2023年9月25日月曜日

トリックスターについて

  トリックスターとは、神話的な人物類型といえるようなものの一つ。ここで神話的な人物類型といってみたのは、たとえば、英雄、賢者、女神、魔女などが世界各地の神話や伝承に登場するが、そのようないかにも神話や童話に出てきそうな典型の人物像の類型。人格のある顕著な性質を象徴している人物像。トリックスターもその人物像の類型の一つとして並列できる。

 トリックスターは、神出鬼没の悪戯者、道化師、ペテン師、幼い魔術師であったり、とんでもく下らない幼稚なことばかりする愚者であるかとおもえば、英雄のような行為をするときもある、変幻自在のキャラクター。主に少年として描かれていることがおおいが、女装するときもあるし、もともと両性をもっているということもあれば、動物として描かれることもある。


 具体的な例で有名なのは、ギリシャ神話のヘルメス、ローマ神話のメリクリウス、北欧神話のロキなど。

 ヘルメスとメリクリウス(マーキュリー)はギリシャ文化とローマ文化の混交のなかで同一視されていった多神教の神。とりあえずヘルメスについてだけ書くと、ヘルメスは、ギリシャの伝令や旅の神。ゼウスと、ゼウス愛人の一人マイアとの間に、正妻であるヘラの目を盗んで生まれた。美少年であり、素早くて、ずる賢い悪戯者で、競争をしたりものを盗むのが大好き。ヘルメスの外見は少年的な姿で描かれることが多く、つばの広い帽子をかぶり、翼のついた靴かサンダルをはいている。その靴によって自由に空を飛ぶことが出来る。あるいは翼のついた帽子をかぶっていて、それで飛ぶ。先端に二匹の蛇が絡み合っている伝令の杖をもっていて、主神ゼウスから伝令の遣いを受けている秘書的な存在。生きている者の世界と死者の世界を行き来できるという特権をもっている。


 ヘルメス誕生当日の物語がある。ヘルメスは生まれたその日から賢い悪戯ものであって、アポロンが飼っていた牛を、巧みな手口で盗んでしまう。そのことがばれると、アポロンは地位も能力も高い神なのでその牛を盗むなんていうのはひどい罪であるから、ヘルメスは神々の法廷に引っ張り出される。しかしこの悪戯者、ずる賢さは生まれつき第一級で、巧みな嘘や言い訳でアポロンやゼウスを騙そうとする。アポロンに向かって「生まれて一日目の子供が野原にいる動物を盗むなんていこうことが、果たしてありうるだろうか。あなたの疑いは乱暴です。僕は昨日生まれたばかりで、足はか弱い。」というような嘘の言い訳をしたり、無邪気な身振りでおかしなユーモアを交えた言葉を放ってゼウスやアポロンを笑わせ機嫌を取ったり、突然竪琴を取り出して美しい音楽を奏でてアポロンを魅了したりする。こんなことを誕生当日にしてしまう。結果的に、ただ牛を盗んだ罪の言い逃れを成功させただけでなく、そういう行為をすることで神々の注目をあつめここぞといわんばかりに自分の魅力を振りまき自分の能力まで売り込んでいる、ということになる。その後だんだんゼウスたちに気に入られ、オリンポスの神々の重要な地位に入閣し、ゼウスの秘書のような存在にまで駆け上がり、ゼウスの息子だと認められ、パルテノン神殿という重要な神にしか立ち入りが許可されていない神殿へ入ることを許可され、ハデスの国(死者の国、冥界)への案内役という重要な役柄まで与えられる。こんなヘルメスは、トリックスターの性質の典型を示している。ずる賢くて、悪戯ばかりするが、でも「無邪気」で憎めない存在。窃盗という罪を犯し、しかもそれに嘘や言い訳を並べるという悪いことしかしていないのに、結果的に神々の重要な一員となるための可能性になったというヘルメスにとってプラスのことが起こってしまっている。とにかくトリックスターというのは、こんな感じの性質をもったキャラクター。あらゆるところで逆説的な現象を生んだり逆説的なことをしたりする。


