元型的なイメージのなかに人類共通の元型を見出して永遠に価値のあるものの認識にいたるのも重要であるが、その元型が個人やそれぞれの文化によって元型的イメージとして具体化されているということを考慮して、元型的イメージの現れ方の文化間や個人間の差に注目することも重要である。日本というキリスト教には疎遠な国の文化で育った人が、キリスト教のみによって元型的なものの認識に至ることは稀である。キリスト教というのは、根源的な次元では普遍的で元型的なものではあるが、それが西洋の価値観を媒介してはじめてキリスト教の教義として成立しているのであるから、その西洋の価値観を通ってキリスト教の元型性に辿りつけても、西洋と関係していない日本人がそうすることは辻褄があわない。ニーチェの精神という個人的なもの、西洋の価値観という特定の文化に関わるものなども、元型が元型的イメージとして表現されるときにおおきく関与している。というよりも、個人的なものや文化差的な要素を媒介してはじめて元型的なものが表現されるといえ、だから、ある特定の元型の表現だけで満足してしまえば、それは一面的にしか元型を捉えていないことになり、元型それ自体に対する限りなく接近した認識をえるとするなら、多面的にあらゆる差を考慮しながら元型を見つめるべきだといえる。たとえば、林道義 著『ユング思想の真髄』より引用すると、「キリスト教とグノーシス主義とは、人間の自己実現に必要な心理的な要因を半分ずつもっていた。すなわちキリスト教は「神の人間化」を、グノーシス主義は「人間の神化」を。不幸にして両者は互いを敵として争ったが、じつは互いに自身の欠けているところを補い合う存在だったのである。両者を綜合したものこそユングの思想だということができる。」 このことは、自己元型という元型の中でも最も重要な元型に対する認識が、キリスト教徒とグノーシス主義で対照的な差があり、その両者の認識を総合的にみてはじめて本当の自己元型の認識や自己実現に至る、ということを示している。


集合的無意識は、内向的な心理過程によって把握される。近代以降の世界観では、内面の心的なものというのは外的な事実の派生物でしかないという考え方もあり、もちろんそれは極端な例であるが、一般的に、内的なものよりも外的なものを優先させる傾向がつよい。しかし、心というものは、自律的な構造をもったものであり、だから外的なものからみたら二次的なものでしかないのではなくそれ自身価値をもったものである。ものを認識するには、主体が必要不可欠であり、認識するという動詞の主語にあたるのは人称以外にはありえない。認識が認識の主体に作用されているのは当然のことなのだから、客体の性質だけでなく主体の性質も、認識においては重要な要素になっている。だから、近代以降の西洋合理主義、主知主義においての、内的なもの主観的なものを蔑視したり自己中心的だと批判したりするのは間違っている。それに、無意識の心理要素というのは、内的な心理過程を経てはじめて体験されるものであり、そういう体験から得ることは、外的な表面の価値観に則ることよりも、ずっと重要なのである。なぜなら、表面的な価値観というのは、時代によって変わっていくものであるのに対し、無意識の心理要素、とくに集合的無意識の元型的イメージなどは、超時代的に不変の価値をもったものであるからである。時代に合わせるとはすなわち、その時代に流通している概念や言語に価値を見出すということであるが、ショーペンハウアーが概念と(上述で根源的イメージという意味合いの)イデアの違いについて述べたように、概念というその時代それぞれの経験からつくられた抽象物は無機的な力しかもっていないのに対し、永遠に普遍の価値をもっている根源的イメージすなわち元型的なものは、それ自身で有機的な生命力を有している。


無意識の深層の元型的イメージへとたどり着くということは、そのためには内面へと認識を向けなければならないのだが、以上のように生にとって重要なことである。しかし、元型的なものというのは重要な価値をもったものであるが、同時に恐ろしいものでもある。なぜなら元型は、形式という面だけでなく、エネルギーを生み出すものという面ももっていて、そのエネルギーというのが個人の制御を超えた激しいものになることもあり、ときには破壊的な働きをしてしまうからである。元型の力動性についての言説を引用すると、元型は「母であり、形式であって、経験されるものはすべてこの形式によって把握される。これに対して父にあたるのは、元型の力動的な面である。つまり元型は形式とエネルギーの両面をもつのである。」『元型論』 また、元型の認識とは内的な心理過程であり、つまり孤独な作業である。外部とのつながりが遮断され心理の方向が内側へ向かっているときほど集合的無意識に接触することになる。だから、集合的無意識の元型が危険なかたちで発現されてしまっても、その人はかなり孤立した心理状態にあるのだから、外部のだれからも心理的な救いを得られない場合が多い。元型という力のあるものは、色々な意味で危険な要素ももっているのである。元型は力動的なものであるが、この性質を、ユングは”ヌミノーゼ”といっている。あるいはヌミノースな、という形容詞で表現することもある。ヌミノーゼとは、宗教学者のルドルフ・オットーによって名づけられた現象であり、「聖なるもの」に対しての感情のことをいう。聖なるものや神々しいものに魅惑させられるときというのは、美的な印象だけでなく、畏怖や激情のような強い感情価を帯びた心理を伴うことが多い。元型が生み出す心的力動は、ヌミノースな性質、つまり、恐ろしくて、魅力的な性質をもっているのである。だから、元型的なものを認識するのは大事であるが、それが危険をともなうことも考慮しなければならない。元型は力をもっている。この恐ろしい力に自我が支配されている状態こそ、"憑依"という現象である。また元型的な力というのは、それが認識されず触れられずにいると、無意識の中へと抑圧されて、その抑圧が限度をこえると、反作用的に一気に表に溢れてしまうということもある。その反作用的に一気に発現されるときというのは、必ずしもその発現の媒体になっている人たちに意識されているとは限らず、無意識のままであることが多い。この状態が、集団妄想であるといえる。ドイツのゲルマン民族のオーディンに象徴される荒々しい精神は、長い間キリスト教という平和主義の清らかな宗教や、近代の合理主義によって、つまり無意識の世界をあまりみない意識的な価値観によって、抑圧されてきた。抑圧された元型的なもの、ゲルマンの血は、表面には姿をみせないけれど地下でずっと力を蓄えながら潜在する。だから、意識的なほうへあるものが少し緩めば、とつぜん潜在していた力が逆転的に地上へあふれ出すのであり、このことは元型的な力が意識によってうまく方向付けや統合がされていないことになり、生々しい元型的な力の発現というのは危険なものなのである。たとえば、ゲルマンの血は、ナチスという狂気的な集団妄想によって地上に現れてしまい、悲劇が起こってしまった。もし、ニーチェという骨の髄までゲルマンの荒々しい血が染込んだ思想家の言説を、多くのドイツ人たちが、ヒトラー的にではなく哲学的に解釈することができたら、抑圧されたゲルマン的な元型的潜在力を思想というかたちで認識することにより、しっかりその危険な力が方向付けられたのかもしれない。つまり、元型的なものを認識すること意識化することが重要なのであって、元型的な恐ろしい力のなすがままになっているだけでは、憑依や集団妄想の状態に陥ってしまうのである。思想や芸術や神話によって導かれてはじめて、元型的なものは安全に意識へと統合される。ゲルマン人の危機を、時代批判のなかで誰よりもいち早く察したニーチェでさえも、元型に憑依されているようなところがある。ニーチェは自伝の最後のほうで、自分を、十字架にかけられたイエス、愛による平和と禁欲を説くイエスに対するものとして、本能と激情の体現者であるディオニュソスの弟子であると比喩的に自称している。発狂後にいたっては、比喩ではなく、ディオニュソス、仏陀、ナポレオン、イエスなどと自分を完全に同一視している。発狂後の完全な狂乱はともかく、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に見られる過剰な超人への望み、神の否定あるいは神に対する憎悪や、発狂直前のディオニュソスと自分の同一視は、自己元型にとり憑かれていたからだとユングは考える。自己元型というのは、元型のなかでも最も上位にあるもので、神のイメージを生むものである。ニーチェは哲学者や思想家の中でも特に元型的なものへ迫り、生の深淵の奥深くまで覗き込んだ人であるが、ユングによれば、ニーチェは、キリスト教の神が当時うまく機能していなくて生の創造性を貶めてしまう偶像に堕っしていたことはうまく見抜いていたものの、神というものがもつ本質的な意義を見落としてしまっていた。だから、自己元型に近づいたとき、それを神のイメージとして認識し意味を求め意識化するという自己実現の過程を達成することはできず、結果的に自分と神を同一視し、つまり自己元型にとり憑かれ、その強力な元型的な力に身をゆだねていまい、最終的には自我が破壊され、狂人となってしまったのだと考える。神を殺し、自分が(心理的に)神となるという、大きな罪を犯してしまったため、罰として、その神的なものを自分ひとりの自我で制御することは出来ず、自我の破綻がおきてしまった。人間一人の中に、神的な恐ろしいものを全て抱え込んで、超人となるのは、すなわち破滅でしかなく、元型を認識・意識化することが重要なのであって、元型に憑かれて、恐ろしい力の成すがままになるのは破滅を導いてしまうのである。「ニーチェの『ツァラトゥストラ』を一度注意深く、心理学的な批判の眼をもって読んでみたまえ。ニーチェは稀に見る首尾一貫性と宗教的な情熱とをもって、自分の神が死んでしまった「超人」を描いたのである。「超人」とは、神の世界のパラドックス(善と悪)を死すべき人間という小さな入れ物に詰め込んだために、破滅してしまった人間のことである。」『元型論』


このように集合的無意識の領域は恐ろしいものであり、しかも集合的無意識と表層の価値体系が完全に切り離されてしまっている現代においてはそういう領域との接触というのはかなり孤独な心理過程でもあるのだけど、やはり元型に触れるというのは生命にとって普遍の価値をもつことだと思う。人間の心の深層に対する認識が欠けた時代に生きてきた人、つまり無意識の深層に潜む破壊的な生の力に無縁の価値観のなかで生活してきた人にとって、内面の世界を覗き込むという行為は、周囲の一般的平均的な人から見れば異端でもあるし、無意識の世界というのはもともと危険な領域であるから、困難なことなのだけど、元型を体験するには、そういう孤独な狭い地下への道を通る以外にはない。元型から心理的エネルギーをうまく汲み出すことによって、その人の心はしっかり生命の基盤に根ざすことになる。川に浮いてる水草がたくさんあったとして、隣の水草同士絡まりあったりして、一つの大きな塊をつくっている。一度その塊から離れてしまう水草が一つあった。その水草は、流されたりして一定した位置を保てなくて孤独で不安を約束される。しかしやがてその水草は本能的に根を伸ばし、時間をかけて水底にまで根が達し、しっかり固定された。そして以前の隣の水草に支えらていた時の状態よりも安定したとする。このとき、そういう安定した地に根を下ろした生存を手に入れたのは、一度隣の水草と逸れてしまったことがきっかけになっている。そして、「地」という生の普遍的な場所と繋がっている。水草同士絡まりあっていたときは、水草同士の支えあいが重要だったけど、でも地に根を下ろすことの方が実はもっと普遍的な価値のあることだった。この水草は、周りに水草があろうとなかろうと、川に流されずに安定していられる。外面との関係、社会的関係というのはこのたとえの中では、水草同士の絡まりあい。内面の深くに認識の根を下ろしたとき、根源的な普遍の生の基盤つまり、水底、地に、その人の自我はしっかり固定されることになる。


