2023年10月9日月曜日

メタファー的世界観

 冬のある日、幼い子供が、降ってくる雪をみて、雪を「ちょうちょ」と表現したとしたら、これは一種のメタファーであるといえる。


フロベールは弟子のモーパッサンに「世界には一つとして同じ木、同じ石はない」と教えた。具体的な個々の雪は、大きさも、色も、それを構成する結晶の形も光の反射の具合も、他の個々の雪とは同じものは一つとしてない。その全て違うたくさんの個々の雪を人間が観察していく過程で、類似のあるいは共通の性質だけが抽象されて、細かい相違点は切り捨てられ、一般的抽象概念としての雪ができる。前人間的に雪という抽象概念があって二次的に個々の雪があるのではなく、たくさんの個々の雪をたくさん人間が見て知ることによって、人間は個々の雪を抽象しながら雪に対しての、ニーチェ風に言えば一般的な遠近法(=perspective 以下、perspective のことを遠近法と記すことにする)を"創出し"、そうやってはじめて抽象概念としての雪ができあがった。ところで先ほどの子供の雪の形容において、ある雪を「ちょうちょ」と表現するときも、実は原理的にはまったく同じようなことがおこっているのである。


「多種多様な物事の中から、類似している点をとりあげ、類似していない点を捨てることによって概念がしだいに形成されて来るかぎり、比喩がその基盤になっている。」(ショーペンハウアー)


つまり、雪と蝶の性質の類似点(例えば、宙を舞うものという性質)を、子供が見つけ出し、雪のことを蝶と表現した。これは子供が創出した一つの遠近法、解釈法である。この場合の過程では「その子供が見た雪」と「蝶」という"二つの"ものの類似点が見つけ出されて子供は雪を蝶と表現したことになる。一夫、抽象的な概念としての雪は、"無数の"個々の雪の類似点が探され相違点が捨てられて、一つの遠近法として出来上がる。原理的には同じことが起こっているのである。


雪のような物的なものに関してでなくても一般的に認識や感覚や心理に関しての概念も同じく、そのようなことがいえる。たとえば「悲しみ」にもいろいろなものがあってどれ一つとして全く同じ悲しみはないが、似たような感情を集め抽象していくことによって、「悲しみ」という名詞が対応する一つの概念に統一される。白い猫と黒い猫は見た目として異なるが、「猫」という抽象概念によって「猫」という同じ名前が与えられる。「白い」という形容詞も、いろいろな個々の白い印象が抽象されてはじめて、できた概念に名付けられた言葉である。概念や名辞は、さきほどの子供の雪の形容やショーペンハウアーの引用文を考えるなら、大量のメタファー作業、つまり類似点を抜き出し相違点を無視する抽象の作業によって出来たものであるといえる。


「真理」といわれる客観的恒常的であってあらゆる価値以前の前提だと見做されている普遍の概念も、ニーチェによれば、個々のたくさんの具体的事物や無数の人々の認識や価値観から抽象されてはじめて作られた世界に対する共通の遠近法や価値基準、 多数の人間を統一するため、共通の解釈や意義付けを行うため、価値を共有するため、安全に生存するために人間が創りだした虚構である。決して最初からあるアプリオリに存在する超越的理念ではないのである。超越的なものがあるとしたらそれは物自体という完全には認識できない何ものかのみである。まず真理があって二次的に色々な価値がある、つまり価値は真理に規定されている、のではなく、真理も価値を共有するためにつくられたひとつの価値基準であるところの概念である。このようにニーチェにとって全ての言語も概念も真理でさえも、メタファーと成り立ちが原理的には同じであり、肯定的にいうと創造された表現、否定的にいうと捏造された虚構である。あるいは真理も概念も言語もメタファーに由来していて、メタファーが起源だということが忘れられてしまっている、ともいえる。


「真理とは、それが錯覚であることを忘却された錯覚であり、使い古されて感覚的には力を失ってしまったメタファーであり、肖像が消えてしまってもはや硬貨としてではなくただの金属としか見做されなくなった硬貨である。」(ニーチェ『道徳外の意味における真実と虚偽』)


