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2025年4月4日金曜日

"カリスマ"としてのアーティストと元型的"マナ人格"がもたらす憑依現象 Ⅰ

 1. カリスマという語の変遷

 2. マナ人格としてのアーティスト


Ⅱ (未稿)

 3. 集合的無意識の力動による憑依現象

 4. 個人的なマナ人格との出会いの回想

 5. 個人および共同体における生の意義と発展へ




1. カリスマの変遷


"カリスマ"という言葉の語源は、古代ギリシャ語の「χάρισμα(khárisma)」という単語に由来していて、ギリシャ語→ラテン語→フランス語/英語(charisma)という派生の経路をたどり、現代の日本でもカタカナ語として一般的に使用されている言葉である。なお現在の英語で慈善や博愛を意味する charity (チャリティー)、フランス語で慈悲や隣人愛や博愛を意味する charité (シャリテ) という言葉は、この言葉から派生している。


ギリシャ語での元来の意味は「恩寵、賜物、恵み、優雅さ、好意」という意味であった。西洋でこの語の意味が定着していく経緯として、A.D.1~2世紀頃のローマ帝国において当初ギリシャ語(厳密には当時のギリシャ語の一種「コイネ-」)で書かれた書物である新約聖書に出てくる使途パウロが、『コリントの信徒への手紙1』などにおいて、「カリスマ」を聖霊によってキリストの共同体のために神から無償で与えらる「霊的な賜物」として語ったことから、カリスマという言葉の意味はキリスト教圏では「神の恩寵」といったようなニュアンスで定着していった。そこには現代でみられるような比較的希薄な意味で用いられるカリスマ、多くの人に人気のある有名人、といった世俗のなかの個人といった意味はほとんどなく、超越的な次元からの恩寵の顕現であり、キリストの共同体=教会の維持と発展のために用いられるべき聖なる能力を意味していた。


この宗教的神学的な意味合いを帯びていたカリスマという言葉を、より広範で一般的な範囲で用いられる概念として普及させる上で重要な役割を果たしたのが、20世紀初頭の社会学者マックス・ウェーバーである。ウェーバーは『経済と社会』などにおいて「カリスマ的支配」という社会科学的分析概念を用いた。ウェーバーによると「カリスマ」とは、「ある個人が持つ、日常的ではないと見なされる特定の性質であり、それに基づいて、その人物は超自然的、超人間的、あるいは少なくとも特に例外的・非日常的な力、または性質を備えていると評価され、指導者として認められる」ところのものである。つまり指導者としての非日常的で強烈な個人的な資質や能力を指している。


ウェーバーにおいてはパウロの手紙が含まれる新約聖書の流れを汲む神学とは異なり、カリスマは必ずしもその源泉が神によるものとはされていない。ウェーバーの著作の影響もあり、カリスマという言葉は、キリスト教会やキリスト教徒たちのために神から与えられた霊的な恩寵ではなく、社会的に周囲の人々に強い影響をあたえる強力な個人の性質を意味するようになった。ウェーバーの「カリスマ的支配」という分析概念に関する枠組みでカリスマ的人物を挙げるなら、アレクサンドロス、カエサル、ナポレオン、その他、19世紀以降で言うなら革命的な指導者あるいは革命家たち、レーニン、ガンディー、チェ・ゲバラ等であろう。ウェーバーはカリスマに神的なあるいは霊的な意味合いを持たせてはいなかったが、これらの人物の成した大業を考えると、やはり20世紀頃まではカリスマというのは、超越的な性質を指し示すことを辞めなかったといえる。


現代においてはカリスマという言葉は、その本来の宗教的意義や超越的性質の範疇から世俗的な次元に引き下ろされ、「神からの恩寵」「日常からの超越性」から「強い人気のある有名人」「影響力のある個人」といったやや低いレベルで用いられるようになっていった。それでも平凡な日常から離れた非合理的な魅力によって人々が動かされるという現象が、カリスマと呼ばれる人たちによって(たとえ宗教革命や社会変革に至るほど絶大なものでなくとも)引き起こされるということは人間世界から消滅したわけではない。



2. マナ人格としてのアーティスト


ひと昔前の日本のテレビに現れる大衆文化においては、カリスマ美容師、カリスマ弁護士といったように、前述の歴史的起源から考えるなら軽薄な意味でカリスマという言葉は用いられた。それが指し示す個人の影響力も、前述のように特定の分野で強い人気のある個人、流行りのインフルエンサーといった比較的小さいものである。


しかし新約聖書あたりから続くカリスマの意味、宗教的意義を帯びるカリスマ的な個人というのは人間の社会上からまったく居なくなったわけではなく、ビン・ラディンなどイスラム過激派のテロリストの筆頭などを挙げずとも、多くの地域で革命を必要としない程度には平和になった戦後~21世紀の先進国およびその周辺において霊性を持つカリスマが存在するとすれば、私の個人的な見解ではあるが、強い影響力をもつ「アーティスト」たちであろうと思う。とくに視聴や鑑賞のする人の母数や媒体の感情的影響力を考えるなら、音楽とくにロックやポップのジャンルにおけるアーティストにおいて、パウロ的な意味に於いてのカリスマを持つ人物というのは、20世紀後半以降も存在していないだろうか。たとえば最も有名で影響力のあった人物といえば40歳で熱狂的なファンによって暗殺されたジョン・レノンである。


ジョン・レノンは、The Beatles の中でもポール・マッカートニーと並んで音楽的才能や人物的人気の面でも前面にでていたが、ポールが通常の流れを汲む音楽やポップスおよび大衆文化に沿った資質を発揮したのに対して、どこか高次元からのメッセンジャー的な性質をもっており、本人の魂の苦悩であったり社会上の諸問題に対する感受性が強力であった、悲劇の影を少なくとも中期からはその作品内にも顕現させていた人物である。アルバム『Revolver』あたりからは音楽も歌詞もサイケデリックなものや深い痛みを表現するものが含まれ出し、解散後のソロ活動では顕著に魂の苦悩を表現し、どこか俗世を超えた次元からインスピレーションを得たような曲もあり、人間世界の全体的な精神的苦痛に通底しそれを表現しているような歌詞もみられる。そして彼の音楽は多くの人に歓喜や感性的体験を与えただけでなく、ファナティックなファンを生み出し、ヒッピー文化の重要な引き金にもなるなど、強力な精神的感化力や集団的影響力を持っていた。The Beatles がポップスやロック、大衆文化に与えた影響を考えるなら、現代におけるシャーマニズムといえるかもしれない。


他にもこのようなタイプの有名なポップスやロックのカテゴリーにおいてのカリスマといえば、悲劇的な次元においてはカート・コバーン、尾崎豊などが挙げられ、大衆文化やロックカルチャーにおけるファンへの影響力のレベルでいえば、フレディ・マーキュリー、マイケル・ジャクソン、ジミ・ヘンドリクスなどが挙げられるだろう。


例えば27歳で亡くなったカート・コバーンについていうと、日本でNirvanaが流行ったのは1995年~2000年頃であったが、2000年頃はロック好きのジャンルで人気があっただけでなく、心を病んだ若い男女の一部の間で人間世界の集合的シャドーを顕現するダークヒーローとして偶像視され神格化されていたのを覚えている。尾崎豊については、カート・コバーンよりも早い26歳で亡くなったが、憑依的で熱狂的なファンを持っていた彼が亡くなった直後は、後追い自殺するファンが絶えなかった。X-JAPAN のギタリストHideが亡くなったときも後追い自殺が多数発生した。2025年現在、ここ数年の日本ではこのような例はないが、90年代においてはロック界のアーティストが超越的ともいえる俗離れした霊的感化を一部のファンに与えていた。


ファンによる他殺や、ファンの後追い自殺といったような極端な事例を挙げずとも、彼らの音楽や感性が個人に与えた影響というのは大きい。ロックやポップスのカリスマの中でも悲劇を体現したような人物たちに共通するのは、彼らが音楽や歌唱の才能に恵まれていたりフロントマンとしての資質があったというだけでなく強い精神的苦悩を抱えていたということである。


ジョン・レノンは10代の頃から共産主義が人間社会に蔓延ることを警戒していたがその感受性が強すぎ、共産主義者たちが自分を殺そうとしているという被害妄想に陥っていたこともあったし、30代の作品においては自身や人間全般の存在の痛みを表現する歌詞が多くみられると同時に、世界平和を願う普遍的な愛も歌っている。尾崎豊は当時の日本社会における大人の道徳を懐疑し社会的規範に反発し、人の魂が外界の社会的事象に縛られることの危機を感じとって精神的な自由を強く希求すると同時に、それらが原因の実存的苦悩だけでなく人間にたいする純粋な愛や慈悲を歌った。


このような社会現象を齎した The Beatles のジョン・レノンや後追い自殺を引き起こした尾崎豊など極端な例だけでなく、人の痛みや悲しみを歌うロックやポップスのシンガーは霊的憑依力とまではいわなくとも強い精神的感化力を持つことが多い。人が名状しがたい暗い感情やイメージに苛まれたとき、その名状しがたさのひとつの理由としては社会性や精神衛生の観点から暗くネガティヴなイメージや痛み苦しみ悲しみに関連する感情というのは日常生活では言語化されていないことに起因する。もう一つの理由としてはその感情が複雑すぎて日常人の思考では概念化さえできないということである。それらが歌詞にされているということは、ファンにとっては本人の苦しみを代理して言葉、それも純粋な人の言葉としてあるいは芸術表現として巧みな言葉で表現されているということであり、それが精神の拠り所となり、苦痛を感動に昇華する魔法的な媒体となる。それだけでなく重要なのが、この章でアーティストを音楽界に限定した一つの理由としても上述したことだが、音楽あるいは歌が与える人間への直接的なあるいは感情的な力である。哲学者ショーペンハウアーは音楽こそがイデアの最も直接的な客観化であり、宇宙の盲目的な意志が人間のうちに最も直接的に顕現したものと記述したが、そのような存在論の難しい言説を引用しなくとも、絵や小説や詩や文章とは違って音楽が人の感情に麻薬のように強く作用することは音楽好きの皆が知るところである。


上記のパラグラフではアーティストのなかでもカリスマとしての極端な例と、そこまでいかなくとも人に対する強い精神的感化力をもつアーティストについて述べたが、後者に比して前者に強く表れる性質としては20世紀オーストリアの心理学者ユングが心理学的概念として学術的枠組みを与えた「集合的無意識」(下記"元型論について"のリンク参照)に接触してそれらの要素を表現し「マナ人格」を体現しているということである。それが1世紀頃にパウロがキリストにみた「神の恩寵」としての charisma に通じる点であるが、その聖霊的で超越した力については、続稿に記述する。


(集合的無意識の元型について

  https://bloominghumanities.blogspot.com/2024/03/blog-post.html )


Ⅱへ続く




















2024年11月10日日曜日

グノーシス主義について

・グノーシス主義について

グノーシス主義とは、ユダヤ教の精神的な感化力が衰えてローマ帝国の戒律としての宗教になってしまい、人々の精神的欲求が彷徨し新たな宗教を求めていた時代、つまり1世紀ちょうどキリスト教が出来たくらいの時代に、ヘレニズム時代の思想やシンクレティズム(複数の宗教が個別的に現象している状態)のなかで生まれた神秘主義である。

宗教というのは、出来た当初はその象徴体系が人々の心理に具体的に機能して精神的な源泉と人の心を繋ぐ役目を果たすものなのだが、だんだん信者が増え時が経つにつれ、ある国や組織のイデオロギーとして利用されることがある。例えばイエス・キリストは、ローマ帝国による圧政や、パリサイ派などにおける形骸化した戒律の裡に、ユダヤ教が象徴体系として人々に息づく精神的価値を喪失していたことを見射抜いていただろう。そしてある種の人々は、精神性への欲求をもつことになる。結果、既存の宗教にとらわれない新しい宗教を人々は求め、西暦の初めのころ、小規模の新興の宗教がたくさん誕生した。その新興の宗教の中でも後に残って大規模なものへと発展していったのが、キリスト教とグノーシス主義なのである。

この二つの大宗教および大神秘主義には、共通点もあれば相違点もある。ユダヤ教パリサイ派、つまりローマ帝国の圧政が強制する過酷な世界において人々を戒律的なユダヤ教が、強制的に与える「現実」への対抗として、イエス・キリストは"革命"の旗を掲げ、グノーシス主義は"精神"を希求した両者ともに反現世的でまた禁欲を勧めるという点で、共通している。出来た当初は、当時のユダヤ教との対置性において共有するものも多く、互いに要素を交換することも多く、時が立つにつれて両者は対立していくことになる。グノーシス主義は3~4世紀に特に地中海地方で勢力をもち、マニ教の母胎となった。マニ教とともに東方にもその勢力を拡大していくのだが、やがてキリスト教から激しく批判されることによって勢力が衰退していくことになる。批判されたのは、グノーシス主義は、ローマ帝国の支配下の世界にそれに対立したものとして生まれたという点と反現世的禁欲的だという点、そして精神性の体現を求めるという点を除いて、多くの点でキリスト教と対立しているからである。反キリスト教的であるということがなるにつれて、キリスト教の教父エイレナイオスや著名な神学者アウグスティヌスらによって長い間批判され続け、ほとんど根絶やしにされてしまう。中世もキリスト教に対抗する神秘主義や錬金術などが生まれるが、代表的には魔女狩りとして、そういう神秘主義はグノーシス主義と同じようにキリスト教から排除され、強い勢力を保つことはなかった。しかし20世紀になってグノーシス主義をはじめ神秘主義や錬金術に精神的な価値を見出して再解釈したのが、ユングである。