元型には、自己以外に、影、アニマ、アニムス、大母、童児、トリックスター、老賢者などがある。ユングはこのように人格化された概念をよく使うのであるが、それには恐らく、無意識がもともと心理の具象性を持っているという理由と、人格化された概念を使った方がユング心理学を体験しようと思っている人にとっては心理を人格化具象化しながら体験的に元型概念に触れることができるからという理由があると思う。無意識へ遡れば遡るほど、思考には感覚が付着し、具象的になる。具象性とは、抽象性に対するもので、五感やその他実感的なものが混じっている心理の性質のことをいう。具象性があるほうがイメージしやすい。たとえば、「影」は自分の今まで見られていなかった部分、人格の否定的な領域、表面とは反対の価値観、というような意味なのだけど、もし「影」という概念が別の抽象的な名前だったらその場合はよりイメージしにくく、この概念が「影」と具象的に比喩的に名づけられていることによってこの概念はイメージしやすくなっている。無意識を湖のような水に喩えてみると、「影」は水面に移った自分の影だと喩えられ、水の中へ入るとき自分の影を通らなければならないように「影」は無意識への門だということもできる。ユング心理学というのはただ覚えたり考えたりするだけでなく、体験することが、つまり実際に元型に触れることが大事なのだから、「能動的想像」必要になってくる。想像するときはユング的にいうと無意識の内容が意識に進入することが起こるのだが、能動的想像とは、無意識の方から一方的に意識への許しを許し続けるだけではなく、意識的な構えもしっかり保ち、無意識から湧き上がってくるそれ自体では意味のないイメージの断片をしっかり読み取り、ユング心理学の概念と照らし合わせたりしながら意味づけしていくことをいう。無意識は具象性が高いので、具体的になにかイメージできるものについて想像したほうが、ただ抽象的な概念について思考するよりも、無意識の内容を喚起しやすい。そういう意味で、元型のそれぞれのように意味のあたえられている具象的人格的な概念は、無意識の深層を体験するには丁度いいのだと思う。しかし具象的であればあるほど他の概念や心理要素と分化されていなくて絡み合っていて、溶け合い、はっきりせず、曖昧になってしまう。普通の言語を読み取るときは一義的であるのに対し、比喩を理解するときときは多義的な読解が可能であり、曖昧な印象がするが、これは比喩による表現が具象的であることに由来している。ユングの文章は、元型に関しての理論だけでなく、全般的に、比喩や比喩かそうでないか分からないような言葉がよく出てくるし、ひどく連想的に主旨があちこち移り変わったりで、全体的に曖昧な印象がするが、これは、ユングがもともと抽象的な思考よりも具象的な思考の方が得意なのか、または無意識の深層という具象性の極めて高い領域に常に接しているからだと思う。ユングの概念の定義や説明の仕方は曖昧である、という批判をユングは浴びたことがあるが、無意識という非常に具象性の高い領域を洞察する心理学という分野においてはそういう思考の性質になってしまうのは必然的なことなのである。むしろ、人間の心理全てを完全に抽象的な要素へ還元し、心理が還元されたそれぞれの要素を抽象的な概念によって公式的に組み立てて人間の心理を科学的に説明する、という精神分析学の方法は、意識の側からみたらいいように見えても、患者や分析対象の人が無意識を体験しているのに対しその分析する医者や学者が無意識には接触せず単に意識の側からのみ分析を進めることになり、本質的に無意識の領域を洞察しているとはいえない。またレヴィ=ストロースは、西欧の抽象的な思考が、現実に存在する具体的なものから離れてしまっていることを批判し、神話的な世界観や未開人的な野性の思考の必要性を説いた。未開人は具象的な心理で生きている。だから、具象性は太古性とも深い関わりを持っている。そういう意味でも、集合的無意識という太古から変わらないものを説明するにおいて、たとえ曖昧になっても、具象的に説明するのは正当なことだと思う。元型の性質のひとつの太古性は、たとえば激情的で荒々しく、神のようなあるいは悪魔のような、極端で荒唐無稽な性質のことをさす。神話に出てくる神々やその他人物、物語の展開をみればみんなそんな感じである。また太古の人は、ものごとの境界が曖昧で、自他の区別もつかなく、とにかく色々なものが溶け合ったような世界観のなかで生きている。このような様態を、ユングは、レビィ=ブリュールの述語を借りて「神秘的融即」と呼んでいている。神秘的融即とは、主体が自分を客体と明確には区別できていなくて、客体と自分を部分的に同一化しているような状態をいう。たとえば、トーテミズムは、特定の動物を殺すことを禁じているが、これは、その未開人が自分とその動物を部分的に同一化しているため、つまり両者が神秘的融即の状態にあるため、先祖がその動物だと思い込んでいることに由来する。神秘的融即の状態においては、心理の具象性が高く、思考に感覚が混ざっている。感覚とは生理的刺戟を知覚することであるが、未開人はその感覚と思考がまざっているために、たとえば自然物について思考するとき、感覚的刺激が伴いやすい。感覚とは五感のような外界との接触に関するものだけではなく、身体の内部の感覚など自分が存在しているということに伴うような内的な要素に関する感覚があり、神秘的融即の状態においては主体と客体が溶け合っているため、未開人は内的な要素を外部の自然物に投影してしまう。神話や童話において、動物や自然物が人間の言葉を話したりするのは、このようなことが起こっているからである。内的な要素とは無意識の心理と関わるものであるから、神秘的融即の状態にある太古の人は、客体に無意識の深層の元型的なものを投影していることになる。だから、太古の人たちの物語である神話には、元型的なものがたくさん潜んでいる。


ユングは元型をかなり重要なものだとみていて、だからこそ元型論はユングの思想の根幹に位置するのであり、その重要性を何度もつよい口調で訴えている。そこでなぜ元型が人間の生にとって重要なものであるかを個人的に考えてみる。元型、というのは、生得的なもの、遺伝されるものである。人間の遺伝子というのは、先史時代から続く生命の長い経験によって決定されている。生命というのは身体を動かしているだけでなくたとえ人間のように鮮明なものではなく漠然としたものであっても意識をもつものであるのだから、身体的な構造だけでなく、心的なものも、自然淘汰のなかで決定され、遺伝子に刻み込まれている。死にたいする恐怖感は生命の本能であり、それは生まれつきそなわっている。その遺伝的生得的なもののなかで心に関するもののうち、とくにイメージをつかさどるものが、ちょうど元型にあたるといえると思う。元型は、生命の長い大地上での他の生物や環境との干渉のなかの心理的経験によって決定されたものであるのだから、生命にとって重要な価値をもつものであり、心の働きに関して生命が生きる上で大切な方向性を握っているものだといえる。だから、元型は、無視するべきものではなく、ただ学説として取り扱うだけでもなく、実際に自分の心のなかに見つけ、それを体験することが、人間の生にとって意義のあることなのだと思う。元型によって構成された集合的無意識という先天的なものではない、人間の後天的な意識のうちにあるものは、太古から続く生命の経験という単位に対しては比較的短い期間のうちに形成されてきた人間の文化というものを、生まれてから教えられて得たものである。それは人間の文化のなかで生きる限りにおいては価値をもつものであるが、生命一般というのはもちろん人間の文化だけが全てではない。むしろ、生命の膨大な経験からつくられた心の生得的要素によって、人間の文化の軌道が、自然にも生命にも調和するかたちへと導かれてこそ、その文化は生にとって価値のあるものとなるのだと思う。その心の生得的要素とはすなわち集合的無意識であり元型なのである。ユングは再三、元型を‘導くもの’だといっている。生命にとって重要な価値をもつ元型によって人間の精神的なものが導かれることで、それは意義をもつことになる。元型から切り離されてしまったつまり集合的無意識には繋がっていない生は、人間的な価値をもっていたとしても、人間の文化以前の大自然を考慮するなら、本質的な価値をもってはいないといえる。いわば集合的無意識は地下でその元型は地下に潜んだ大きなエネルギーであり、そこに根を伸ばすことで、生命にとって重要な心理的エネルギーを汲み出せるのである。神話は、科学やその他色々な概念体系や言語体系などの、人間が西暦を向かえてはじめて特に近代になってつくった文化よりも、ずっと以前に起源をもつものであるから、近代からみれば誤謬であっても意識以前の集合的無意識からみれば正当な価値をもつものなのである。例えば、科学は、神話による自然現象の説明は誤りだとするが、しかし、それが自然現象の説明としては誤りであっても、その説明の仕方に古代の人の心理要素が絡まっているのだから、古代の人の心理が近代以降よりもずっと生得的で元型的なものによって決定されているということを考えると、その神話は、心理的なものとしては大きな価値をもっていることになる。自然現象の説明以外にも神話というのはたくさんあって、むしろ自然現象に関しての神話というのはほんの一部なのだけど、とにかく神話には、色々なものが描かれている。世界の創造、英雄的な人物像、妖精、女神、神や悪魔など、それら神話に描かれるものは、ただ美的な像として価値があるだけでなく、それが元型的なものであるという理由で、人間の生にとって意味的にも大きな価値をもつのである。もちろん、近代以降においては、神や悪魔という類のものは、そのままの形では通用しない。しかしそういうものが本能的な動力、人間の心理を導く元型としての価値などを秘めていることは、人間が人間である限り普遍の真理である。だから大事なこと、するべきことは、その元型的根源的なものを、現代においても通用するかたちに翻訳することだといえる。ユングの言葉を引用すると、「本能のダイナミズムがわれわれの現在の生活にも流れ込むようにしておこうというのならば、またそれはわれわれの存在の維持に絶対必要なことなのだが、そのときは、われわれに備わってうる元型的な形式を、現代の要請する観念へと、再形成することが必要なのである。」『現在と未来』


参考文献

C.G.ユング『元型論』『タイプ論』

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

林道義『ユング思想の神髄』

2024年2月18日日曜日

無機物


視界が鱗で満たされる 眼に映るもの全て

意味もなく憎い 光も鱗を清めない


脳内を蛆が這い回る 心に巡るもの全て

意味もなく憎い 光が核に届かない


心の影が悪寒を生んで 全身全霊 気持ち悪い

忌々しい幻覚の渦 頭蓋骨が 割れそうだ 

地面に踊る鱗達 何もかもが生き物で

生臭くて湿っている 純粋な光が欲しい


光を浴びたものは 影を生み その影に呪われる

憎しみと恐怖で満たされて 心臓にヒルが蠢き回る

どうしようもなく苦しいから 私は無機質になりたい


鈴の漣 拒絶して 硝子のように冷ややかに

光線の綾 走らせて 私は無機物になりたい

人に砕かれ粉々になり 肌を切り裂き血を浴びて

飛沫の中で赤く染まり 綺麗な音を響かせて

光に抱かれて煌きながら 何も感じず物理的に

虹と共に消えて逝けたら なんて幸せなんでしょう

2024年2月17日土曜日

記憶の場所

10年以上前に書いた英作文です。考え方や文法に間違いが存在する可能性が高いです。

 (The followings are not based on firm evidences but a result of my intuition.)