「真の詩人にとっては、比喩は修辞的な形なのではなく、概念にとってかわって現実に彼の目の前に浮かぶ代理的な心象なのである」(ニーチェ『悲劇の誕生』)


詩が生まれるときは既知の概念や言葉では捉えようもない感覚、感情、イメージ、ヴィジョンの流動が先行する。それを、既知の言語の枠組みに囚われずに、直接表現すれば詩になるということは多い。叙情詩人の胸を突き刺す悲しみ、この永遠に救われざる想いを前にしては、万人が用いるところの「悲しみ」という言葉はもはやほとんど意味を成さないのであって、言葉、既につけられている名によって表現できないものに、詩人は自分の言葉を与えているといえる。詩人にとって、メタファーなどの言語の詩的用法は文彩や修辞なのではなく、その言葉でしか表現し得ないものを表現しているからその言葉が選ばれたのであり、詩やメタファーは決して既成の言語体系の中に存在する意味には還元され得なく、むしろその言葉が新しい意味を作り出しているのである。


既成の言語体系は、生きた詩が化石になったようなものの集まりだとも喩えられると思う。詩人は自分の考えた有機的な言葉によって人間のものの捉え方、遠近法に生命力を与える。詩を読んだ人は、普段どれだけ日常の無機的な言葉によって自分の感受性の動きが縛られていたかというのを自覚する。言語というものの実用性という点においては、メタファーというのは既成の一般的な言語体系の中に存在する意味に還元されなければ意思疎通が難しいものだが、言語の本質を考えるなら、つまり実用性という点で言語をみるのではなく概念の形成過程にかかわるような言語の根本的領域において言葉の成り立ちを考えるなら、レトリックやメタファーというのは、なにかに還元されうる二次的なものではなく、新しい発見、未知の感情・認識、今まで気付きそうで気付かなかったもの、言葉であらわせなかったものなどを表現するために必要不可欠なものであり、よって一次的な価値をもつものなのである。


概念やそれに対応する言語は、先人達が作り出した既成の遠近法、物事を解釈・認識・評価するときの多数の人が共有する習慣的一般的な基準であって、メタファーは、独自の解釈で物事を捉え、それを表現したものである。だから抽象的な既成の概念を基準にすることは反応的(受動的)で、メタファーや自作の概念など独自の認識方法表現方法で物事や世界を捉えたり表現したりする芸術家の方法は能動的だといえる。


「巧妙な比喩を案出するのは、特にもっとも偉大な業である。他人から学んで比喩の達人になれるわけではなく、比喩の業は天才たることの証なのである。なぜなら絶妙な比喩を案出することは、事物に共通した類似の特性を把握することだからである。」(アリストテレス)


フロベールの教えは、この文脈でなら、人間は一般的なものの見方や概念や言語によってあらゆるものの相違点を忘れてしまっているが、芸術家なら自然の事物であれ人間であれ全ての個が固有の性質をもっていることを念頭に置いておかなければならない、そして自分の肉眼や心の眼で色々な個を見つめ、そうすることによって独自の遠近法で能動的に世界を捉えることができる、と言い換えられる。既成の概念に依らない認識や表現は、一般的概念性が少なくなればなるほど、メタファー的になる。既知の遠近法には還元され得ない事象や物事の類似点の表現においては、対応する言葉がないために自作の比喩を使うしかないからである。


