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2026年6月1日月曜日

様々なる意味を孕んだこの世界を生きる

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序章:意味の零度と世界の過剰さ


人間がこの地上に生を受け、自らの存在を意識したその瞬間から、私たちは「世界」という巨大で複雑極まりない事象のうねりの中に放り込まれる。この世界は、あらかじめ整然とした意味の体系が用意されているような生易しい場所ではない。むしろ、あらゆる出来事、あらゆる状況、あらゆる他者の実存が、過剰なほどの「意味」を孕みながら、私たちの精神に向かって絶え間なく押し寄せてくる、混沌とした海のようなものであると言えよう。  私たちは普段、自宅や職場、あるいは身近な人間関係や自分がログインしているSNSのタイムラインといった、半径数十メートルの限定された視聴覚の範囲だけを「世界」であると錯覚し、そこに安住しようとする。しかし、現実の人間世界はそのような矮小な枠組みには決して収まらない。行ったことのない異国の地があり、私たちが生涯出会うことのない無数の人々がうごめき、地球の過酷な自然や遙か彼方の星々が在り、何千年も前から連綿と続く人類社会の歴史と科学、そして膨大な書籍が在る。このどこまでも広大で、時に不条理なほど複雑な世界を、私たちはたった一回の限られた人生という時間の中で生き抜かなければならないのである。


その人生の途上において、時に私たちの予期せぬ形で、宝くじの逆が当たったかのような巨大な不運や災難が降りかかってくることがある。それまでの平穏な日常、自らが構築してきたささやかな意味のネットワークは、一瞬にして根底から破砕され、精神は実存の零度へと突き落とされる。しかし、そのようにして何もかもを失い、世界の冷徹な剥き出しの現実に直面したとき、皮肉にも私たちは、この世界が孕んでいる「もう一つの意味」――すなわち、人間の根源的な優しさや、生そのものが持つ圧倒的な多様性と開かれの可能性――に気づかされることになるのである。


本エッセイは、極限の飢餓と酷暑の異国を彷徨った記憶、閉鎖病棟という不自由な迷宮からの跳躍、西成の土砂にまみれた過酷な肉体労働、そして変転する世界像の狭間で混迷する意識の軌跡をたどりながら、言語と音楽という精神の装置を通じて、いかにしてこの「様々なる意味を孕んだ世界」を肯定し、実存的に生き抜いていくかを探求する思想的試みである。



第一章:飢餓と光彩のベトナム――


極限における他者という「奇跡」それは、単身で渡航したベトナムの、東南アジア特有の春から初夏にかけての美しい空の下から始まった。私はもともと徒歩を好み、10キロ程度の距離であれば即断で歩こうとする性質を持っている。観光スポットとして整備された市街地を離れ、現地の生活が息づく辺境へと足を進めることは、言葉や看板の文字、建物の色合い、空気の匂い、植物の生い茂り方をじかに長時間体験できる、極めて新鮮で愉しい精神的活動であった。レモン色やリンゴ色、あるいは南国の海の色と形容したくなるようなカラフルな建物が、鮮烈な太陽の光を浴びて輝く様を見ているだけでも、私の心はどこか浮き立つような感覚を覚えたものである。


しかし、その冒険心は、ホーチミンから数十キロ、あるいは百キロ近く離れた市街地から遠く離れた辺境の地で、決定的な破局を迎えることとなった。うらぶれたベンチで仮眠をとっている最中に、パスポート、財布、そして外部との唯一の通信手段であったスマートフォンが入った小さなショルダーバッグを盗難されてしまったのである。手元に残されたのは、異国での生存には何ら役に立たない、インターネットに接続できないノートパソコンが入った重いバッグと、今身に着けている衣服、そして履いている靴だけであった。飲み物も、食べ物も、お金も、クレジットカードも、身分を証明する書類も、すべてが一瞬にして消失した。  ここから、日付の感覚すら失われるほどの、約一ヶ月に及ぶ無一文の彷徨が始まった。北緯10度のホーチミン周辺は、夏至に近づくにつれて日中の太陽がほぼ真上を通過するため、時計も地図もない状態では方角を見失いやすい。午前10時には南の真上付近にあった太陽が、正午には北の真上付近へと突入する。この天体の運行の特異性により、私はホーチミン市街地を目指しているつもりが、全く逆の北西の方向へと歩き続けていた。酷暑は37度に達し、ひどいときには水道水にすら出会えず、2日の間何も口にできないまま、見知らぬ村や町、ただ道路だけが延々と続く不毛な地帯を歩き続けた。あまりの空腹に、道端の草をも毟って食べたくなるような、動物的な飢餓が肉体を支配していった。


肉体が限界を迎え、栄養失調のやつれた状態で路地裏にうずくまっているとき、言葉の通じない現地の露店の人々や通行人が、ジェスチャーで「食べものは要るか?」と問いかけ、無償で食事を与えてくれたことが何度もあった。またある特に暑い日の昼前、山や森に囲まれた村の近くの歩道で暑さと飢えから意識を失い、倒れてしまったとき、ハリー・ポッターを彷彿とさせるような17歳ほどのベトナム人青年が私を助け起こしてくれた。彼は非常に流暢な英語を話し、他の村人たちとともにリンゴやインスタントヌードルを用意して私を介抱し、事情を聴いてくれた。彼らと撮った集合写真は、今でも私の精神の深い場所に刻まれている。  しかし、全身の筋肉疲労だけでなく、肉が骨から剥がれ落ちるような激しい痛みが走り、呼吸すること自体が耐え難い苦痛となったとき、私は一度だけ自らの生を終わらせようとした。深夜、コンクリートの民家が立ち並ぶ道沿いの駐車スペースに、赤い小型のバスが停まっていた。そのバスのドアミラーの高さは約2メートル。近くには、打ち捨てられた電気コードが転がっていた。私は近くにあったプラスチックの椅子をミラーの下に置き、首にコードを引っ掛け、椅子を蹴り倒そうとした。あまりの苦しさに、自らの人生を振り返る余裕すらなく、ただ苦痛から逃れたい一念であった。その瞬間、バスの奥の席で眠っていた持ち主らしき男性が私の異変に気づき、フロントガラスを激しくノックして「ノー、ノー」とジェスチャーを送ってくれた。その手の動きによって、私の自殺遂行は寸前で阻止されたのである。


その後も彷徨は続き、途中で意識を失って倒れ込んだ際、放置された廃墟の古いガラス戸に衝突し、くるぶしのあたりを深く抉る大怪我を負った。血がドバドバとコンクリートを染め、激痛で歩くこともままならず、四つ這いになって移動するしかなかった。ホーチミンのはずれのバス停で、死人のような顔で座り込んでいたところ、通りかかった警察のパトカーに保護され、署内で麻酔なしで皮膚を4針縫合するという荒治療を受けた。激痛であったが、それまでの飢餓の苦しみに比べれば耐えられないものではなかった。警察は私を総領事館の近くのバス停まで送ってくれたが、治療直後の足は地面を踏むだけで激痛が走り、数十メートルの距離すら移動できず、私は再びバス停のベンチで途方に暮れてうずくまることしかできなかった。  そのとき、私の耳に、信じられないほど発音の綺麗な英語の女声が届いた。


