2023年9月26日火曜日

認識論としての力への意志

 認識論としての力への意志


ニーチェは痛烈なまでに価値評価や人間洞察に長けた、それまでの哲学者にはない類型の、主に価値論を熱心に追求し、そしてなによりもその価値論の尋常ならざる文芸で文体化することの天稟を持ち合わせ、それを自分の天来の仕事とした哲学者ではあったが、それと同時にずば抜けた哲学的直観によって見通された人間の思考素子ともいうべきレベルにおいての認識論を説いた哲学者でもあった。主にショーペンハウアーを信望していた初期の認識論、そして中期の全てはメタファーであり真理さえも存在しないと説いた中期の認識論、後期の究極の意味での遠近法主義へと傾いていった結露である『力への意志』に至るまでの認識論へと、彼の認知は変遷していっているが、ここでは後期の『力への意志』に収録されている晩年に近いニーチェの認識論を取り扱い、できることなら纏めてみたい。しかしこれはニーチェ自身でさえ纏めきれていない断章からなるものなので困難を極めるだろうと思う。その前に断らなければならないが、『力への意志』というのはこの語感からして価値論的意味合いが強そうにみえるものだが、実質その根本にあるのはニーチェが認知した世界や思考主体の構造や関係性であり、つまり哲学の分野では価値論より認識論に寄った傾向の強い文献であり、その認識論の体系の土台に立脚して初めて価値や倫理の意味合いが考察され描写され訴えられているのが実質的な執筆の軌跡であろうと思う。どうにせよニーチェの場合は認識論があって価値論という順列ではなくほぼ同時と言っていいほど両者の思考分野が直結しているのではあるが。とにかくここでは認識論としての力への意志の世界認知について述べたい。



 ニーチェは理性や概念というものを疑い、そこには弱者が馴れ合うための共通記号(概念)とそれを無意識的に駆使する傾向(理性)でしかないものを道徳的に正当化しているという欺瞞、しかもあたりまえに大多数が行使してしまっているためにその本質が忘れ去られてしまっていたそういう類の欺瞞を、なんとか暴露することによって、理性や概念による抑圧、つまり弱者だとニーチェが位置づける多数の人の集合の共通の思考傾向によって個々人が生の力を発揮するところのものへの抑圧、その作用による反逆として生の力の復権を願っていたのだが、この生の力を最大にあるいはほぼ無限に近いほど発揮できる世界を哲学的に構想することこそが、ニーチェが後代の人間に最も残したかった課題であると、認識論的にも価値論的にもそうであると、いっていいだろう。果たして理性や真理や概念というのが欺瞞的なものであるということをどうやって示せばいいのだろうかを考えていたニーチェは、時がたっていくに連れて、初期のころの真の世界と仮象の世界、カントのいうような物自体と現象、ショーペンハウアーのいうような意志と表象という二頂対立に疑いを抱き始める。つまり真の世界というものの存在こそが、真理という欺瞞をつくってしまったのではないかという疑いである。まだメタファーがニーチェの認識論の主題的要素であったころは、喩えられるものというのが存在していたが、このことは、物事の本質があったということを示していて、本質にたいしどのような表現をすればもっともその本質を上手く示すことができるのであるかということがニーチェの関心内にはあったと思う。ここでは本質と表現というものが個別に存在していた。しかしそういう二頂対立的な発想、つまり本質と表現、物自体と現象などの区別こそ、理性によって捏造された世界とニーチェはみるようになったのである。そこで新しい世界のヴィジョンとして構想されたのが『力への意志』としての世界である。


 「力への意志」というのは、ニーチェの人物像と相まって、英雄的あるいは悲劇的な意味で捉えられる、つまり力強い強者の生のあり方を示す言葉であると通俗的に捉えられていることもあるらしいが、細密に吟味するとそれは力への意志の措定の上に生まれたものでしかなくて実質はそういう意味ではなく、もっと認識論的な作用のことを表している言葉であり、さらにいうなら認識「論」も成り立たない次元の、限りなく根源的な領域に根をもつ作用のことであり、力への意志の力点とは、生そのもののもっとも根源的な領域にある。それがなぜ論理的な認識論が成り立たないかというと、ニーチェは理性の不誠実を暴くためにつまり理性というものが表面では誠実にみえても裏では欺瞞をもっているということを示すために、もはや矛盾や逆説・パラドックスこそがこの世界の、あるいは生の根本の、原理的な属性であることを認め、だから矛盾を矛盾のかたちのまま受け入れようとしていたので、あるいはもはや逆説的に発想を転換して、生は矛盾に満ちたものなのだから生を純粋に受け入れるために矛盾をどれだけそのままの純粋な矛盾のかたちのままで捉えることができるかということすらニーチェは考えていたので、もはや論理的な矛盾を、「万物は常におのれのうちに全ての対立物をもっている」と言ったヘラクレイトスのように、認めてしまったのである。論理的に理性そのものを批判することは出来ないので、むしろ矛盾を矛盾のまま受け入れる、つまり相反する二極を同時に受け入れることで対立を自分の中につくってしまうような、そういう逆説的二律背反的な精神にニーチェは至ってしまった。たとえば少し反れるが「善悪の彼岸」という考え方も、善と悪を同時に自身の内に抱え込む、あるいは正確にいうなれば善悪の区別はもともと有り得ないものだから自然と拒否なく同時に受け入れ、それらの属性を昇華させることで善悪の区別を超越していることを示している。こういう二極対立を掘り崩して一点に至るような場所、あるいは対立自体が存在しえないような場所では、前者の場合は事象の総体が究極に一点に迫り事象が一つになるという意味において、後者の意味では全事象がお互い元々は特定しえない関係性しか存在しえないほどに混一しているという意味において、原因と結果の関係が消え失せ、行為者と行為あるいは解釈者と解釈の区別もなく、主体と対象あるいは主語と述語と目的語いう関係までもが崩壊し、あるのは「解釈」あるいは「力への意志」のみになってしまう。主語と述語と目的語の関係がなくなれば、文法的な言語は成立しない。逆に言えば、人間は理性や言語によって二元的に世界を分離してしまっている、そうすることで矛盾に満ちた世界を把握しやすくしているといえる。