 このヘルメスの誕生当日の物語では、アポロンの牛を盗むという、法に対して恐ろしく破壊的なことをしている。もちろん、法を破るというのは罰を受けることに繋がるのだから、アポロンや法に対して破壊的なだけでなく、自分をも危険な目に追いやってしまうような自分に対しても破壊的なことをしている。しかし、法廷での危機を巧みな能力によってすり抜け、逆にそのゼウスやアポロンとの直接の面会という機会を利用して自分の魅力を見せつけ、神々に認められるという、創造的な結果に終わっている。秩序を破るような破壊的なことをしながら、なにかしら創造的な結果を残すという、よくある逆説的な現象は、まさにトリックスターの性質でもある。世界各地の神話において、いたるところでトリックスターは破壊的かつ創造的な悪戯をしでかす。ずる賢いヘルメスの場合は故意的に巧妙に出し抜いたというような感じだけど、なにもかんがえず無意識のうちに何かをやったらそれが偶然にも創造的な結果に繋がったという物語もある。


 たとえば、日本にはこんな民話がある。大作さんというトリックスターが登場する高知県の民話。ある日、大作さんは、山奥で仏法僧がお経をとなえる声がするという作り話を村のみんなに言いふらす。このことを知ったお殿様は、仏法僧というのは貴重な存在なのでその仏法僧の声が聞きたくなった。そして道をつくることにした。山に立派な道をつくらせながら、お殿様は山の中へ進んでいく。しかし、いくら奥の方へ進んでいっても仏法僧のお経は聞こえてこない。代わりに、ククククという鳥の鳴き声が聞こえてくる。そこで、お殿様は、大作さんに本当にお経が聞こえてきたのか聞きただすために大作さんを呼び出す。そして本当なのか迫られた大作さんは、即興的に愚かしい言い訳を思いつく。仏法僧はククククというお経を唱えているのだと。殿様はこんなことには騙されず、ククククというのは鳥の鳴き声であって仏法僧なんて最初からいない、全ては大作さんの思いついた作り話だということを見抜き、大作さんはひどく叱られる。しかし実は、こうやって殿様がつくった山の道が出来たことはかなり村にとって交易に関してかなり有益なことだった、という意外な偶然的なことになっちゃう。ということは、大作さんが下らない嘘をついて殿様に道をつくらせたお陰で、村の利益に繋がったということになる。変なうわさをばらまいた大作さん。殿様を騙して山に道までつくらせた大作さん。可笑しな言い訳で誤魔化そうとした大作さん。でも結局村の役にたった大作さん。こういう大作さんの性質は、トリックスターの特性。

 とにかくトリックスターは、無邪気で、変なことをよく思いつき、策略に富んでいて人を騙すのが上手く、変幻自在であり、愚か者でありながら知者であり、そして破壊的かつ創造的なことをよくする、いろんな意味で逆説的な存在。