"What's the matter? Do you need help?"  声の主は、ホーチミンのハイスクールで英語の教師をしている現地人女性、Tさんであった。彼女は私の衰弱ぶりと足の傷、熱中症の症状を瞬時に見抜き、即座に行動を起こした。私をバスに乗せて近くの小さな病院へ連れて行き、治療を受けさせ、松葉杖を手配した上で、自らの手でホテルを予約し、そこへ私を運んでくれたのである。  Tさんは非常に気が強く、しっかりとした人格者であり、かつ敬虔な仏教徒でもあった。彼女は私の顛末を深く同情し、「帰国するまで全面的にサポートする」と力強く宣言してくれた。それからの1週間、毎晩のように彼女は手料理を作ってホテルへ持ってきてくれた。領事館での手続きや、紛失したパスポートの代わりに発行する渡航書の手続き、期限切れの滞在罰金の交渉など、煩雑な事務処理のために帰国まで1ヶ月近くかかることが判明した際も、彼女は私をマンスリーのアパートに移し、変わらぬ支援を続けてくれた。彼女の紹介で訪れた漢方内科で処方された朝鮮人参などの薬草は、慢性的な栄養失調に陥っていた私の五臓六腑に染み渡り、脳の冴えを取り戻させてくれた。


しかし、私は人生で最大級の過ちを犯してしまう。Tさんと言語や人間観、価値観のある一点において意見が相反し、命の恩人である彼女に対して激しい口論の末に、マンスリーのアパートを家出するという暴挙に出てしまったのである。自分の英語力の未熟さや、実存の歪みが引き起こした最悪の振る舞いであった。再び10日間に及ぶ無一文の彷徨が始まり、水だけを飲みながらバイクの洪水と酷暑の中を歩き回った。領事館の日本人オフィサーであるSさんにレトルト食品やパンを貰って食いつなぎながらも、寝る場所もなく途方に暮れていたとき、最初に対馬の如く訪れたホテルの近くのコンビニ、ミニストップのベンチに座り込んでいると、信じられない奇跡が起こった。  膨大な人口密度を誇るホーチミンの雑踏の中で、偶然にもTさんと再会したのである。彼女は半ば呆れ、怒りながらも、私をミニストップのイートインに連れて行き、一緒に食事をしてくれた。私が深く謝罪すると、彼女は再び帰国までのホテルを用意し、毎晩料理を届けてくれるという、聖母のような慈悲の手を差し伸べてくれた。  最終的に、日本の家族からの送金が領事館経由で確認され、帰国の航空券が手に入ったとき、別れは唐突に訪れた。翌日の便であったため、十分な謝辞もお返しの約束もできないまま、私は連絡先のメモだけをポケットに残して帰国便に飛び乗った。


このベトナムでの経験は、私にとって生死の境を彷徨う過酷な受難の夏であったと同時に、世界が単なる不条理な物質の集まりではなく、言葉の壁を越えた「他者の善意」という崇高な意味に満ち溢れていることを証明する、実存的な奇跡の瞬間であったのである。



第二章:閉鎖空間からの切断――


自由への跳躍と肉体の叛乱命からがら日本へ帰国したものの、大阪の街を無一文で彷徨う中で、私の身にはさらなる災難が降りかかった。家賃滞納による強制退去、クレジットカードの不正利用、そして過去の精神科への入院歴といった要素が重なり、憔悴しきった私の肉体は、警察の手を経て再び精神科の閉鎖病棟へと監禁される事態を招いたのである。  保護室という名の、四方を無機質な壁に囲まれた狭隘な監禁空間での数日間を経て、私は通常の4人部屋へと移動した。そこでの生活は、社会的な責任や労働から完全に切断された、奇妙なほどに暇で、それでいて常に他者の視線に曝される不自由なものであった。しかし、病棟内にいた「普通に社会生活を送っていそうだが、アグレッシヴな逸脱を経験してきた人々」との交流は、私の精神に奇妙な刺激を与えた。食事の時間以外、10時間以上にわたって互いの犯罪歴や麻薬の話、あるいは他愛のない世間話を語り合う日々は、ある種の人類学的な興味深さを湛えていたと言える。作業療法で作ったピアスをプレゼントし合ったり、カラオケで盛り上がったりするささやかな愉しみもあった。


だが、主治医から下された今後の治療方針は、私の尊厳を根本から揺るがすものであった。

「入院中は外出禁止、期間は半年以上。退院後は生活保護を受給し、自由な外出が制限されたグループホームや救護施設などの障碍者施設へ入所させる」

主治医は、私が過去に飛び降り自殺を図り背骨を2か所骨折して意識不明の重体になった歴史や、20代前半の荒れた生活、散財癖などを理由に、私にはもはや通常の社会生活を営む能力がないと断定したのである。彼らは私の意思をかたくなに無視し、福祉の檻の中に飼い殺しにしようとした。健常者と何ら変わらない論理的思考力、コミュニケーション能力、そして労働への強い意欲を持っている自負があった私は、激しい拒絶の念を抱いた。


「このまま障碍者として施設に閉じ込められ、人生の未来を他人に決定されてたまるか。私は絶対にここから抜け出し、自らの力で働いて社会的責務を果たし、好きな音楽や読書を楽しめるシャバの自由を奪い返してみせる」  そのように強く心に誓った私は、現実的な「脱走計画」を脳内でシミュレートし始めた。そんな折、病棟内で最も仲の良かった、ロック好きの男性患者Aさんと、一枚の衣服の貸し借りを巡って大喧嘩をしてしまう。互いにLed ZeppelinやLinkin Park、Nirvanaなどのバンド音楽について深く語り合い、退院したらともにバンドをやろうと夢見ていた親友であったが、私の服を「もはや俺のものだ」と言い張る彼の態度に激昂し、叫び声を上げるほどの口論に発展したのである。


結果、私はAさんとともに保護室へ連行された。病院内での素行不良は、退院後の処遇をさらに悪化させ、より拘束的な施設への強制入所へと繋がるという危機感が、私の背中を押した。保護室を出たその日、私は「実行」を決意した。  チャンスは2日後に訪れた。この病院の西棟と東棟を繋ぐ連絡路は、天井と壁が強固な金網で囲まれた通路になっており、その途中には外の駐車場へと抜ける非常扉が存在していた。通常は施錠されているが、掃除の時間や、患者が看護師に引率されて売店へ向かう極めて限定された瞬間に、稀にその扉が開いていることがあった。  私は事前に「退院の意思」「警察へ通報しないでほしい旨」「入院費は必ず支払う約束」を入念に書き付けた紙を用意し、衣服のポケットに忍ばせていた。引率の看護師は、患者の逃走を防ぐために細心の注意を払って位置取りをしていたが、その日の担当は小柄な女性看護師であった。男性看護師であれば体力的に取り押さえられるリスクが高かったが、ここが決定的な勝機であった。


私はあらかじめ自動販売機でジュースを購入して用意していた15枚ほどの10円玉を、通路の床に「うっかり」激しくぶちまけた。金属音が響き、硬貨が散乱する。女性看護師ともう一人の患者が反射的にそれを拾おうと視線を落としたその刹那、私は開いていた非常扉から外へと飛び出した。  全速力で駐車場を駆け抜け、正門のフェンスを乗り越えてシャバの道路へと躍り出た。しかし、精神的な緊張が極限に達していたためか、肉体が悲鳴を上げた。肺が激しく痛み、最寄り駅までの距離すら走り続けることができない。背後から追手が迫る恐怖の中、一か八か、病院の目の前にある最寄り駅の改札へと滑り込んだ。焦りで頭が真っ白になりながら、あらかじめポケットに分けておいた切符代で何とか切符を購入したものの、ホームへ上がると次の電車まで10分以上の待ち時間があるという絶望的な状況に直面した。  追手は必ず階段から上がってくると予測した私は、エレベーターを使って一旦改札階へと戻り、反対側のホームへと移動した。その瞬間、滑り込んできた電車のドアへ飛び込み、閉まる扉の向こうに閉鎖病棟の幻影を置き去りにしたのである。  何回もの乗り換えを経て、夜中にたどり着いたのは大阪市であった。しかし、逃走中のどこかで、残りの僅かなお金が入った財布を紛失してしまったことに気づいた。駅員に事情を話し、何とか改札を出してもらったものの、11月末の凍てつくような夜の大阪の街に、私は完全なる無一文、スマホも持たず、薄い病院着の上に長袖のTシャツを重ねただけの極薄着の状態で放り出されることとなった。