 多少上記の段落は飛躍したが、とにかくニーチェは、因果関係がなくなってしまう言語化不可能な領域あるいは一切の言語が介入する以前つまり言語や概念によって何も固定も分離もされていない完全に流動的な領域を哲学的に表現したかったのであり、そういう領域ではもちろん理論は成立しない。だから実際、「力への意志」は論理的な矛盾や循環を含んでしまっている(力への意志としての世界は論理的に説明できないと同時に他者からも論破され得ない)。しかしそもそもニーチェにとって哲学とは何であったかということを考えると、このことは一向に構わないことである。すなわち色々な事象、経験、人間の活動、歴史などを、理性による自己保存本能と知性による処理の導きを借りて論理的に抽象化し、どれだけ経験的世界を秩序的に正しく説明できるか、というニーチェ曰くソクラテスが元凶になった哲学のあり方や、プラトンのイデアのような人間の生や歴史とは関わりなく独立して存在する永遠に普遍の相を見ようとすることは、ニーチェにとっては本当の哲学ではなく、生の創造性をどれだけ最大限に発現できるか、どのように歴史や人間の生を解釈することによって生に意味を与える人間の活動のあり方を示せるかこそがニーチェの哲学の根本的な課題であるので、生の根源的な領域には必ず付きまとってしまわざるを得ない論理的な欠点や言語表現の不正確を理論で埋めていくことよりも、矛盾を矛盾のまま受け入れてでもいいからどれだけ自身の生の哲学という課題を達成することができるかの方が、遥かに重要なのである。ニーチェがやりたかったことは、既に存在する諸価値の群を論理的に抽象化体系化していくこととは全く逆のことであり、神が死んだ世界において既存の価値には意味を無くしてしまった近代においては、その意味を失った既存の価値が人の生を非生産的に拘束してしまっているので、逆にその価値を破壊し、そしてその価値というのは主にソクラテス以後の論理性で構築されているしキリスト教以後の神の観念によっても決定づけられているのだからその論理性や神という偶像も「ハンマー」(『偶像の黄昏』)で叩き壊し、新しい価値を創造することが課題であり、だから論理性が失われてしまうのはむしろあって当然のことであり、理性や理論のもつ欺瞞や虚構性を暴露することで、新しいタイプの価値創造のあり方を示したかったのである。そしてその新しい価値の創造を可能にする世界の究極の展望が「力への意志」という考え方である。


 では具体的にその力への意志としての世界と遠近法主義について書いていこうと思うのだが、その前に断りを入れなければならない。初期の多少表現的な認識論とは違って、『力への意志』においては、言葉の用法は曖昧なところや逆説が多くはあるがニーチェが示そうとしたことは、表現や詩とは見做してしまうと見落とすところが多いような、かなり厳密な読解を要する極めて細かいことなので、出来る限り厳密に詳細に書いていきたいのだが、全てがメタファーでありその強弱が問題だとニーチェが論じていたところでは芸術家や能動性という価値的人間的な語を好ましく用いていて書くことは可能であるのと違って、『力への意志』としての世界においてはそういう人間的な次元の言葉が意味を全く成さないような前人間的なところまでニーチェの分析は及んでいるので、かなり抽象的な言葉の羅列になってしまうのは必然である。しかし、ニーチェが言いたいのは抽象的なことではない。最も何よりも具体的なことである。ニーチェは、普段使う具体的な言葉にどれだけ抽象の産物が含まれているか、そういうことを鋭く見抜いた哲学者であった。だから比喩でない普通の用法においての具体的な言葉というのは、それ自身かなり抽象化の産物の要素を持っていて、非根源的である。何故ならメタファー思考は抽象的なものを具体的に言い換えることで明示化しようとする働きがあるのに対し、もともと具体的な言葉による思考は、その言葉自体が固定された概念という抽象的なものに基づいているつまり抽象物でしかないことが忘れさられているので、結局のところ実態としては抽象的でしかなく、そういう言葉によって自らの抽象性を掘り崩すことはできないのである。私達は具体的なものを表す言葉に基づいてそれが指し示す具体的なものに触れようとする。しかしすでにその時点で、具体的なものは、抽象化の産物であるというその言葉がもつ要素によって色あせてしまっているのである。人間という言葉で指し示される対象は具体的であるが、人間という言葉に対応している概念は具体的な人間が抽象化された後の空虚な抽象物でしかないのである。そういう空虚な言葉に比べたら普段抽象的だと見做されている言葉は、それが人間の内的経験や心的現象を表す語であるという理由で(もっと突き詰めるなら抽象という作業は内的経験に由来しているのだから、抽象という作業が起こる以前の前抽象化的状態を把握するために抽象という作用そのものを掘り崩すには、内的経験を適切に表しうる一見は抽象的な言葉が向いているので)、実は根源的な次元を解析するにおいては、その領域に具体的に接することに向いている。これは逆説的なことである。根源的な領域は最も具体的な領域でありながら、普段の日常感覚でいう具体的な言葉では接近できず、比喩を使わないかぎり抽象的な言葉によってのみその領域に達することができるという逆説である。根源的な領域は最も具体的でありながら、比喩という強力かつ曖昧な方法に頼らないのなら、最も抽象的な言葉によってのみ初めて本質的には明示化され得るという逆説である。しかし、言葉というものが上である程度示したようにそもそも抽象作業の果てというべき虚構であり矛盾の元凶なのであるのだから、逆説的な発想で迫ることによってのみ、言葉が今まで誤魔化していた前言語的前人間的根源的な次元に達することができるということはよくあることである。つまり以下の論述は具体性を緻密に表現するために逆説的に抽象的な言葉の羅列になってしまうかもしれない。また、もちろんニーチェのテキストの性質(断片・逆説・文体)上こちらの解釈に委ねられざるを得ないので、半分くらいは自分の考えを書いてしまうことになってしまう、ということを強調して前置きしておく。とにかくニーチェというかけ離れた地点に立つ人物が、言語という共通の媒体を介してしか思想を表現できないとすると、残された後代の人々は、それを自分のやり方で解釈しなおす以外には何もできないのである。しかもニーチェによれば解釈するまでは意味が発生しない、対象に解釈を押し入れることによってはじめて対象の意味や価値は生まれるのだが、これはニーチェが残した特殊なしかも断片的なテキストに対してはなおさらのことである。