 またトリックスターにはあらゆる「境界」をまたぐという重要な性質がある。ヘルメスの場合では、生きるものの国と死者の国を自由に行き来できる特権をもっているというのが、それ。北欧のロキの場合は、北欧では神々と巨人族が対立していて一応ロキは神々の側にいるのだけれど、ロキの父親は巨人族だし、巨人族の女と付き合ったこともあるし、巨人族といろいろ交渉していたこともあるなど、神々と巨人族の中間いる存在であるという性質をもっている。天と地、夢と現実、善と悪、神と獣、真実と虚偽、創造と破壊、敵対する二国など、色々な背反する要素に同時に立脚しているのは、いかにもトリックスター的なこと。男でもあり女でもあるというトリックスターも多いし、男装や女装をすることもある。とにかくあらゆる境界をまたぎ、対立するもの同士を繋ごうとする。秩序や常識はあらゆるものを二分し、どちらか一方を上におくことによって、価値観を共有している。例えば善悪。いろいろな行為を、社会のためになる行為は善であり、犯罪行為は悪であるという風にわけ、善の方を推奨する価値観を皆で共有することによって、共同体や集団は成り立っている。しかし、悪というのは人間に常に存在している人間とは切り離せない属性であるのだから、無視してはいけない。共同体は悪を直視せず、善を勧めることによって安全に成立しているのだけど、必ずしもそれがいいことだとは限らない。悪というのは人間には切り離せない人間の本能のような属性なのだから、何かしら人間にとって重要な意義、プラスでなくても少なくとも無視してはいけない要素を持っているはずである。一方に偏ると、もう一方は抑圧され、無意識のうちにそのエネルギーが潜在し、それが過度の飽和状態になると、一気にその抑圧された一極が危険なかたちで反逆したりということはよくおこる。そういうのを防ぐためにトリックスターはうまく善と悪など対立する二極の妥強を提供してくれる。トリックスターは善にも悪のも属さずあるいは両方に属し、社会的か反社会的かの一方に偏らず、自由に両方の極を行き来する。反道徳というより没道徳といえるかもしれない。道徳を超越しているからこそ、道徳に縛られた人間には言えないようなことを言うことができる。現実の人間でいうと、芸術家が一番トリックスター的なものと深い関わりをもっている人たちかもしれない。善悪に関していうならば、トリックスターというのは単に悪の化身なのではなく、善に偏った価値観によって抑圧され見捨てられていた悪を直視可能なものに変換してから持ってきてくれる存在だといえ、芸術家は、殺人鬼のように悪を実際に実行して悪を体現するのではなく、作品の中で殺人を描くことによって、人間にとって殺人行為とはどういうものか、悪というのは一体何なのかという重要な問いを、鑑賞者がじっくり直視できる形式で、しかも思想的なあるいは美的な要素を添えて、提示してくれる。創造と破壊についていうなら、芸術作品の中ではあきらかに社会の秩序に対しては破壊的なものが描かれていたとしても、でもそうすることによって人間の内奥の真実が暴き出され、それをしっかり直視する鑑賞者は社会の場においては決して得られないほどの人間に対しての深い認識を得て、結局それが創造的な人間としての成長であったりする。たとえば殺人を企てている悩み多き神経質な青年が、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んで、ラスコーリニコフに共感し、改心して、実際の殺人計画は破棄する、というのもあるかもしれない。芸術家自身のほうはというと、既成の価値観に従ったままであったら新しい価値を創造できないので、まず既成の価値観を破壊してかかることがよくある。真実と虚偽についていうと、作家達は虚構の物語を表現することで、人間にっとって重要な真実をつきつけるという逆説的なことを行っている。ピカソは「芸術」を「真実を認識させるための嘘」だと定義した。芸術家の性格についていうと、もちろん一概にいえることではないけど芸術家というのはよく、実際の人格は作品から予想されるような立派な人ではなくて、自分勝手で、気まぐれで、良くも悪くも無邪気で、幼稚で子供染みていて、不器用で、病的で、よく愚かなことを考えたりもする。これはまさにトリックスターの性質でもある。もちろん神話のトリックスターのように露骨にそういう性質を表すような行動にでるのではなく、心の内側は道化師、悪戯者、空想家、犯罪者でありながら、表面はまっとうな人間である、というようなことが多い。そして芸術家は、自我と仮面の違いを自覚しているので、人格の表面が触れている組織に左右されず、独立した自我をもつ自由人であるという魅力的な特権も持っている。芸術家=トリックスターとはいえないけれど、芸術家は「内なるトリックスター」をもっている人物であるとはいえるかもしれない。あるいは芸術活動がトリックスター神話と色々な点で一致しているともいえる。トリックスターは秩序をやぶることによって、天上や地下の禁猟区へと侵入し、そこから重要な価値を携えて地上へ戻ってくる。プロメテウスは、ヘルメスのように=トリックスターだといえる存在ではないけれど、神々の掟を破って、天から火を盗み、それによって人間にとって重要な価値をもたらしたという点ではトリックスターである。プロメテウスのように芸術家はあらゆる掟を破り禁じられた領域へと侵入し、そこからいろいろな真理を掘り出して、それを普通の人間にもうけいれられるかたちで表現する。