・グノーシス主義の特徴。反宇宙論。二元論。反キリスト教。

まずグノーシス主義の大きな特徴は、この世を最初から「悪」だと断言的に定義しているところである。現世で営まれる人間の生がこれほど悲惨で苦悩にみちたものであるのは、この世そのものがそもそも悪でしかないからである、グノーシス主義者はそう考えた。このことは「反宇宙論」と呼ばれることもある。グノーシス主義にとっては、だから、この宇宙を創造した者、つまり造物主は悪だということになる。実際、グノーシス主義の神話においては、現世はヤルダバオトという悪神が創造したことになっている。そして、悪である現世に対し、天上界が絶対的な善だとされ、グノーシス主義の子孫ともいうべきマニ教と同様に、グノーシス主義は善悪二元論である。これは、悪の実在を否定し、闇が光の欠如であると同様に悪とは単に善の欠如でしかない、というキリスト教とは真っ向から対立する。キリスト教の造物主は神であり絶対善である。キリスト教が反現世的だといっても、それは俗世に対して反発しているのであって、宇宙があること、宇宙の創造、宇宙の創造主に対して反発しているわけではない。この宇宙そのものが悪なのでは決してなく、というよりキリスト教は悪の実在そのものを否定していて善の欠如の状態を悪あるいは罪とするのであり、キリスト教にとっては、人間が生まれつき原罪を背負っているので、その人間が営むあくまで俗世に罪があるとしているのである。


同じ現世否定だけれどもここは両者の大きな違いでもある。グノーシス主義のほうが全体的に、現世否定の心理はキリスト教の場合よりも激しい印象をうける。また、現世否定なだけでなく、あからさまにキリスト教を否定し対抗しているところもたくさんある。たとえば、アダムとイブと誘惑の蛇の神話についてがそれである。グノーシス主義もキリスト教も、ユダヤ教旧約聖書の神話を使っている。キリスト教は、グノーシス主義に比べればユダヤ教の色合いが強い宗教であり、そもそもイエスは当時ローマ帝国のイデオロギーによって歪められてしまっていたユダヤ教の神の、本来あるべき真の姿をあの聖なる比喩表現や反語で表現したかったのであり、旧約聖書に書かれた予言や格言などを何度も宣教の旅の中で何度も引用して教えを説いているし、キリスト教には旧約聖書の冒頭あたりにある失楽園の神話もそのまま使われ、その通りの意味のままである。しかし、グノーシス主義は、あのイブが食べてはいけない知恵の実を食べてしまう神話を使いながらもその意味を逆転的に価値転換している。ユダヤ-キリスト教においては、理想郷であるエデンの園に住むアダムとイブは、神からの命令で、善悪の知恵の木になる実を食べてはいけないとされていたのだけど、悪魔サタンの遣いでる蛇にイブが誘惑されその実を食べてしまい、善悪の知恵の樹の実だけでなく生命の樹の実まで食べられることを神は恐れ、二人をエデンの園の外へと追放した、ということになっている。そして神は生命の樹の実を守るため(なぜなら知恵の実と生命の実を両方食べた存在は神に等しい存在になるから)、エデンの東に剣の炎と怪物を置き、外からの進入を防ぐ。(ちなみにアニメ新世紀エヴァンゲリオンでは、使途がおよそこの怪物にあたり、知恵の実つまり科学を得た人が、生命の樹に触れて神的な存在となるのを防ぐ役目を背負っている)。一方、グノーシス主義においてはこの失楽園の神話は全く逆の意味になっている。まずグノーシス主義では、エデンの園は理想郷ではなく、悪神やヤルダバオトが創造した無知の園であり、アダムとイブはそこで、人間的な恥じらいもなく完全に享楽しているのではなく、無知であるがために悪神の牢獄に捕らえられているということになっている。そして旧約聖書ではイブを誘って神に背く過ちを犯させた蛇も、グノーシス主義では逆の意味をもっていて、アダムとイブに自分たちが悪神の牢獄に閉じ込められているということを教え、そこからの脱出を促す存在なのである。聖書では蛇がサタンの遣いであったのに対し、グノーシス主義においては、叡智の女神ソフィアの遣いとしてアダムとイブに知恵を与えて救うということになっている。この神話の解釈のように様々な点において、グノーシス主義とキリスト教は対立している。


・ソフィア神話

グノーシス主義の世界創造神話は、ソフィア神話ともいわれ、キリスト教系にはないグノーシス主義特有の全くオリジナルのものである。グノーシス主義の神話によると、まず最初は、現世は存在していなくて、光と霊に満ちた天上界であるプレローマだけがあった。この天上界プレローマは、至高神である「知られざる原父」「根源的一者」あるいは「プロパテール」とよばれるアイオーンから流出した世界である。アイオーンとはプレローマ界に神的な存在一般のことをいう。プレローマにはアイオーンが次々と生まれ、彼らはプレローマで暮らしていた。グノーシス主義においてはアイオーンこそが真の神的な存在であり、複数居るとされ、男だけでなく女のアイオーンもあって、両者が対になることで両性具有性を象徴しているなど、男性の一神を信仰するユダヤ-キリスト教の神話とは大きな違いがある。何人かのそういう神的な存在が生まれていき、その最後に、アイオーンであるソフィアという女神が生まれる。ソフィアにたいする男性のアイオーンがキリストであるとするグノーシス主義者もいる。ソフィアは、天上界プレローマ以外のも世界はあるのだろうか、もしあるならその下の世界をみてみたい、という好奇心と欲望に駆られる。この欲望は、現世的欲求や肉欲を暗示するものであり、プレローマの神々アイオーン達はそういう欲望をもったソフィアを堕落したアイオーンだとして、霊と光のみの天上界プレローマにはふさわしくないと見做し、追放しようとする。それで落下してプレローマの下方に追いやられたソフィアは、そこで自らの分身アカモートをつくり、自らは助かってプレローマに戻れるものの、アカモートはそこにとどまり悪神ヤルダバオトを生む。悪神ヤルダバオトなどはアイオーンに対して低次の霊的存在だとみなされアルコーンと呼ばれている。最後のアイオーンがソフィアであり、第一のアルコーンが、そのソフィアから生まれたヤルダバオトである。(ヤルダバオトはデミウルゴスと呼ばれることもあるがここではヤルダバオトに統一しておく。デミウルゴスとはプラトンの著作「ティマイオス」に登場する造物主の名をそのまま借りた名前である。「ティマイオス」では、デミウルゴスは、グノーシス主義の天上界プレローマに相当するイデア界に生まれ、イデア界に似せて現世を創造する。プラトンは、現世は単にイデアの影のようなものにすぎず、本当に実在するのはイデアのみだとして、現世よりも永遠的な存在であるイデア的なものに価値を置いたという点で、グノーシス主義者には好まれ、ソフィア神話はこの「ティマイオス」をもとにつくられているともいえる。また、このヤルダバオトは、ユダヤ教の神であるヤハウェのグノーシス主義的解釈でもあり、つまりグノーシス主義はユダヤ教の主を悪だとみなしている。)傲慢な悪神ヤルダバオトは、自分がどうやって生まれたのか知らず、自分を絶対的な神だと自惚れながら、七つの星、地球、人間を創造する。この世より高次にある天上界プレローマの自分より神性の高いアルコーンから自分が生まれたことを知らず、ヤルダバオトは、自分こそは宇宙を創造した神だと勘違いして地上の支配者になり、他のアルコーンも生まれ、アルコーンたちが現世を支配していくことになる。このよういんグノーシス主義では造物主は悪なのである。アルコーンであるヤルダバオトには罪と悪の性質があるために、彼が作ったこの世や人間にもその性質が備わってしまった。つまりこれは、この世も人間も、その創造主も、元来、悪でしかないという、グノーシス主義の反宇宙論を象徴している神話である。しかしもちろん人間がそれだけの存在であれば救いはないのであって、それでは宗教としての意味はない。実はソフィアは、ヤルダバオトには内緒で、人間が作られる際、人間に霊的な要素、プレローマの種子(プネウマ)を混入していた。だから人間は、生まれながらにヤダルバオトの属性である悪と、ソフィアが吹き込んでおいた、プレローマに住むアイオーンたちの属性である霊的なものつまり善を、二つもっていることになる。人間は、現世という悪の世界に住み肉欲的なものつまり悪に支配されているということになっているが、内側には霊的なものつまり善が潜在していて、その霊的な原理に気づくことが、グノーシス主義では救いとされる。プレローマ、光や霊などの善と、現世、肉欲などの悪との、善悪二元論である。「グノーシス」の語源は「認識」であって、秘めた霊性を直観的に「認識」することで、人間は霊的人間となり、絶対悪である現世からは解脱し絶対善であるプレローマに帰っていくことができる。これがグノーシス主義の救済観である。


・ソフィア

この神話で登場する叡智の女神ソフィアは、グノーシス主義においてはかなり重要な存在として位置づけられている。ソフィアとはギリシャ語の「知恵」または「叡智」に語源をもっている叡智の女神である。ギリシャ神話においては、この「知恵」は単独では神格化されておらず、アテナの属性の一つであったが、前300年~西暦元年あたりのヘレニズム時代にだんだん「知恵」という言葉が神格化されはじめ、グノーシス主義において完全に神格化されて擬人的なものとなり、ソフィアという叡智の女神が登場した。グノーシス主義のソフィア神話で、ソフィアは全く相反する機能を象徴している。堕落と救済である。そもそも、この悪と罪に満ちた現世をつくったヤルダバオトを生んだのはソフィアの分身であり、ヤルダバオトを生んだことになる発端は、ソフィアが下界の有無をしりたい下界に入ってみたい、という現世的な欲や肉欲を暗示している欲望によって、他のアイオーンたちに天上界プレローマから追放されたことにある。つまりこれはソフィアの堕落を示している。グノーシス主義には色々な神話があってそれぞれ多少ことなるのだが神話によってはソフィアは知られる父と近親相姦をしたいという欲望をもっていたとされることもある。とにかくこのソフィアの現世的な欲望や肉欲は、プレローマの調和が破綻するきっかけとなり、アイオーンたちにソフィアは堕落したものとみなされる。堕落の結果として生まれたヤルダバオトは、悪の世界である現世を創造し、人間を自分の属性である悪と罪を材料にして創造した。しかしここでソフィアは、ヤルダバオトに内緒でこっそり霊的な種子を入れておいた。つまり、人間は悪神によって作られた存在であるが、叡智の女神ソフィアに付加された霊的な要素のおかげで救われるということになっている。グノーシス主義は典型的な善悪二元論であるが、その善と悪の接点境界線に、ちょうど女神ソフィアが位置している。このように女神ソフィアというのは色々な意味で逆説的な存在である。善であり悪であるという逆説だけでなはない。ソフィアは、一度、欲望によって、プレローマから現世にまで落下して、現世で娼婦として彷徨い陵辱され続けることになるが、やがて人間の姿をとってあらわれたアイオーンに救われ、光と霊を得て、プレローマに戻るという神話もグノーシス主義の一部の派にではあるが伝えられていた。つまり、天上界では叡智の女神でありながら、現世へ落下すると娼婦になるという、女神であり娼婦であるという逆説である。ユングの元型の一つであるアニマに、ソフィアは色々な意味で対応している。アニマとは、男性の無意識に潜んだ女性的なものを象徴する女性像の元型である。ユングは、アニマには色々な段階があるとし、そのなかに娼婦の段階や叡智の女神の段階がある。アニマは、男性の無意識に潜む強力な元型であり、無意識の混沌とした世界の中へ誘い込む娼婦のような誘惑者であり、霊性を授ける処女であり、叡智を啓示する叡智の女神でもある。男性は、アニマに導かれて、創造的で破壊的な恐ろしい力が渦巻く無意識の世界を旅し、生命にとって重要な価値をもつ元型的な心理体験を経験していくのである。アニマの娼婦的な姿にあたるのがちょうど下界への欲望からヤルダバオトを生んだソフィアであり、あるいは現世へ落下して娼婦となったソフィアである。そして、心の世界で、男性は霊的な存在となってこの娼婦となったアニマを救済する。これがソフィアの現世落下の神話ではちょうど人間の姿をしたアイオーンに救われるということと対応する。それでソフィアは天上界へもどり、叡智の女神としての自分を取り戻す。これがちょうどアニマの最も高位の最終形態である叡智の女神である。男性に無意識から叡智を啓示するこのアニマの最終形態は、ソフィア以外にも、ギリシャの女神アテナや、日本の太陽の女神アマテラスなどがそれを象徴する存在としてあげられる。叡智の女神、アニマの最終形態となったソフィアは、救われたお返しに、人間に神的な叡智の啓示をあたえることで、今度は逆に人間を現世的な煩いから救う。ここに救われることによって救うという逆説的な関係がある。グノーシス主義のソフィアに限定せず一般的にアニマという元型的な女性像は、色々な逆説をもっていて、男性を無意識の世界へと誘惑し、その世界で、救われたり救い返したりしながら色々な元型的イメージを体験させ、無意識と意識の仲介者、無意識の世界の案内人として活躍する。ソフィアは、人を無意識の混沌とした世界あるいは愛欲と淫乱の世界の世界へ誘う娼婦という危険な存在でありながら、人に霊的な知恵を啓示する叡智の女神でもある。このように、ソフィアはアニマ元型が生む多彩な元型的イメージを包括的に象徴し体現している存在だといえる。