 まず概観から。ニーチェは、徹底的に、生から独立した背後にある真理などというものはないということを強調し、真理の相対性を執拗に訴える。生の外部や背後にあるものなどない。仮に超越的な形而上学世界があったとしても、それはニーチェにとっては、例えば『人間的な、余りに人間的な』では「頭を切り取った後に残る」つまり生が終わった後に残る形而上学的世界についての考察など「嵐に会った船乗りにとって水の化学的分析がどうでもいい」よりもずっとどうでもいい。真理であれ生の原則のようなものであれ全ては生の内部にあると宣言し、生に内在するものをみて始めて意味のある哲学だとされる。生から独立した物自体というのはない。物自体や真理あるいは神や一者を人間や生の外部に設定するのは、一つの捉え方、遠近法であり、その遠近法というのは人間がつくったものであるあって、もともと生の中に起源をもつ遠近法なのである。また、人間とか主体とかいう概念ですら、生に起源をもつ一つの遠近法でしかない。『偶像の黄昏』(反自然としての道徳5)から引用すると「もし我々が生の価値を論ったりするとしたら、……(それは)生そのものが我々を強いて価値を定立させているのであって、……じつは生そのものが我々を介して価値付けているのである」つまり生からは独立した超越的観点と見られていたものも生に起源を持っているし、人間が生に対して価値付けていると思っているときも全ては、生つまり力への意志の総体が人間を通して何もかもを価値付けている。人間や我々、という言葉も生の一つの形式でしかなく、全ては生、つまり力への意志に還元される。根本的に在るのは力への意志だけである。人間を主体として生をみるとかではなく、主体以前にある生そのもの、生の一切を見なければならないとニーチェは訴える。人間も対象も主体も存在も、すべてそういうものは、力への意志と名づけられた生の原理が通過していく際の形式や表現なのであって、実際にあるのは力への意志だけである。力への意志とは、生の背後にある超越的なものではなく、自分や他者やその他もろもろの存在の根本に内在する原理そのものの名であり、それが力動あるいは増大しているときには生は上昇の形態にあるといえる。


 ニーチェは、真理への意志というのを力への意志に対比させてつかうことがある。もちろん真理への意志も力への意志の一つの現れであって、全ては力への意志に還元されるのだが、力への意志の強い現れ方に対するものとして、真理への意志というのは力への意志の弱い現れ方として定義されていて、それは流動的なものを固定しようとしてしまう。「真理とは何か?――惰性のことである。精神力の最小の消費その他という満足を生ぜしめる仮説そのもの。」(『力への意志』537)「……統一性は惰性の欲求である。解釈の多様性こそ力の徴候である。世界の不安な謎めいた性格を否認しようとしてはならない!」(『力への意志』600)力への意志の弱い現われとしての真理への意志は、精神力を消費しないようにするために、絶えず生成するはずの世界であると同時に恐ろしくもある混沌とした世界を安全のために自己保身の手段として凝固させてしまい、そういう状態に安住しようとする。そうすることで力への意志の強い発現、柔軟性と多様性による力の増大が抑圧される。ニーチェが生の本来の目的だと考えたのは力の増大と支配の追求であるから、真理への意志という理性の作用はその最大の生の目的を阻害してしまうことになる。「真の世界」という虚構を捏造することで、一般的次元においては安全な生存や他人との価値観の共有、キリスト教においては天国への期待と同じものを信じることによる体型内の安堵、形而上学においては前提や公理などを得るのだが、ニーチェはそれを欺瞞あるいは少なくとも甘い認識だと見抜き、弱者の自己保存だといって批判して、そういう真の世界なるものが力への意志の力動を凍らせてしまい、生の創造性を抑えこんでしまっているのだということが暴き出される。