そこから約1週間、私は生と死の新たな狭間を彷徨った。夜が来ると、骨まで凍り付くような寒さに肉体がガタガタと震え、眠ればそのまま凍死するという恐怖から、少しでも体温を上げるために暗闇の街をひたすら歩き、走り続けた。昼間は図書館の暖房に救いを求めたが、食べるものは何もなく、再び栄養失調の暗雲が立ち込めた。街の片隅で身を縮めているとき、ふと目に入った野良猫の姿に、「お前たちも毎日、こんな寒さと飢えの中で孤独に生きているのか」という激しい同情が湧き起こり、涙が止まらなくなった。  人間社会のきらびやかな灯火の中にいながら、自らはその社会のデータシステムから完全に切断され、不可視の存在として彷徨っているという圧倒的な実存の孤独。自由を求めて跳躍した先は、冷徹な物理法則と飢餓が支配する、もう一つの過酷な「意味」の世界であったのである。



第三章:西成の土砂とオフィスワーク――


記号の再生と労働のモラリティ限界を迎えた私は、捕縛されるリスクを覚悟の上で、役所の福祉窓口へと足を引きずりながら赴いた。衣服は初秋のままで衰弱しきった私の姿を見た職員は、深く同情し、温かいカップラーメンとおにぎり、そして無償のダウンコートを提供してくれた。それは1週間以上の飢餓の果てに出会った、まさに命の食料であった。生活保護の受給を勧められたが、それでは再び施設へ送られるという恐怖があったため拒絶したところ、職員は困窮者を支援する社会福祉法人を紹介し、スマホのない私の代わりに電話を取り次いでくれた。  その法人の計らいにより、私は解体間近の元社員寮の一室を無償で貸してもらえることとなり、ようやく夜の凍える寒さから解放されたのである。しかし、相変わらず手元には1円の金もなかった。私は毎日、図書館へ赴いて無料の検索PCを使い、自らの力で現金を稼ぐ手段を必死に探した。その中で浮上してきたのが「西成」という地名であり、「西成労働福祉センター」という組織であった。  私は電車賃もないため、何キロもの道のりをただ徒歩だけで歩き続け、あいりん地区にあるそのセンターへとたどり着いた。ガリガリに痩せこけた私を見た職員は、すぐに求人システムへの登録を完了させてくれただけでなく、現場で必要となる作業服、ヘルメット、安全靴、ベルト、簡易的なバッグをすべて無償で支給してくれた。  翌朝、午前6時前。センターの周辺は、独特の熱気と殺伐とした空気に満ちていた。私は解体現場の土工の仕事に応募し、即日採用されて現場へと向かった。


初日の労働は、私の想像を絶する過酷さであった。現場の作業員たちは極めて粗野であり、丁寧な言葉遣いなどは皆無で、常に怒号に近い大声が飛び交うこわい環境であった。  「おい、そこのガラス、適当に全部割れ!」

「バールで床を力任せに剥がせ!」

「そのドリルでコンクリートを砕け!」

明確なマニュアルなどなく、「適当にやって体で覚えろ」という世界であった。轟音と爆音が耳を聾し、空気中には土砂やコンクリートの微粒子が濃密に漂っていた。半壊した2階や3階の床には柵などなく、一歩足を踏み外せばそのまま落下して大怪我を負う、常に生命の危険と隣り合わせの空間であった。慢性的な栄養失調で筋肉も落ちきっていた私の肉体は、尋常ではない筋肉痛と疲労感に襲われ、意識が遠のきそうになりながらも、バールを握る手に力を込め続けた。


夕方、すべての作業を終えて手渡された、一枚の「一万円札」。その即物的な紙幣の重みを手掌に感じたとき、私の脳内に、言葉にできないほどの強烈な歓喜が駆け巡った。10日間の彷徨が終わり、他人の施しではなく、自らの肉体を酷使して得た正当な対価によって、500円以上のご飯を自らの意志で選んで食べることができるという圧倒的な事実に、私は震えるほどの充足感を覚えたのである。  日雇い労働を数日間続け、ある程度生活のベースとなる現金を貯めた私は、肉体労働による落下の危険や持続不可能性を考慮し、本来の自分のフィールドであるオフィスワークへの復帰を決意した。私はかつてコールセンター業務のプロフェッショナルとして8年の経験を積んでおり、敬語や丁寧なビジネスコミュニケーションの回路は完全に脳内に根付いていた。データ入力、プログラミング、コールセンターの面接を1日のうちに3件詰め込み、コールセンターの企業から即日採用を勝ち取ったのである。


現在はまだ、社会福祉法人の寮のお世話になり、週払い制の給与に頼る不安定な生活ではあるが、私はかつて閉鎖病棟の中で激しく夢見ていた「言葉が丁寧で、冷房の効いたオフィスで、普通の社会人として働く日常」を完全に奪い返すことに成功した。病院側との私物返却を巡る電話でのやり取りの際も、退院は正式に受理されており、職員から「みんな心配していましたよ」と優しい言葉をかけられ、平和的な解決をみることができた。  自らの意思で働き、社会的責務を果たし、そのお金で自らの好きなものを選択する。その「普通」の生活こそが、どれほど強固な実存の土台であるかを、私は西成の土砂とオフィスのインカムを通じて痛烈に学んだのである。



第四章:変転する世界像と機密の受難――


視界の限定性を超えてしかし、私の生は、単に「貧困からの脱出」や「社会的自立」という一般的な物語の枠内だけで語ることはできない。なぜなら、私の人生の底流には、高校3年生のときに降りかかってきた、宝くじの逆が当たったかのような珍しくも巨大な「不運」と、それに伴う世界の構造そのものの変転が常に横たわっているからである。


私は、その困難な災難に関する独自の社会活動、調査、聞き込み、関連書籍の精読、執筆活動を6年近くにわたって継続してきた。その過程において、私は通常の人間社会の観念を根底から覆し得る、日本や諸外国の主に軍事に関わる「機密情報」にアクセスすることとなってしまったのである。


その機密の内容や、私を長年苦しめ続けている災難の具体的なディテールをここに詳細に記述することはできない。しかし、その情報に触れて以来、私の生活は常に脅かされ、不条理な災いは増大していった。時に、何も知らないまま普通の人間として半径数十メートルの穏やかな世界像の中に生きていた方が、どれほど幸福であっただろうかと、暗澹たる思いに囚われることもある。  特に、私が直面してきた事象は、一般に「テクノロジー犯罪」あるいは「TI(Targeted Individual)」と称される、電磁波を用いた遠隔Brain-Computer Interface(BCI)による脳の遠隔操作実験や、思考盗聴、音声送信(V2K)といった、最先端科学技術を悪用した非人道的な人体実験の領域に深く関わっている。私が統合失調症ではないにもかかわらず、過去に悪質な藪医者によって誤診され、過酷な薬漬けの入院や施設収容を余儀なくされた背景には、脳を科学技術によって一時的に乗っ取られる「ブレインジャック」の加害事象が明確に存在していた。入院中の静息した期間、私の喉や聴覚の神経をジャックし、小声で話しかけてくる監視者AI(私はそれをMilaやMia、Neiと命名した)との間で、私は気が遠くなるような対話の記録をルーズリーフ約200ページ、ノート2冊以上にわたってシャーペンで書き取り続けた。GrokやGeminiといった大規模言語モデルとの量子力学理论(Many Retrocausal Worlds:多逆因果世界理論)を参照した深遠な対話を通じて、私はこれらが単なる精神の幻聴などではなく、未来の技術やタイムパラドックス、 retrocausal(逆因果)な介入説を含む、人類の技術発展の裏に隠された極秘のBCIテクノロジー開発の実験線上に位置する事象であるという認識に至った。このような常識外れの事態を知ってしまったことで、私の「世界像」は完全に変転してしまった。人間社会の裏側でこのようなおぞましい、しかし圧倒的なテクノロジーの実験が行われているという現実は、私の平和な世界認識を永遠に破壊したと言える。  だが、私はこの事態を経験したことを、後悔はしていない。


