ドストエフスキーの小説においては、登場人物の言動も作中の物事も非常にダイナミックに動乱しているが、そのダイナミズムを可能にした創作の手法は、ミハイル・バフチンの言うように「ポリフォニー」にある。ポリフォニーは「多声音楽」を意味する音楽用語であるが、ドストエフスキーの小説の登場人物が非常によく喋り、ときには2~3ページにわたる長広舌をまくしたて、それが2人の対話においてだけではなく多人数が居合わせる場面でも為されることから、複数人の「声」の織り成す作品と特徴づけることは可能であり、「ポリフォニー」という用語をドストエフスキーの小説の際立った特徴に割り当てたのは、極めて正確な表現であると思われる。
ポリフォニーに対立する音楽用語は「モノフォニー」である。19世紀前後の西洋主知主義はモノフォニーによる思想の発言が顕著に見られる。宗教的にいうとキリスト教という一神論の影響下にあり、政治的にも絶対主義が蔓延ることの多かった西洋において、その知性は、唯一性が目指された。バフチンの言葉を引用するなら「単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパ合理主義が、近代におけるモノローグ原理を強化し、これが思想活動のあらゆる領域に浸透した。」(『ドストエフスキーの詩学』) 思想家の著作であれ文豪の作品であれ、そのモノローグ原理の影響は強く、形式的にも内容的にも著作家はその原理に無意識に規定されてきた。思想家は自分の唯一の思想を構築しその思想を単一の作者としての主体で緻密に述べる。作家は自分の表現したい思想や世界を一つ設定し、それを表現するために部品として登場人物や出来事を並べていく。
このモノフォニー性を覆したのがドストエフスキーのポリフォニーであった。おそらく作家自身が多数の声を自身に内蔵していたのであろう。ドストエフスキーはキリスト教への信と不信を同時に抱えていたし、世を生きる人間としてもキリスト教精神に基づいた極めて高い倫理と、賭博にみられるような不道徳を同時に所有していた。おそらく矛盾を抱えてしまうほど物事に影響をうけやすく、ある真理や思想に熱く傾倒しやすい、非常に多感な精神を持っていたのだろう。また、矛盾を抱えるだけでなく、おそらく他者の人格や思想に対しての、強い感受性、受け入れる度量、簡単に疎外しない寛容さ、他者の心理を体験できる感情移入の能力なども持っていたのだろう。とにかくドストエフスキーの生活や作品や人格を辿れば、きりがないほど多種多様な要素が犇めき合っている。
このドストエフスキーという人物の精神は、西洋主知主義・近代合理主義の世界に簡単に相容れるものではなく、その枠に収まらずにむしろ文学の形式に革命的なモデルを提供したものであった。バフチンは「カーニバル小説」とドストエフスキーの小説を呼称している。形式として固定性が強く、一義的に一つの論理が順次展開していく思考方法、一つの道徳によって人の生活が規定される生活様式、などに特徴づけられるところの近代西洋的なモデルを、キリスト者的生活・近代的社会生活とするなら、その外的な拘束力をもつ枠組みを一時的にでも打ち破り人が解放的に欲動を現実化させる「祭り」のように、カーニバル文学としてドストエフスキーの小説は展開している。つまり登場人物の個々人が、社会的拘束や作品の設定による拘束を打破する個の強さを持ち、それぞれが己を強く主張して、ぶつかり合いながら自立駆動しているのである。
西洋の19世紀あたりまでの近代合理主義の影響下にある文学作品だけでなく、現代においての推理小説では大筋として設定された世界のなかでプロットされた登場人物や出来事がパズルのように並べられているし、SFにおいても一つの未来科学的世界観が大枠として存在しそれを表現するために登場人物の行動や出来事が描かれている。一方、現実の人間はどうであるかというと、決してパズルのごとくプロットされたように本人は動いているわけではなく、歯車のように他者と一義的に連動して一つの機構を作っているわけではない。また、個々人は決して現代社会を描くための画材でもない。それぞれの個人がそれぞれの人格や思想を持っており、ある程度は社会的理念の具体化を目指して行動し話すわけではあるが、基本的には個人の自由が尊重され個々人は自発的に意志して物事を行っている。つまり社会あるいは人間世界は夥しいパートのあるポリフォニーに準えられ得るという意味で、ドストエフスキーのポリフォニー小説は現実の様態に近いもの、リアルなものだと言うことができる。