 その真理というものが人間がつくった虚構でしかないという事態、つまり真理の相対性を示すために、ニーチェは遠近法(パースペクティヴ、視点、観点)という語を上手く用いて諸関係の総体であるこの世界の構造を説明する。真理という客観的基準が実在すると考えることも、ある遠近法による解釈の一つにすぎない。その遠近法が、年月と人口を通して歴史的に習慣化したからゆえに、不当にも、他の遠近法からは独立したその彼岸にある、絶対的で不動の、価値基準という普遍的なものと見做されてしまっただけのことであって、真理の絶対性というのも、他の色々な価値、真理によって規定されていると思われていた価値と同じように、ある特定の遠近法に由来しているものでしかないのである。「普遍の真理」とか「物事の本質」と呼ばれているものは、特定の遠近法、もちろん絶対の遠近法ではなく他の遠近法と認識論レベルでは平等の、特定の遠近法からみた世界や物事の見え方なだけであって、その特定の遠近法が歴史的に支配的であったあるいは習慣化されたので他の遠近法が忘れられただけあるいは迫害されただけのことであり、だから真理や本質といったものは一般的にそう見做されているというだけにすぎない。念のため緻密に言うなら、ここでいう真理や本質というのは、ある真理、ある本質ではなく、真理や本質といった言葉が表す属性のことである。真理や本質が存在するとみる虚構を生み出した遠近法も、他の遠近法からみて絶対的な位置にあるのではなく、相対的な関係にあるにすぎない。他の観点から独立した超越的な観点は在りえないし、だから絶対的な「普遍の真理」も「物事の本質」も在りえない。あるいはそれらが絶対的に在ると見做されるのも一つの世界や生に対する解釈でしかない。在るのはそれぞれの遠近法による相対的な諸々の解釈、力への意志の作用である解釈だけである。遠近法とは力への意志が現れるときの形態とか力への意志の表現形態だといえる。力への意志は無限にあり、遠近法も無限にあり、そのどれもが他の全てと干渉しているし、そのどれもが絶対的ではない。力への意志としての世界とは、無限の遠近法間の相互関係、つまり無限数の力への意志のお互いの解釈の仕合いによって成立しているといえる。この世界には無限の遠近法が潜んでいる、つまり無限の方法で解釈し得る可能性がある。ニーチェによれば力への意志はまず「解釈」する。そしてその解釈が、一般的だったとしても価値があるとは限らなく、絶対的だというのは在りえないのであり、ただ解釈にどれだけの価値があるが問題とされる。解釈がどれだけの価値をもつかどれだけ生を強いものにするか、生を肯定する力をもっているか、というのが指標になる。こういうのが力への意志としての世界の概観のようなものである。以下は、認識とか解釈そのものを掘り下げながらもうさらに詳しく見ていく。