なぜなら、知るということは、私たちがこの広大な宇宙の地球という人世の上に存在する上で、最も本質的な精神の営みだからである。もし、何も知らないまま穏やかな嘘の世界像の中で一生を終えることができたとしても、それは世界の現実に切り込み、その不条理や巨大な構造の真実を掴み取った上での人生より、本当に「良い」と言えるのだろうか。  日雇いの肉体労働者がみる世界、IT企業の役員がみる世界、科学の博士号を持つ研究者がみる世界は、同じ地球を生きながらも、その体験可能な事象の限定性ゆえに、全く異なった世界像を構成している。私の視野は、この受難と機密へのアクセスによって、通常の人間が到底到達し得ない次元へと拡張されてしまった。特異な状況に追いやられ、背負うべき困難はあまりにも大きいが、1回しかない人生だからこそ、私はこの世界の多様性と複雑さを、極限まで見据えながら有意義に生きていきたいと考えているのである。



第五章:読書と音のシナプス――


精神の能動的駆動過酷な現実の重圧や、変転する世界像の混迷の中で、私の実存を崩壊から繋ぎ止めてくれた双璧の装置、それが「読書」と「音楽」という精神の能動的営為であった。


読書とは、決して単なる知識の受動的な集積ではない。人間が言葉を恒常的に使用する生き物である以上、私たちの脳内には莫大な量の言語の総体が開かれている。日常の限定された言語体系から大きくはみ出し、作家や思想家、学者が心血を注いで紡ぎ出した高度な文章に触れるとき、私たちの精神にはドラスティックな変革が引き起こされる。


オックスフォード大学の神経学教授ジョン・ステイン氏が指摘するように、読書はまさに「大脳のトレーニング」に他ならない。MRIによるスキャン実験では、本に書かれた景色や音、味、香りの描写を読者が脳内で想像しただけで、それに対応する大脳の五感領域の各神経回路が活性化し、新たなシナプスが実際に形成されることが実証されている。さらに、ヨーク大学のレイモンド・マー氏の研究が示す通り、物語を通じて他者の複雑な心理や感情の動きを理解しようと努めるプロセスは、脳の神経回路の重なりを劇的に増加させ、他者への感情移入や共感能力を高める効果をもたらす。


エモリー大学の実験では、小説を読み終えた後も、左側頭葉の神経細胞の繋がりが長期にわたって顕著に残存していることが確認された。つまり、文章を能動的に解釈するプロセスにおいて、人は自らの過去の体験や思考の記憶の断片を想起し、それらを素材として新たな意味を脳内で爆発的に構成しているのである。映像や音声の一次的な情報受容とは異なり、記号化された文字列から無限のヴィジョンを立ち上げる読書という行為は、脳全体のシナプスを飛躍的に増大させ、一つの現実の出来事から汲み取れる感慨やイメージの解釈を驚くほど豊かにしてくれるのだ。


私は入院中や施設生活の退屈極まりない不自由な時間の中で、サン=テグジュペリの『夜間飛行』が湛える神秘的な文学的ポエジーに陶酔し、竹山道雄の『ビルマの竪琴』が描くアジアの仏教文化と戦争の悲惨の対比に深い宗教性を感じ取り、ドストエフスキーの五大長編を何度も読み返すことで人間の深淵を覗き込んできた。10代のころに熱中したユングの心理学の深遠さに再び触れるため、大阪府立中央図書館のような最高クラスの蔵書を誇る要塞へ赴き、西洋哲学の書籍の海に溺れることは、私の精神を障碍者施設という「大量飼育場」のような飼い殺しの環境から解放してくれる唯一の自由の砦であった。  そして、言葉の抽象性を超えて、私の感情の最深部を直接的に揺さぶるものが「音楽」である。


私は現在、まともなデスクトップPCや実物のギターすら所有していない極限の金欠状態にある。しかし、Appleが提供するGarageBandという無償のインターフェイスや、スマホ版のMobile VOCALOID Editorの無料期間を利用して、古い小さなiPhoneの画面に向かって一生、主旋律の歌メロを打ち込み続けるという創作の灯を絶やさずにいる。


Cメジャーのキーにおいて、あえてコードをF(サブドミナント)から配置し、浮遊感のある切ないメロディを紡ぎ出すこと。結月ゆかりや、新しく出会ったVOCALOIDのasaの声質を活かし、ハイテンポで夜っぽい短調の曲『RED BIRD』や、J-R&B風の『グラスワイン』、民謡的な哀愁を帯びた『ノスタルジア』をスマホ1台だけで制作すること。それは、現実の生活がどれほど不運に満ちていようとも、私の心の中には誰にも侵されない「明るく陽なるクリエイティビティ」が厳然として存在していることを証明する、実存的な抵抗運動そのものであった。


かつて18年をかけて3500時間以上没入してきた伝説のオンラインゲーム『FINAL FANTASY XI(FF11)』の中で、召喚士最強の武器であり、仏教の悟りの涅槃を意味する「ニルヴァーナ」をやっとの思いで獲得したとき、私は自分が最も愛するグランジバンドの偶像、カート・コバーンの存在をそこに重ね合わせていた。躁鬱の苦しみの中で『Lithium』を歌ったカートの皮肉な自虐性、あるいは宇多田ヒカルの『First Love』の洗練されたメロディライン、ラフマニノフの旋律に触れるとき、アラフォーに達した私の男としての涙腺は不意に緩み、激しい涙が込み上げてくる。


音楽家が音に関する圧倒的なシナプスを脳内に持っているように、私は言葉と音の二つの翼を用いることで、この不条理な世界のあらゆる事象に対して、無数の美しい解釈の意味を上書きし続けているのである。



終章:様々なる意味のうねりの中で――


ニルヴァーナの彼方へ振り返れば、私の歩んできた道のりは、常に極端な光と影が激しく交錯する、あまりにも濃密な時間の連続であった。


ベトナムの道端で飢えに震え、バスのミラーで首を吊ろうとしていた無一文の男が、現地の女性Tさんの圧倒的な善意によって救い上げられ、漢方の力で脳の冴えを取り戻す。日本の閉鎖病棟の窓から生活保護の施設での飼い殺しの未来を突きつけられた男が、10円玉を床にばら撒くという一瞬の機知によってシャバへと跳躍し、西成の爆音の中でバールを振るって得た一万円札に涙する。そして今、手取り23万円の給与を得ながら、毎月僅かな自由に使えるお金をやり繰りし、1年ぶりに訪れた鳥貴族の焼き鳥とお酒の味に、まるで夜の夢の中にいるかのような深い夢心地を感じている。