多数の人は自分の五感で知覚して自分の心で感じるのではなく、既成の概念や常識によってものを把握している。音や色も内部感覚や直観や根源的なイメージも、無自覚的にすぐに概念に変換されてしまい、他の多くの人と同じような方法で知覚しようとする。つまり、鼓膜や網膜やその他身体感覚器官における刺激の直接的解釈によってではなく、後天的に組み込まれた脳内の辞書によって知覚してしまう傾向が強く、辞書の言語というレッテルを対象に貼り付けて認識し、その辞書に名称や性質が載っていない繊細な印象は、無いものとされて識域からはじきだされてしまう。さらに比愉を重ねていうなら、人は流動的な世界を、概念や言語という網で出来た辞書という笊で、濾過してしまい、繊細な印象、つまり笊に引っかからない水は、無かったものとして流れ出ていく。蝶が舞うように美しく降ってくる雪があること、それぞれの雪が無限の種類の綺麗な結晶を持っていることなどを忘れ、頭の中の辞書の言葉通りにしか雪をみなくなってしまうから、人間にとって雪は具体性を失い、抽象的なものになってしまっている。


自然と人間の心は抽象化、記号化という壁で隔てられてしまっているといえる。このことを視覚的に喩えるなら、人間は抽象化という硝子でできた瓶の中に常に監禁され、瓶ごと自分も移動していのであって、自然の大地を歩いていても大地の自然物が人間に届くまでには硝子瓶を通過するものだから、つまり抽象的な概念群という壁を通過するものだから、感じられる大地からの印象は色褪せてしまう。雪や石や木など外部の自然だけでなく、人間自身の心をも抽象化してしまい、心の深層の根源的なイメージや生命感の溢れる感情は、識域に上がってくるまでに概念群の壁によって遮断され、通過する際に単なる記号になってしまう。そして心も不自然に表面的になっていく。


この抽象化という壁をうちやぶってくれるのが、神話や芸術家の表現。芸術家は、抽象的な概念や一般的な価値観によってではなく、心の源泉から湧き上がってくるメタファーや独創の自然観照や人間観察などによって有機的に世界をとらえ、世界を物語化する。詩という短いメタファーの集まりでなくても、例えば小説なら、長編小説は人生や社会というもののメタファーともいえるし、短編~中編は、人間のある要素のメタファーであるともいえると思う。詩人が一般的な言語体系によって見えなかった領域にメタファーによって色を塗るのと同じように、小説家は、一般的価値観によって闇の中に葬られていた人間界に潜む真実を、小説というメタファーによって表現する。芸術家は、概念による把握という受動的な方法ではなく、自分のメタファーという能動的な方法で、人間や世界を把握する。一方、多数の人は既成の言語や概念の体系、価値観に則って世界を把握し、表現している。だからこそ、芸術家の表現に触れたときに、今まで脳内の辞書という笊からはじかれて識域において感じられなかったものを感じて、あるいはものごとの把握や表現が能動的でもありえるということに気付いて、心が動かされるのである。芸術や神話においては、表現者や古の詩人達の豊かな表現が、世界の解釈がメタファーに起源をもつ能動的なものだということを心を開いた人なら誰にでも実感させてくれる。


概念というのはもちろん人間の思考や言語表現には必要不可欠な大事なものであるが、人の頭の中が一般的な概念ばかりになってしまうと、世界は抽象的になり無機物と化してしまう。そして人間の集合にとって実利性ばかりを求める世界観や、都合の悪いものを見ようとはしない世界観ができてしまう。芸術家は、能動的に作品というメタファーによって世界に生気を吹き込み、あるいはメタファーによって人間の中に潜む真実を暴き出し、既成概念の一般性に規定された世界観の一面性を補ってくれる。芸術を仕事にしているわけではない人でも、自分の見つけた感情、感覚、人間のなかにある真実などを、詩や文章で表現したい衝動に駆られることがよくある。これは、普段、既成の概念、常識、一般的なものの捉え方でこの世界を見ていることによって、つまり受動的にこの世界に接していることによって気付かなかったもの、抽象的にしかとらえられなかったもの、見えなかったヴィジョンを、心で感じることのできた喜びに由来していると思う。具体的になにかを感じたときほどそれを表現したくなるし、普段抽象性の高かった真理や認識などを比喩などによって具体的に表している表現に出会ったときは、心が動かされる。メタファーによって、つまり自分が創り出した遠近法によって世界を捉える、というのは生の体験を生命感の溢れるものにし、能動的に実存を構成していくことに繋がるのである。

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