 晩年のニーチェが感覚と理性の関係についてどう考えていたか、このことは、力への意志が人間においてはまず一次的には概念や思考が発生する以前の欲動や感覚として現れる(なぜなら概念も思考も力への意志の解釈物でしかないから)ということを考えると、力への意志という構想において重要なので、書いておきたい。引用すると「私はこの際、篤い敬具の念を以って哲学者の中からヘラクレイトスの名前を脇へよけて置きたいと思う。彼以外の哲学者=大衆が感覚の言語を退けたのは感覚が多様と変化を示したからであったが、ヘラクレイトスが感覚の証明を退けた理由は感覚によって生物があたかも統一を保っているかのようにあらわされたからに他ならない。……感覚は偽らない。感覚の証言をもとにしてわれわれが拵え上げるもの、それがはじめて偽りを持ち込むのである。例えば、統一という偽り、物性、実体、永続といった偽り。……われわれが感覚の証言をもとに偽りを拵え上げていく原因は理性に他ならない。……とはいえ、ヘラクレイトスは、存在とは一つの空なるフィクションであるという説を以って、永遠に正当さを保ち続けるだろう。仮象の世界が唯一の世界なのである。「真の世界」とは単に後から追加的に持ち込まれた一部の世界にすぎない。」(『偶像の黄昏』哲学者における理性2)もともとニーチェの文章構成の癖が歪なのと引用のさい「……」で省略して分かりにくくなってしまったというのがあるので、ここで示されているヘラクレイトスに対するニーチェの考えを示しておくと、それは主に二つあって、ニーチェは感覚を信用していたし感覚そのものは偽らないと考えていたのだけど、ヘラクレイトスは感覚を退けてしまったがその理由は「哲学者=大衆」が感覚を退けた理由よりはニーチェにとっては許容範囲だったということと、ヘラクレイトスの世界観がニーチェの「統一」「実体」「真の世界」を認めない世界観と類似していてそれを高く評価していたということである。もう少し詳しく言及すると、ニーチェによれば、ヘラクレイトスは感覚によって生物が統一を保っているようにあらわされると考えていて、これはヘラクレイトスの勘違いであるとされる。しかしヘラクレイトスは統一性に対して否定的な見解をもっていた、このことをニーチェは評価している。ニーチェによれば、逆に感覚が統一性の反証になり、統一性、実体、永続など物事の固定的な状態を表す非感覚的な観念やそういう観念によって生まれてしまう「真の世界」は偽りであって、それらは理性による捏造の産物であり、感覚のみが人為的に偽られる以前のものとされる。感覚はこの世界を常に流動的に感じ取っている。そこでは混沌とした生理学的プロセス以外は何も起こっていない。主体がその生理学的経過を判断することによって、後で色々なものが付け加えられ、これが一種の偽りを含んでいるのである。感覚のみがある世界では意味はない。逆説的に言い換えれば、感覚現象には無限の意味が与えられ得る可能性が潜在しているともいえる。そしてニーチェは、そういう心理学的過程は本来様々な意味になる可能性を秘めているのに、それに対する理性判断が一般化されることによって、その意味が一義化されてしまっていることを批判する。たとえば人間は快不快を感じる生き物である。何かをすれば快楽を感じるし、何かをすれば苦痛を感じる。しかしニーチェによると、すでにこういった過程の内には、習慣により固定化された産物である理性が侵入してしまっているのである。同じ感覚でも、それを快楽ととるか苦痛ととるかは、ある程度は生物学的身体構造的原則によって決定されているかもしれないけどそれは絶対的なものではなく、だから普遍的なものではなく、むしろ人間の経験や思考の習慣によって決定付けられているということである。感覚神経組織において同じ原子の運動が起こっても、意識を司る神経組織においての原子の運動は異なるのである。たとえばその感覚を不快と判断することによって、その感覚つまり感覚神経組織上の原子の運動の意味は否定的なものとされる。その感覚を気持ちいいと判断することによって、その感覚の意味は肯定的な価値をもつ。つまり、それが否定的なものか肯定的なものかというのは理性による概念的判断によって成される、言い換えると、私達は、快楽だと感じるのではなく判断している、苦痛だと判断しているのであり、その判断の結果としてはじめて快楽や苦痛を具体的に味わっているのであり、感覚神経組織上で同一の現象が起こっていても後の判断によってそれが肯定的なものつまり快にも否定的なものつまり不快にもなり得るのである。ニーチェが批判したい点は、その快不快の判断が一般化されることによって、相対的な判断が許されるということが忘れられ、生理学的なものと快不快などの感情が直接つながりを持ってしまうことである。その何が悪いのかというと、それによって、生理学的プロセスである感覚現象の意味が一義化されてしまい、よってその感覚現象が秘めていた別の意味、言うなれば無限の意味が見出されなくなっていくことである。もう少し具体的にいってみる。ある不快な事象が私たちを不快にさせるのではない。不快だと私達の理性が判断しているだけなのである。しかしそういうことが忘れられると、その事象=不快という定式が出来てしまっている。そしてその事象を避けることによる不快の回避を私たちは図る、つまりその定式が行動の動機になってしまっている。しかし実質的には、その事象に不快なものという意味が与えられているのは一般的に共有されている概念的な定式でしかなく、事象やそれが引き起こす生理学的プロセスと、快不快という想念の間には、何も直接的な因果など最初から存在しないのであって、もしかしたらその事象から快楽を得ることが出来る、つまりその事象が肯定的な意味をもつ可能性も潜在しているのである。極端な具体例でいうと、マゾヒストは程よく暴行を受け続けることで幸福な人生を送れるかもしれない。リストカットという自傷行為は痛いし身体に悪いし一般的に否定的なものと見られているが、もしかしたら、自分の血を見ることによって何かしら心理的なものや本能的なものに対する精神的認識が身体を以って深まるという肯定的な可能性が潜在しているのかもしれない。禁欲家は我慢しているのではなく精神的エクスタシーを感じているかもしれない。つまりそれらの感覚的逸脱行為も実は肯定的な意味を持ち得るのである。