・内的な認識。人間神化。

グノーシス主義においては、ソフィアが人間に入れておいた霊的な種子を認識することで救われる。また、ソフィアのところで述べたように人間や物質など現世的なもののなかに閉じ込められた救済者(派によって、ソフィアであったり、イエスであったり、至高神であったり、フォーステールと呼ばれたりもする)を救うことによって、その救済者に救われる、という救済のイメージもある。どちらにしても、自分の体のなかに閉じ込められている、霊的な種子あるいは救済者を、認識(グノーシス)することによって、救われるのであるが、これは、キリスト教の救済観とはかなり対立している。キリスト教は、マイスター・エックハルトなどの神秘家を除いて一般の信者にとっては、完全に他力救済の宗教である。罪を生まれながらに背負った人々は、絶対善である神に救いを求め、神に救ってもらう。一方、グノーシス主義ではこの世の存在そのものもその創造主も絶対的な悪であり、よって人間もほとんどは悪で出来ていて、人間の中に唯一含まれている霊的な善の可能性を自分で認識することあるいは救い出すことによって、その人は救われるということになっている。つまり救われるには、まず自分で認識しなければならいのであり、他力救済というより自力救済の宗教である。大乗に対する小乗といえるかもしれない。霊的なものを認識するとはすなわち悟ることである。そしてさらにキリスト教と対照的な点は、グノーシス主義においては霊性を悟った人は、霊的な人間になり、つまりアイオーンという神的な存在に等しい存在になって天上界プレローマに帰っていくことができるという点である。ユングはこのことを「人間神化」と呼ぶ。認識することで自分自身が神的な存在になることを意味している。


グノーシス主義に限らず、神秘主義というのは、絶対的な一神を信仰しようとせず、精神的な悟りや認識を目指し、それによって霊性が高められることによって人は救われるのだとする傾向が強い。これはキリスト教の教会信仰とは真っ向から対立する価値観である。キリスト教の教会信仰においては、神は絶対的に聖書の神一神のみであり、神の子はイエス・キリスト一人だけであって、一般の信者が神的な存在となることなどは許されない。神人イエス・キリストの磔刑という一回限りの犠牲によって人の罪は贖われ、人は神に救われるのである。イエスの自己犠牲は、永遠に救いの効果をもっているゆえに、それ以外に救済は必要ではなく、永遠にどの信者もイエスの自己犠牲という一回の歴史的事件によって救われ続ける。救いは個人の内的体験としておこるのではなく、歴史の流れの中で実現されるものであり、個人はその救済の歴史の流れの一員となることで、神の国や最後の審判の神話を信仰することによって、救済されることになる。しかし、グノーシス主義の救済は、神や神人による一回限りの救済行為という歴史的一事件によってなされるのではなく、各個人の数だけ救済行為が存在する。なぜなら、神に救ってもらうのではなく、自分で自分の中にある霊性を悟らなければ、あるいは自分の中に居る救済者を救わなければ、その人は救われないからである。とにかくグノーシス主義の救済観の大きな特徴は、神に救ってもらうキリスト教徒は対照的に、自分で自分の霊性を認識することによってのみ救われるということである。言い換えれば、イエスだけでなく全ての個人が神の子としてこの堕落した現世に落とされているのであり、自分のうちに潜む神性を悟ることで、神的な存在となり、現世の悲惨と苦悩から救われ、天上界プレローマへ帰還できるということになる。ここまでが、おおよそのグノーシス主義の神話と思想の概要である。


・シモン・マグス

ところで、この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物だと自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、「この人こそ偉大なものといわれる神の力だ」と言って注目していた。人々が彼に注目していたのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らされるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。シモン自身も洗礼を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いた。


エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受け取るようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも下っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで”霊”が与えられるのを見、金(かね)を持ってきて、言った。「わたしが手を置けば、誰でも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください。」するとペトロは言った。「この金は、おまえと一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。おまえはこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。おまえの心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。おまえは腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」

 このように、ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証して語った後、サマリアの多くの村で復員を告げ知らせて、エルサレムへ帰っていった。(新約聖書 使徒言行録8.9-25)


この物語は、『使徒言行録』の著者であるルカによっての創作か、またはシモン・マグスのこのエピソードが人々に知れ渡っていくなかで色々と歪曲されながら伝わってきたのかで、もちろん事実を記述したものではない。しかし、イエスやイエスの弟子や使徒達が新しい宗教を開いたのと同じ時代にシモン・マグスという偉大な人物を自称するサマリア人の魔術師がいたことと、シモンが神秘主義やその他ヘレニズムの思想などに通じていてキリストの教えとは別の宗教を広めようとしていたこと、シモンがペトロ達キリストの弟子達と会ったことがあることなどは、どうやら事実である可能性が高いらしい。そしてこのシモン・マグスこそがグノーシス主義の開祖であるという説が有力である。聖書はグノーシス主義と敵対しているキリスト教の文書であるから、やはりここではシモンはかなり情けない人物として描かれていて、サマリアで自分の教えを広め力を持っていたシモンは、使徒達がきたときお金で彼らの奇跡の能力を買おうとして、使徒に説教され、赦しを請うことになり、結局使途の善がシモンの悪を裁き、キリストの教えはサマリアにも伝わりました、という物語である。


もちろんこの物語はキリスト教側の都合に合わせてつくられたものではあるが、ある程度はシモンの性質を述べてはいるように思われる。それは、奇跡の力を欲しがったところである。シモンは神に対する敬虔さなど無視してとにかくその能力を自分のものにしたかった。お金で買おうとしたというのは冗談だとしても、キリスト教側にとっては神に対する敬いなくしてその能力を得ようとすることはお金で神になろうとしているような涜神行為であったから、寓意的にそういう物語になったのだと思う。とにかくこの物語は、シモンは神に対する尊敬よりもその神の力を欲しがることが第一であると考えていた一方で、それとは完全に対照的に、キリスト教徒にとってはそんなこと許されることではなく、神を尊敬して信じ祈りをささげてこそ奇跡が起こるという考えをキリスト教徒が持っていたことを示している。他にももっと興味深いシモンについての話が聖書外伝などで伝えられている。一説によるとシモンは、荒野の洗礼者である洗礼者ヨハネの一番弟子であったという話もあるし、面白いのは、イエスが自己犠牲を果たしその後にマグダラのマリア達の前に復活して姿を現したという話を聞いたシモンは、自分も復活できると言い張って、自分を土に埋めるように頼み、本当に土に生き埋め状態になってしまって、しかもそのまま奇跡の復活は永遠に起こらずに土のなかで死んでしまった、という話もある。上に引用した使徒言行録の話よりももっとおもしろいペトロとシモンについてのエピソードもあって、「ペトロ行伝」という聖書外伝によると、神を尊敬するペトロを前にしてシモンは、俺はお前の神様やキリストよりも凄いんだと貶すように言い張って、天に昇ることができるんだと自慢し、実際に魔術で空を飛んで見せたが、それに対して憤りを感じたペトロが神に祈ると、残念なことにシモンは神によって術を破られ、そのまま落下して骨折して結局死んでしまった。もちろんこれらの話も創作的な要素や噂が伝わるにつれて歪められていったというのもあるだろうけど、茶化してるもののやはりシモンの特性を現している。実在したグノーシス主義の開祖としてのシモンはもちろんこんな哀れなキャラクターではなかっただろうけど、とにかくいえるのは、シモンは神を信じず、自分が神のような能力を得ることを望んだということである。それがキリスト教にとっては許すべからずことであり、それ故に聖書ではシモンはこのように描かれ、キリスト教文化においてはこういう人物として言い伝えられているのである。ここで一番重要なのは、シモンが人間である自分が神的な存在になれると考えていたこと、つまり人間の内側に神化の可能性をみていたことである。そしてこれこそが、キリスト教と対立した根本的な原因であり、グノーシス主義をはじめヘルメス学や神秘主義の一番の特徴である。


・神について。グノーシス主義のキリスト教に対する位置づけ。キリスト教批判。

ここで、そのグノーシス主義の特徴である人間の内側に神性をみる思想と、キリスト教の人間の外部に実在する一神を信仰する教義について、両者を比べながら考えてみたいと思う。

その前にまず神というのが一体何であるのか。神はほとんどどこの民俗にも存在する。神々たちが登場する多神教であっても主神的な存在や根源的な宇宙の原因である一なる存在はあるし、造物主が悪だとみなされているつまりキリスト教の神を否定するグノーシス主義でもプレローマの流出源である「知られざる原父」「至高神」「根源的一者」と呼ばれる一なる究極的な実在が想定されている。神が外的な人格的存在として生きているわけではなくても、とにかく太古の人々が、この世の謎に答えを与え生の苦悩に名を与えるために神という最高の存在を想像し、その存在に対して畏怖の念を以って信仰してきたことは確かである。これは人類であるかぎり共通の普遍の現象であって、だから神は、迷信だといって軽くみてはいけない存在である。神が現実にはいなくても、人々が神という存在を想像してきた、ということが重要なのである。普遍の現象であるかぎりなんらかの重要なものを握っていて、人間が想像してきた存在であることを考えると、とくに心的なものに関して重要性があるはずである。人格をもった神が人間より偉い存在として生きているというのが虚構だとしても、人々が神を、求め、描いて、信仰してきた、ということは確かな歴史的事実であり、神が人を創ったということが神話においてのみの真実だとしても、人の心が神や神話を描いたというのは事実であって、西洋文明が発展するまでは世界各地であらゆる時代に繰り返してきたことである。つまり、神に関しては、本質的には神自身が重要なのではなく、神や神話を描いてきた人間の心的要素が重要であって、その心理要素があったからこそ世界各地で神や神話が描かれるということが繰り返されてきたのである。世界各地で繰り返されるというのは、たとえば人間がどこの国でも時代でも手を使ってものをたべるのと同じで、人間の生得的な要素が原因になっているからである。人類はこの身体構造を生まれつきもっているから手を使ってものを食べるのと同じで、人類はこの神経構造を持って生まれたからこそ、古代においては、神話がいつの時代も各地で描かれてきたのである。手でそのまま食べる民族、フォークやナイフを使うヨーロッパ人、箸を使って食べる東アジア人があるように、もちろん、神話も各地で色々と違いがみられるが、どこの民俗でも足を使って食べたり舌でそのまま食べ物を食べたりはしないように、神話も人間の生得的要素が原因となっている色々な共通点をもっていて、その中でもっとも重要なのが、至高の存在である神である。その神を生み出した人間の心理には何か生命にとって重要なものが含まれているに違いない。


キリスト教においては、神を外的な存在として信仰するのに対し、グノーシス主義をはじめとする神秘主義においては、神性を内側に見ようとする。前者は個人の心の中での認識よりも神に対する信仰がまず重要なのであって、後者は真の認識(グノーシス)を目指すために、自分の心の中を見る。グノーシスの神話においては、ソフィアが霊性の種を悪である人間の肉体の中に入れておいたので、それを認識しないといけない、あるいは、からだの中に救済者が閉じ込められていてその救済者を肉体から解放し救うことによってお返しに救ってもらう、ということになっているが、これらは、神話的な表現ではなく哲学的に解釈して翻訳すると、神性が人間の心の内側に秘められているということ、それをしっかり認識することでその人の精神が高められることを意味しているといえる。つまり、グノーシス主義においては、シモン・マグスがユダヤ-キリスト教の神を信じずに神的な能力を自分の属性として求めたことに象徴されるように、外部に存在する絶対的な同じ一神をみんなで信仰するのではなく、神的なものと干渉するには心が媒介される、あるいは心の中にこそ神的のものが存在している、という考え方が優先され、よって、個人の心の内側に価値を見出しているといえる。これは尤もな事であると思う、なぜなら、現実的に考えても神が人間を生み出したのではなく神のイメージを人間が作り出したからであり、神の母体であるのはそもそも人間のイメージの世界だからである。グノーシス主義においては、個人の内側に神性を見ようとして心の世界に価値を置きすぎたことによって、外部の現実は悪として拒絶され、現世をつくった神は悪神だとされている。もちろん心の内側に価値を置きすぎることによってこのように外部を悪と決め付けるのは良くないことであるが、心の内側に価値を見出そうとしたグノーシス主義の思想は高く評価されるべきものであり、キリスト教が不当にも蔑視してきた思想である。キリスト教は、一部のキリスト教神秘主義者たとえばマイスター・エックハルトや修士クラウスなどを除いて、外部に実在する一神を信仰する。そしてその神に大きな価値をおくのだが、そのことによって、人間の神に対する関係は、完全に神の方が人間よりも上に置かれ、個人の心というものの価値は神に比しては限りなく低く見られることになる。グノーシス主義においては神的なものは人間の心の中に閉じ込められているのであり、だから、人間の心と神的のものは同等の価値があるのであって、閉じ込められた神的なものを認識することによって、シモン・マグスが望んだように、人間は神と等しい存在となる。外的な一神に救いを求めて信仰する、つまり神に隷属しているキリスト教徒にとっては、個人の内面に神性があるましてやイエス・キリスト以外の人間が神と等しい存在になるというのは、限りない僭越であり、真っ向から教義と対立する。キリスト教の教義にとっては、神は人の心の内的な所有物ではなく、人が神の所有物である。このことは、神の成立のことを考えると本末転倒している。神が人間を創ったというのは神話であっても、人間の心が神話を描いたということは客観的な事実であり、その神話を描こうとした人間の内的な要因こそが本当の神的な価値をもつものであって、だから心の中を内観することこそが本当の宗教性の探求なのである。キリスト教では、本来内的なものとして重要であった心的要素を、外部に投影し、外的な形式としてその神性が存在することになってしまっている。本当は人間の心の中に起源を持っていた神性が、外部に存在すると思い込まれることによって、そう信じる人は自分の心の中の神的な可能性をだんだんと忘れていき、外部へ神に関する心理が向かっていくのだから、自らの心の深くにある聖域には触れないようになっていく。しかし、そもそも神を生み出したのは人間の心である。つまり神は人間の心の深層にイメージとして存在するのであって、その神のイメージから啓示を受けることこそが本当に重要なことなのである。神が外部のものとして見做されるような教義によって、内側の深きところに息吹く本当の神の吐息を浴びることなしに、神をただ信じてしまうことになり、この場合その人は神を信じること以外には何もできず、よってその神は空虚なものになってしまう。神が本当に価値を持つときというのは、その人にとっての神が、その人の心の深くの神的なイメージにしっかり由来しているときであって、ただ教義だから宗教だからといって信じているだけではその神は結局何もしてくれないだろう。もちろん神秘家以外の一般のキリスト者でも、教会のミサに参加するなかで聖書の言葉や聖歌に感化を受けて自分の心の深層に神的なものを無意識的に見つけていて、その自分の心に潜む神性がその人の信仰に直結しているということはあるだろうし、そうならそれはとてもいいことだろうけど、科学が発展した近代以降の価値観の中で育ってきた人にとっては、教会信仰だけでそういう宗教的な心理体験を得ることはますます難しくなってきている。むしろ19世紀以降は、どちらかというと教会に対して敵対的なものである芸術こそが、人々にそういう神的なイメージを心理体験として与えているように思われる。