実際、ドストエフスキーの小説の登場人物というのは、生命を持っているかのようにリアルな印象を与える存在である。それぞれがそれぞれの意志を強く持っておりそれを行動化・発言するし、人格は作品世界に規定されず、また他の登場人物と歯車のように一義的に嚙み合うのではなく衝突しあい、一つの機構を為すのではなく一人ひとりの世界が展開され複数の系が存在しているのである。それぞれの系から発せられる多数の声が交錯し織りなす事象の複雑な動性こそ、現実世界においての人のリアルである。会社内での勤務中は例外であるが、それ以外においては人のそれぞれの声、行動が、決められた様式ではなく自発的な意思に基づくものとして展開している。ドストエフスキーの小説はそのように生きた動的な世界の現場性を感じさせるものである。
しかしそのような文学を創造することはもちろん簡単なことではない。作家としての技量の問題だけでなく、前述のように作家自身の人格も多様性に富んでいなければならないのである。ドストエフスキーが各登場人物に生命を与え、自立駆動させるほどまで見事にリアルに描くことができたのは、ドストエフスキーが多種多様な思想を感得し自分のものとし、多数の他者に感情移入し他者を体験してきたからだろう。そのような多様な人格をもつドストエフスキーは、いくらかの登場人物に自分の思想を仮託していただろうし、生活の実感をいくらかの登場人物に表現させていた。『カラマーゾフの兄弟』でいうとイヴァン・カラマーゾフにおそらく自分の思想の問題を仮託していただろうし、ドミートリイ・カラマーゾフには自分の生活上の人格の特徴を表現させていただろう。ドストエフスキーは文豪であるが、芸術作品や思想作品としての先人たちの文学を研究していただけでなく、生活においてもドラマティックな人生を送っていた。おそらくその人格や思想の多様性から、モノフォニーでは決して自分の言いたいことを表現できず、自然とポリフォニーの形式が生まれざるを得なかったのだろう。
ドストエフスキーの小説は日本語訳で1000ページを超えることが多いが、その多くが、数日間、あるいは数日間に間隔をあけて数日間、といった短期間の出来事である。その数日間、祭りは開かれ、人たちは言いたいこと言い、自分の意志を行動化し、他の登場人物と衝突し、とにかく様々な心理や事象が犇めき合い、各要素は多層的に多次元で交錯する。この数日間で、普通の人の一生分の出来事が起こるのではないかというほど、それぞれの登場人物は物を言い事を起こすのも、カーニバル文学としてのドストエフスキーの面白さであるだろう。そのようなカーニバルが成立するには、エネルギーというのは重要である。
各人が自立駆動しているだけではポリフォニー小説は成立しない。その各人が一人の現実の人間に値するほどそれぞれの思想や人生や歴史を強烈に有しているところこそが、単に多声的形式であるだけでは不可能なほどのリアルさの要因であろうと思われる。多声的形式をとりながら一人ひとりの内容が乏しいものであれば、無気力で無意味な現場しか創られなかったであろうが、一人ひとりが内容的に横溢しているので、想像力の内で気力と意味に満ち溢れた人間世界の現場が創出されているのである。ポリフォニーを可能にしたのは、創造された人物像が非常に内容が濃く力強いものであったという、一つ一つの声の大きさである。歌の素人が小さい声量で、感性を込めずに多人数で歌ったところで、飲み会の芸にすらならないだろうが、オペラ歌手の複数人が大声量で音楽的に美しい声で歌うとコンサートホールでの作品になるのである。ドストエフスキーのポリフォニー文学を成立させたのは、登場人物一人ひとりの人格の強烈さである。