 しかしそれは習慣的な判断や歴史的に決定された価値基準に基づく一般的多数にとっては理解不能であり、否定的なもの、耐え難く嫌悪すべき感覚をともなうものでしかない。嫌悪すべき感覚、というところに既に理性による捏造が侵入していて、感覚そのものは否定的なものでも肯定的なものでもないのである。ある感覚に対しどういう感情が出てくるかは、習慣化された概念によって因果付けられてしまっている。嫌な想念や意見を伴うような感覚他生理的身体反応を引き起こす事象があるとすると、実はその嫌な想念や意見はその事象に直接起因するのではなく、単にその事象が引き起こす感覚と嫌だという想念とを理性が直接一義的に結びつけてしまっているだけのことでしかないのである。とにかくこんな感じで、生理学的プロセスというそれ自体には何の意味も含まれていないもの=あらゆる意味解釈の可能性を許すものに対して、習慣が特定の判断結果でしかないものとの一義的な意味関連を与えてしまい、他の意味の可能性を奪ってしまっている。ニーチェはこの点を批判したのである。ある前理性的な生理学的プロセス感覚現象が、別様にも解釈されうるのなら、もちろんその感覚現象が解釈された結果として生まれる快不快など想念によって人がおこすであろう人間や思考が生み出す価値も、別様なものが考えられる。その価値が生にとって創造的である可能性もある。しかし私達は理性判断の結果でしかないもの(たとえば不快)を、ある感覚現象を起こす事象(汚い物が在る)に対しての思考や行動(避けようと思う/避ける)の直接の動機にしてしまっている。その快不快が理性による判断の習慣でしかないとうことが忘れられて別様の快不快がある可能性が失われているのである。本来はその物事は別様にも快不快の判断ができるつまりその判断は相対的なものでしかないのだが、その相対的な判断は動機付けの習慣の中で絶対化されてしまい、多様な可能性を潜在させていた感覚現象の意味は一義へと固定されてしまう。創造的な可能性を秘めていた感覚的生理学的プロセスに意識の理性判断が否定的な意味を与えてしまったとしたら、その可能性は消え去ってしまう。つまり、言語や概念や真理という意識上にある相対的でしかないものは、それが習慣化絶対化されると、純粋な感覚に対して、その意味の可能性を奪うという、非生産的な影響を与えてしまう。生の現象がもっとも直接一次的に知覚されたところのものである感覚的なものが理性判断や概念的把握を行う意識によって不当にも一つの意味しかあたえられないか、なかったものとして無視されるかして、生の現象の全体は忘れられ、意識によって意味付けられたものというほんの部分でしかないものを生の全体であると取り違えてしまうということを、意識上にあるもの理性的なものを高位にみることが招いてしまう。言い方を変えれば、意識という表面的なものと生の根源という感覚のみが純粋に捉えうる生理学的プロセスとの間には無数の概念があって、その概念の群が意識と生の根源との繋がりを遮断してしまい、生の根源的領域という意識上にあるものと比べたら遥かに広い領域のほとんどが忘れられ、意識上のものだけが全てだと見做されているのである。生理学的過程と意識上の概念には何一つ直接的な関係はないのに、「~=不快」「~=気持ちいい」というような概念的定式を無自覚的に生理学的過程に当てはめてしまうことによって、つまり意識上の概念という虚構を身体感覚という偽らざる生をもっとも直接伝えるものの前に無自覚的に置き直してしまうことによって、生理学的過程が秘めている可能性が損なわれ、生の最大化は阻止されてしまっているということが、日常的になってしまっているのである。ゴッホの絵は日常的習慣的理性で判断してしまうことで色あせてしまう。なぜなら特に絵に興味がない人の日常的な関心においては、細かい色や形を見たりそれに意味づけをしたりイメージを膨らませたりすることは不用なので、絵をみたときそういう色や形が識域に強い印象として現れないからである。網膜上の生理学的現象は人間であるかぎり殆ど同じでも、絵が好きな人なら、習慣化された概念で判断するのではないので、習慣や実利性が必要とする以上に意味づけしたりイメージを膨らませることができ、ゴッホの絵に感動できて、生き生きとした色で心に迫ってくる。同じゴッホの絵を前にしても、絵に興味ない人と絵が好きな人とでは、全く違うように見え、感じるのである。つまり物理的には、原子の運動は、感覚神経上においては全ての人が殆ど同じでも、意識を司る神経の領域においては人によって全く異なり得る。どんな事象でも全く異なった多様な意味の可能性がある。力への意志は無数にあるのだからどんな解釈も有り得ることになる。


 詩人や画家にとってはゴッホの絵には自分の生命を高ぶらせるほどの意味を見出すかもしれないのに、普通な鑑賞や評論をする大衆や一般的評論家は既得の概念に沿うような小さな意味しか見出さない。ゴッホの描いたものがもっているものを、既得の概念、理性の産物に還元してしまうのである。詩人や画家など純粋な感受を目指す人はゴッホの絵から得られる印象を卑近な概念に「還元」せず、むしろ純粋に感じられたその印象から生にとって重要な意味を「構成」していく。本当はどんな一つの事象に対する感覚の受け取りかたも全く異なり得るのだということを芸術家は教えてくれる。しかし習慣がその多様な差異を打ち消して一つの一般的なものにしてしまっているのである。このようにあらゆる方面で、生の感覚的次元においては潜在している多様な意味が、理性の習慣によって不当にも一つにされてしまっているということが、ニーチェの批判点である。強度をうしなったにもかかわらず多数決的な意味合いで支配的になってしまっている力への意志群の相関関係性が理性の習慣だということもできる。


 以上に示したように言語や概念や真理が絶対化されることで生理学的プロセスは一義化され秘めていた多様に解釈されうる意味が消失してしまうなど、細かいところに至るまで絶対化はあらゆるところに影響している。だからニーチェは相対性を言葉を変えながら、遠近法や力への意志などの言葉を使いながら、何度も訴えている。そしてニーチェは真理の相対性だけでなく、認識の主体と客体の相対性も訴えてしまう、あるいはこういえるかもしれない、主体と客体の絶対度は真理の絶対度と分かちがたく結びついている、だからどちからが絶対化へ動けばもう一方も絶対化されてしまう、だからニーチェは両方批判し、その相対性を示さなければならない。主体と客体の相対性とはつまりこういうことである、主体を主体として明確に実在していると考えていること、主体以外のものを明確に対象化していること、主体と客体がはっきり分かれていると人が考えていること、などは一般に流通しているだけで絶対ではないある一つの遠近法、つまり力への意志の凡庸な現れでしかないのであり、その遠近法がそれに相反する遠近法よりも絶対的だという証はなく、だから、主体と客体について一般的に流通している考え方は一つの解釈の結果でしかなく、別様にも主体のあり方を想定できるし、別様にも客体に接する方法が在り得る。そもそも主体を構築しない力への意志相互関係の発現も有り得る。客体についても然り。