(And I'm sorry that my English is sometimes wrong or too poor to describe abstract affairs such as the followings.)

(Here I mean by the word Memory not memorizing but memorized contents.)

Generally, scientists and modern people under their theories think of Memories as contents being stored in each Brain, but I don't think that. I think, though a brain have the function of taking in the images of things which the nervous system perceived and the function of recalling these images, it don't mean having the function of a storehouse. Likening memories into water, a brain have roles of watercourses and valves but don't have the function of a water tank.


Well then, Where are memories stored. But there is a nonsense in this question. That is the fact that we apply memories to the concept "where" Naturally, and Actually memories have no places in the sense of our ordinary thinking. And our tendency to allot memories to Place, Brain the firm material realm, is involuntary wrong application due to the fact that we live experiencing the three-dimensional space ordinarily, that is our unconsciously confusing spirit with matter, I suspect.


Fundamentally speaking, regarding three-dimensional space, it have not been varified perfectly as actual existence, or some people say that it is no more than a tool or a concept through which we human beings feel the outer world. Adopting this theory here, three-dimensional space is the concept which spirit invented for life to live in this world conveniently. By the way, Memory is a such thing that is more fundamental and essential than a tool to live, I think. That is to say, memory is not a thing that spirit have invented but the tracks of spirit itself, process of life. Then returning to the earlier problem, applying perfectly the concept, that is no more than a tool to grasp, to memory, that is essential movement and tracks of spirit itself, is obviously false if we think that way. To say, memories don't exist in a brain that is physical and three-dimensional space. Spatial places don't correspond to memory, but memory exist at a Place which we are hard to call as Place. Boldly speaking, even if a brain vanish, it can be possible for memories to exist Somewhere. Merely, it is difficult to indicate the Somewhere by a clear concept of Place, which is often haunted by three-dimensional space. Anyway, if only we separate memory from the physical concept, three-dimensional space, it is obvious to us that memory exist somewhere but the brain.


一般的に、科学者やその理論の影響下にある現代人にとって、記憶は脳に保存されていると見なされているが、私はそうではないと思っている。思うに、脳は神経系が知覚した事象の印象を取り込む機能や、その印象を思い出す機能は持っているが、記憶の保存庫としての機能は持っていない。記憶を水に喩えるなら、脳は水路やバルブの役割を持っていても、貯水の機能は持っていない。


では記憶は何処に保存されているのか。しかしこの問いには一つのナンセンスが含まれている。すなわち、記憶に「何処」という概念をあたりまえに当てはめてしまっているということであり、実際のところは記憶には私たちが一般に思っている様な意味での場所など存在しなく、私たちが記憶に対して、場所、脳という確固たる物質的領域をあてがいたくなるのは、私たちが日常で三次元空間を体験しながら生きていることに依る無意識の間違った適用であり、精神と物質の無意識的な混同なのではないのだろうか。


もともと、三次元空間だって、それが確固たる実在として完璧には立証されていない、いわば人間が外界を感じるときのための道具や概念でしかないという説もよく見受けられる。その説を採用して、三次元空間も生命が世界を便利に生きるために精神が開発したものでしかないとしよう。ところで、記憶というのは、生存のための道具というよりも、もっと根源的で本質的なものではないだろうか、すなわち精神が開発したものではなく、精神の軌跡そのものなの、生命の過程そのものなのだ。そこでさっきの問題に立ち返ってみると、精神の本質的運動そのものとその過程である記憶に、精神が生み出した単に生存のための一種の捉え方でしかない三次元空間という概念を、ぴったり当てはめることは、こう考えてみると明らかな誤謬になる。すなわち記憶は脳という物的三次元空間には存在しない。空間的な場所が対応しているのではなく、場所とは呼びにくい場所に存在している。大胆に言ってしまえば、脳が消滅したとしても、記憶は何処かにある可能性がある。ただ、その何処かというのが、はっきりとした場所という概念で示しにくい。場所という概念には三次元空間という概念が普通はよくつきまとっているから。とにかく、記憶を三次元空間という物的概念から引き離せば、その場所は脳ではない何処かだということは明らかだろう。

2024年2月12日月曜日

Sirius and Nommo

We see from the earth Sirius, the Dog-star, move in a bit disorder, of which earlier scientists inferred there would be an invisible companion star, whose gravitation might make Sirius move on elliptical orbit in the Universe. Several decades after it, owing to development of science and technology, scientists found the star's companion Sirius B, the Pup, which has mass roughly equal to the Sun though has only the size roughly equal to the Earth, then which has large density and gravity but is invisible to the naked eyes, whose color is white and whose gravitation they verified effects on the orbit of Sirius. This discovery was in 19th century.


By the way, there is an African tribe who have a mythology about Sirius. The Dogon in Mali. The fact that Sirius is an important star for the Dogon is not amazing because that is explained by the prominent brightness of Sirius, but according to French anthropologists, astonishingly, the Dogon knew already the existence of the companion star in far earlier than 19th, ancient times. Furthermore they described in detail the fact that the Sirius B was very heavy in spite of its small size and was white, and the fact that Sirius A and B moved on elliptical orbit. The Dogon is a tribe who doesn't have the science and technology such as telescopes or advanced astronomy. That Dogon have the amazing knowledge about Sirius from ancient times, and moreover they knew that Jupiter had four large satellites, which is invisible to the naked eyes.


When the Dogon are asked why they knew these astronomic facts, they explain that the Nommo, the spirit who live in outer space, taught them the facts. And they describe the situation in which a spacecraft carrying the Nommo were landing with spin before them.


How do we interpret this. In my personal observation, it is more real that we understand it as delusions or paranormal perception common to the Dogon, than that we interpret it as aliens' invading, that is pretty occultic. At this point I associate words of an American writer, who has a certain-degree grounding in science and philosophy. Aldous Huxley says that, though we human beings perceive events which happened far away in the universe, a brain and nervous system function as restriction or as the regulating valve so that all perceived contents don't appear on consciousness, because if appear all of perceived contents that may disorder our ordinary life. This view he reach by his mystical experience using drags, but if his view is true, we can explain the knowledge Dogon have about astronomy. To say, those in Dogon who have constitution of hallucination perceived directly things about Sirius or Jupiter in trance, I guess. And Nommo appeared as the vision of symbol that told the truth of the universe in trance.


According to Aldous Huxley, we experience as visions various things of the universe, which involve matters concerning religion or mysticism and things which are useless to or harmful to our daily life, due to disordered conditions of brain, for example a brain's trouble in fasting or dyschylia in taking in drugs, rather than due to our higher function of brains or advanced technology. If that's the case, we can say that the normal function of a brain is to select useful perceived contents out of all ones (rather than to perceive things purely) and to make nerves concerning these images work then make tissues move so as for us to live accommodating ourselves to daily life and reality. And that when this function's order is broken we perceive events of the universe which don't concern our reality is not astonishing nor mysterious, if we think that way.


It is true that we may not perceive in any paranormal situation things which don't concern human reality in any degree, but the Dogons, to whom mythology of the universe is important in living, place more direct importance on things about Sirius than we do, so when the valve relax in a trance the companion of Sirius appeared before them. To civilized people Sirius is no more than a scientific concern, but to the Dogons it is important to live. To say, useful perception was selected out. A brain and nerves can be said to be tools to select perceived contents useful to reality out of innumerable ones which life perceives unconsciously and to make use of these selected for our acting and living. A brain only select useful perception, and if I was allowed to say boldly, perception itself happen neither at a brains nor nerves......