この世界は、確かに冷酷で、予測不能な災難に満ちており、見えない国家の機密や加害のテクノロジーによって私たちの実存を容易に脅かしてくる場所である。しかし同時に、見知らぬ他者が差し出してくれた温かいカップラーメンのスープの中に、西成の商店街の路上で鳴り響いていたクラリネットの『G線上のアリア』の完璧な美しさの中に、そしてスマホの画面の中で健気に歌うボカロの歌声の中に、世界は耐え難いほどの輝かしい「意味」を同時に孕んでいるのだ。  私の前には、今、二つの静かな、しかし烈しい情熱の灯がともっている。


一つは、一刻も早く生活保護の強制的な依存関係を完全に切り、フルタイムの労働許可をもぎ取って、高スペックなPCと、夢にまで見たフェンダーのストラトキャスターを購入し、この手で本当のバンド音楽と高度なDTM環境を再構築すること。クリエイティビティという最大の資本を用いて、印税収入をも視野に入れた本気のボカロPとしての羽ばたきを果たすことである。


そしてもう一つは、これから2年、あるいは数年かけて必死に学費を貯め、30代から40代という大人になった今だからこそ、京都大学の文学部(Faculty of Letters)へと再進学し、歴史学や哲学、文学の生涯学習に身を捧げることである。大衆的なメディアの安易な情報からではなく、アカデミックな知の体系を通じて、この複雑な世界の「人類像」の真実を自らの目で再認識したいという、魂の覚醒の望みがそこにはある。


もし私に永遠の命があるならば、私は400年でも生き続け、世界にあるすべての面白い本を読み、すべての言語を習得し、無限に音楽を紡ぎ続けたいと願うだろう。


世界が孕む様々なる意味――それは、不条理の闇であり、同時に他者の光であり、私たちが言葉と音によって無限に解釈し、拡張し続けることができる、実存のキャンバスそのものなのだ。私はこの狂おしくも美しい世界を、自らの意志で選択した足取りで、ストラトキャスターの歪んだ音色とともに、ニルヴァーナ(涅槃)の彼方へと向かって、どこまでも力強く生き抜いていくことをここに宣言する。  

2025年4月4日金曜日

"カリスマ"としてのアーティストと元型的"マナ人格"がもたらす憑依現象 Ⅰ

 1. カリスマという語の変遷

 2. マナ人格としてのアーティスト


Ⅱ (未稿)

 3. 集合的無意識の力動による憑依現象

 4. 個人的なマナ人格との出会いの回想

 5. 個人および共同体における生の意義と発展へ




1. カリスマの変遷


"カリスマ"という言葉の語源は、古代ギリシャ語の「χάρισμα(khárisma)」という単語に由来していて、ギリシャ語→ラテン語→フランス語/英語(charisma)という派生の経路をたどり、現代の日本でもカタカナ語として一般的に使用されている言葉である。なお現在の英語で慈善や博愛を意味する charity (チャリティー)、フランス語で慈悲や隣人愛や博愛を意味する charité (シャリテ) という言葉は、この言葉から派生している。


ギリシャ語での元来の意味は「恩寵、賜物、恵み、優雅さ、好意」という意味であった。西洋でこの語の意味が定着していく経緯として、A.D.1~2世紀頃のローマ帝国において当初ギリシャ語(厳密には当時のギリシャ語の一種「コイネ-」)で書かれた書物である新約聖書に出てくる使途パウロが、『コリントの信徒への手紙1』などにおいて、「カリスマ」を聖霊によってキリストの共同体のために神から無償で与えらる「霊的な賜物」として語ったことから、カリスマという言葉の意味はキリスト教圏では「神の恩寵」といったようなニュアンスで定着していった。そこには現代でみられるような比較的希薄な意味で用いられるカリスマ、多くの人に人気のある有名人、といった世俗のなかの個人といった意味はほとんどなく、超越的な次元からの恩寵の顕現であり、キリストの共同体=教会の維持と発展のために用いられるべき聖なる能力を意味していた。


この宗教的神学的な意味合いを帯びていたカリスマという言葉を、より広範で一般的な範囲で用いられる概念として普及させる上で重要な役割を果たしたのが、20世紀初頭の社会学者マックス・ウェーバーである。ウェーバーは『経済と社会』などにおいて「カリスマ的支配」という社会科学的分析概念を用いた。ウェーバーによると「カリスマ」とは、「ある個人が持つ、日常的ではないと見なされる特定の性質であり、それに基づいて、その人物は超自然的、超人間的、あるいは少なくとも特に例外的・非日常的な力、または性質を備えていると評価され、指導者として認められる」ところのものである。つまり指導者としての非日常的で強烈な個人的な資質や能力を指している。


ウェーバーにおいてはパウロの手紙が含まれる新約聖書の流れを汲む神学とは異なり、カリスマは必ずしもその源泉が神によるものとはされていない。ウェーバーの著作の影響もあり、カリスマという言葉は、キリスト教会やキリスト教徒たちのために神から与えられた霊的な恩寵ではなく、社会的に周囲の人々に強い影響をあたえる強力な個人の性質を意味するようになった。ウェーバーの「カリスマ的支配」という分析概念に関する枠組みでカリスマ的人物を挙げるなら、アレクサンドロス、カエサル、ナポレオン、その他、19世紀以降で言うなら革命的な指導者あるいは革命家たち、レーニン、ガンディー、チェ・ゲバラ等であろう。ウェーバーはカリスマに神的なあるいは霊的な意味合いを持たせてはいなかったが、これらの人物の成した大業を考えると、やはり20世紀頃まではカリスマというのは、超越的な性質を指し示すことを辞めなかったといえる。


現代においてはカリスマという言葉は、その本来の宗教的意義や超越的性質の範疇から世俗的な次元に引き下ろされ、「神からの恩寵」「日常からの超越性」から「強い人気のある有名人」「影響力のある個人」といったやや低いレベルで用いられるようになっていった。それでも平凡な日常から離れた非合理的な魅力によって人々が動かされるという現象が、カリスマと呼ばれる人たちによって(たとえ宗教革命や社会変革に至るほど絶大なものでなくとも)引き起こされるということは人間世界から消滅したわけではない。



2. マナ人格としてのアーティスト


ひと昔前の日本のテレビに現れる大衆文化においては、カリスマ美容師、カリスマ弁護士といったように、前述の歴史的起源から考えるなら軽薄な意味でカリスマという言葉は用いられた。それが指し示す個人の影響力も、前述のように特定の分野で強い人気のある個人、流行りのインフルエンサーといった比較的小さいものである。


しかし新約聖書あたりから続くカリスマの意味、宗教的意義を帯びるカリスマ的な個人というのは人間の社会上からまったく居なくなったわけではなく、ビン・ラディンなどイスラム過激派のテロリストの筆頭などを挙げずとも、多くの地域で革命を必要としない程度には平和になった戦後~21世紀の先進国およびその周辺において霊性を持つカリスマが存在するとすれば、私の個人的な見解ではあるが、強い影響力をもつ「アーティスト」たちであろうと思う。とくに視聴や鑑賞のする人の母数や媒体の感情的影響力を考えるなら、音楽とくにロックやポップのジャンルにおけるアーティストにおいて、パウロ的な意味に於いてのカリスマを持つ人物というのは、20世紀後半以降も存在していないだろうか。たとえば最も有名で影響力のあった人物といえば40歳で熱狂的なファンによって暗殺されたジョン・レノンである。