 芸術家の中でも詩人に一度限定してみて、言語や詩人とトリックスターとの関係について考えてみる。プラトンは『クラテュロス』という著作の中でヘルメスの名前の起源について論じている。引用すると「推測するに、ヘルメスという名前は、話すことと関係があり、彼が解釈者(hermeneus)、伝達者、盗人、うそつき、売買の交渉人であることをあらわしていよう。」また、後にヘルメスと同一視されたローマのトリックスターであるメリクリウスは、言語を創造する者でもあると言われている。中世の伝承によると、メリクリウスはとくに「内的な言語」や「象形文字」に関係しているらしい。ヘルメスも、嘘ついたり相手を魅了する言葉を考えたりすることによって、つまり自分が創造した言葉によって、罰から逃れゼウスたちに気に入られた。アメリカ森林地帯に伝わる神話のトリックスターは絵による書法を編み出したといわれている。カナダのある神話では、人間が言葉を話し始める前に動物達が言葉を話していて、カナダのトリックスターは言葉を動物のもとから人間へと引き渡したといわれていて、この場合は言語そのもの誕生に関係している。ほかにもトリックスターと特殊な言語、新しい言語に関する神話というのは世界各地にいくつかあるらしく、一般的にトリックスターというのは嘘の達人でもあるし、だからトリックスターと言語が深い関係にあるとみても差し支えないと思う。共同体に共通の言語というよりも、内的な言語や象形文字のような特殊な言葉に関係しているといえる。よって詩人の性質とトリックスター的性質にも何かしらの共通点はあるはずである。詩人が言葉で表現しようとする領域というのは、主に表層の価値観や秩序に反する領域であったり、普通の言葉の使用法では表現しえない領域であったりする。そこで詩人は詩という嘘を必要とする。詩という特殊な言語の使用の方法、普段の言語使用法の秩序に反する言葉の使い方によって、詩人は闇の領域に詩を絵の具にして色を塗る。言葉が拒絶された静止の中、詩という音楽を奏でる。詩人が表現するのは既に明白になっているものではなく、言語表現が禁じられたような領域であったり、未知のものや新しいものであったりする。つまり詩人は自分の詩という、言語の秩序を破るものによって、誰も表現したことのなかった世界や新しい世界を描こうとする。詩人にとって言葉とは、何らかの既成のもの、実体、現象、真実などをただ見るため認識するための媒体なのではなく、新しい世界をつくるため道具であり、あるいは能動的に真実を暴きだすための刃物なのである。言い換えれば、詩人は、既につくられた世界を言葉によってとらえるのでなく、言葉で新しい世界をつくるのであり、認識したものを言葉を表現するのではなく認識するために詩を書いて表現するのである。そのためには、詩という嘘を必要とする。しかし、普通の言葉が正しくて、詩が虚偽であると、誰が完全に言い切れるのだろうか。詩人が創造した世界が人間にとって重要な真実であることはよくあるし、詩人は普通の言葉によって封印されていた真実を詩という嘘によって逆説的に暴露するということもある。ここで、言葉がないところには真実と虚偽はなく言葉によっって真実と虚偽がうまれるつまり真実と虚偽は言葉の属性であると考える人もよくいる、ということを考慮してみる。つまり言葉があってはじめて~は真実であり、~が虚偽であると決定されているという考え方である。そう考えると、普段の言語が絶対でないかぎりは普段は真実と見做されているものが絶対的に真実だとは限らない。優れた詩人、比喩の達人は、自作のメタファーによって人を魅了し、あるいは普段の言語よりも優れた表現力をもつ言語があるということを突きつけることによって、普段の言語が絶対ではないということ、言語の相対性を訴える。言語が相対的なものであるとすると、真実と虚偽の区別も相対的なものであるということになる。普段の言葉が絶対視されることによって虚偽の側に押し込められ、人間が触れることを禁じられていたいたような、色々なものを、詩人は優れた比喩によって表現することで、それが真実であると訴える。普通の言語を超越することによって真実と虚偽を超越し、それらの境界を自分の言葉によって移動させてしまう。言語的な秩序を破り新しい世界を創造する、真実と虚偽を繋ぐ、ヴィジョンの禁猟区を言語化する、そういう点においては詩人はトリックスターであるといえる。