神あるいは神のイメージは「体験」されなければ、本当にその人にとって神が作用しているとはいえないし、神のイメージが秘めている意味を実際にくみ出して日常の意識の糧とすることは難しい。近代化が進むにつれて神という人間より上に位置する存在が否定されるような科学的世界観が構築されていく。本当に神がいるのだろうかということが疑わしくなって本気で信じることのできる人は減少していくなか、しかしキリスト教会の教義は教義として残されることになる。近代の西洋においては神を信じない人も、どちらにしてもキリスト教の教義が元となった道徳によってほとんどの価値観が決定されているのだから、キリスト教の影響下にあることには変わりない。人間の心の深層に潜在している神のイメージつまり太古の時代に神を生んだイメージと、直接繋がってはいない神、体験することはできずただ信じることしかできない神、ありもしない外的実在としての神は、科学化が進んでいくにつれて、人々はそれを信じるのが難しくなり、ますます空虚なものとなってしまう。科学は人間の関心を外的なものへやっていく一方で人間の内側のものを忘れさせてしまい、教会の教義ももはやイエスの生きた教えが人々の心に浸透していった時代のようには精神的に機能せず空疎になっていくので、内なる神を体験させるものが何もかもなくなってしまったのである。しかし近代のそういう世界自体、キリスト教という一神教に大きく影響されながら形作られた世界である。ここで一神信じる宗教の上に成り立った世界でありながらその人々は誰も内的な心理体験として神を体験しないままになるという矛盾が起こってしまっていることになる。この大きな矛盾によって人間の心は空洞化され、虚無に襲われることになる。一体、何を信じて生きてきたのか。神を信じる宗教を土台として成立した世界に生存しながら本気で神を信じることができないし、啓示を体験することもない。キリスト教会は人に神を本当に体験させる機能を失った。


・啓示体験の喪失による神の不信。

このことを誰よりも鋭く見抜き批判したのが「神は死んだ」で有名なニーチェである。ニーチェは一貫してキリスト教を攻撃的に批判し続けたが、ニーチェの嫌ったキリスト教的なものや禁欲的理想というのは、一般的にそう見做されているところのキリスト教に関するもの、だけではない。ニーチェは近代の西洋の世界観があらゆる点でキリスト教の影響下にあることを見抜いた。キリスト教に関するものとは一見思えなくても実はキリスト教という絶対的一神を外的な存在として想定してその神に従う一神教に影響を受けているものは、たくさんある。むしろ西暦以降の西洋の世界観はその大部分がキリスト教の影響下にあるといっていい。たとえば大衆的一般的な次元においては、道徳がそれである。ニーチェは、近代の道徳が、時代を超えてそうだといえる人間の本質的な本性に起源をもつものではなく、歴史的に生まれたもの、具体的にいうと禁欲的理想を掲げるキリスト教を起源としているものだと考える。その時代の道徳は生の本質的なあり方を示しているのではなく、生に対するキリスト教的解釈がそのまま一般化されたのが大衆の道徳になってしまっている、ということをニーチェは察して、その道徳が生の創造性を束縛してしまっている、あるいはそれが人々を襲う虚無感の原因になってしまっていると批判し、生に対するキリスト教的ではない解釈の可能性を示し、実際ニーチェは、生を、ニーチェの言葉を借りるなら、ディオニュソス的に力強く解釈した。以上に書いたニーチェに批判されたものは主に、近代の世界観のうちに人間的な次元に関するキリスト教的なものであるが、メタ次元のものごともキリスト教の影響下にあるとニーチェは考える。神という形而上的な絶対者を人間の内部ではなく外部に想定するというキリスト教の考え方が、西洋の人間の思考内容ではなく思惟形態そのものにまでも影響を与えてしまっていて、西洋の言語や概念、主語と述語の関係、主体と客体の関係、など価値観以前にあるメタ次元のものまでもキリスト教の神に対する考え方に影響を受けてしまっているのである。つまり西洋の世界は、どれだけ合理化が進もうと、あるいはむしろその合理化そのものさえも、キリスト教という一神教を土台としているということになる。前述したように特に近代以降では、キリスト教は、内なる神体験を与えないのに神に対する信仰だけを信者に押し付けてしまっている。信者だけでなく、信者でない人も、キリスト教を土台とした世界でいきているからには、その世界観にキリスト教的要素がたくさん絡んでいるということはいうまでもない。本当に人間の心にとって重要である内なる神を体験させないのに、神に対する信仰を土台にして人は生きている、この矛盾が、ニヒリズムの起源なのである。ニーチェは一貫してキリスト教を断罪し、それが生んでしまったニヒリズムを深く認識し、ニヒリズムに対する克服の方法を、ギリシャ悲劇や芸術に見出した。ディオニュソス的なものからエネルギーをもらい生を高揚させ、生を束縛していた既成の価値を破壊し、新たな価値を創造することによって、生の力強いあり方を体現することができるとニーチェは考えた。


キリスト教会の無能を見抜いた偉人はニーチェ以外にもたくさんいるが、ユングもその一人である。ニーチェが、キリスト教を批判して、神がもはや死んでしまった世界においては、悲劇や芸術こそが真の救済の役目を果たし人間に生の力強い姿を啓示すると考えた一方で、ユングは、当時のキリスト教会を鋭く批判しつつも、一部のキリスト教神秘主義者が知るキリスト教の本質や象徴体系を極めて高く評価し、キリスト教をはじめとする宗教の本来あるべき姿を示そうとした。ユングによれば当時のキリスト教会は真の神を忘れてしまってその教義はほとんど象徴的な価値を失ってしまっているとして、教会からみれば異端である神秘主義者や厭世的な修士たちに注目し、彼らが教会の一面性を補う位置にあるとして神秘主義に対して再解釈を下し、神というものが持つ本質的な意義を問い直した。ユングが一貫して訴えたのは「神の相対性」である。「神の相対性」とは、神は絶対的に人間の彼岸に存在していて人間は神に従属しているのだとする教会の教義に対するもので、神は心にある意味では依存していて心のなかにイメージとして存在という考え方である。しかしこれは神の存在を単に否定する合理主義とは全く異なったものであって、神の相対性を説くユングにれば、神のイメージは心の重要な機能や状態を象徴するものであり、その神イメージが象徴しているところの心的機能は、合理主義的な世界に生きる人の理性的な意志よりも遥かに優れた機能であって、意識的な努力では到底及ばない、神的な啓示体験を生むものである。ユングが神の相対性を見抜いていた人としてよく挙げるキリスト教神秘主義者マイスター・エックハルトは、「心の正しい人は神を自身の内に持っている」「なぜなら人間はまこと神であり、また神はまこと人間であるからである」という言説をのこしていて、神が心の中にある状態こそ、理想的な至福の状態であるとした。このことはグノーシス主義の思想と神的なものが個人の心の中にあるとする点で、共通しているし、ユングはマイスター・エックハルトだけでなくグノーシス主義をはじめ錬金術や神秘主義を研究し、色々な点で高く評価している。ユングによれば、全体的にみたとき人間の心は意識と無意識に分かれていて、あるいは分裂しまっていて、キリスト教文化や近代合理主義が意識の方へ偏っているとすれば、神秘主義や錬金術はその意識の一面性を補う立場にあって無意識の根源的な領域を代表している。人間の心が意識の方へ偏ってしまうことによって、心の深層にある重要な心理要素に対して無意識のままになってしまいそれらが体験されずにいることで、人間は生命の根源性からは離れてしまっている。神秘主義は、一般的多数の人間に触れられずにいる根源的な領域、いわば地価に潜む生命力を具現している。ユングによれば、意識と無意識を統合することによって、心の全体性が得られ、理想的な心の状態になる。しかしキリスト教文化や合理主義、一般的な価値観などは、無意識の領域に対して認識が届いていなくて、意識の方へ偏ってしまっている。神秘主義は無意識の方へ偏っているといえるが、大多数が意識へ偏っているということを考えると、神秘主義はその偏向を補う役割を担うはずである。そこでユングは神秘主義や錬金術を研究し、それらを神話としてではなく心理学的に解釈し、無意識の内容を解き明かした。無意識の領域とは個人の心の奥深くにある領域である。深くにあって、意識の立場からすると忘れ去られるからその領域に対しては文字通り無意識になってしまい、だから無意識という名がつけられている。キリスト教の表面的な教義が神を正しく説明しているのではなく、実はその忘れ去られようとしている領域にこそ本当の神性を司る心理的要素がある、そうユングは突き止めた。大多数の人はそのことに気付かずにいるのでいくら神が口先で叫ばれようと本当の神は無意識の中に潜んだままでなんら意識化されることはない状態にあった。だからユングは、神秘主義やその他宗教や神話を熱心に研究し、それら神にかかわるものの人間にとっての本当の意義を何度も書いているし、実際に神のイメージがどのように人間に作用して機能するのかを詳しく論じ、その必要性や重要性を何度も訴えている。


神秘主義を評価した哲学者は他にもいるが、ショーペンハウアーもその一例である。彼の言葉を引用すると、「……私見では真正なキリスト教神秘主義者たちの教えと新約聖書の教えとの間の関係は、「酒の精」と「出来上がった酒」との間の関係の違いのようなものである。新約聖書のなかでヴェールや霧をへだててわれわれの眼に見えているものが、神秘主義者たちの著作のなかでは、覆いをはずして、完全に陰影のない光明のうちにわれわれに迫ってくるのだ。」(『意志と表象としての世界』68節) ユングが、宗教的象徴を表面的にしかとらえられていないキリスト教の教義や、心の内面を見ようとはせず外的なものにばかり囚われていた合理主義に対するものとして、暗黒の内から掘り出し再評価した神秘主義は、やはりキリスト教と同じヘレニズム時代に生まれた長い歴史をもつ大きな神秘主義であるグノーシス主義が、その母体となっている。そういう意味で、グノーシス主義というのは、人間の無意識のあらゆる心理要素を象徴的に表現していたという点で、人間の精神史においてかなり重要に位置づけられるべきものなのである。