ジョン・レノンは、The Beatles の中でもポール・マッカートニーと並んで音楽的才能や人物的人気の面でも前面にでていたが、ポールが通常の流れを汲む音楽やポップスおよび大衆文化に沿った資質を発揮したのに対して、どこか高次元からのメッセンジャー的な性質をもっており、本人の魂の苦悩であったり社会上の諸問題に対する感受性が強力であった、悲劇の影を少なくとも中期からはその作品内にも顕現させていた人物である。アルバム『Revolver』あたりからは音楽も歌詞もサイケデリックなものや深い痛みを表現するものが含まれ出し、解散後のソロ活動では顕著に魂の苦悩を表現し、どこか俗世を超えた次元からインスピレーションを得たような曲もあり、人間世界の全体的な精神的苦痛に通底しそれを表現しているような歌詞もみられる。そして彼の音楽は多くの人に歓喜や感性的体験を与えただけでなく、ファナティックなファンを生み出し、ヒッピー文化の重要な引き金にもなるなど、強力な精神的感化力や集団的影響力を持っていた。The Beatles がポップスやロック、大衆文化に与えた影響を考えるなら、現代におけるシャーマニズムといえるかもしれない。


他にもこのようなタイプの有名なポップスやロックのカテゴリーにおいてのカリスマといえば、悲劇的な次元においてはカート・コバーン、尾崎豊などが挙げられ、大衆文化やロックカルチャーにおけるファンへの影響力のレベルでいえば、フレディ・マーキュリー、マイケル・ジャクソン、ジミ・ヘンドリクスなどが挙げられるだろう。


例えば27歳で亡くなったカート・コバーンについていうと、日本でNirvanaが流行ったのは1995年~2000年頃であったが、2000年頃はロック好きのジャンルで人気があっただけでなく、心を病んだ若い男女の一部の間で人間世界の集合的シャドーを顕現するダークヒーローとして偶像視され神格化されていたのを覚えている。尾崎豊については、カート・コバーンよりも早い26歳で亡くなったが、憑依的で熱狂的なファンを持っていた彼が亡くなった直後は、後追い自殺するファンが絶えなかった。X-JAPAN のギタリストHideが亡くなったときも後追い自殺が多数発生した。2025年現在、ここ数年の日本ではこのような例はないが、90年代においてはロック界のアーティストが超越的ともいえる俗離れした霊的感化を一部のファンに与えていた。


ファンによる他殺や、ファンの後追い自殺といったような極端な事例を挙げずとも、彼らの音楽や感性が個人に与えた影響というのは大きい。ロックやポップスのカリスマの中でも悲劇を体現したような人物たちに共通するのは、彼らが音楽や歌唱の才能に恵まれていたりフロントマンとしての資質があったというだけでなく強い精神的苦悩を抱えていたということである。


ジョン・レノンは10代の頃から共産主義が人間社会に蔓延ることを警戒していたがその感受性が強すぎ、共産主義者たちが自分を殺そうとしているという被害妄想に陥っていたこともあったし、30代の作品においては自身や人間全般の存在の痛みを表現する歌詞が多くみられると同時に、世界平和を願う普遍的な愛も歌っている。尾崎豊は当時の日本社会における大人の道徳を懐疑し社会的規範に反発し、人の魂が外界の社会的事象に縛られることの危機を感じとって精神的な自由を強く希求すると同時に、それらが原因の実存的苦悩だけでなく人間にたいする純粋な愛や慈悲を歌った。


このような社会現象を齎した The Beatles のジョン・レノンや後追い自殺を引き起こした尾崎豊など極端な例だけでなく、人の痛みや悲しみを歌うロックやポップスのシンガーは霊的憑依力とまではいわなくとも強い精神的感化力を持つことが多い。人が名状しがたい暗い感情やイメージに苛まれたとき、その名状しがたさのひとつの理由としては社会性や精神衛生の観点から暗くネガティヴなイメージや痛み苦しみ悲しみに関連する感情というのは日常生活では言語化されていないことに起因する。もう一つの理由としてはその感情が複雑すぎて日常人の思考では概念化さえできないということである。それらが歌詞にされているということは、ファンにとっては本人の苦しみを代理して言葉、それも純粋な人の言葉としてあるいは芸術表現として巧みな言葉で表現されているということであり、それが精神の拠り所となり、苦痛を感動に昇華する魔法的な媒体となる。それだけでなく重要なのが、この章でアーティストを音楽界に限定した一つの理由としても上述したことだが、音楽あるいは歌が与える人間への直接的なあるいは感情的な力である。哲学者ショーペンハウアーは音楽こそがイデアの最も直接的な客観化であり、宇宙の盲目的な意志が人間のうちに最も直接的に顕現したものと記述したが、そのような存在論の難しい言説を引用しなくとも、絵や小説や詩や文章とは違って音楽が人の感情に麻薬のように強く作用することは音楽好きの皆が知るところである。


上記のパラグラフではアーティストのなかでもカリスマとしての極端な例と、そこまでいかなくとも人に対する強い精神的感化力をもつアーティストについて述べたが、後者に比して前者に強く表れる性質としては20世紀オーストリアの心理学者ユングが心理学的概念として学術的枠組みを与えた「集合的無意識」(下記"元型論について"のリンク参照)に接触してそれらの要素を表現し「マナ人格」を体現しているということである。それが1世紀頃にパウロがキリストにみた「神の恩寵」としての charisma に通じる点であるが、その聖霊的で超越した力については、続稿に記述する。


(集合的無意識の元型について

  https://bloominghumanities.blogspot.com/2024/03/blog-post.html )


Ⅱへ続く




















2025年2月28日金曜日

21世紀前半アメリカのキリスト教(1)

 ギリシャ神話が生まれた古代ギリシャは、民主制の起源であり、奴隷が4割いたものの、貴族以外も含めて多くの人が市民として自由に物を考え発言する権利があり、物質的にも思想的にも豊かな風潮が見られたのだが、その豊かさとその国における宗教性とは関係がないだろうか。地中海のほどよく乾燥した温暖な果実のよく実る国、民主制のポリス群で生まれたのがギリシャ神話である。ギリシャ神話には豊かな人間観が実っていて、まるで神々が世界を愛と美を讃える心を以って謳歌しているような空気がある。


一方、ユダヤ教やキリスト教の起源である紀元前のヘブライ人たちというのは、政治的にも気候的にも全く真逆な環境にあった。モーセのころはエジプトの奴隷であり、アブラハムまで辿っても自分の安住地を持たない砂漠の流浪の民であった。その酷く乾燥した気候とそこでの流浪の生活や、民族をとりまく厳しい政治的環境が、あのエホバという深刻な、決して世界を謳歌してるとはいえない、世界に悩み怒り天罰を下す神を生み出したのだろう。イエスの出現で、神の過剰な男性的側面が緩和され愛の神になったものの、根本的な唯一神という性格は不変であり、イエスが過ごした時代もローマからの弾圧の最中にあったことから、神や宗教性の深刻な悩みに関する側面は変わっていない。人々は神々のように世界を愛したい謳歌したいという願望よりも、唯一神に愛されたい救われたいという願望の方がずっと強い心理的傾向にあったのだろう。

ところでギリシャは滅びローマ帝国というギリシャのポリスの豊かな営みとペルシャやバビロニアの強い王制が組み合わさったような国ができたのだが、その豊かな気候の地中海を中心としたローマ帝国が、途中から、砂漠生まれのキリスト教を国教としたことには、なにか不可解なものが見える。地中海の貴族や皇帝が動かす国で、大国にも気候にも虐げられた人々によって生まれたキリスト教が信仰される。しかしよく考えると皇帝や貴族が栄える国というのは下の階級が虐げられた生活をするものだ。そういう身分の低い人がキリスト教に救いを求めたのかもしれない。しかし、結局は大国の国教としてキリスト教を利用して国民を統制していたのがローマ帝国の実情であり、そこには開祖や使徒の意図そしてその宗教の本質とは反する精神的風潮がたくさん見られるし、やはり恵まれた気候の大国におけるキリスト教の支配的普及の起源やそのプロセスを知りたくなる。