 トリックスターは「道化」とも深い結びつきをもっている。トリックスター=道化といわれることもある。とにかくトリックスターは道化の要素をもっていて、道化的な存在であるには違いない。そこでトリックスター神話やその他トリックスター的なことではなく、「道化」というものに焦点をあてて書いてみる。ずっと昔の時代は、道化というのは単に人を笑わせる者というだけでなく、いろいろなところで大きな役割を背負っていたのであり、たとえば絶対的な王が統治する国では、道化は無くてはならない存在であった。王国にとって王はあらゆる意味において絶対的な存在であり、もちろん現代の大統領や総理大臣のような政治的な地位だけでなくあらゆるものを包括する絶大な権威があって、ただ人間を支配するだけではなく自然界をも支配する存在であると考えられるほど、大きな存在であった。たとえユダヤ教が栄えた時代のイスラエルでは、旧約聖書のサムエル記や列王記によるとダビデやソロモンはほとんど神にちかいような絶対的な権威をもっていて、イスラエルの民に崇拝されている。イスラエルだけでなく、そういうずっと昔の時代では、あらゆる王国において王は神の体現者というべき存在だった。そいういう大昔の王が神的な存在であった国では、道化は重要な役割をになっていた。王と道化についてユングと河合隼雄の考えを参考にして王と道化の関係について書いてみる。神という不死の存在に近い王は、しかし人間である限りは老いてしまうし、現実的には神のような完全無欠ではなく、人間である限り欠点をもっている。そこで、王権というのは永遠に存在するものであるけれど、現役の王というのは、神に近い存在としての力が無くなれば、次の第の王へと王権を渡すことを強制される。中には、現役の王が老いたり呆けたり性的不能に陥ったりすれば、すぐに殺されるという掟をもった民俗もある。とにかく王というのは、少しでも欠点がみつかれば別の王へ王権が引き継がれてしまうのであり、王は絶対的な神のような存在であり続けなければならない。王は人間だけでなくあらゆる事象を支配していることになっているので、農耕民族であれば不作や飢饉が続けば王に責任が帰されてしまうこともある。このように王は、絶対的な力と、しかしつねに完全であらなければならない(そうでなければ王権が剥奪されるあるいは殺される)という危険を、二つとも抱えている。ここで、絶対的な力を得ようとすると同時に危険を免れようとするとき、王が必要とする身代わりが、「道化」なのである。道化は王の代わりに失敗役をつとめる。現実の王は人間であるけれど、しかし神のような存在であらなければならない。道化が王の負の部分を背負うことによって、王は完全無欠の神のような存在でいることが可能になる。道化はそれだけでなく、もっと王にとって重要な役目をおっている。今のような国際社会ならあらゆる国が共働する世界平和が訴えられているが、昔は王国の国民にとって、その王国だけが善で、その外は悪であると考えられていたことが多い。自国は絶対的に善で、その他の国は悪。しかし、完全に敵対したままでは、常に戦争の危機をかかえていることになるし、他国原産の物資や食料が自国の繁栄のために必要な場合もあるので、いくらかは他国とも交渉しなければならない。王は、自分が善の化身であり外の世界は悪であるということと、しかし外の世界ともある程度は交易をはからないといけないということとを、同時にかかえてしまう。王というのは自国という善の領域の神のような存在なので、その外の世界と触れることがあってはならない。ここで、道化が必要になる。王のような絶対善であり知者である存在が、外の悪い世界と交わるのはまずいことだけど、道化は馬鹿で愚かだと見做されているので、自国とは対立する悪と接触することが許される。「愚かにも」他国と接触してしまう道化。彼が他国と色々と交渉することによって、国には利益がもたらされる。この場合、道化は、善悪の境界、自国と他国の境界をまたいで、二つの対立する領域の双方に通じていることになる。まとめると、王は絶対的な存在であり自国は善で他国は悪であるそして王国は対立するものを排除して成り立っている、というのは、真実に反することであるので、どこかで色々な矛盾がでてくることになるのだけど、そこでその矛盾を埋めてくれる存在が道化なのである、ということになる。王の絶対性は愚か者によって補われる。王が完全な絶対的存在であるというのは真実なことではないのだけれど、つまり王は人間であり神ではないといのが真実なのだど、その真実が露骨に表れてしまっては王国は成立しない。そこで愚か者である道化が、愚かなまちがいか何かとして真実を体現する。そういう存在がいなければ、王や王国に対して抑圧された真実が逆襲することになってしまう。愚か者が王制と矛盾する真実を告げている、そして王国民は道化のいうことが愚かなことだと思う、しかししっかり真実が語られているということ自体はかわりない。愚かであるからこそ、王制の秩序と反する言葉や行動が許される。