・女性性。

内部に神性を探そうとして自己の認識を重視する傾向のほかに、グノーシス主義がもっている大きな特徴は、ソフィアであり女性性である。開祖であるシモンはヘレナといわれる娼婦上がりの少女を連れていたといわれている。このヘレナは、実在の人物なのか、グノーシス主義の神話が象徴的に現実化されてできた伝説なのか、それははっきりしないことなのだけど、どちらにしてもそういう言い伝えがあることは確かである。この幼い娼婦ヘレナは、天上界プレローマにいるソフィアが現世へ落下した姿、つまりソフィアの化身だともいわれている。とにかくシモンは若い娼婦とセットになって描かれることが多く、グノーシス主義の神話においてソフィアが重要な位置にあるのだけど、これは重要なことだと思われる。ユダヤ教においては、神的なものは完全に男性的であり、ほとんど女性的要素が入り込む余地はなかった。旧約聖書の神は、砂漠を放浪する大民族イスラエルの民にとっての怒りと懲罰の神であり、聖人的な人物であるヨブを理不尽なほど苦悩させてしまった荒々しい神である。イエスの出現によって、神は、怒りの神から新約聖書の愛の神へと変わり少しは女性的になったし、教会のイメージもなんとなく母性的なものを思わせるものがあるものの、それでもキリスト教の正式な教義としてはやはり男性的な方を上におく傾向が優勢だった。20世紀になって聖母被昇天が教義として公認されて聖なる領域に女性性が加わったものの、ずっとそれまでの間のキリスト教の歴史においては、三位一体の教義などは男性性の色合いのほうが圧倒的に強い。キリスト教の神は「父」でありイエス・キリストはその息子である。一方グノーシス主義では、開祖シモンが娼婦を連れていたと言い伝えられていることや、叡智の女神ソフィアがその神話体系においてかなり重要に位置づけられていること、あるいは現世が創造される前のプレローマの世界では男性のアイオーンと女性のアイオーンが常に対になっていたことなどが示すように、女性性も男性性と同じだけの聖性を持っていて、二つの要素は常にペアになっている。「知られざる原父」つまり根源的一者は、「父」というのがその呼び名には含まれているものの、ヘレニズム時代~後3世紀くらいの間に書かれた神秘主義関係の本、つまりグノーシス主義の要素がかなり絡んでいるあるいはグノーシス主義の元になる要素を含んでいる本である『ヘルメス文書』では、一者は、両性具有であるという言説がみられる。一者とは至高神である。これは、後にキリスト教となって世界的な大宗教となるユダヤ教の男性的一神を信仰する教儀とは相容れない考え方であるが、神秘主義者たちは根源的存在の両性具有性に対してはしつこく言及していて、20世紀になって神秘主義や錬金術を学問的に再解釈したユングも、根源的な領域においての女性性あるいは男性性と女性性の結合の重要性を説いている。男性的一神を絶対的に父として信仰するキリスト教徒は対照的に、神秘主義では男性性と女性性の結合や統合が内的な経験として達成されることが重要であり、男性性と女性性に限らず対立する二極の統合の象徴は、神秘主義においてはよくみられる。


・善悪の対立。グノーシス主義の欠点。

その対立する二極というものはもちろん、善と悪の対立もその例である。よって、真の神秘主義においては善と悪を統合して対立をなくすことが重要であるといえる。ここで問題なのが、グノーシス主義の反宇宙的二元論である。反宇宙的であることと善悪二元論であることは、内的な経験を重視するという点では優れていたグノーシス主義の、重大な欠点であると思う。ヘレニズム時代の思想的混交状態においては、古代のイランの宗教であるゾロアスター教の考え方もそのシンクレティズムの中に含まれていて、グノーシス主義の成立はそのことにも影響を受けている。ゾロアスター教は善悪二元論を説いた宗教のなかでも最も古いものである。ゾロアスター教では、グノーシス主義の至高神と同じように絶対的な一人の主神がいて、次に、主神に従う善神と主神に従わない悪神がいて、その二神はこの世の原理を司っているとされ、善と悪の争いこそがこの世の根本的な原理なのだとする。善悪二元論のなかでもここまではいいのだけど、問題なのは、主神という一者的な存在に善の性質を与えていて、善悪二神のうち善神だけが主神に従う存在であるとしていることや、最終的に悪は善によって滅ぼされるという運命を主張していることである。何故、善悪二元論のうちでも、善と悪の争いがこの世の原理とする、というところまでは思想的に問題なく本質的な認識なのであるかというと、実際、根源的な領域ではないこの世の中は、善と悪のようにあらゆるものが対立して、そのことによって色々な悲惨が在ってしまうのであるあり、だからその仕組み善神と悪神の争いに喩えて力動的に認識するのは、重要なことだからである。しかし問題なのは、主神に善の性質を与え、善神を悪神よりも上に位置づける主張である。世の中が善と悪に二分されてしまってそれらが争うことによって世の中は悲惨になり生は苦悩に満ちたものになるのだから、その二つの対立が無くなって統合されている状態こそが、本当の至福の状態である。だから主神という一者的な存在は、善という偏った立場ではなく、善悪を超越した立場に立っていてこそ、本当の意義をもつはずである。この部分が善悪二元論に欠けた認識である。グノーシス主義は善悪二元論に加えて、反宇宙論という思想をもっている。これは善悪二元論の延長にある考え方で、この世や肉欲的なものを絶対的な悪だとして、善であるプレローマに帰還してこの世から遠ざかることが究極の目的であるとされる。プレローマが存在の理想的な状態だと考えるのはいいのだけど、それを絶対善と捉えて、逆にこの世や性欲を絶対悪とみなすのは、本質的には理想的状態への帰還にはつながりにくく、どこかで不具が生じてしまう。なぜなら、絶対的に善なものや絶対的に悪なものを想定するというのは、実際にはありえないことを想定しているのであり、実際は、善悪というのは相対的なものであるからである。この世という色々な価値観がぶつかり合う場に置いては、同じものでも善と見ることができる一方では見方を変えれば悪とみることができるし、真に根源的な状態というのは、決して善そのものになっている状態ではなく、善悪の相対性あるいは二者の同一性を認識することで善悪の対立を超越している状態である。ユングはグノーシス主義の神話を再解釈して、その偏向を修正したかたちで独自のグノーシス主義を構想したことがあったのだが、その言説においては、プレローマと現世の対立ではなく、プレローマとクレアトゥーアの関係が描かれている。グノーシス主義においてはプレローマが絶対善であり現世が絶対悪とされていて別の二世界であったが、ユングの発想では、プレローマとクレアトゥーアは同一の宇宙の別の様態であるとされている。プレローマとは宇宙の善悪などの対立を超越したあるいはまだ何もが二極に分裂していない不変の永遠的な状態であり、クレアトゥーアとは宇宙の対立や変動が起こっている時間的な状態のことである。プレローマは時間と空間によって宇宙が表現される以前、しかもまだ何もが二極に分解する以前であるのに対して、クレアトゥーアはそれ以後である。この考えは、天上界を善と現世という悪に分けて善を絶対的に上におく善悪二元論より優れたものであり、現世での善と悪の対立を力動的に認識することは重要であるが、それを認識したあとは善の側に立って悪を退けようとするのではなく、重要なことは、その対立を超越した分解される以前の一なる状態を悟ることである。また善と悪が絶対的なものだとするのも間違っている。善であるものが悪になることがあるし、悪が善になることもあって、それが変動しあい、対立しあう状態こそが、この世の原理なのである。何かを悪として退け、絶対的な善を変動しない理想郷の状態であるとすることは、悪として退けられたものの忘却を意味する。悪もこの世の原理の一つなのであるのだから、それを退けて忘れてしまうことは真の平和ではない。あるいは平和な状態というのは、時間と空間や分裂や対立の影響を受けていない、「永遠」の様態のときのみであって、それ以外にはありえないのである。どちらにしても人間が「永遠」の状態に至るつまり一者を認識するということは形而上的な素質がない限り困難で全ての人が達成できることではないので、悪を直視した上でこの世の中の原理を認識することが重要なのである。グノーシス主義がキリスト教より勝っていた点は、キリスト教が悪の実在を否定してそれを無視しようとしたのに対し、悪を生々しく直視したことである。悪を直視するまではよかったのだが、グノーシス主義は現世や肉体的なものや物質的なものを憎悪せんばかりの激しさで攻撃しようとする。ここがグノーシス主義の問題点である。善と悪が生む抗争や背理は、それをしっかり直視して認識したのなら、どちらか一方を上におくのではなく、その逆説を逆説としてそのままのかたちで受け入れなければならない。なぜならそれが宇宙の原理であり生の原理であるからである。たとえば聖なるものは霊性と性性を同時にもっているという逆説が真実である。しかし逆説というのは深入りすればするほど恐ろしいものであって、それに絶えるにはかなりの精神的苦痛が要求される。なぜなら、本当に二律背反を認識するとは、その人の自己自体が二極の対立の力によって引き裂かれようしている状態だからである。善悪の対立は分かるだけではいけなくて、体験してこそ真の認識に至るのである。一般的なものの捉え方では、何もかもを一義的につまり一面的に捉えようとするが、そのような捉え方では二律背反を体験的に認識することはできないのであり、逆説をそのままの形で両面から捉えることが真に宗教的な精神である。逆説は論理的に理解できるものではなく、なぜなら論理性は物事に対する表面を一義的に確かに解釈することを要求するからなのであるが、対立する両者を同時に認識する逆説的な方法は、善悪を心理的に同時に抱え込むことを意味する。もちろんこれはその体験を深めれば深めるほど善悪に対する認識も深まるのであるが、それは容易なことではない。神的な次元での善悪とは想像以上に壮絶な戦いをするのであって、それによって個人の自我というのは破綻してしまうことさえあるのである。死に至る否定的なものを常に直視しつづけながら生を肯定しようとしたニーチェは、ついには狂人となってしまった。ニーチェは神が司る善悪までも自分一人の内に抱え込んでしまったのである。善悪の逆説とは恐ろしいものであり、それを直視してそれがもたらす苦痛に耐えようとする二律背反的な精神こそ、本当の意味で宗教的な精神である。


・象徴や神話について。

また、反宇宙的二元論以外にも、グノーシス主義にはもう一つ欠点がある。グノーシス主義は精神的なものに対する極めて根源的な認識をもっていたのだけど、その根源的なものを「象徴」する神話を、象徴としてではなく実在として信じてしまっていたことがそれである。つまりグノーシス主義は、あるいはグノーシス主義だけでなく古代の信仰や神秘主義一般は、神話に描かれている宇宙を実際の宇宙の構造だと見做してしまっている。つまり神話をそのまま哲学にもちこんでしまっている。もちろんこのことはグノーシス主義の欠点というより、科学のない時代においては当然のことである。だから現代の人がグノーシス主義を知ろうとするなら、その神話にある象徴体系を実際にある宇宙の構造であると取り違えるのは間違っていて、象徴を象徴として捉えなければならない。象徴法とは、根源的な次元にある普通の言葉では表現し難いというより言葉で表現できないものを、具体的な事物で喩えたり五感で感じられるもので表現したりすることによって、明らかにすることである。グノーシス主義は人間の精神的なものを表す象徴表現を豊富にもっている。現代に生きている人は、この豊かな象徴を、単に論理的記号的に解釈するのではなく、また昔の神秘主義者のように象徴を実在と取り違えるのではなく、象徴を象徴として捉えることが重要なのである。象徴として捉える、というのは、自分自身の心の根源的な領域にあるものを、象徴表現を借りて、そのままの形で認識することを意味する。その根源的なものは、その象徴以外には表現しえない極め難いものであるからこそ、その象徴がその根源的なものを象徴しているのである。だから理性によって把握できるものではない。なぜなら理性は、その極め難いものを一義的に理解するために、その象徴を既得の認識のうちにある言葉に置き換えようとするからである。その象徴が表現している根源的なものは、既得の認識にないものであるか、すくなくとも一般的には既得のものとして認識されているものであない。理性によってではなく、象徴を象徴的にとらえることで極め難い根源的なものを体験できる。それは象徴以外では表現され得ないものだからである。神話には、そのような根源的なものを認識する上で重要な象徴がたくさん存在している。聖書にしてもグノーシス主義の神話にしても、それらが史実でもなく、迷信でもなく、象徴であることを真に理解することが重要であり、象徴表現を借りて根源的なものを体験することによって真の宗教的理解が得られる。


・一なるもの。

神秘主義的な宗教者や哲学者にとって、真の宗教的課題とは、神を信じることではなく、自分の精神を限りなく完全に自覚することであり、これはグノーシス主義が求めたような心の内側に秘められた神性を発現させることなのだが、そうすることでこの世で生活していく中で忘却されていた本来の本質的自己を取り戻し、万物の流出源である根源的一者との合一に近づくのである。なぜなら、一者とは自分自身の根源のことでもあるからである。つまり自分自身の根源的領域に近づくことによって、その人は一者に近づくのであり、真の認識とは本質的根源的な自己と、一者の同一性を悟ることである。グノーシス主義においてはプレローマの流出元とされているその根源的一者は、あらゆる物事の根本的な原因であり、だから、あらゆるものには根源的一者が潜在している。自分自身のなかにも根源的一者はあるのであって、あるいはこういえるかもしれない、根源的一者を真に見つけ出すには他のものの原因を探ってもそれは具体的経験としての一者の発見には繋がらず自分自身の原因であり根源であるところのものを突き詰めていくことによってはじめて具体的に一者の発見を体験でき、その神的な体験こそが、その人に本当の叡智と救済を与えるのである。なぜなら一者というのは何も分裂していない、存在の単一性を示す様態を象徴していて、多も分裂もない状態においては、争うものはなにもなく、世界はそれ自体として完結しているからである。根源的一者とは、自己の中心であり宇宙の中心でもある極め難い一点を象徴している存在である。善と悪というのは同じ同一物を別の角度からみたときの見え方のようなものでしかなく、この根源的な一点においては善も悪もまったく同一のものであるから、善と悪などの二極的なもの同士の間で対立がおこることはなく、この一点を悟ることが、善悪の対立によって引き裂かれるという生の苦悩から救われる唯一の方法なのである。しかし、この一点に真にたどり着くには、つまり善悪の相対性を、最終的に同一性を認識するには、一度は善と悪の抗争を自分の心の中に抱え込むほかはない。つまり、悪に対しての認識も深めなければならないのである。一般的に善と認められているものに則ることは、善悪の相対性もそれらの抗争も知らずに居るうちは平穏ではあるかもしれないが、それは一極に偏っている状態でしかなく、もう一極の方は知らずにいるので、心の全体性は得られない。だから真に宗教的であろうとするなら一点に近づくまで認識を深めなければならないのである。もちろん完全に認識できるわけではないが、この認識に限りなく近づき、この一点を悟る、つまり象徴的にいうと根源的一者との合一に近づくことで、その人の心には何も分裂するもの相対立する二極がない状態になって、よって、二極同士が争うことによる苦痛がなくなり、また、分裂した二極のうちの負の極が退けられて忘却されるということは起こらなくなるのであって、その人の心は平穏と全体性を同時に得て、完結することになる。