ドストエフスキーは一つの一貫した思想を理路整然と持っていたタイプの人間ではなく、前述のように矛盾を抱え、同時にいろいろな価値観を内包でき、倫理的でありながら反道徳的という相反する要素を自己に並立させられる人物であった。矛盾や相反物を近代合理主的知性で論理的に解決するのは、人の精神を安定させる一つの方法であろう。しかし諸要素を理性的に並べて問題を解決させるだけでは、自分の内包した要素のエネルギーを奪い去ってしまうことにつながり得る。ドストエフスキーの場合は、自分に取り込んだ様々な要素を、自分の精神のうちで理論によって分解せず、生かしたままにしていたのではないか。虫を標本にするのではなく、魚を水槽で飼うように。ドストエフスキーの小説にはダイナミズムが顕現しているが、それはおそらく常に作家自身の精神内部でも起こっていたことであろう。彼は実際に、作品が多様であるだけでなく、人生も非常に多様であった。思想を精神に内包させる際、ひとつの体系に還元して論理的に定式化しないことは、諸要素同士の衝突を起こすものではあるが同時に、諸要素の生命力を保持しておくことでもある。
熱しやすいドストエフスキーはある人や物事に傾倒した際、その対象になりきってそれらの要素を自分へ取り込んでいただろうし、また新しい人や物事に傾倒した際に過去の他の傾倒によって得られたものを決して殺さず、新しいもので更新したりはせず、人間界における大事な思想や事象として大切に生きた状態で保持していたのであろう。おそらくそれは愛の一形態である。ドストエフスキーは愛を全面に表現することはそれほどなかったが、キリスト教に強い感化を受けた者として、あるいはアレクセイ・カラマーゾフで明らかになったようにキリストを理想の存在と見做す者として、世に存在する様々なものや他者の行動や言葉を、生きた形で愛していただろうと思われる。
実際、ドストエフスキーの最初期の作品『貧しき人々』には貧困に苦しむ人への強い感情移入が見られる。また最後の大作『カラマーゾフの兄弟』においても貧しいスネギリョフの家族を非常に感情を込めて描き切っており感銘を受けるところである。もちろん貧しい人たちを克明に描いただけではない。あらゆるタイプの特徴的な人間を描くことができたのは、実際の自分の人生において出会う様々な人や作品のそれぞれに大きく感動し、感情移入し、そうすることで自分の人格に具体的に取り込み、それを一義的な理論体系のうちに還元してしまわないで、心の中で生きた状態で保存してきたのではないだろうか。
ドストエフスキーの小説においては、大量の皮肉が飛び交っていることから、ドストエフスキーは愛情を深くもった人物ではないと思う人もいるかもしれない。しかし一方的に他者に対してなされる皮肉とは違い、自分が創造した人物同士で為される皮肉というのは、作者自身の心的要素の分裂あるいはその解決を象徴している。物事や思想を生きた状態で自らに取り込むことは、それらのそれぞれが相容れない場合において、苦悩を引き起こす。ある心理はある心理に悖り、ある考えが別の考えの否定となり、矛盾を抱えることになる。ドストエフスキーの文学において皮肉が大量に用いられる理由は、ドストエフスキーが性格的に皮肉屋であったからではなく、様々な相反性を含めて多数の物事や思想を内包していたことから生まれる、逆説がたくさん存在したからだろう。世間の物事に冷笑的であるから皮肉がたくさん生まれたのではなく、むしろあらゆることに愛情や関心を向けて自らに内包したからこそ、自らの精神のうちである視点からみるとある物事に対して批判的になったりしたのだろう。その解決として生まれたものが、諧謔やユーモアだったと思われる。単に冷笑しているのではなくむしろ熱した神経によって、ドストエフスキーの登場人物は諧謔を発揮しながら色々なものを皮肉るのである。
イヴァン・カラマーゾフは無神論を唱え、いろいろなことを皮肉り、冷笑的に振る舞うことがありながらも、兄弟や友人・知人のことを非常に強く想う優しさを兼ね備えていた。ドストエフスキーは目に映ること、聞く言葉すべてを愛し、憎しみつつ、それら対象に強く感情移入し、その結果として彼の心のうちで様々な人格や思想が強烈に生かされていたからこそ、単に形式としてではなく内実のあるものとしてポリフォニー文学を創造できたのである。
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