2024年2月9日金曜日

電線

恋に敗れた哀れな女が倦怠の机の上で地図に涙を落としながら、都会の線路に、ミシンを打っている。作業員は釣りでもするかのように呑気に。線路ができる、縫い目には、世間擦れした女の面倒見の良い思いやり、そして長年の知恵を蓄えたお婆さん、そういう人の心情が走る。電車が走ったら、きっと何処かで仕事に失敗した無様な男の辛みも一緒に並行に、電気の流れと、風を着る音とともに、走り続けるのだろう。ある一介の働き者の女神がそれをみて、こころもとなくすすり泣き、その涙の奇跡が新しい線路を、道路をつくり、電信柱になった砂の男がずっと、硬直した眼差しでそれを見て、悪戯好きな妖精が彼を笑う、ピアノの声で。そしてそのリズム、都会の弦が鳴らす喧噪と同調して、神々はその疲れ切った伴奏に合わせ、諦めの歌を歌い、その響きは飼い猫を失った氷漬けの男にだけ切実に響いた。誰にも知られない鉱脈となった涙を流し、役所のなかのたった一人の人格者だけがそれに気づき、自分の由来を知らない無知な電車に乗って、自然に歯向かう排気ガスを吐く車に乗り、猫の亡霊を、散らばった鉄屑と使い古された無意味な言葉を、擦り切れた可哀想な花々で埋葬して。また女たちはミシンで鉄の線路を打っていく。作業員は何も知らない、自分が人間であること以外、何も知らない。そこで炎の画家の亡霊が材料に魔法で草を宿らせ、全ては自然に回帰する。女たちの涙も、老女たちの知恵も、なにも止めることはできない。電線は怒っている。自分の影を無くすことに。そして電信柱となった男に、やくざな悪戯好きな妖精が命を吹き込み、彼は動き出す、線路と共に、道路と共に、車より少し遅い早さで、そして街が動き出す、時間の順序を間違えたやり方で動き出す。電車はトンネルをくぐり、山の霊を通過する、ぼやけた針と糸に絡まれながら。人は線路を走りたくなる衝動に駆られ、電車を、高級車を追い越し、草原へ。その古墳の祭器を探ろうと、た錆びたカッターの鈍さと男の肉欲のような勢いで、掘り返す。そして見つかったのは、神々の諦めの吐息が凝固したレアメタル、樹へのメタモルフォーゼを願う金属。それを使って人は徒労し、挙げ句の果てに作り出した無意味な平和の、鰐のような残虐さ。鰐も走っている、線路と道路の交錯を、そして虚しさが呼んだ女の縫い針を噛みながら。ここには意味はない。妖精と動物と自分を失った女の無感情な動作、そして神々の目的を失った吐息。それに乗って走って行く、まるでヴェネチアの水路とドイツのアウトバーンを目指して、なんの脈絡も無くただひたすら、向かっていくのだろう。電信柱になった男も走る。目的も意図も無く、ただ、貧乏な女神が気まぐれに作った居場所を求めて。そして踏切で、となりの国が人を跳ねた。ミシンでできた線路はそれほどに不正確だった。でもだれも咎められない。それは神々が決めた戯の絶対。金を蓄えた人が死ぬ、それでも"絶対"は死者を見捨てない。臓器を宝石にして、また、酒宴を開き諦めの乾杯をして、続いていく、その鳥さえ標識になる世界には慈悲すらない。上空ではミシンの音は続き、線路作りの作業員は針になって、突き刺す、地球に和音を建てながら、神々の許した罪をまるで呆けたように見過ごして。酔ったように土に埋まる。そして宝石が地中から湧き出る、それも仕事に飽きた妖精の仕業。"絶対"を超えた先には心情も意図も無く、音だけが、貫く糸の振動だけが、電線の電流だけが、解剖台の上の都会を嘲る。それを、千年つづいてもう飽きた祝いで、乾杯する女神たち。慈悲もなく、ただ俗世の喧騒でできた酒を、失恋の涙を、何ともしれずに、漠然と飲んだ。瓶の下には、忌まわし気に回転する魚の影があった。猫は彼女の時計を眺めていた。

2023年11月17日金曜日

Wite Wind


White Wind

  歌 : 結月ゆかり

  作詞・作曲 : Haya



その日々は忘れたの まだ汽車が進むから

いくつもの水晶通し 見えてきたの白い風


雪の結晶に 見とれていたら

予感はあたるはず 鐘が鳴るの


夢でもね会えたらね 次の日 晴れるのかな

その手に花々を 心が凍てつかないように



その気持ち話さないで 新しい夢を頂戴

雪の花 月と出会い 禁じられた 雫どこ


ばら撒いたタロットに 今夜を賭けて

不思議な絵の杖で 魔法をかけた


星空 冬の星 繋いで女神様

願いを叶えたら あの空 煌く


夢でもね会えたらね 次の日 晴れるのかな

その手に花々を 心が凍てつかないように

2023年10月31日火曜日

正義について

もちろん10代やそれ以前から、正義感が強かったり警察官になりたいと思う人はいるが、多くの場合、人は、社会に組み込まれ、その中で生活し、人間関係を構築しつつ会社などの組織内で活動をすることによって、だんだんと良心が強化され深化しながら良心が捉える機微の多様性も増していくものである。視聴覚や思考で捉えたさまざまな出来事の集積、それらに対する解釈や内省などの蓄積で、良心は、目の前の人の言動だけでなく、だんだんと社会全体の公益、人間全般の善へと触知範囲が広がっていき、まっとうな人格を持った人においてはやがて壮年期には正義といった観念を人格の重要な要素として抱くようになっていく。もちろん若くして飛躍的にそうさせるような出来事というのもあり、典型的な例としては目の前で友人が殺されたことから警察官を目指すことになった、などが挙げられると思われる。私の場合は、或る大規模かつマイナーであまり知られていない犯罪に直面したことから、比較的若いうちに正義といった観念を強く持つようになった。


正義は人をより社会的にする。正義を持つことにより、社会に蔓延る問題点を改善しようとすることに義務や使命感を感じ、社会公益の上昇に寄与することが人として意義のあることであると感じるようになる。あるいはある文脈では、個々人が個人的な良心をそれぞれ強く持つことにより世界はより平和になるということも言われることがある。しかしそこには社会というレベルが脱落しているように思われる。人間は社会的生き物であるからには、やはり個人のそれぞれの合計が世界を決定するというより、個人間の関係性の総体であるところの社会というものが個人をある程度決定する、少なくとも左右するというのはよく起こり、その社会を良くしていくことが個々人の内面や行状を良くしていくことに繋がると考えられる。個人の良心と世界平和という理念の中間層にありその二極を有機的に繋ぐところのものである社会というレベルにおける、諸々の制度、習慣、考え方、価値基準、行動様式などを、具体的により良い方向に持っていくことは、世界平和の理念の実現にも繋がるし、個々人の幸福にも繋がっていくものである。正義はそれを当たり前のように知っている。社会全般の改善が平和の実現や個人の幸福に繋がるということだけでなく、その改善に自分が参画することが、自分自身の個の生きる意義を増させるということも知っている。義務感によるものではなく、内発的なものとして社会公益のために献身することは、不特定の他者の幸福であるだけでなく、自身の幸福にもなるのである。そのような正義によって、人は社会を良くしていくものとして機能し、すなわちより社会的な存在になっていく。

2023年10月11日水曜日

ブラック・オパール



 

ブラック・オパール

 作詞作曲: Haya

 歌: 結月ゆかり


そっと夢 咲かせたの 光る銀河 閉じ込めて

あの子が 眺めてる 月の女神 首飾り


夜の花 輝き 風の中 妖精

さあこの世忘れて


あの子の目は ブラックオパール 

星の心臓 燃えた夜

孔雀の羽 散乱して 

狂った色の 夢が煌く



死んでも 夢見るの 青い蝶々 永遠に


呪われた宝石 夜に舞う幻

さあ黒い翼で


夢の中へ 逆さの塔 

死んだ鳥たち 飛び交って

壊れた空 骨の雨に 

騒いだ霊が 月に歌うよ



夜の花 輝き 風の中 妖精

さあこの世忘れて


あの子の目は ブラックオパール 

星の心臓 燃えた夜

孔雀の羽 散乱して 

狂った色の 夢が煌く

2023年10月9日月曜日

メタファー的世界観

 冬のある日、幼い子供が、降ってくる雪をみて、雪を「ちょうちょ」と表現したとしたら、これは一種のメタファーであるといえる。


フロベールは弟子のモーパッサンに「世界には一つとして同じ木、同じ石はない」と教えた。具体的な個々の雪は、大きさも、色も、それを構成する結晶の形も光の反射の具合も、他の個々の雪とは同じものは一つとしてない。その全て違うたくさんの個々の雪を人間が観察していく過程で、類似のあるいは共通の性質だけが抽象されて、細かい相違点は切り捨てられ、一般的抽象概念としての雪ができる。前人間的に雪という抽象概念があって二次的に個々の雪があるのではなく、たくさんの個々の雪をたくさん人間が見て知ることによって、人間は個々の雪を抽象しながら雪に対しての、ニーチェ風に言えば一般的な遠近法(=perspective 以下、perspective のことを遠近法と記すことにする)を"創出し"、そうやってはじめて抽象概念としての雪ができあがった。ところで先ほどの子供の雪の形容において、ある雪を「ちょうちょ」と表現するときも、実は原理的にはまったく同じようなことがおこっているのである。


「多種多様な物事の中から、類似している点をとりあげ、類似していない点を捨てることによって概念がしだいに形成されて来るかぎり、比喩がその基盤になっている。」(ショーペンハウアー)


つまり、雪と蝶の性質の類似点(例えば、宙を舞うものという性質)を、子供が見つけ出し、雪のことを蝶と表現した。これは子供が創出した一つの遠近法、解釈法である。この場合の過程では「その子供が見た雪」と「蝶」という"二つの"ものの類似点が見つけ出されて子供は雪を蝶と表現したことになる。一夫、抽象的な概念としての雪は、"無数の"個々の雪の類似点が探され相違点が捨てられて、一つの遠近法として出来上がる。原理的には同じことが起こっているのである。


雪のような物的なものに関してでなくても一般的に認識や感覚や心理に関しての概念も同じく、そのようなことがいえる。たとえば「悲しみ」にもいろいろなものがあってどれ一つとして全く同じ悲しみはないが、似たような感情を集め抽象していくことによって、「悲しみ」という名詞が対応する一つの概念に統一される。白い猫と黒い猫は見た目として異なるが、「猫」という抽象概念によって「猫」という同じ名前が与えられる。「白い」という形容詞も、いろいろな個々の白い印象が抽象されてはじめて、できた概念に名付けられた言葉である。概念や名辞は、さきほどの子供の雪の形容やショーペンハウアーの引用文を考えるなら、大量のメタファー作業、つまり類似点を抜き出し相違点を無視する抽象の作業によって出来たものであるといえる。

2023年10月8日日曜日

消えたオパール

 一昨日の雨と一緒に振ってきたダイヤモンドを燃やして火をつけて、朝の風には烏の声、乱れたヴィーナスの髪がビルの線という線になった時、放火の雲、禁止の窓、座興の電線、それらの綾取りに絞殺され、渡り鳥の95番目が死んだ。大切にしまっていたブラックオパールを堕ちていく鳥の死体目掛け投げようか。

 

女「そのヴィオラの弓どこで盗んだん」

男「山の麓に落ちてたん拾ってきた」

女「それで何をするの」

男「弦の張力でブラックオパールを落ちてく鳥の死体に当てる」

女「馬鹿」

 

雲から滴った凍った精液が電柱と電柱が描く五線紙に絡んだとき、ヴィオラの弓は壊れ、オパールとともに音符を象ったので、彼は鳥の死体に興味を無くした。その大きな音符が浮遊し漂う空、雲に霞んだ太陽の仄かな眼光が雲の切れ間から光のハープを作っているところに、彼のニヒリズムは新しい音楽を当てはめて、空の下で営為する街並みに対して哄笑と殺しの歌を与えた。殺されたのは朝の囁かな音楽に嬉しそうに向かって飛んできた蛙一匹だけだった。


