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2026年7月13日月曜日

社会で女性原理が駆動するために (1/n)

ひと昔前、「〇〇女子」という言葉がXなどSNSだけでなく、テレビ番組それもニュースなどにおいても流行っていた。これは女性の趣味・趣向の自発的な活動化を表す肯定的な事柄を示す語法ではあったものの、私にとっては或る問題があったように感じる。すなわち、「女子」というのが若さを含めて意味しつつも、あまりにもそれが強調され、女性の精神年齢が全般的に幼くなってしまってはいなかったか、という問題である。


平成の初期では「女子」と言う言葉は、「女子バレー」などの語法以外では、小学生~高校生での使用に限定されていたため、30歳前後の人にはサブリミナルで女性に社会的ジェンダーを自覚する以前の思春期の感覚を想起させていなかったか、ということが懸念されうる。またテレビやSNSで消費的に何度も反復され用いられることにより、個々の人の無意識どころか意識に女子という若すぎる女性像が刷り込まれすぎていなかったか。もちろん、女性が若くて自発的な意志で趣向に則り何らかの活動を行うというのは褒められたものである。しかしやはり女子という言葉はあまりにも若すぎる、あるいは可愛らしすぎる。単語単位の言葉を含めた言語が人間の認知や行動様式を規定するという仮説をサピア=ウォーフは提唱している。


さらに懸念をいうのであれば、他の女性だけでなく男性側から女性のアクティヴィティが可愛らしいものとして消費対象として受け取られていたのではないか、という深刻な事態である。この風潮が、単に女性を可愛らしさの消費物に成り下がらせていただけでなく、経済構造の裡で社会の男性原理に支配されやすい女性像を実態として形成していなかったか。ここで経済構造と言ったのは、たとえば日本経済において、「森ガール」「カメラ女子」という言葉が流行ったとすると、各企業がその注目されているライフスタイル・ファッション・趣味を収益に利用するために、様々なサービスや商品を生み出し、女性を方向付けるということであり、日本という高度な資本主義社会における企業の社会的影響力を鑑みるなら、女性のアクティヴィティが経済に回収され支配下に陥ってしまうというシステムである。


「女性」という言葉となるとそこには本能的に尊重が存在し得るものの、「女子」となると流行りの軽さと無意識的感覚としての幼さや可愛らしさ故に、経済からも操作しやすい記号として働いてしまう。女性本人からみても可愛さや無邪気さを連想させることからの安易な受容性、およびトレンドの「〇〇女子」という言葉を使ったりアイデンティティとして自覚することによる自分達がかっこいいという感覚による、若年性の想起やファッション的感覚からの動かされやすさという現象が、社会規模で動くのである。日本は世界的に見て女性原理が比較的強く動く社会ではあるものの、資本主義の高度さや複雑さや経済規模などを見ると、やはり男性原理つまり資本や記号操作や支配などの総体に、女性の若い可愛らしさが無自覚的に従属させられていたと言わざるを得ない。たとえ女性当人たちが自発的アクティヴィティを「〇〇女子」という言葉で行っていても、本質的な「女性の自立」は心理学面からも経済面からもそこには存在しなかったよう言える、と思えてしまう。


ここまででは、女性に対して起こっていた記号的消費と女性において現れかけていた心理的退行、および経済機構という男性原理の配下になってしまっていたのではないかという懸念を述べてきたが、ここからは「女性の自立」と「社会で女性原理が駆動する条件」を考察していきたい。


(続く)