 デカルトは懐疑的であったことで有名で、「この世にはいろいろな立場・考えがある」(だから今の自分の立場や考えは疑い得るものである)ということを深く実感していた人であり、ものの存在、知識、感覚など疑いうるもの全てを疑いつくしそれらについて考え抜き、結局、もしそれらが幻だったとしてもそういうことを考えたり疑ったりする自分がいるというのは確実なことだという結論に達し、「我思う、故に我あり。」という方法的懐疑の極点に至った。しかしニーチェは「我あり」までをも疑ってしまう。引用すると「<思考作用がある、したがって思考するものが在る>デカルトのの論拠は結局こういうことである。しかしこれは、実体概念に対する我々の信仰を既に"アプリオリに真"として設定することに他ならない。すなわち、思考作用があるときには"思考作用を営む何ものか"がなければならないというのは、働きには働くものを置き加えるという私たちの文法上の習慣を単純に定式化したものでしかない。……」(『力への意志』487)ニーチェにおいてはどのような思考も概念も、メタファーがそうであるように、感覚や欲動などの生理学的プロセス、力への意志の人間における一次的な直接の表れであるもの、主体も対象もなくただ動いているという生成の状態だけがある領域に、起源を持っている。「働きには働くものを置き加える」という「文法上の習慣」も生のそういう混沌とした領域に起源をもっているつまりその生の流動に後に与えられた解釈の結果としてあるにすぎない、あらゆる無限の可能性のある力への意志の関係性の単なる一つでしかないのに、そのことが忘却されてしまうと、それは前提的なものと見做されてしまい、そのアプリオリに真と不当にも前提されてしまった「文法上の習慣」によって、「思考作用がある」というただ働いているだけの生成の状態、つまり生理学的プロセスを判断し、その流動的な作用があるだけの状態に、勝手に、働くもの「思考するもの(主体)」を付け加えてしまっている、このことが、全てを生の流動、無数の力への意志の絶え間ない運動に還元するニーチェにとってはおかしいのである。


 とにかくニーチェにとっては、思考が思考者の行為結果である言い換えれば思考者は思考の原因である、のではなく、思考者という主体的なものは偶発的な身体内部の感覚が解釈されたあとでできたもの、前人称的な作用である力への意志たちの絡まりで発生したものである。つまり、思考者が思考の結果なのであり、思考も身体感覚現象の解釈のひとつなのであり、言い換えるなら力への意志のもともと無秩序な相互作用が落ち着こうとするときに思考というものが生まれてそのあとに思考というもののなかで力への意志がある程度の固定性を求めて思考者というものを生み出す。『善悪の彼岸』においては、ニーチェ曰く思考者の原因である「思考」は、身体の生理学的現象においての「多種多様な感情」の「メタファー」でしかないのであり、『力への意志』においては「思考」は身体の内的生理学的現象の「解釈の結果」である。思考者というのは思考の結果であり、思考も感覚現象の解釈結果であるのだから、思考者は解釈にすぎない。対象も解釈の結果はじめて生まれる。なぜニーチェはこういう思考と思考者の関係、主体と客体の明確な区別などをしつこく批判したのかというと、人称的主体が生に内在するものの解釈でしかないということが忘れられることによって、人称的な主体を感じることや考えることの原因に位置づけることによって、つまり二次的なものでしかない主体や意識などを一次的なものと見てしまうことによって、神に対する信仰と原理的には同じことが起こってしまっているのであり、それが生の創造性を不当に抑圧してしまうからである。神を信仰していない人でも、主体の実在性、自然の対象化、主体と客体の分離、文法上の習慣などがその人に根付いている限り、その人の生の力動、力への意志の強いあり方は、神という捏造物に生を断罪されてしまうのと同じように、主体という捏造された概念にすぎないもの解釈にすぎないものに凝固されてしまう。いわば人間は思考主体という神を信仰してしまい、真の根源的な自己の力が抑圧されてしまっている。このことをニーチェはかなり巧みに表現している。「基本的な間違いは、われわれが意識を、道具ないし生の全体の特定の側面とみないで、生の基準として、あるいは生の最高に価値ある状態として設定していることである。……まさにこのことによってまさに生は怪物となるのだ。この世に生きているということが「神」もしくは知覚の総体に断罪されなければならない何ものかと化してしまうのだ。」(『力への意志』707)ニーチェの文章は意識分散連想過剰の傾向があってややこしいのだが、ここで神による断罪や怪物というメタファーでニーチェが言いたいことは、主体や意識という概念を上に置いてしまうことは神を信仰するようなものでしかなく、またそのことによって、神が怪物を断罪(ニーチェが神が生を貶めてしまうといってキリスト教を呪詛していたことを考えると、神が生を断罪、とも同時にいえる)してしまうように、主体や意識という概念が生を断罪してしまうという、つまり生が断罪されるべき怪物のようなものに貶められてしまっているということである。生と繋がらない空虚な概念、理性の欺瞞の産物を中心とする世界観によって人間の精神力が無駄に費やされている、そして生の可能性が奪われていってしまう、そういうことに対してニーチェは憤りを感じていたのだと思う。