格調高いコンサートホールでの偉大な音楽や奏者への恐怖から解放されたヴィオラの弓は、壊れながらも楽しそうに、彼の腕の気まぐれのままに、哀れな蛙の首の後ろ側を刺し貫いた。蛙の死体を投げた彼は、ただただ悲しくなったが、悲しみの対象は蛙の霊魂でも自身の良心でもなく、マグマから空高くまで監獄とされてしまった地球がやっと不意に遊ぶことのできたひと時を、彼の悪戯が壊してしまったかもしれないこと、そのことにふと大きな悲しみを感じたのだった。火をつけろ。

2023年10月6日金曜日

集約としての抽象概念の効能

哲学には抽象的な言葉がよく出てくる。企業においては、「抽象的」というのは「曖昧」「漠然としている」といった意味でネガティブな意味で使われることも多い。では、哲学というのは曖昧なものなのか。決してそうではなく、非常に厳密な思考が要求される分野である。抽象的思考に慣れていない、あるいは抽象とは何なのかを一切考えたことのないような、庶民的な尺度から見ると抽象概念は曖昧に思えるだけであって、抽象が意味するところは決して曖昧とか漠然という様態ではなく、元来意味するところは「様々な具体から共通点を抜き出すこと」である。


Wikipedia「抽象化」によると

「思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法である。」


『心理学辞典』によると

「個々の事物に含まれている諸特性のうち,ある規準に関して共通するいくつかの特性だけが抽象された結果として形成される心的過程」


たとえば、「犬」「猫」「ネズミ」「熊」の上位概念は「哺乳類」であり、それは犬、猫、ネズミ、ゾウ、熊の共通点を抜き出して纏めてられた概念であるといえる。生物学においてはもちろん、この概念を形成するにあたって、無数の具体的な動物への観察や解剖などが為されるのであるが、それは生物学という学問を成立させるにあたって取られた科学的手法であって、一般の子供が「哺乳類」という概念を哺乳類という言葉を知らずとも自然に脳内に形成する過程は、抽象である。哺乳類より上位概念にあたる「動物」に含まれるところの、目、口があり、動き、食べるなどの特徴に照らし合わせて対象の哺乳類の具体例をとらえつつ、哺乳類を他の動物と分かつ特徴であるところの、四本の手足があり、毛があって、体温が高い、などを見分け、次第に哺乳類という概念が子供の中に形成される。この過程は抽象である。抽象という行為は子供も当たり前に行っていることであり、物事を曖昧にするのではなく、むしろ物事を明確にカテゴライズすることにつながる思考方法である。


抽象概念が曖昧だと思われるのは、抽象概念そのものの性質によるのではなく、抽象概念にあまり親しんでいない人たちがそれを適切に理解できないことからくる受け手側の知力の欠如、あるいは本来具体例を出すべき状況や文脈において一般例やその性質を挙げてしまう使い手の語法の不適切さから来ているものであり、前述のように本来は抽象という行為には、多様な事象が膨大な量で動きながら存在している人間界・自然界における事象群を明確にカテゴライズする効果がある。


この抽象の過程で、個々の事物や物事に含まれる諸性質の共通点が抜き出され、より抽象的な概念が形作られていくわけであるが、それはつまり裏返せば、抽象概念は数多くの個々の事物に当てはまる性質を述べている、ということを意味している。

2023年10月5日木曜日

ドストエフスキーのポリフォニーを可能にしたもの

 ドストエフスキーの小説においては、登場人物の言動も作中の物事も非常にダイナミックに動乱しているが、そのダイナミズムを可能にした創作の手法は、ミハイル・バフチンの言うように「ポリフォニー」にある。ポリフォニーは「多声音楽」を意味する音楽用語であるが、ドストエフスキーの小説の登場人物が非常によく喋り、ときには2~3ページにわたる長広舌をまくしたて、それが2人の対話においてだけではなく多人数が居合わせる場面でも為されることから、複数人の「声」の織り成す作品と特徴づけることは可能であり、「ポリフォニー」という用語をドストエフスキーの小説の際立った特徴に割り当てたのは、極めて正確な表現であると思われる。


ポリフォニーに対立する音楽用語は「モノフォニー」である。19世紀前後の西洋主知主義はモノフォニーによる思想の発言が顕著に見られる。宗教的にいうとキリスト教という一神論の影響下にあり、政治的にも絶対主義が蔓延ることの多かった西洋において、その知性は、唯一性が目指された。バフチンの言葉を引用するなら「単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパ合理主義が、近代におけるモノローグ原理を強化し、これが思想活動のあらゆる領域に浸透した。」(『ドストエフスキーの詩学』) 思想家の著作であれ文豪の作品であれ、そのモノローグ原理の影響は強く、形式的にも内容的にも著作家はその原理に無意識に規定されてきた。思想家は自分の唯一の思想を構築しその思想を単一の作者としての主体で緻密に述べる。作家は自分の表現したい思想や世界を一つ設定し、それを表現するために部品として登場人物や出来事を並べていく。


このモノフォニー性を覆したのがドストエフスキーのポリフォニーであった。おそらく作家自身が多数の声を自身に内蔵していたのであろう。ドストエフスキーはキリスト教への信と不信を同時に抱えていたし、世を生きる人間としてもキリスト教精神に基づいた極めて高い倫理と、賭博にみられるような不道徳を同時に所有していた。おそらく矛盾を抱えてしまうほど物事に影響をうけやすく、ある真理や思想に熱く傾倒しやすい、非常に多感な精神を持っていたのだろう。また、矛盾を抱えるだけでなく、おそらく他者の人格や思想に対しての、強い感受性、受け入れる度量、簡単に疎外しない寛容さ、他者の心理を体験できる感情移入の能力なども持っていたのだろう。とにかくドストエフスキーの生活や作品や人格を辿れば、きりがないほど多種多様な要素が犇めき合っている。


このドストエフスキーという人物の精神は、西洋主知主義・近代合理主義の世界に簡単に相容れるものではなく、その枠に収まらずにむしろ文学の形式に革命的なモデルを提供したものであった。バフチンは「カーニバル小説」とドストエフスキーの小説を呼称している。形式として固定性が強く、一義的に一つの論理が順次展開していく思考方法、一つの道徳によって人の生活が規定される生活様式、などに特徴づけられるところの近代西洋的なモデルを、キリスト者的生活・近代的社会生活とするなら、その外的な拘束力をもつ枠組みを一時的にでも打ち破り人が解放的に欲動を現実化させる「祭り」のように、カーニバル文学としてドストエフスキーの小説は展開している。つまり登場人物の個々人が、社会的拘束や作品の設定による拘束を打破する個の強さを持ち、それぞれが己を強く主張して、ぶつかり合いながら自立駆動しているのである。

2023年10月4日水曜日

ショーペンハウアーにおける他学派排斥の理由

  ショーペンハウアーは、同時代の哲学、具体的にいうとフィヒテ、シェリング、ヘーゲルの哲学に対しては、極めて批判的だったことで有名で、特にヘーゲルの哲学、というかヘーゲル自身に対しては、ほとんどどの著作でも酷評、それも、「真のペテン師」「言葉のがらくた」「精神病院」のような暴言をつかって下ろすような揶揄を、言葉を変えながら徹底的に繰り返している。引用しておくと

「初々しい若い時に、無意味なヘーゲル流の哲学によって、首筋を違えて腐った頭は、……早くからまったく空っぽな言葉のがらくたを、哲学的思想とみなすようになる。」

(『意志と表象としての世界』・第二版への序文)

「さてもし、……あのいわゆるヘーゲルの奴の哲学は、膨大な量のごまかしを述べ、あらゆる知力を麻痺させ、あらゆる真の思考を止めさせ、言語をまったく不法に誤って用いることによって、完全に空虚で、意味を欠き、無思慮な、それゆえその結果が示しているように、まったく人を愚かにする、言葉のがらくたからなる似非哲学であると私が言うとすると、私は全く正しいというべきである。……さらにヘーゲルは、彼以前の誰とも違って、無意味なことを殴り書きしたのであり、そのためあたかも自分が精神病院にいるように感じないで、ヘーゲルが最も賞賛を受けている、例の『精神現象学』を読むことができる人は、精神病院に入院する資格があると私がさらに言うならば、同じように私は正しいというべきであろう。」

(『倫理学の二つの根本問題』)


このようにショーペンハウアーは、かなり感情的になってまでヘーゲルを攻撃している。もちろん多少行き過ぎている感も受けるが、ショーペンハウアーのような本気で自分が正しいと確信する世界観を打ち出そうとする哲学者というのは、世界の本質的な考察に関しては、真剣で、本気で世界の謎を解明しようと試み、その試みから得られたものを、人に述べ伝え、教えたい、そういう強い欲求を持っているのであって、自分が本質的でないと思った学派の哲学が一般に流布してしまうのは、哲学者自身にとっては、個人的に屈辱的であるだけでなく、後代の人が世界の本質に関して多大な誤解を引き継いでしまうという人類の知性に関する大きな懸念を催してしまうのである。自分はそれほどヘーゲルの哲学にはなじんでいなくて他の哲学者の著作から伺えるヘーゲル哲学を一部知っているだけなので、もちろん個人的にヘーゲルを批判したいわけでもショーペンハウアーを擁護したいわけでもないが、とにかく、ショーペンハウアーが、同時代の哲学をこれほどまでにこき下ろしたのは、彼がどれだけ哲学に対して真剣であったかを示すものであると思っている。単に仕事柄から哲学に取り込む、あるいは趣味として哲学をする、のではなく、強い信念を持って宇宙や生命の謎に答えを与えようと真剣に苦悩する、そういう哲学者は、自分が間違っていると判断した学説に対しては、真剣に戦いを挑むのである。


そしてショーペンハウアーは、哲学というのがそうあるべきものだと考えている。引用すると

「……詩人の作品は妨げあうことなく、すべて相並んで共存しうるばかりか、それらのうちでもっとも異質的な作品でさえ、同一の精神によってひとしく享受され鑑賞されることができるのに、これに対して哲学者の体系は、それぞれ生まれ出るやいなや、あたかも即位式当日のアジアのスルタンのように、はやくもそのすべての兄弟達の没落を担っているのである。……詩人たちの作品は子羊たちのように、柔和に相並んで生をたのしんでいるのに、哲学上の著作は生まれつきの猛獣であり、……そして今に至るまで、……すべてが互いに力尽きるまで激戦し合っているのである。……なぜなら、……哲学者の著作は、読者の考えをすっかり覆そうとするのであり、読者がこの種のものに関して今まで学び信じてきた一切のものをみずからの誤謬とし、それに費やしてきた時間と労力を無駄と断じ、そしてはじめから出直すことを求める。……」