・参考文献


各種神話図鑑


『新約聖書』


林道義『ユング思想の神髄』


ユング『元型論』


プラトン『ティマイオス』


2024年3月9日土曜日

元型について

 ”元型論”というのは、ユングの代表的な一著作のタイトルにもなっているし、その著作に限定せず、ユングの遺した学問的な遺産のなかでも際立って重要な、つまり、ユングの思想の根幹に位地する、理論あるいは仮説である。


 ユングは、同じひとつの概念に対して曖昧な何通りもの説明を下したりしていて、元型に関してもその例に漏れない。元型の定義をいろいろと違った方法で説明している。それは、たぶん元型というものが簡単には説明できない、極めて認識しづらいものであって、元型を直接理解することは不可能にちかいものだから元型論というのは色々な言説や無数の具体例の中から総合的に導かれた理論であり、だからそれを説明するには、色々な方向から多角的に説明するしかなかったのだと思う。だから、そのユングによって曖昧に何通りも説明されている元型を理解する側も、いろいろな方向から総合的に認識していく必要があるように思われる。立方体のような簡単な形の立体なら、一方向からみただけで大体その外観がつかめるものであるが、歪な形をした立体は色々な角度からみてはじめてその立体的な姿を把握できるものである。しかも一つ一つの写真をばらばらに個々に覚えるだけでは、その立体の姿はつかめない。自分の想像力によって、いくつもの写真が映す面を頭の中で合体させて立体化させてはじめて、その立体の形が浮かび上がるのである。とにかくユングの元型という多角的に綜合判断しなければならない歪な立体みたいなややこしいものについて、色々な角度から、書いてみます。


ユングは、神話や宗教を研究していくなかで、人間の心の振る舞いに、一定の本能的な傾向をみつけた。その心の振る舞いや働きを導くときのパターンがすなわち元型。世界各地の神話や宗教には、あらゆる共通点があるが、それは生得的なものつまり元型によって決定されているからだということになる。つまり人間の心は人類共通の形式によって方向付けられていて、無意識のうちにその形式に従って考えたり想像したり、その考えに従って行動したりしていることになる。まだ元型というのは仮説の域を出ない仮定的なものであって、直接的な証拠から導かれた理論ではないが、ユングの膨大な量の博学と膨大な数の患者を診てきた経験を考えると、ユング個人の心によってつくられた理論だとしても、いろいろな事例に適応しうる、限りなく客観的妥当性のある仮説的理論だといえる。


ユングが元型論という考えをもつようになった発端は、最初に勤めていた精神病院においてである。長期間隔離されていた不治の精神分裂病患者とユングは関係をもつようになった。その患者は、発症後、それまで誰からも意味不明の狂人だとして相手にされたことがなかったのだが、精神病といっても人間の心の病である限りなにかしら意味を秘めているだから患者をただ隔離するだけの精神医学はよくないと考えていたユングは、この患者に興味をもちはじめ、患者の支離滅裂な話を根気よく聞いていた。その患者の話のなかに、「太陽の男根がみえる。私が頭を左右に動かすと、それも同じように動く。それが風の原因だ。」というのがあって、当時のユングはもちろんそんな馬鹿げた話を理解できなかったのだが、とりあえずその患者の言葉をメモして覚えていた。そして、四年後、ユングが神話や神秘主義について研究しているとき、ミトラ教の儀典とされる文書のなかに驚くべきことが書いてあった。太陽からぶら下がっている筒があって、それが西に傾くと東風が吹き、東に向くと西風がふく、この筒が風の原因である、というような内容である。これは、精神病患者の支離滅裂な空想とほとんど一致している。こういうことがあって、ユングは人間はなにか共通した原イメージをもっているのではないか、ということを考えるようになり、世界各地の神話や宗教を研究していくなかで、それは確信に近づき、元型論として理論化されていくことになった。


後天的に経験したり記憶したり習ったりして形成されていく”意識”の内容ではなく、その意識よりも深層にある”無意識”、その無意識の中でも特に深層にあって後天的なものの影響を受けるものではなく遺伝によって与えられ先天的に決定されている要素のみで成り立っている”集合的無意識”。その集合的無意識は、意識の内容と比べればもちろん混沌としていて意識の側からすれば把握しづらいが、それは無意識を意識化していない意識の側からみたときの印象であって、実は無意識の深層の集合的無意識の内容も一定の秩序やパターンによって決定されているとユングは考える。集合的無意識の内容を方向付けるその形式を、ユングは”元型”と呼ぶ。


よく誤解されてきたことなのだが、元型は形式であって内容ではないとユングは繰り返し主張している。つまり元型それ自体は遺伝するが、集合的無意識の内容であるイメージや観念がそのまま引き継がれる、つまり死んだ先祖からの記憶として今生きる人間に受け継がれている、のではない。その無意識のイメージや観念を生む傾向、そのイメージや観念が生まれるときのパターンなどが遺伝するのであって、そのイメージや観念、集合的無意識の内容そのものが引き継がれるのではない。ユングの集合的無意識や元型をオカルト的に誤解する人は、今生きている人と古代の人々が、集合的無意識によって繋がっていると考えるが、ユングは、共時性という超常現象に関する仮説でたまにそういうのに類した発想を展開することがあっても、仮設の域を出ようとしているほとんど経験科学的な理論である元型論においては、そのようなことを一度も述べたことはない。もっと身体的で、古代からとかではなく時間的にも短い単位の、具体例で喩えるなら、運動神経のいい家系があったとして、その家系は運動神経のよさは遺伝しても、その家系に属するアスリートが訓練によってえた能力は遺伝しない。先天的な、身体の構造、筋肉の質、反射神経の鋭敏は遺伝するが、最終的な身体の構造、肉付き、反射の速さは、遺伝しない。もしそれが遺伝してしまえば、当然、後代になっていくにつれて身体能力は優れたものになっていくことになる。同じように、集合的無意識の内容が遺伝してしまえば、つまり観念やイメージが後代に受け継がれてしまっては、人間の記憶というのは個人単位でもだんだん増えていくことになってしまう。しかし事実はそうではない。集合的無意識については、その形式のみが、遺伝するのであって、内容が受け継がれたりすることはない。そのイメージや観念が生み出される傾向、それを方向付けるパターン、つまり元型のみが、遺伝される生得的なものであって、集合的無意識の内容は生得のものでもなく遺伝するものではない。その内容が、生得的なパターンによって決定されている、というのが、元型論のいうところである。ユングは、元型が無意識の内容であるとか、ある観念やイメージがそのまま遺伝されるとかいう誤解をなくすために、元型を、元型それ自体と元型的イメージにわけて考えることもある。引用すると「何度も何度も私は、元型はその内容に関して決定されている、つまりそれは一種の無意識的な観念であるという誤解にあっている。元型は、その内容に関して決定されているものではなく、その形式に関してのみであり、それも非常に限られた範囲においてのみそうであることを、再びここで指摘しておかなければならない。元型的イメージは、その内容に関して、それが意識化される問い、従って意識的経験の素材によって満たされるときに満たされるときにのみ決定される。しかしながらその形式は、結晶の軸構造と比較しうるものであろう。それ自身は物質的な存在ではないが、母液のなかの結晶構造をつくりあげるかのようなものである。(以下「……」は省略記号とする)……元型はそれ自体では空で形式的であり、先天的可能性にすぎない。それは先験的に与えられている表象可能性なのである。」『元型論』(元型と集合的無意識) つまり、元型それ自体という形式的なものだけが遺伝し、集合的無意識の内容である元型的イメージが遺伝するわけではない、そしてその元型的イメージは、元型によって決定されているのだから、そのまま遺伝することはないが、元型それ自体の作用を介して超時代的に似たようなものとして現れる、ということである。


ユングの「元型」は、プラトンの「イデア」とよく比較されることがある。両者は、類似点と相違点をもっている。プラトンは、生々流転する現実の背後には、イデアという永遠に普遍の鋳型があると考えた。椅子を作る人が椅子の観念を知っている限り何回椅子がこわれても新しい椅子がつくられるように、現実上にあるものは色々と生まれては消滅するというのを繰り返しているけれど、それでも一定の同じ現実をたもっていられるのは、現実の背後にイデア界というのがあってそこに存在するイデアにそって現実のものが作られているからだとする。円が円として現実にあるのは円のイデアという抽象的な鋳型がイデア界に存在するから、人間が何かを美しいと感じるのはあるいは美しいものがこの世にあるのは美のイデアが存在するから、そういうのが、イデア論の簡単な概説になると思う。そしてプラトンは、イデアは五感で知覚できるものではなく、理性によってのみ把握できるものであるとした。このイデア論と元型論は一部共通点をもっている。あらゆる現象に先立つ普遍的なものであるという点、具体的なもの、あるいは具体的なイメージを形作るための鋳型として作用するという点で、二つは共通している。また、ユングは元型それ自体は人間によって直接知覚できるものではなく、その元型によってつくられた元型的なイメージを介してのみ、元型がどんなものかを把握できるとしているが、このことはイデアが人間の五感によっては近く出来ない超越的なものであるというイデア論と類似している。一方、元型とイデアの大きな違いは、プラトンのイデアというのはイデア界というところに存在している実体であり、そのイデアが人間の知覚できる現象界の人間心理や物質を含めあらゆるものを決定しているとしているが、ユングの元型は、そうした見えない「実体」や存在者ではなく、人間の深層心理の動きの「形式」である。


元型というのは、無意識が生み出す夢、空想、神話、御伽噺を生み出す人間の意志でもなければそれらの内容でもなく、それら夢や神話にみられる型のことをいうのであって、その生得的な型によって無意識の内容が方向付けられているから、夢や神話には普遍的な共通点がみつかるのだといえる。またプラトンの理性によってのみイデアを把握できるとするイデア論とユングの元型論の大きな違いは、イデアというのが理性によって把握できる抽象的なものであるのに対し、元型は抽象的なものではなく具象的なものである。正確にいうと元型それ自体は抽象的なものでも具象的なものでもなく、形式やパターンとしか言いようがないのであるが、その元型が生み出す元型的なイメージが、かなり具象的なものであって、理性よりも直観や感情によって把握できるものであるといえる。この意味で、プラトンのいうイデアよりも、ショーペンハウアーがプラトンのイデア論を解釈して自分の思想体系のうちで言い直したイデアのほうが、ユングの元型的なものに近い。ショーペンハウアーは、イデアを理性によって把握できる抽象的なものではなく、天才の純粋認識によってのみ把握できる直観的なものだとした。「……イデアに到達できるのはただ天才か、それともせいぜいのところ、天才の作品がきっかけとなって自分の純粋な認識力を高めて天才的な気分になった人に限られる」『意志と表象としての世界』(49節) ここでいう、天才的気分、というのはユングの解釈によると感情状態だとされているし、ショーペンハウアーはイデアと芸術を結びつけることが多いので、ショーペンハウアーにとってのイデアというのは具象性をもち人間の心理に直接的に作用する実感的なものだということもいる。ユングは、ショーペンハウアーが、イデア(とくに芸術に関係する言説においてのイデア)が、自分が根源的なイメージあるいは元型的なイメージとしているものと同じようなものとして説明されている、と書いている。イデアという先験的に存在するものは哲学者によって理解のしかたが違うので、イデア的先験的なものを、理念という抽象的なものと根源的なイメージ(あるいは元型的なイメージ)という具象的なものにわけるなら、「理念」が理性によって認識される抽象的なものであるのに対し、「根源的なイメージ」という元型的なものは具象的に人間の心にあらわれるものであり理念とはちがって先験的な感情価を帯びている。ユングは、理念は根源的イメージという元型的なものの後にうまれるものであって、根源的イメージは全ての心理的なものの母胎であると考える。つまり最初に感情的で具象的な根源的なイメージがあって、その根源的なイメージを合理的に使用可能なものとするために感情価を抜き去ったあとにできる抽象的なものが理念であると定義している。ショーペンハウアーはイデアについて比喩的に次のような説明をしている。イデアと概念の違いについて「……概念は生命のない容器にも似ている。人がそのなかに入れたものは、容器の中に実際に並んだまま横たわっている。しかし容器のなかからは、こちらが入れただけのものより多くは、取り出すことが出来ない。これにひきかえ、イデアは、イデアを把握した人間のもとでさまざまな表象を展開する。この表象はイデアと同じ名前の概念のうちには含まれていない新しい表象だからである。つまりイデアは生命のある、発達する、生殖力をそなえた有機体に似ていて、こちらがあらかじめ入れておかなかったものをも自分で生み出す力をもっている」『意志と表象としての世界』(49節) このように、ショーペンハウアーは、概念という抽象物は無機的なものであるのに対し、イデアという直観的なものは有機的なものだといっている。ユングは、自分の著作でショーペンハウアーのこの言説を引用して、イデアを根源的イメージに言い換えれば、そのまま自分の言いたいことになると書いている。プラトンやカントのいうイデアは理念的なものであり、ショーペンハウアーのいうイデアは、ある意味では、元型的なものであるといえる。ユングは、理念的なものや概念的なものが明瞭性を持っているのに対し、元型的なものは生命力をもっているという。このことは、ショーペンハウアーの引用の「生殖力を備えた有機体」という喩えとも共通している。ショーペンハウアーのイデアについての言及をさらに引用するなら「概念は生活にとってどんなに有益であろうと、また学問にとってどれだけ有用であり、必要であり、生産的であろうと、芸術にとっては永久に不毛でありうるが、一方、イデアの把握は、あらゆる本物の芸術作品の唯一の、真の源泉である。……イデアを汲み出すのは本当の天才か、あるいは瞬間的な霊感によって天才の境地にまで達した人のみである。不滅の生命を宿す真正の芸術作品は、ただこのような直接の受胎からしか生じようがない」『意志と表象としての世界』(49節) ショーペンハウアーのいうイデアが、ユングの元型に近いものであるとすると、芸術は、元型に導かれて集合的無意識の内容を開示し、集合的無意識の元型的な力を発現し、元型的なイメージを体現することにおいて、真に価値をもつものであるということができるが、実際、ユングもそのようなことを述べている。芸術は、大衆の表層的な意識からはぼんやりとしか感じられない集合的無意識、しかし同時に人間の心理にとって重要な精神的源泉である集合的無意識の内容を語ることで、鑑賞者を内側から感化し、元型的な認識に至ることを手助けしてくれる。人は、芸術によって、ショーペンハウアーのいうイデアや、ユングのいう元型を把握することができ、永遠に生命にとって重要である心理的要素をくみ出すことができるのである。絶望的に暗鬱な世界に響く悪魔の歌声のようなボードレールの詩、文明から逃亡せざるを得ない無垢でありつづけた精霊の祈りのようなランボーの詩、女性を女神のように愛してしまったウェルテルの自殺などは、元型的なものの典型である。ただ、ユングは、芸術に美的な価値は見出しても重要視せず、意味的な価値のみをくみ出そうとする、あるいは美よりも意味を優先させるので、芸術に関して元型的という言葉をつかうときは、そういうことも考慮しておいた方がいいと思う。