そして彼は秩序に反する真実を体現する。真実が、たとえ愚か者の言葉や行動としてでも、表に出ることによって、王制と真実との妥協がうまれる。つまり道化は愚か者でありながら王制の秩序を超越して真実を体現し、矛盾する二つのもののバランスをとるという大事な仕事をしている。このように、全ての王国がそうだったというわけではないだろうけどいくらかの昔の王国にとって、道化というのは無くてはならない重要な存在だったのである。ユングや河合氏に則って道化について書いてみたのだけど、ここで述べた王の影の愚か者としての道化は、たとえば対立する二つの領域を繋ぐ存在であるということ、愚か者でありながら真実を告げているという逆説など、トリックスターの性質をたくさん持っている。また、以上に書いてきた王と道化はずっと昔の迷信的な時代のことだけど、中世の官邸にも、官邸道化師という存在がいて、特権的な階級にいる人物が城内で自分の従者として道化を雇っていたことがあった。この道化はただ人を笑わせるだけでなく、城内官邸内に反逆や謀反を起こす人物がいないかを確かめるという重要な役割を背負っていた。それにくわえ、この官邸道化師は、王やその他重要な人物の目の前で愚かなことを自由にいう権利をもった唯一の存在で、地位の高い人に対して滑稽で無礼なことを言ったりして周囲の人たちを笑わせた。地位の高い人でも人間である限りは愚かさや笑われるようなものも持っているのが真実であるが、貴族制はそれをゆるさない、しかし、愚か者である道化は、「愚かにも」地位の高い人に向かって無礼なことをいったり反逆者ではないかと疑ったりすることで、真実を告げている。人が道化を笑うのは、ただ道化のいうことが滑稽であるからだけではなく、道化が無礼なことをいうことで貴族制によって抑圧されていた貴族の欠点という真実を告げているから、人の心に訴えかけ、みんな笑うのである。「愚かな」道化であるからこそ、他の人が口にしてはいけないことを発言することを許され、結果的には真実を告げている。道化ゆえの逆説。しかし無礼がいきすぎては怒られてしまうという際どいボーダーラインもあったという。孔子は従えていた一人の道化を、行き過ぎた無礼のゆえに打ち首にした、という記録も残っている。他にも道化に関して色々な興味深い逆説がたくさんある。たとえば現代には「道化師恐怖症」あるいは「ピエロ恐怖症」というものがある。道化師恐怖症の人は、夢の中で、狂気を秘めた白い笑顔に魘される。恐怖症の人にとってピエロというのは文字通り恐怖であって、全身が拒絶するらしく、マクドナルドのキャラクターであるドナルドも悪魔のように思えてしまうという。何かトラウマがあるとかそういうのではなく、恐怖症の人にとっては理由もなく本能的にピエロの顔は受け付けないのである。恐怖症とまではいかなくても、ピエロの顔をみると、その笑顔の裏に不気味な「何か」、心深くにつきささるような何かを感じる人は少なくないかもしれない。ただ面白いだけでなく、何か得体の知れないものを白い笑顔の下に秘めている。そんなことはない、という人は、真夜中ふと目をさますと飾ってあったピエロのおもちゃが暴れだして狂ったように身体を揺さぶりながらあの白い笑顔だけは硬直してこちらを凝視している、という状況を想像してもらいたい。また、ピエロというのはサーカスをして人を笑わせる存在であるのだけれど、白い顔の目の下には涙の模様がある。これらのことは、道化という存在が楽しい存在であるだけでなくいかに悲しい存在でもあるか、笑顔の裏にはどれだけ恐ろしいものが秘められているか、という「逆説的な真実」を象徴している。人間は常に狂気と理性をどちらも持つ存在であるからには、狂気も人間にとっての真理の一つである。しかし理性に偏重した人は狂気というものが何なのか理解しようとせず、悪いものとして一方的に避けようとするので、狂気の中に含まれる真理に対しては認識がとどかない。道化というのは、この狂気の中にある真理というものを「逆説」のかたちで「笑い」という仮面の口から告げる存在として重要なのであり、ただ単に愚か者であり可笑しな存在である、というわけではなく、いろんな面で人間にとって重要な教師でもあるのである。笑いを纏う皮肉が、露骨な形であらわれてしまうと危険な真実を、巧妙に伝えているのである。フーコーの『狂気の歴史』から道化についての言説を引用しておく「道化とは自らの意志によるにせよ、よらぬにせよ、通常人には言えぬような<真実>を語る人物であり、他の人物に忠告を与え、虚偽の仮面を剥ぐ。しかしこの<真実>は、危険な力を十分取り去ってあるから他人を傷つけることはないのだ。つまり<道化>とは、狂気の模倣であり、狂気の言葉を社会に無害なものとして流通させるという意味で、狂気の言葉の体制組み込みであると言える。」その独特の画法とともにキリストと道化師しか描かなかったことが有名であるルオーの絵「道化師」の顔には、何か得体の知れない真実が秘められているような感じがする。