(『哲学とその方法について』4)

2023年10月3日火曜日

哲学者による言語批判

 ニーチェとウィトゲンシュタインは、カントとヘーゲルを中心とするドイツ観念論だけでなく、ソクラテス・プラトンに始まる西洋哲学全般を批判した。ニーチェもウィトゲンシュタインも、あらゆる「形而上学」やそこで行われる「言語」使用を批判したのだが、その批判はまったく別の側面から為され、言語が価値を持つ尺度についての考えも、二人で全く違うものとなっている。


ニーチェがウィトゲンシュタインに影響を与えた形跡はあまりないようには思われるが、二人ともショーペンハウアーから別様ではあるが多大な影響を受けていることは確かである。ショーペンハウアーは哲学における言語使用の批判の先駆者であった。ショーペンハウアーは空虚な擬似概念が記号化されたにすぎないような一部の哲学における言語使用への批判を、とくにヘーゲルやその影響下の哲学者たちに対して行った。


ニーチェとウィトゲンシュタインは全く別の哲学を行ったが、共通点としては、二人とも最終的には「意志としての世界」「物自体」を認めず「表象としての世界」「現象」のみを認めた、少なくとも前者の言語化は認めず、後者の言語化を認めたということである。また二人とも、あらゆる現象に何らの必然性や因果性を認めず、すべての現象は偶然の産物であり、後に人間の理性のうちで因果性が与えられているにすぎない、と見做している点や、経験的な世界では一切の先験的なものは存在しないという点などでも共通している。


もちろん相違点もたくさんあり、哲学や日常における言語批判において、二人の考えのそれぞれの特徴や違いを考える。ウィトゲンシュタインは、言語の限界というのを設定し、言語の限界を超えるあらゆる言説は無意味であり、哲学的思弁の多くは言語の領域を超えてしまっていると批判する。ウィトゲンシュタインにとって言語が明確に表現できる領域とは、事実や経験に基づいているもののみであり、よって言語使用は自然科学的である限りにおいて有意味である。ウィトゲンシュタインによれば、「善」「美」「生」などのような、事実や経験から導かれる事象ではなく世界に関する包括的な観念といえるものについて、言葉で語るのは不可能であり、だから、それらについて哲学的に議論するのは空虚でしかない。哲学者達の言葉とは、言語の使用できる限界を超えたものについて饒舌を奮っているにすぎず、言語の誤用から生まれたものでしかないと言うのである。価値や倫理のような非経験的非事実的な命題に関しては、言葉で語ることはできない。実践や具体例によってのみ示される。カントは理性の限界を示し、物自体の世界については人間の認識は届き得ないとしたが、ウィトゲンシュタインにとっては、そのカントの言説ですら、言葉の限界を超えた饒舌にすぎないのである。物自体という超越的なものや、理性の先験的な性質を設定して、たとえ物自体が認識できないという理性の限界を示したとしても、それらの設定やその説明を基にして哲学を論じている時点で、それは、経験的ではなく、よってそれらの命題は言葉で表現したところで意味はないと言うのである。

2023年10月2日月曜日

心的現象における象徴

 心的現象における象徴


-------Wikipedia 「象徴」より-------

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1%E5%BE%B4

象徴(しょうちょう)は、抽象的な概念を、より具体的な物事や形によって表現すること、また、その表現に用いられたもの[1]。一般に、英語 symbol(フランス語 symbole)の訳語であるが[2]、翻訳語に共通する混乱がみられ、使用者によって、表象とも解釈されることもある[3]。

ハトは平和の象徴である - 鳩という具体的な動物が、平和という観念を表現する[1]。

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「象徴」「シンボル」というのは人間の営みの中でも精神的なレベルにおいてはかなり重要な役割を持っているものだと思われる。哲学者、言語学者、心理学者、色々なジャンルの学者が象徴について考察しているのだが、彼らは「記号」を「象徴」に対置させて議論しているか、「記号」の中に含まれてる特殊例として「象徴」を定義づけているか、そのどちらかであることが多い。ここでは、「象徴」が「記号」に対するものとして心にどのように顕れ作用するかを取り扱う。「象徴」は外部からの所与として人間の心に強く作用するものである。また、人間の心の運動によって事象に象徴性というのが与えられたりすることもあるというように、内側から外部的事象に付与されるところのものでもある。この象徴と人の心の関係、およびその動性を考えるにあたって、古典的な心理学が用いていた「意識」と「無意識」の構図を踏まえて論及していく。


人間には「言葉」という、他の色んな他人と意味をある程度共有している共通のツールがある。しかしもちろん、言葉では表現できないものを色々と感じ取っているのも人間の特徴である。ところで、言葉と言うのは、それが指し示す物・事象や事柄についての、一般的な意味を概念として示すにすぎない。つまり、林檎というのは数的にも無数にあり、形態的にも多種多様であるが、林檎という言葉が指し示す概念は一つである。その概念が表す性質は、無数の林檎の性質を抽象して共通点を抜き出して一つに纏め上げたもの、つまり無数の林檎の平均値である。林檎のような実態のあるものの名詞だけでなく、観念的なことを意味する言葉においても、ある程度そういうことが言えるのであり、とにかく、言葉というのは一般性の枠組みを規定するものに過ぎない。一般性を保って人と交換できて意味を一義的に理解しあえる言葉を、この考察の中では「記号」であると定義しておく。


ここで意識と無意識の構図を持ち出してみる。言語化できているということは意識によってその言語化対象の心的内容物を捕らえることができているということが前提になっているのだから、一般的用法における言語というのは、人々の意識の側において人々間で交換されるものである。言語は物事を明確に把握したり、他者と共通の意味性を安心して交換したりするために、生み出されたものである。一つの意味を表す表象であり他者と一義的に交換できる表象を記号とするなら、言語は基本的に記号性を強く持っている。人の顕在的な意識領域、他人とコミュニケートできる範囲での識域というのは、ほとんど記号的言語によって成り立っているといってもいい。


一方、無意識の領域の心的現象というのは、それが意識的な思考によって明確化できないのでたやすく外界へ表出できないという意味において、そこで体験する心理的過程が少なくとも体験している最中の本人にとっては独自のものであり一般性を持つ言語によって表現し辛く、他人と記号的交換によって共有することが出来ない傾向が強い。言語化困難であるが、無理やりにでも言語化しようとするとどうなるだろうか。ここで出現するものの一つとして、象徴が挙げられる。

2023年9月30日土曜日

私の学び直し

 社会人を経て再度、大学受験を経て学部へ入り直す人の多くは、収入を上げたい・医師としてのやりがいのある仕事をしたいというのが目的で医学部に入るが、それ以外の学部へ進む人も少数ではあるが居て、私もそのうちの一人である。日本は修士や博士ならまだしも学部生としての大学への再進学については恐らく冷たいほうであり、学部生のなかで25歳以上が占める割合は約2%であると統計がでているが、海外では社会人を経験した後の20代後半以降の大学進学は一般的であり、25歳以上の割合は約20%である。


日本においては、高校卒業後にいい大学へ行って、いい企業に就職し、そこで長く働き昇進して収入をあげつつキャリアを積んでいくことが、社会人に敷かれたレールであり、それに沿って人生を勧め経済的に豊かにしていくことが、皆が共通して目指すべき美徳あるいは成功と思われている節がある。しかしもちろん、その社会人的志向を歩まなければならない法はなく、各人が好きに生きるのは自由であり、一般的な社会人が属するコミュニティにおいてはあまり遭遇することはなくとも、ちょっと行動範囲や人との関わりの範囲を広げてみれば、好きなように生きている人というのはいっぱいいる。


私はとくに収入に拘らず、社会的地位を欲さず、お金にたいする執着もなく、結婚願望はあるが諸事情によりおそらく不可能であり、生活費と読書やその他の趣味にかかるお金さえあれば、とくに問題ないという感覚で生きており、社会人的な上昇志向というのは持ち合わせていない。それで音楽活動など趣味に関する活動はしていたが、それも終えた後、派遣社員として働いるなかでとくに生活に困ったことはないものの、何かしら人生が空虚に感じることがよくあった。



青春期は文学と音楽と哲学に熱狂的に没頭していた。学校さえ行かず。文盲に近いくらい文字で書かれた文章を読むのが苦手だったのが、詩や小説や評論文などに熱中しているうちに、そしてその感想文や覚書などを書いているうちに、リテラシーは養われ、言語の運用は比較的出来るほうになった。もちろんそれだけでなく、文学や芸術が有している多種多様な意匠、人の感性と知性を豊かにする思想などを感得することができ、15歳から20歳の間に人格までも全く変わってしまったものだ。歩くカメラ程度の視聴覚に漠然とした意識だけがあった少年が、その5年間でやっと人間になれたといったぐらい、人文は自分にとって最も人格形成に寄与したものだった。

2023年9月26日火曜日

認識論としての力への意志

 認識論としての力への意志


ニーチェは痛烈なまでに価値評価や人間洞察に長けた、それまでの哲学者にはない類型の、主に価値論を熱心に追求し、そしてなによりもその価値論の尋常ならざる文芸で文体化することの天稟を持ち合わせ、それを自分の天来の仕事とした哲学者ではあったが、それと同時にずば抜けた哲学的直観によって見通された人間の思考素子ともいうべきレベルにおいての認識論を説いた哲学者でもあった。主にショーペンハウアーを信望していた初期の認識論、そして中期の全てはメタファーであり真理さえも存在しないと説いた中期の認識論、後期の究極の意味での遠近法主義へと傾いていった結露である『力への意志』に至るまでの認識論へと、彼の認知は変遷していっているが、ここでは後期の『力への意志』に収録されている晩年に近いニーチェの認識論を取り扱い、できることなら纏めてみたい。しかしこれはニーチェ自身でさえ纏めきれていない断章からなるものなので困難を極めるだろうと思う。その前に断らなければならないが、『力への意志』というのはこの語感からして価値論的意味合いが強そうにみえるものだが、実質その根本にあるのはニーチェが認知した世界や思考主体の構造や関係性であり、つまり哲学の分野では価値論より認識論に寄った傾向の強い文献であり、その認識論の体系の土台に立脚して初めて価値や倫理の意味合いが考察され描写され訴えられているのが実質的な執筆の軌跡であろうと思う。どうにせよニーチェの場合は認識論があって価値論という順列ではなくほぼ同時と言っていいほど両者の思考分野が直結しているのではあるが。とにかくここでは認識論としての力への意志の世界認知について述べたい。