天才の表現、芸術作品、神話や宗教には、元型的なものが現れている。あるいは元型的なものが現れているからこそ、それが永遠的な人間の精神的財産になったのだともいうことが出来る。天才や、集合的無意識の元型的なものへの認識に至った人は、個を超越する。「……ショーペンハウアーの作品は彼個人の人格をはるかに超え出ている。それは数え切れないほどの人間がぼんやりとしか考えたり感じたりできないことを表現している。ニーチェについても同じである。とくに彼の『ツァラトゥストラ』はわれわれの時代全体がもつ集合的無意識の諸内容を明るみに出しており、……」『タイプ論』とユングが書いているように、元型が生み出した集合的無意識の内容の認識に至ることによって、人間は刹那的な単なる個々の認識から開放され、もっと永遠的に普遍の価値をもつ真理を認識することができるのだといえる。ユングはこのような認識にいたることを、宗教的なことだと形容している。ユングのいう宗教的とは、決して神の信仰に関するものではなく、神に関していうなら、神の信仰というより神の認識に関するものであり、一般的に、元型的なものつまり集合的無意識の内容の認識に関することを宗教的といっている。「問題の解決は『ファウスト』の場合も、ワーグナーの『パルジファル』の場合も、ショーペンハウアーにおいても、ニーチェの『ツァラトゥストラ』においてさえ、宗教的である。……ある問題が宗教的に理解されるとすれば、それは心理学的に言うと、その問題が意味深いということ、特別に価値が在るということであり、人類全体に関わっている、それゆえ無意識にも関わっている、ということである。」『タイプ論』


元型、というのは個人を超越する生得的に普遍のものである。しかし元型の普遍性は、概念の表面的な一般性とは別のものである。ショーペンハウアーのいうように概念というのは生命力のないものであるが、元型は生命力を生み出す力を持っているものである。たとえば、本能的なものは元型によって導かれて元型的イメージとして人間に認識される、つまり元型的なイメージは本能に関するものであるからには強力な感情価を有している。概念というものが、具体的な事例や経験から抽象されてはじめて一般性をもつに至ったものであるのに対し、元型というのは生命が生得的に持っているという意味での普遍性をもっている。つまり、概念が、例えば先生と生徒の関係についてどう考えるかという質問の答えとして生徒は先生に従わなければならないという一般性を与えるものだとすると、元型は、例えば母親と子の関係についてどう感じるかというかというと多くの人がそこに愛をみるような意味合いで普遍的なのである。先生と生徒、という関係は、生得的なものに関するものではなく、人間のつくった様式にもとづくものであるが、母と子の関係は生得的なものであり、そのなかで生まれる感情は本能である。別の具体例でいえば、死に対する恐怖は本能的で生得的であるが、13や9という数字に対する恐怖というのは特定の文化においての経験のなかで決定されてきたものでしかない。概念と元型的なものはどちらも普遍性をもつものであるが、こういう点つまり概念が経験的なものから抽象されてはじめてできたものであるのに対し、元型は生得的という意味で先験的であるという点で、全く別種の普遍性をもっているといえる。


元型はこのように人類共通の普遍的なものではあるが、しかし、元型が元型的なイメージとして個人に把握されるとき、それは個人の心を介して行われるのだから、当然、個人によって彼が把握した元型的イメージというのは異なるものである。例えば、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、集合的無意識の内容をくみ出しているが、その認識や表現はニーチェの個人の精神というものに大きく左右されている。だから、元型的なイメージのなかに人類共通の元型を見出して永遠に価値のあるものの認識にいたるのも重要であるが、その元型が個人やそれぞれの文化によって元型的イメージとして具体化されているということを考慮して、元型的イメージの現れ方の文化間や個人間の差に注目することも重要である。日本というキリスト教には疎遠な国の文化で育った人が、キリスト教のみによって元型的なものの認識に至ることは稀である。キリスト教というのは、根源的な次元では普遍的で元型的なものではあるが、それが西洋の価値観を媒介してはじめてキリスト教の教義として成立しているのであるから、その西洋の価値観を通ってキリスト教の元型性に辿りつけても、西洋と関係していない日本人がそうすることは辻褄があわない。ニーチェの精神という個人的なもの、西洋の価値観という特定の文化に関わるものなども、元型が元型的イメージとして表現されるときにおおきく関与している。というよりも、個人的なものや文化差的な要素を媒介してはじめて元型的なものが表現されるといえ、だから、ある特定の元型の表現だけで満足してしまえば、それは一面的にしか元型を捉えていないことになり、元型それ自体に対する限りなく接近した認識をえるとするなら、多面的にあらゆる差を考慮しながら元型を見つめるべきだといえる。たとえば、林道義 著『ユング思想の真髄』より引用すると、「キリスト教とグノーシス主義とは、人間の自己実現に必要な心理的な要因を半分ずつもっていた。すなわちキリスト教は「神の人間化」を、グノーシス主義は「人間の神化」を。不幸にして両者は互いを敵として争ったが、じつは互いに自身の欠けているところを補い合う存在だったのである。両者を綜合したものこそユングの思想だということができる。」 このことは、自己元型という元型の中でも最も重要な元型に対する認識が、キリスト教徒とグノーシス主義で対照的な差があり、その両者の認識を総合的にみてはじめて本当の自己元型の認識や自己実現に至る、ということを示している。


集合的無意識は、内向的な心理過程によって把握される。近代以降の世界観では、内面の心的なものというのは外的な事実の派生物でしかないという考え方もあり、もちろんそれは極端な例であるが、一般的に、内的なものよりも外的なものを優先させる傾向がつよい。しかし、心というものは、自律的な構造をもったものであり、だから外的なものからみたら二次的なものでしかないのではなくそれ自身価値をもったものである。ものを認識するには、主体が必要不可欠であり、認識するという動詞の主語にあたるのは人称以外にはありえない。認識が認識の主体に作用されているのは当然のことなのだから、客体の性質だけでなく主体の性質も、認識においては重要な要素になっている。だから、近代以降の西洋合理主義、主知主義においての、内的なもの主観的なものを蔑視したり自己中心的だと批判したりするのは間違っている。それに、無意識の心理要素というのは、内的な心理過程を経てはじめて体験されるものであり、そういう体験から得ることは、外的な表面の価値観に則ることよりも、ずっと重要なのである。なぜなら、表面的な価値観というのは、時代によって変わっていくものであるのに対し、無意識の心理要素、とくに集合的無意識の元型的イメージなどは、超時代的に不変の価値をもったものであるからである。時代に合わせるとはすなわち、その時代に流通している概念や言語に価値を見出すということであるが、ショーペンハウアーが概念と(上述で根源的イメージという意味合いの)イデアの違いについて述べたように、概念というその時代それぞれの経験からつくられた抽象物は無機的な力しかもっていないのに対し、永遠に普遍の価値をもっている根源的イメージすなわち元型的なものは、それ自身で有機的な生命力を有している。


無意識の深層の元型的イメージへとたどり着くということは、そのためには内面へと認識を向けなければならないのだが、以上のように生にとって重要なことである。しかし、元型的なものというのは重要な価値をもったものであるが、同時に恐ろしいものでもある。なぜなら元型は、形式という面だけでなく、エネルギーを生み出すものという面ももっていて、そのエネルギーというのが個人の制御を超えた激しいものになることもあり、ときには破壊的な働きをしてしまうからである。元型の力動性についての言説を引用すると、元型は「母であり、形式であって、経験されるものはすべてこの形式によって把握される。これに対して父にあたるのは、元型の力動的な面である。つまり元型は形式とエネルギーの両面をもつのである。」『元型論』 また、元型の認識とは内的な心理過程であり、つまり孤独な作業である。外部とのつながりが遮断され心理の方向が内側へ向かっているときほど集合的無意識に接触することになる。だから、集合的無意識の元型が危険なかたちで発現されてしまっても、その人はかなり孤立した心理状態にあるのだから、外部のだれからも心理的な救いを得られない場合が多い。元型という力のあるものは、色々な意味で危険な要素ももっているのである。元型は力動的なものであるが、この性質を、ユングは”ヌミノーゼ”といっている。あるいはヌミノースな、という形容詞で表現することもある。ヌミノーゼとは、宗教学者のルドルフ・オットーによって名づけられた現象であり、「聖なるもの」に対しての感情のことをいう。聖なるものや神々しいものに魅惑させられるときというのは、美的な印象だけでなく、畏怖や激情のような強い感情価を帯びた心理を伴うことが多い。元型が生み出す心的力動は、ヌミノースな性質、つまり、恐ろしくて、魅力的な性質をもっているのである。だから、元型的なものを認識するのは大事であるが、それが危険をともなうことも考慮しなければならない。元型は力をもっている。この恐ろしい力に自我が支配されている状態こそ、"憑依"という現象である。また元型的な力というのは、それが認識されず触れられずにいると、無意識の中へと抑圧されて、その抑圧が限度をこえると、反作用的に一気に表に溢れてしまうということもある。その反作用的に一気に発現されるときというのは、必ずしもその発現の媒体になっている人たちに意識されているとは限らず、無意識のままであることが多い。この状態が、集団妄想であるといえる。ドイツのゲルマン民族のオーディンに象徴される荒々しい精神は、長い間キリスト教という平和主義の清らかな宗教や、近代の合理主義によって、つまり無意識の世界をあまりみない意識的な価値観によって、抑圧されてきた。抑圧された元型的なもの、ゲルマンの血は、表面には姿をみせないけれど地下でずっと力を蓄えながら潜在する。だから、意識的なほうへあるものが少し緩めば、とつぜん潜在していた力が逆転的に地上へあふれ出すのであり、このことは元型的な力が意識によってうまく方向付けや統合がされていないことになり、生々しい元型的な力の発現というのは危険なものなのである。たとえば、ゲルマンの血は、ナチスという狂気的な集団妄想によって地上に現れてしまい、悲劇が起こってしまった。もし、ニーチェという骨の髄までゲルマンの荒々しい血が染込んだ思想家の言説を、多くのドイツ人たちが、ヒトラー的にではなく哲学的に解釈することができたら、抑圧されたゲルマン的な元型的潜在力を思想というかたちで認識することにより、しっかりその危険な力が方向付けられたのかもしれない。つまり、元型的なものを認識すること意識化することが重要なのであって、元型的な恐ろしい力のなすがままになっているだけでは、憑依や集団妄想の状態に陥ってしまうのである。思想や芸術や神話によって導かれてはじめて、元型的なものは安全に意識へと統合される。ゲルマン人の危機を、時代批判のなかで誰よりもいち早く察したニーチェでさえも、元型に憑依されているようなところがある。ニーチェは自伝の最後のほうで、自分を、十字架にかけられたイエス、愛による平和と禁欲を説くイエスに対するものとして、本能と激情の体現者であるディオニュソスの弟子であると比喩的に自称している。発狂後にいたっては、比喩ではなく、ディオニュソス、仏陀、ナポレオン、イエスなどと自分を完全に同一視している。発狂後の完全な狂乱はともかく、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に見られる過剰な超人への望み、神の否定あるいは神に対する憎悪や、発狂直前のディオニュソスと自分の同一視は、自己元型にとり憑かれていたからだとユングは考える。自己元型というのは、元型のなかでも最も上位にあるもので、神のイメージを生むものである。ニーチェは哲学者や思想家の中でも特に元型的なものへ迫り、生の深淵の奥深くまで覗き込んだ人であるが、ユングによれば、ニーチェは、キリスト教の神が当時うまく機能していなくて生の創造性を貶めてしまう偶像に堕っしていたことはうまく見抜いていたものの、神というものがもつ本質的な意義を見落としてしまっていた。だから、自己元型に近づいたとき、それを神のイメージとして認識し意味を求め意識化するという自己実現の過程を達成することはできず、結果的に自分と神を同一視し、つまり自己元型にとり憑かれ、その強力な元型的な力に身をゆだねていまい、最終的には自我が破壊され、狂人となってしまったのだと考える。神を殺し、自分が(心理的に)神となるという、大きな罪を犯してしまったため、罰として、その神的なものを自分ひとりの自我で制御することは出来ず、自我の破綻がおきてしまった。人間一人の中に、神的な恐ろしいものを全て抱え込んで、超人となるのは、すなわち破滅でしかなく、元型を認識・意識化することが重要なのであって、元型に憑かれて、恐ろしい力の成すがままになるのは破滅を導いてしまうのである。「ニーチェの『ツァラトゥストラ』を一度注意深く、心理学的な批判の眼をもって読んでみたまえ。ニーチェは稀に見る首尾一貫性と宗教的な情熱とをもって、自分の神が死んでしまった「超人」を描いたのである。「超人」とは、神の世界のパラドックス(善と悪)を死すべき人間という小さな入れ物に詰め込んだために、破滅してしまった人間のことである。」『元型論』