 トリックスターや道化について色々かいてみたのだけど、とにかくトリックスターという、道化的な存在、創造的で破壊的な存在、逆説的な存在は、人間にとってとても重要な人物像であることがわかる。トリックスターは世界各地の神話で、少しずつ姿を変えながら、悪戯をしでかし、人を騙し、人に笑われ、しかし重要な真実を告げている。神話を失った現代でも、芸術活動のうちにトリックスターはこっそり顔を覗かせる。アフロディテという一人の女神が忘れらてしまっても「女神」という普遍的な人物像は永遠に人に感化を与え続けるのと同じように、キリストという一人の賢者の教えが効果をなくしてしまっても例えばツァラトゥストラという賢者が登場したつまり「賢者」という普遍的な人物像も永遠に人を啓蒙しつづけるのと同じように、ヘルメス神話がこの世界から消えていってしまっても芸術家が描くトリックスターに人は惹かれ続ける、つまり「トリックスター」という普遍的な人物像に人は永遠に魅せられるのである。もしかしたら、ただヘルメス、メリクリウス、ロキ、道化師、小説の中のキャラクターがトリックスターに分類されるというのではなく、こう考えられるかもしれない、すなわち、トリックスターという一人の共通の人物が、ヘルメス、メリクリウス、ロキ、道化師、小説の中のキャラクターという仮面をかぶって世界各地で時空を超えて表れる。こんな言い方は多少非現実だったかもしれないけど、少なくとも次のようにはいえると思う。つまり、トリックスターというのは、人間である限り誰もが心の深層にもっている普遍の人物像であり、誰もがトリックスターが存在して欲しいという根本的欲求を持っているのではないか。全ての人が心の中では、トリックスターになりたい欲求をどこかでは持っているし、トリックスターが現れて欲しいと内心期待している。だから、神話に現れるトリックスターや芸術家達が虚構の中で描くトリックスターが真実を告げたとき、人はその言動に惹きつけられ深い感動を味わうのかもしれない。トリックスターは物事の偏りを緩和し、物事同士の間に引かれてしまった境界線を消そうとするし、対立する領域を繋ごうとする。人が、たとえば仕事や社会のことばかりが関心を占領して心のなかの生命の根源的な欲求を忘れてしまっているという状況、科学や哲学の理論ばかりに埋もれてしまって芸術的な感動を忘れてしまっているという心理状態、自尊心あるいは悲観的な自虐が強くなりすぎて笑いやナンセンスを忘れた状態など、なにか偏った状況にあるとき、悪戯者のトリックスターが、可笑しなしかし大切な助言を告げてくれる。トリックスターはそういう意味では、心の治療にもなる存在でもあると思う。何か悩みがあるとき、自分の生き方が何か大切なものを忘れてしまっていると感じるときなどは、神話や芸術の世界にたまに表れる神出鬼没の存在、人間が心の深層に永遠にもちつづけた偶像、であると同時に自分の心の中にも実はずっと潜んでいた悪戯者に、いろいろなことを聞き出すのもいいことであると思う。壁に囲まれた鬱屈した状態にあるとき、トリックスターが暴れまわって壁は壊れ、光が入ってくる。現在の硬直した状況を破壊し、新しい可能性を創造してくれるのである。しかしロキが悪戯をしすぎてついにはひどい罰をうけることになってしまったように、行き過ぎた道化や愚行は災いを招いてしまうものであるから、度を越すことはいけない。トリックスターというのは世界各地の神話に必ずといっていいほど現れる存在であるのだけど、たまにちゃっかりあるいはうっかり活躍するのであって、英雄のようにずっと力を持ち続けることはできない。しかし時と場合がよければ、ちなみにトリックスターというのは偶然にも丁度いいときに居合わせる場合が多い存在なのだけど、とにかくトリックスターが起こす奇怪で突飛な事件は、他の何者もが解決しえなかったような難問を解き、どうしようもなかった逆境を打破するのであり、このことは普遍的な現象であることには変わりない。そういうことが起こってほしいという根本的な欲求が人間に存在する限り、つまり人間が人間である限り、トリックスターは未来永劫に姿をかえながら表れ続けるんでしょう。



ユング『元型論』

河合速雄『影の現象学』

フーコー『狂気の歴史』

プラトン『国家』『クラテュロス』

トーマス・ブルフィンチ『ローマ・ギリシャ神話』

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(2007)

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