2023年9月25日月曜日

陽炎

太陽から火を盗んだ大きな鳥が

私に微笑んだその時から

心の真ん中で彼の秘密が

灯のように明滅した


彼は木々を脈に変えたし

風を刃に、水をガラスにして

森の一角を庭にしては

その芸術で動物たちを

楽しませ、笛を吹いていた


彼の飼う大きな鳥の歌が

私の琴線を震わす時には

ただ眠くなり目を閉じて

あの庭のことは忘れていた

トリックスターについて

  トリックスターとは、神話的な人物類型といえるようなものの一つ。ここで神話的な人物類型といってみたのは、たとえば、英雄、賢者、女神、魔女などが世界各地の神話や伝承に登場するが、そのようないかにも神話や童話に出てきそうな典型の人物像の類型。人格のある顕著な性質を象徴している人物像。トリックスターもその人物像の類型の一つとして並列できる。

 トリックスターは、神出鬼没の悪戯者、道化師、ペテン師、幼い魔術師であったり、とんでもく下らない幼稚なことばかりする愚者であるかとおもえば、英雄のような行為をするときもある、変幻自在のキャラクター。主に少年として描かれていることがおおいが、女装するときもあるし、もともと両性をもっているということもあれば、動物として描かれることもある。


 具体的な例で有名なのは、ギリシャ神話のヘルメス、ローマ神話のメリクリウス、北欧神話のロキなど。

 ヘルメスとメリクリウス(マーキュリー)はギリシャ文化とローマ文化の混交のなかで同一視されていった多神教の神。とりあえずヘルメスについてだけ書くと、ヘルメスは、ギリシャの伝令や旅の神。ゼウスと、ゼウス愛人の一人マイアとの間に、正妻であるヘラの目を盗んで生まれた。美少年であり、素早くて、ずる賢い悪戯者で、競争をしたりものを盗むのが大好き。ヘルメスの外見は少年的な姿で描かれることが多く、つばの広い帽子をかぶり、翼のついた靴かサンダルをはいている。その靴によって自由に空を飛ぶことが出来る。あるいは翼のついた帽子をかぶっていて、それで飛ぶ。先端に二匹の蛇が絡み合っている伝令の杖をもっていて、主神ゼウスから伝令の遣いを受けている秘書的な存在。生きている者の世界と死者の世界を行き来できるという特権をもっている。

Alchemy and Psychology

 Such words as "sublimate" and "solution" are those alchemists of the Medieval ages preferred to use, each of which has double meanings, one of which is physical or chemical sense, the other of which is mental or psychological sense. The word "sublimate" were often used as a term meaning the chemical process of solid's vaporization represented by dry ice after modern age in which science has advanced, but because of the following circumstances that Nietzsche used the word to mean aspects concerning mind and Freud to express his theory of "sublimating" libido, at the present time people again have come to use this word to mean psychology more often than before. Tracing its origin to ages before the Modern age, far earlier alchemists used this word not to mean one of this two senses, but to "mean both matter and mentality simultaneously". Originally alchemy had been both chemistry and mysticism, according to advances of science and diversification of knowledge, in alchemy there appeared two schools one of which pursued understanding of chemical phenomenon the other of which placed importance on contemplation of mysticism, then according to this progress, the meaning and usage of alchemical words such as "sublimate" and "solution" have separated into two directions to physical expression and mental expression.


By the way, what does it mean that alchemists used words concerning chemical experimentation with implication of mentality? It is that on trying chemical experimentation alchemists "projected their mind on the process in which a new matter was made" from two matters because of a chemical reaction. Saying minutely, to Medieval alchemists who had little knowledge about science, the fact that a whole new matter has been made from a reaction of two matter was very mysterious phenomenon, and that acted on their hearts. In addition to this mysterious feeling, considering their ignorance of science, they might have stated this mysterious phenomenon by their mentality rather than theories or knowledge, and in that process their sprits might have effected on their course of explanation, then for that causes they might have had to explain phenomenon with projecting unconsciously their own mental contents on matters. To alchemists not only there occurred phenomenon before their eyes, but their inner heart, realm of unconsciousness, were activated, and in those inspired mental states they projected mental contents including unconscious ones on chemical phenomenon. Then chemical phenomenon become a metaphor implying contents in unconsciousness, which obtains clear concreteness. To say, they found "symbolism" in chemical phenomenon. All substances might have been symbols that inspired their depth of mind. (Incidentally, the origin of the word "inspire" concerns "breathe")


In alchemy there are those mental process. Therefore, we cannot deny its value, saying such absurd superstition is nonsense because it is impossible to make gold, but (in addition to scientific contribution of finding basis which relates modern chemistry) in a material process of trying to make a new matter there occurred a mental progress at the same time, in which mental constituents important to their life were symbolized in chemical phenomenon and then appeared as embodiment, and by those concrete cognition to unconscious contents they deepened cognition to life and heart, so we thinking, it can be said that alchemy has very big spiritual values. We also, dispelling from alchemy the superstitions of seeking gold or precious stones, and seeing the mental aspect rather than material aspect, our unconscious drive and fear may be "sublimed" and be in states of "solution" with our hearts "inspired" by documents alchemists bequeathed.



「sublimate(昇華する、固体が気化する、崇高にする)」や「solution(溶解、解決)」などの言葉は、中世の錬金術師が好んで使った言葉なのですが、それぞれが二重の意味をもっていて、一方は物理的または化学的な意味でありもう一方は心理的または精神的な意味です。「昇華するsublimete」という言葉は、科学が発展した近代以降ではドライアイスの気化に代表される個体が気体になるという化学的プロセスを意味する言葉として使われることの方が多かったのですが、ニーチェが頻繁に精神的なことに関する意味で使ったり、フロイトがリビドーの「昇華」の理論として使ったりしたようなことがあって、現代では再び心理的な意味で用いることがかなり多くなった言葉です。近代以前の起源を辿れば、ずっと昔の錬金術師はどちらかの意味で使っているのではなく、「同時に物質的かつ精神的な意味で」使っていたようです。そしてもともと錬金術というのは最初は化学でありながら神秘主義であったのですが、科学の進歩と知識の多様化とともに、錬金術においてはっきりと科学的な現象理解へ向かっていく錬金術師と神秘主義的な内観を重視する錬金術師とに二つに分流していき、その過程にあわせて、「sublimate」や「solution」などの錬金術的言語の意味や用法も、一方は物質的表現へもう一方は精神的表現へと分かれていったようです。


ところで、錬金術師が精神的な意味合いで化学実験に関する言葉を使っていたということはどういうことか。それは、錬金術師が、化学実験をするにおいて、化学反応によって物質と物質から「新しい物質ができる過程に、自分の心理を投影していた」ということです。詳しく述べてみると、科学的な知識のほとんどなかった中世の錬金術師にとっては、2つの物質の反応から全く新しい第3のものができるというのはとても神秘的な現象であり、錬金術師の心にも強く作用したでしょう。その神秘感に加えて、現象を科学的な知識もたないことも考えると、彼らはその神秘的現象を理論や知識より自分の見方によって述べることになり、その際に自身の精神が説明過程に影響を及ぼしている、そういうわけで彼らは自分の心理的内容を無意識的に物質に投影しながら現象を説明しなければならなかったということになります。 錬金術師においては眼前に化学的な反応が現象しているだけではなく、心の内面、無意識の領域が活性化されている、そしてそういうインスパイアーされた精神状態で化学現象に対する無意識の心理を含めた心理の投影の過程がおこっていた。化学現象は無意識の内容の隠喩になり、その心的内容は鮮明な具体性をもつ。つまり化学現象に「象徴性」を見出しているということです。物質全てが彼らの心の深みをインスパイアーする象徴だったのかもしれません。(ちなみに、インスパイアーinspireという言葉は呼吸に関わる由来をもっています)


練金術においてはそういう心理的過程が起こっているのです。だから、金を生み出すなんていうことは不可能であるからそんな馬鹿げた迷信的なことは無意味だ、と私たちはその価値を安易に否定してしまってよいものではなく、(実際に近代化学に通じるもの基礎となるものを発見した科学的功績に加えて)、新しい物質を生み出そうとする物質的過程の中で心理的過程も同時に起こっていて、術師の生命にとって重要な心的要素が化学現象に象徴されていた、つまり具現物として現象していた、そしてこういう無意識の内容の具現的認識によって彼らは生命・心に対する精神的な認識を深めていた、そう考えると錬金術は大きな精神的価値をもってるのです。私たちも、金や宝石を求めるという馬鹿げた迷信を錬金術から払いのけ、物質的な面より精神的な面をみるのなら、錬金術師の残した文献に心が「inspire」されて無意識の欲動や不安などが「sublime」されたり「solution」な状態になったりするかもしれません。

STONE TRIANGLE

 




ニーチェのメタファーと遠近法

 「ニイチェだけに限らない、俺はすべての強力な思想家の表現のうちに、 しばしば、人の思索はもうこれ以上登る事が出来まいと思われるような頂をみつける。・・・頂まで登りつめた言葉は、そこでほとんど意味を失うかと思われる程震えている。 絶望の表現ではないが絶望的に緊張している。無意味ではないが絶えず動揺して 意味を固定し難い。」

(小林秀雄『Xへの手紙』)


 前に書いた「メタファー的世界観」では、メタファーと概念の違いや起源、それらの能動性の差、どのように前者が具体的で後者が抽象的であるのか、真理と虚構の相対性、などについてその全体的な外観を比喩を使って漠然とだけしかし高い濃度で短い文章で示してみたが、この文章では、メタファーと概念の相対性、それらの起源の同一性、メタファーと遠近法(パースペクティヴ)の関係、ニーチェのいう‘解釈’とは何か、最終的には力への意志としての世界における‘解釈’、などについて、メタファーや遠近法ついて特に比喩の達人であるニーチェに関連させながら、出来るだけ細かく、前のように酷く絡み合った濃い感じではなく紐解いたかたちで、見てきたいと思う。ニーチェという特殊な文章を書く人の言説、しかもその文章の特殊性自体に関わるメタファーに関する言説を参考にすることは、ある意味、メタファーについての特殊な議論になってしまうかもしれないのだが、メタファーというもの自体が概念という一般性を与えるものとは対照的に特殊性を与えるものだということを考えると、一般的な概念的な方法でメタファーについて論じてみてもそれは概念の側からみたメタファーでしかないかもしれないのであって、だから、メタファーという特殊な言語用法について考察するにあたって、ニーチェという特殊な文体を用いる人がメタファーについてどう考えていたかを見るということは、ある意味ではかなり重要であると思う。ここではメタファーや遠近法について書くので、ニーチェ自身やニーチェの哲学の、人間的倫理的側面よりも、認識論的な側面をみることを中心にして書いていく。どちらにしてもニーチェという人物においては、人間的な面と認識論的な面が表裏一体にあって、どちらもかなりの頻度で干渉しあって哲学を構成しているので、メタファーについて書こうとおもっても、結局はニーチェの人間的特性が現れてしまうものである。ニーチェは人間的な面と認識論的な面が一体にあるだけではなく、ニーチェの文章というのは、形式と内容も一体であると思う。つまり形式から独立した主張内容を内容から独立した形式で表現しているというのではなく、形式と内容は互いに干渉しあっていて、相互依存してはじめてニーチェの文章は意味をなしているのである。とにかく、そういうニーチェがメタファーというものについてどう考えていたかを中心において、自分の個人的な考えも交えながら、メタファー、概念、遠近法などについて書いていきます。