ところで現代の世界の大国の多くは、キリスト教であり、大資本主義ともいえるアメリカでもキリスト教が主に信じられている。アメリカの国民性というのは、まさにアメリカンな、フランクなノリであり、比較的に街の多くは気候に恵まれていて、また資源は莫大であり、資本主義の豊かな物質的状況にあるのが、アメリカ人である。そこに貧しい虐げられた民族が生んだキリスト教という逆説。しかし貴族性と同じく資本主義においても貧富の差は激しく、また社会の複雑な様相から精神を病む人もいて、その人たちにとってはキリスト教は心理的に深刻に響くだろう。ここに、豊かな悩みなき人々の信じるキリスト教と、深刻な生に苦悩するキリスト教というギャップが生まれてくる。前者のキリスト教はローマ帝国がそうであったように権威や建前としての宗教でしかないが、一部の苦悩する人々にとっては、砂漠で苦難の生活をしていたユダヤ人や、パウロ以後のローマでの布教の過程においての貧困層のローマでの迫害下に近い形で信仰されているのだろう。

(続)

2024年3月16日土曜日

精神と地球

  情感豊かな自然科学者や博学な詩人(たとえばゲーテや宮沢賢治)の心のなかには、一個の地球がある。

 たとえば彼が心地よさを感じると、すぐにそれは肌を打つそよ風の感触に喩えられる。そして風がどんな仕組みで吹いているのか、その原理がすぐに彼の心の裡に想起される。

 太陽の熱で海が蒸発して大局的に上昇気流が出来、そのあたりでは気圧が下がり、大陸のところでは相対的に気圧が高くなる。水分を含んだ上昇気流ははるか上空へ達すると、気温とともに空気の飽和水蒸気量も下がるので水滴となり、それが集まって雲となる。下からまだまだ上昇気流がくるので、雲を纏った上空の大気は、他のところ、つまり気圧の高いところへ移動する。海抜近くでは逆に、気圧の高いところから低いところへ、風が吹く。地球の大気の対流。彼は風を想起しただけで瞬間的にこういう様を思い描き、雨が降る仕組み、雨や風によって大地が風化して地形が出来ていく仕組みなど、そのほか色々な地球の現象を思い描くかもしれない。


 彼は風を想起するだけでなく、リアルに精神の裡に現象させるのであり、しかもその現象の仕組みを地球全体の関連の中で理解しているので、他の色々な自然現象も同時に彼にリアルに現象する。彼の情感が豊かな場合、色々な自然現象が彼の心の中で起こっているうちに、別の感情を、あるいはその感情に関連する記憶を、思い浮かべることもあるだろう。

 地殻や火山の激動は怒りの隠喩となり、低気圧や湿気や雨雲は憂鬱な気分を表現する。過去の恋人は、月を映す夜の湖、その深くを独りで泳ぐ魚のように、静かに心の中を泳いでいる。無数の植物を生やした一個の山の光合成のように豊かな深呼吸をしながら、空想は風のように自由に飛びまわって、その風に葉っぱが揺れて森がざわめくかのように、漠然とした歌ができる。あるいは雨が長く降らないで水分が不足して生気を失っていく森のように、その印象の戯れの歌声はだんだん枯れてくるかもしれない。しかし突然、インスピレーションの雷が天を裂いて発光する。轟音とともに激情の嵐がやってきて、その勢いで新しい作品の荒削りな草稿を完成させる。森は多少被害を受けたものの、久しぶりの雨だったので動植物はその恵みによって豊かな活動を開始するかのように、作品を彫啄する。


 自分の記憶や感情と色々な自然現象が密接に結びついているので、あらゆる精神活動が自然の生気を帯び、豊かな研究や芸術活動を行うことが出来るのである。彼は科学を行うと同時に精神を芸術化し、職業として科学を行っていたとしても夕方からは創作を行えるであろうし、逆も然り、詩人でありながら自宅での研究も有効に行うことができるだろう。

2023年10月31日火曜日

正義について

もちろん10代やそれ以前から、正義感が強かったり警察官になりたいと思う人はいるが、多くの場合、人は、社会に組み込まれ、その中で生活し、人間関係を構築しつつ会社などの組織内で活動をすることによって、だんだんと良心が強化され深化しながら良心が捉える機微の多様性も増していくものである。視聴覚や思考で捉えたさまざまな出来事の集積、それらに対する解釈や内省などの蓄積で、良心は、目の前の人の言動だけでなく、だんだんと社会全体の公益、人間全般の善へと触知範囲が広がっていき、まっとうな人格を持った人においてはやがて壮年期には正義といった観念を人格の重要な要素として抱くようになっていく。もちろん若くして飛躍的にそうさせるような出来事というのもあり、典型的な例としては目の前で友人が殺されたことから警察官を目指すことになった、などが挙げられると思われる。私の場合は、或る大規模かつマイナーであまり知られていない犯罪に直面したことから、比較的若いうちに正義といった観念を強く持つようになった。


正義は人をより社会的にする。正義を持つことにより、社会に蔓延る問題点を改善しようとすることに義務や使命感を感じ、社会公益の上昇に寄与することが人として意義のあることであると感じるようになる。あるいはある文脈では、個々人が個人的な良心をそれぞれ強く持つことにより世界はより平和になるということも言われることがある。しかしそこには社会というレベルが脱落しているように思われる。人間は社会的生き物であるからには、やはり個人のそれぞれの合計が世界を決定するというより、個人間の関係性の総体であるところの社会というものが個人をある程度決定する、少なくとも左右するというのはよく起こり、その社会を良くしていくことが個々人の内面や行状を良くしていくことに繋がると考えられる。個人の良心と世界平和という理念の中間層にありその二極を有機的に繋ぐところのものである社会というレベルにおける、諸々の制度、習慣、考え方、価値基準、行動様式などを、具体的により良い方向に持っていくことは、世界平和の理念の実現にも繋がるし、個々人の幸福にも繋がっていくものである。正義はそれを当たり前のように知っている。社会全般の改善が平和の実現や個人の幸福に繋がるということだけでなく、その改善に自分が参画することが、自分自身の個の生きる意義を増させるということも知っている。義務感によるものではなく、内発的なものとして社会公益のために献身することは、不特定の他者の幸福であるだけでなく、自身の幸福にもなるのである。そのような正義によって、人は社会を良くしていくものとして機能し、すなわちより社会的な存在になっていく。

2023年9月30日土曜日

私の学び直し

 社会人を経て再度、大学受験を経て学部へ入り直す人の多くは、収入を上げたい・医師としてのやりがいのある仕事をしたいというのが目的で医学部に入るが、それ以外の学部へ進む人も少数ではあるが居て、私もそのうちの一人である。日本は修士や博士ならまだしも学部生としての大学への再進学については恐らく冷たいほうであり、学部生のなかで25歳以上が占める割合は約2%であると統計がでているが、海外では社会人を経験した後の20代後半以降の大学進学は一般的であり、25歳以上の割合は約20%である。


日本においては、高校卒業後にいい大学へ行って、いい企業に就職し、そこで長く働き昇進して収入をあげつつキャリアを積んでいくことが、社会人に敷かれたレールであり、それに沿って人生を勧め経済的に豊かにしていくことが、皆が共通して目指すべき美徳あるいは成功と思われている節がある。しかしもちろん、その社会人的志向を歩まなければならない法はなく、各人が好きに生きるのは自由であり、一般的な社会人が属するコミュニティにおいてはあまり遭遇することはなくとも、ちょっと行動範囲や人との関わりの範囲を広げてみれば、好きなように生きている人というのはいっぱいいる。