このように集合的無意識の領域は恐ろしいものであり、しかも集合的無意識と表層の価値体系が完全に切り離されてしまっている現代においてはそういう領域との接触というのはかなり孤独な心理過程でもあるのだけど、やはり元型に触れるというのは生命にとって普遍の価値をもつことだと思う。人間の心の深層に対する認識が欠けた時代に生きてきた人、つまり無意識の深層に潜む破壊的な生の力に無縁の価値観のなかで生活してきた人にとって、内面の世界を覗き込むという行為は、周囲の一般的平均的な人から見れば異端でもあるし、無意識の世界というのはもともと危険な領域であるから、困難なことなのだけど、元型を体験するには、そういう孤独な狭い地下への道を通る以外にはない。元型から心理的エネルギーをうまく汲み出すことによって、その人の心はしっかり生命の基盤に根ざすことになる。川に浮いてる水草がたくさんあったとして、隣の水草同士絡まりあったりして、一つの大きな塊をつくっている。一度その塊から離れてしまう水草が一つあった。その水草は、流されたりして一定した位置を保てなくて孤独で不安を約束される。しかしやがてその水草は本能的に根を伸ばし、時間をかけて水底にまで根が達し、しっかり固定された。そして以前の隣の水草に支えらていた時の状態よりも安定したとする。このとき、そういう安定した地に根を下ろした生存を手に入れたのは、一度隣の水草と逸れてしまったことがきっかけになっている。そして、「地」という生の普遍的な場所と繋がっている。水草同士絡まりあっていたときは、水草同士の支えあいが重要だったけど、でも地に根を下ろすことの方が実はもっと普遍的な価値のあることだった。この水草は、周りに水草があろうとなかろうと、川に流されずに安定していられる。外面との関係、社会的関係というのはこのたとえの中では、水草同士の絡まりあい。内面の深くに認識の根を下ろしたとき、根源的な普遍の生の基盤つまり、水底、地に、その人の自我はしっかり固定されることになる。


元型には、自己以外に、影、アニマ、アニムス、大母、童児、トリックスター、老賢者などがある。ユングはこのように人格化された概念をよく使うのであるが、それには恐らく、無意識がもともと心理の具象性を持っているという理由と、人格化された概念を使った方がユング心理学を体験しようと思っている人にとっては心理を人格化具象化しながら体験的に元型概念に触れることができるからという理由があると思う。無意識へ遡れば遡るほど、思考には感覚が付着し、具象的になる。具象性とは、抽象性に対するもので、五感やその他実感的なものが混じっている心理の性質のことをいう。具象性があるほうがイメージしやすい。たとえば、「影」は自分の今まで見られていなかった部分、人格の否定的な領域、表面とは反対の価値観、というような意味なのだけど、もし「影」という概念が別の抽象的な名前だったらその場合はよりイメージしにくく、この概念が「影」と具象的に比喩的に名づけられていることによってこの概念はイメージしやすくなっている。無意識を湖のような水に喩えてみると、「影」は水面に移った自分の影だと喩えられ、水の中へ入るとき自分の影を通らなければならないように「影」は無意識への門だということもできる。ユング心理学というのはただ覚えたり考えたりするだけでなく、体験することが、つまり実際に元型に触れることが大事なのだから、「能動的想像」必要になってくる。想像するときはユング的にいうと無意識の内容が意識に進入することが起こるのだが、能動的想像とは、無意識の方から一方的に意識への許しを許し続けるだけではなく、意識的な構えもしっかり保ち、無意識から湧き上がってくるそれ自体では意味のないイメージの断片をしっかり読み取り、ユング心理学の概念と照らし合わせたりしながら意味づけしていくことをいう。無意識は具象性が高いので、具体的になにかイメージできるものについて想像したほうが、ただ抽象的な概念について思考するよりも、無意識の内容を喚起しやすい。そういう意味で、元型のそれぞれのように意味のあたえられている具象的人格的な概念は、無意識の深層を体験するには丁度いいのだと思う。しかし具象的であればあるほど他の概念や心理要素と分化されていなくて絡み合っていて、溶け合い、はっきりせず、曖昧になってしまう。普通の言語を読み取るときは一義的であるのに対し、比喩を理解するときときは多義的な読解が可能であり、曖昧な印象がするが、これは比喩による表現が具象的であることに由来している。ユングの文章は、元型に関しての理論だけでなく、全般的に、比喩や比喩かそうでないか分からないような言葉がよく出てくるし、ひどく連想的に主旨があちこち移り変わったりで、全体的に曖昧な印象がするが、これは、ユングがもともと抽象的な思考よりも具象的な思考の方が得意なのか、または無意識の深層という具象性の極めて高い領域に常に接しているからだと思う。ユングの概念の定義や説明の仕方は曖昧である、という批判をユングは浴びたことがあるが、無意識という非常に具象性の高い領域を洞察する心理学という分野においてはそういう思考の性質になってしまうのは必然的なことなのである。むしろ、人間の心理全てを完全に抽象的な要素へ還元し、心理が還元されたそれぞれの要素を抽象的な概念によって公式的に組み立てて人間の心理を科学的に説明する、という精神分析学の方法は、意識の側からみたらいいように見えても、患者や分析対象の人が無意識を体験しているのに対しその分析する医者や学者が無意識には接触せず単に意識の側からのみ分析を進めることになり、本質的に無意識の領域を洞察しているとはいえない。またレヴィ=ストロースは、西欧の抽象的な思考が、現実に存在する具体的なものから離れてしまっていることを批判し、神話的な世界観や未開人的な野性の思考の必要性を説いた。未開人は具象的な心理で生きている。だから、具象性は太古性とも深い関わりを持っている。そういう意味でも、集合的無意識という太古から変わらないものを説明するにおいて、たとえ曖昧になっても、具象的に説明するのは正当なことだと思う。元型の性質のひとつの太古性は、たとえば激情的で荒々しく、神のようなあるいは悪魔のような、極端で荒唐無稽な性質のことをさす。神話に出てくる神々やその他人物、物語の展開をみればみんなそんな感じである。また太古の人は、ものごとの境界が曖昧で、自他の区別もつかなく、とにかく色々なものが溶け合ったような世界観のなかで生きている。このような様態を、ユングは、レビィ=ブリュールの述語を借りて「神秘的融即」と呼んでいている。神秘的融即とは、主体が自分を客体と明確には区別できていなくて、客体と自分を部分的に同一化しているような状態をいう。たとえば、トーテミズムは、特定の動物を殺すことを禁じているが、これは、その未開人が自分とその動物を部分的に同一化しているため、つまり両者が神秘的融即の状態にあるため、先祖がその動物だと思い込んでいることに由来する。神秘的融即の状態においては、心理の具象性が高く、思考に感覚が混ざっている。感覚とは生理的刺戟を知覚することであるが、未開人はその感覚と思考がまざっているために、たとえば自然物について思考するとき、感覚的刺激が伴いやすい。感覚とは五感のような外界との接触に関するものだけではなく、身体の内部の感覚など自分が存在しているということに伴うような内的な要素に関する感覚があり、神秘的融即の状態においては主体と客体が溶け合っているため、未開人は内的な要素を外部の自然物に投影してしまう。神話や童話において、動物や自然物が人間の言葉を話したりするのは、このようなことが起こっているからである。内的な要素とは無意識の心理と関わるものであるから、神秘的融即の状態にある太古の人は、客体に無意識の深層の元型的なものを投影していることになる。だから、太古の人たちの物語である神話には、元型的なものがたくさん潜んでいる。


ユングは元型をかなり重要なものだとみていて、だからこそ元型論はユングの思想の根幹に位置するのであり、その重要性を何度もつよい口調で訴えている。そこでなぜ元型が人間の生にとって重要なものであるかを個人的に考えてみる。元型、というのは、生得的なもの、遺伝されるものである。人間の遺伝子というのは、先史時代から続く生命の長い経験によって決定されている。生命というのは身体を動かしているだけでなくたとえ人間のように鮮明なものではなく漠然としたものであっても意識をもつものであるのだから、身体的な構造だけでなく、心的なものも、自然淘汰のなかで決定され、遺伝子に刻み込まれている。死にたいする恐怖感は生命の本能であり、それは生まれつきそなわっている。その遺伝的生得的なもののなかで心に関するもののうち、とくにイメージをつかさどるものが、ちょうど元型にあたるといえると思う。元型は、生命の長い大地上での他の生物や環境との干渉のなかの心理的経験によって決定されたものであるのだから、生命にとって重要な価値をもつものであり、心の働きに関して生命が生きる上で大切な方向性を握っているものだといえる。だから、元型は、無視するべきものではなく、ただ学説として取り扱うだけでもなく、実際に自分の心のなかに見つけ、それを体験することが、人間の生にとって意義のあることなのだと思う。元型によって構成された集合的無意識という先天的なものではない、人間の後天的な意識のうちにあるものは、太古から続く生命の経験という単位に対しては比較的短い期間のうちに形成されてきた人間の文化というものを、生まれてから教えられて得たものである。それは人間の文化のなかで生きる限りにおいては価値をもつものであるが、生命一般というのはもちろん人間の文化だけが全てではない。むしろ、生命の膨大な経験からつくられた心の生得的要素によって、人間の文化の軌道が、自然にも生命にも調和するかたちへと導かれてこそ、その文化は生にとって価値のあるものとなるのだと思う。その心の生得的要素とはすなわち集合的無意識であり元型なのである。ユングは再三、元型を‘導くもの’だといっている。生命にとって重要な価値をもつ元型によって人間の精神的なものが導かれることで、それは意義をもつことになる。元型から切り離されてしまったつまり集合的無意識には繋がっていない生は、人間的な価値をもっていたとしても、人間の文化以前の大自然を考慮するなら、本質的な価値をもってはいないといえる。いわば集合的無意識は地下でその元型は地下に潜んだ大きなエネルギーであり、そこに根を伸ばすことで、生命にとって重要な心理的エネルギーを汲み出せるのである。神話は、科学やその他色々な概念体系や言語体系などの、人間が西暦を向かえてはじめて特に近代になってつくった文化よりも、ずっと以前に起源をもつものであるから、近代からみれば誤謬であっても意識以前の集合的無意識からみれば正当な価値をもつものなのである。例えば、科学は、神話による自然現象の説明は誤りだとするが、しかし、それが自然現象の説明としては誤りであっても、その説明の仕方に古代の人の心理要素が絡まっているのだから、古代の人の心理が近代以降よりもずっと生得的で元型的なものによって決定されているということを考えると、その神話は、心理的なものとしては大きな価値をもっていることになる。自然現象の説明以外にも神話というのはたくさんあって、むしろ自然現象に関しての神話というのはほんの一部なのだけど、とにかく神話には、色々なものが描かれている。世界の創造、英雄的な人物像、妖精、女神、神や悪魔など、それら神話に描かれるものは、ただ美的な像として価値があるだけでなく、それが元型的なものであるという理由で、人間の生にとって意味的にも大きな価値をもつのである。もちろん、近代以降においては、神や悪魔という類のものは、そのままの形では通用しない。しかしそういうものが本能的な動力、人間の心理を導く元型としての価値などを秘めていることは、人間が人間である限り普遍の真理である。だから大事なこと、するべきことは、その元型的根源的なものを、現代においても通用するかたちに翻訳することだといえる。ユングの言葉を引用すると、「本能のダイナミズムがわれわれの現在の生活にも流れ込むようにしておこうというのならば、またそれはわれわれの存在の維持に絶対必要なことなのだが、そのときは、われわれに備わってうる元型的な形式を、現代の要請する観念へと、再形成することが必要なのである。」『現在と未来』


参考文献

C.G.ユング『元型論』『タイプ論』

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

林道義『ユング思想の神髄』