エーテル

 お酒と煙で火遊び! そんなことないから焼けに妬けたディスプレイと名無しのモニュメントに、映る幻影たちが、ヴァルキリーの硬質でメタリックな光沢のドレスと、三日月のお守り、愛の出産、星空華やぐ妖魔の風に、彼女らの産声が、ガラスの保育器に閉じ込められた赤子の泣き叫び、母の腕と乳を求めて4000年の聖者の白い死後数秒間の行列を仄めかす。命! 絶命した! その真っ黒は、悪戯ものの石柱をボウガンで貫いた真実の唇の、天のHAARP・死・コードの行間、連符、恋愛は初恋と酒瓶の底に沈みこんだ曲線と屈折に結晶化された「永遠」によって、白い閃光に果てない滅びの歌。


歌声たちは弦の振動の白の中に、生きた人、生きてる人、食物連鎖の罪業を、ペンタゴン・オーケストラの儚げなシュレッターにかけた。拷問? それは単に人生108年の話であって、ファンファーレが鳴った死後数秒間の白の除幕後は、ただひたすらに、時間のない1日とシジューク日、月はボタンで、日は縫い針、待ち針、糸のフレア、心臓のプロミネンス、青白い眼差しと赤ピンクの宇宙の膜、水風船が、死者のニルヴァーナを守り続けていた。ではなぜ、次の誕生まで全ての愛おしい魂は苦悶し悲鳴を上げ続ける? 生きていた億万の、錆びて感電した可哀想な電車の客や、サーキットの白線を真似て遊ぶ渡り鳥たちや、電線を間違えた友愛思想で手首切り裂くピアノ線にした悪魔どもが、朗らかに痛みを受け入れた筈の死者を、あくまで数千年、数百年、悲しい靴が泣きじゃくるアスファルトの轟音で蹂躙し続けるから。生者は縄を悪魔に見るが、虐げられた死者たちの行進と楽団たちは、踏み外してはゲシュタルトの耳と口が王の道化になり永遠の無になってしまうコンビニの地下牢に神の許すまで数百億年監禁されないように、生前の支配層が自殺者や虐殺された方の死後も妥協せずに仕掛けた大縄とびに、青い炎のアルコールに力をもらい、足元に垣間見える方向不明のありとあらゆる地獄の業火、血と骨を、避けて、目で破壊し、唇で祝福し、その死者たち、次の精液にたどり着くまで、黄色の洞窟のような永劫を掠めるパイプラインを緋色に焼かれ続けるダチョウのごとき神速で突破したとき、悪魔どもにも聖者にも託された次の卵に、柔らかに告知されるだろう!


草花の中で星の尾が霧をばら撒いたとき、ビルの隙間が笛の穴に、屋上とタワーがパイプオルガンになって、宇宙風は語った。

お前たちはまだ生きていた。だから、お前は生き続ける。

俺は千回だって死ねるだろう。愛のためなら、愛ですぐに、山上からガルーダが羽毛に蜘蛛の糸を引かせて、街々の灯火を、人の骨格と腺を、涙の軌跡を繋いだとき、限りなく止むことのない歓喜の声が聞こえてきたから、蘇生する。奴らのビンゴはかすり傷。君に紙飛行機を。地底湖に眠るまだ冥にいる彼の言伝を書いて、電脳の流鏑馬手の折り方と撃ち方で。届いて欲しいのは、たった11年後の恋! ピアノ線だって泣けると信じて、シャチをシャコ貝に、簪のような遺跡に、ホルンの群れを戦神の愛した足跡に。

ソクラテスとプラトンの邂逅

 ソクラテスというのは、かなりお喋りで好戦的な議論好きであり、饗宴の席で権威者を相手に飲めば飲むほど饒舌をふるいっていたような人物であったといわれることもある。当時、知者が「言論」を以って国政に参加することができたアテネにおいて、もの知りぶった学者やソフィスト、権威の座に属する者、専門家を相手に、相手が本当の知には至ってないことに気づいてそれを実際に知らしめるために、巧妙に論点を誘導しながらユーモア溢れる知性で議論を加速させて相手を議論で打ち負かせ、本当の知や精神の完成と相手の知識や技術がいかに無縁であるかを、劇的に知らしめてきて、議論に勝った暁には自分の信じる本質的な知を相手に諭してきた。そしてこれが重要なのだが、学者ぶった人には狡猾に食ってかかるものの、まだ教育の過程にある青年たちに対しては奢り高ぶらずに謙虚に自分の無知を装って見せて、若く無教養な青年が立脚しているところのものの知識のない地平に、自ら身を置き、青年と同じように考えながら、針金が糸を導くように、密接に心理も理性も絡ませながら議論を進め青年たちを教育していった。この青年たちと同じ地点に立脚しながら話を進めるという点と、権威を持つ者や学者・専門家を打ち負かすという点により、政治的野望を持っていたり反抗期であったり当時の知者たちに懐疑をもっていたりする若い青年たちから熱烈な支持を受け、何人かの弟子ができた。


そのうちの一人がかの偉大なるプラトンである。しかしプラトンというのは議論好きでおしゃべり好きなユーモアに飛んだソクラテスとは違い、本質的には学者肌の天性をもっていて、おそらく行動や議論で哲学の本来的なあり方を示したソクラテスとは違い、知の総合や体系化や著作化を希求する性質を多分に持っていた。ソクラテスというのは文字化され本にされた言葉を、誤解を生むという理由などで、忌み嫌っていた人物で、その場限りの現在進行形の口頭の言葉の投げ掛け合いを重要視していたし、当時のアテネの自然学に限界を感じ本当に専門家が物事の摂理を解っているのかを懐疑した。とにかくリアルタイムの議論を愛し、体系化され著作化された言葉を嫌っていた。一方でプラトンというのは、まさにギリシャ哲学であったり、その他も社会や政治のあり方であったりを、膨大な量の著作によって、現代まで続く人類の歴史に残した著述家であった。だが、それが対話編がほとんどを成していることを考えると、ソクラテスの強い影響下にあったことが伺えるし、なによりもプラトンの著作の主人公にはソクラテスが多い。知性の性質が多分に外交的で刹那的であったソクラテスに対し、プラトンは著作に生涯を費やしたこと以外にも、著作内容にイデアという永遠に普遍的なものが見られるように、プラトンの知性には内向的であり体系性や普遍性や超時間性が見られる。


真理を本当の意味において追求するという点を除けば二人は全く違う性質を持っていたのだが、プラトンはソクラテスにおいての何よりも人格やカリスマに傾倒し、おそらく総合的知力という面においては自分よりも劣るかもしれない師を、こよなく尊敬し続けた。ソクラテスの人間的カリスマとプラトンの圧倒的知力、前者の現場における逆説的な巧妙な議論の進め方と、後者の正しい知の総体を綜合して永遠に後代に残したいという願望は、対象的であるが、こういう真逆のタイプが師弟関係にあったからこそ、二人の哲学が今尚、輝かしく残っているのであろう。プラトンがいないソクラテスは実在不明の伝説として影を薄めていただろうし、ソクラテスがいないプラトンを想像してみると、ソクラテス以前のギリシャ哲学のように、対話編のない哲学体系としてギリシャ哲学の単なる一派としてそれほど大きな成果はあげていなかっただろう。


ファラデーは物理現象に対する時空的直観によって具体的に電気や磁力が空間に及ぼす作用を把握していたが数学的記述は苦手としていたようで、数学に長けた理論物理学者マックスウェルとの協働によって19世紀の物理学の主要な功績の一つである電磁場理論の学説を打ち立てた。ルナンによるとイエス・キリストは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けただけでなく、その語り方を学んだといわれているが、洗礼者ヨハネと出会わなかったイエス・キリストを想定すれば、語り方を知らない宗教的奇人として単なる奇人伝に列せられていたのではないか、という考えもあり得ることである。このように、偉大だが性質の違う二人の邂逅というのは、歴史や学術史に大きな足跡を残すものだ。

読書のすすめ

 読書は人生を豊かにしてくれるとよく言われるが、まさにその通りであり、読書によって齎されるものの価値は大きく、効能も大きい。読書で得られるのは決して知識だけではなく、数えきれないほど得られるものがあることは、読書家の当たり前に知ることであり、科学者も脳機能の向上の観点から読書によって得られるメリットが多いとされている。


 人間は言葉を恒常的に使用する生き物であり、脳内には無数の言語に関する回路が根付いているのだから、その言語に関する無数の数の回路が言語全般に反応しうる可能的な量と言うのは膨大であり、人間には莫大な量の言語の総体が開かれていると言えよう。


日常から人間は言語を使用すると言っても、特に読書をしない場合というのは、使われる言語の体系というのは限定されたものであるのだが、読書などの言語的活動をすることで、膨大な量の言語の総体に開かれることになり、日常の限定された言語の体系から大きくはみ出した量の言語が人の精神を駆け巡り得ることになる。


人間の古来から今も続いている多様な言語活動において、あらゆる物、事柄、出来事、状況、感情、心理、イメージ、観念、概念が名付けられ、名辞が与えられているとともに、それらの相互関係が文法に則った一定数の言語で起き並べられ、意味が与えられている。普段の日常生活ではとくに気をとめないような心理やイメージであったり、日常では出会わない出来事であったり、社会生活では特に必要とされないアカデミックな事柄であったりも、作家や学者によって言葉のまとまりで表現され、形や意味が与えられている。つまり、人間には言語の総体が開かれていると同時に、未知の世界が、それに含まれる事象に対して人が言語で名付けと意味付けを行っているということから、どこまでも開かれているのである。