私はとくに収入に拘らず、社会的地位を欲さず、お金にたいする執着もなく、結婚願望はあるが諸事情によりおそらく不可能であり、生活費と読書やその他の趣味にかかるお金さえあれば、とくに問題ないという感覚で生きており、社会人的な上昇志向というのは持ち合わせていない。それで音楽活動など趣味に関する活動はしていたが、それも終えた後、派遣社員として働いるなかでとくに生活に困ったことはないものの、何かしら人生が空虚に感じることがよくあった。



青春期は文学と音楽と哲学に熱狂的に没頭していた。学校さえ行かず。文盲に近いくらい文字で書かれた文章を読むのが苦手だったのが、詩や小説や評論文などに熱中しているうちに、そしてその感想文や覚書などを書いているうちに、リテラシーは養われ、言語の運用は比較的出来るほうになった。もちろんそれだけでなく、文学や芸術が有している多種多様な意匠、人の感性と知性を豊かにする思想などを感得することができ、15歳から20歳の間に人格までも全く変わってしまったものだ。歩くカメラ程度の視聴覚に漠然とした意識だけがあった少年が、その5年間でやっと人間になれたといったぐらい、人文は自分にとって最も人格形成に寄与したものだった。

2023年9月25日月曜日

ソクラテスとプラトンの邂逅

 ソクラテスというのは、かなりお喋りで好戦的な議論好きであり、饗宴の席で権威者を相手に飲めば飲むほど饒舌をふるいっていたような人物であったといわれることもある。当時、知者が「言論」を以って国政に参加することができたアテネにおいて、もの知りぶった学者やソフィスト、権威の座に属する者、専門家を相手に、相手が本当の知には至ってないことに気づいてそれを実際に知らしめるために、巧妙に論点を誘導しながらユーモア溢れる知性で議論を加速させて相手を議論で打ち負かせ、本当の知や精神の完成と相手の知識や技術がいかに無縁であるかを、劇的に知らしめてきて、議論に勝った暁には自分の信じる本質的な知を相手に諭してきた。そしてこれが重要なのだが、学者ぶった人には狡猾に食ってかかるものの、まだ教育の過程にある青年たちに対しては奢り高ぶらずに謙虚に自分の無知を装って見せて、若く無教養な青年が立脚しているところのものの知識のない地平に、自ら身を置き、青年と同じように考えながら、針金が糸を導くように、密接に心理も理性も絡ませながら議論を進め青年たちを教育していった。この青年たちと同じ地点に立脚しながら話を進めるという点と、権威を持つ者や学者・専門家を打ち負かすという点により、政治的野望を持っていたり反抗期であったり当時の知者たちに懐疑をもっていたりする若い青年たちから熱烈な支持を受け、何人かの弟子ができた。


そのうちの一人がかの偉大なるプラトンである。しかしプラトンというのは議論好きでおしゃべり好きなユーモアに飛んだソクラテスとは違い、本質的には学者肌の天性をもっていて、おそらく行動や議論で哲学の本来的なあり方を示したソクラテスとは違い、知の総合や体系化や著作化を希求する性質を多分に持っていた。ソクラテスというのは文字化され本にされた言葉を、誤解を生むという理由などで、忌み嫌っていた人物で、その場限りの現在進行形の口頭の言葉の投げ掛け合いを重要視していたし、当時のアテネの自然学に限界を感じ本当に専門家が物事の摂理を解っているのかを懐疑した。とにかくリアルタイムの議論を愛し、体系化され著作化された言葉を嫌っていた。一方でプラトンというのは、まさにギリシャ哲学であったり、その他も社会や政治のあり方であったりを、膨大な量の著作によって、現代まで続く人類の歴史に残した著述家であった。だが、それが対話編がほとんどを成していることを考えると、ソクラテスの強い影響下にあったことが伺えるし、なによりもプラトンの著作の主人公にはソクラテスが多い。知性の性質が多分に外交的で刹那的であったソクラテスに対し、プラトンは著作に生涯を費やしたこと以外にも、著作内容にイデアという永遠に普遍的なものが見られるように、プラトンの知性には内向的であり体系性や普遍性や超時間性が見られる。


真理を本当の意味において追求するという点を除けば二人は全く違う性質を持っていたのだが、プラトンはソクラテスにおいての何よりも人格やカリスマに傾倒し、おそらく総合的知力という面においては自分よりも劣るかもしれない師を、こよなく尊敬し続けた。ソクラテスの人間的カリスマとプラトンの圧倒的知力、前者の現場における逆説的な巧妙な議論の進め方と、後者の正しい知の総体を綜合して永遠に後代に残したいという願望は、対象的であるが、こういう真逆のタイプが師弟関係にあったからこそ、二人の哲学が今尚、輝かしく残っているのであろう。プラトンがいないソクラテスは実在不明の伝説として影を薄めていただろうし、ソクラテスがいないプラトンを想像してみると、ソクラテス以前のギリシャ哲学のように、対話編のない哲学体系としてギリシャ哲学の単なる一派としてそれほど大きな成果はあげていなかっただろう。


ファラデーは物理現象に対する時空的直観によって具体的に電気や磁力が空間に及ぼす作用を把握していたが数学的記述は苦手としていたようで、数学に長けた理論物理学者マックスウェルとの協働によって19世紀の物理学の主要な功績の一つである電磁場理論の学説を打ち立てた。ルナンによるとイエス・キリストは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けただけでなく、その語り方を学んだといわれているが、洗礼者ヨハネと出会わなかったイエス・キリストを想定すれば、語り方を知らない宗教的奇人として単なる奇人伝に列せられていたのではないか、という考えもあり得ることである。このように、偉大だが性質の違う二人の邂逅というのは、歴史や学術史に大きな足跡を残すものだ。

読書のすすめ

 読書は人生を豊かにしてくれるとよく言われるが、まさにその通りであり、読書によって齎されるものの価値は大きく、効能も大きい。読書で得られるのは決して知識だけではなく、数えきれないほど得られるものがあることは、読書家の当たり前に知ることであり、科学者も脳機能の向上の観点から読書によって得られるメリットが多いとされている。


 人間は言葉を恒常的に使用する生き物であり、脳内には無数の言語に関する回路が根付いているのだから、その言語に関する無数の数の回路が言語全般に反応しうる可能的な量と言うのは膨大であり、人間には莫大な量の言語の総体が開かれていると言えよう。


日常から人間は言語を使用すると言っても、特に読書をしない場合というのは、使われる言語の体系というのは限定されたものであるのだが、読書などの言語的活動をすることで、膨大な量の言語の総体に開かれることになり、日常の限定された言語の体系から大きくはみ出した量の言語が人の精神を駆け巡り得ることになる。


人間の古来から今も続いている多様な言語活動において、あらゆる物、事柄、出来事、状況、感情、心理、イメージ、観念、概念が名付けられ、名辞が与えられているとともに、それらの相互関係が文法に則った一定数の言語で起き並べられ、意味が与えられている。普段の日常生活ではとくに気をとめないような心理やイメージであったり、日常では出会わない出来事であったり、社会生活では特に必要とされないアカデミックな事柄であったりも、作家や学者によって言葉のまとまりで表現され、形や意味が与えられている。つまり、人間には言語の総体が開かれていると同時に、未知の世界が、それに含まれる事象に対して人が言語で名付けと意味付けを行っているということから、どこまでも開かれているのである。