 昔の東洋においては主体は自然に溶け込んでいるような世界観であって、つまり主体の自律性というのは西洋に比べれば希薄なもので自然を明確には対象化していなかった。自然物に人格が宿っているようなギリシャのアニミズムも、人間と自然が明確には分かれていなかったことを示している。西洋の、主体が自律性をもち、主客をはっきり分け、自然を対象化する世界観は、キリスト教の人間の外部に神や超越的なものを想定する世界観が元となっている。ニーチェの、主体と対象は力への意志の解釈作用の結果として生まれるというような主客未分の(あるいは、主体も客体もない、あるのは生の力動、力への意志のみだという)状態を想定する認識論や、東洋の主体が自然に溶け込んでいる世界観とは違って、西洋の科学は、主体と対象の関係を根本的前提にして、自然を明確に対象化している。もちろんそういう世界観によってもたらたものも大きいだろうけれど、反対にそういう世界観によって貶められたものがたくさんあるということや、空虚な理性の概念遊びによって無意味無生産なことばかりしているということを、哲学者や詩人は感じ取ってしまうのである。「知性という毒物」に侵されない純粋な感覚の開放を求め続けた詩人アルチュール・ランボーによると「あの科学の宣言以来、基督教が、人間が、わかりきった事をお互いに証明しては、ふざけ合い(←傍点付)、証明を繰り返しては悦に入り、凡そ他に生きる術がなかったという処にこそ、まこのと罰があるじゃないか。抜け目の無い、又馬鹿馬鹿しくもある責苦だ、俺の心があれこれと彷徨いあるいた所以だ。これでは自然も愛想をつかすことだろう。「お利巧な方々」は基督教と一緒に生まれなすった。……略……何も彼もが、原始の国、東洋の思想と叡智とからは結局遠くにあるではないか。こんなに毒物ばかりが製造されて何が近代だ。」(小林秀雄訳『地獄の季節』)ということになるのである。また参考までに、意識というのが無意識という海の表面の波模のようなものでしかないということを学問的に主張した精神分析学者であるフロイトは、意識や日常的な認識主体が生のほんの一部の側面にすぎないということを近代西洋において誰よりも鋭く見抜き誰よりも衝撃的に表現したニーチェを、「初の心理学者」だと評した。


 思考者と思考の関係、主体の自律的実在性、主体と客体の関係などだけでなくより一般的にニーチェは、原因と結果の関係自体をも徹底的に批判し、原因というものが総じて解釈の結果でしかないということを暴露し、逆転させてしまう。ニーチェにとって、世界の現象全てにもし原因があるとすれば、力への意志だけなのである。そして原因を「捏造」することがどういうことなのかを揶揄する。引用すると「……カントが思い込んでいるような、因果性の感覚なるものはない。驚いて、不安をおぼえ、たよりにできる何か既知のものを求めるのである。……新しいもののうちに既知のものが指摘されるやいなや、我々の心は静まる。いわゆる因果性の本能は、なれていないものに対する恐怖にすぎず、そのもののうちに何か既知のものを発見しようとの試みにすぎない。原因の探求ではなく、既知のものの探求である。」(『力への意志』551)つまり、ニーチェにとって「因果性の本能」は、真なるものの探求、様々な事象の因果関係を探ることによって世界の真の構造を考えるための誠実な欲求なのではなく(もともと真なるもの確かななものなどない)、未知のものに既知のものを押し入れることによって、未知のものという恐ろしくて驚かせるような得体のしれないものに対する恐怖心を誤魔化し、安心しようとするような、ニーチェのよく使う言葉をかりるなら「弱者の自己保存本能」なのである。因果律というのはニーチェにとっては原因の捏造という人間による自己欺瞞にすぎない。既知のものを原因だと設定することで未知のものからの恐怖から逃げている。もちろんこの捏造も力への意志の作用の一つであり、力への意志による創造ではある。それはともかくここで問題なのは、この創造物=捏造物である因果の法則、原因の捏造が、確実性や安全性を保障する(驚き、不安、恐怖からは逃避できる)一方で、生の可能性を損ねてしまっているということである。力への意志の「強い」発現の可能性を、理性による因果付けの捏造や「真理への意志」という「弱い」形態の力への意志の発現が奪ってしまっていること、つまり解釈や仮説でしかないものを自己保存のために真と見做して安住するという自己欺瞞が生の可能性を奪っていることに対して、ニーチェは攻撃的に反論していて、力強い生のあり方を示そうとしている。


 とにかくニーチェにとって生とは、常に変動し続ける、謎めいた、恐ろしい、未知のものを秘めたものである。変動し続けるものに一定の概念を与えることで固定することができる。未知の恐ろしいものに既知の原因を与えることで恐怖から解法される。外界から独立した自己同一的な主体の実在性を設定することで、外界を把握しやすくなり、外界に影響を受けにくくもなる。私達は生や自分自身の存在を、既成の概念や既に結ばれた因果関係などによって、安全なものとしている。あるいは他の人たちと共有できるものにしている。しかしそういうのはニーチェにとっては欺瞞でしかない。謎めいた常に変動し続ける、特定の概念によってのみ固定されるべきではない、流動的なものとして、生を体験することがニーチェにとっては重要。常に自分が自分自身を解釈し、新しい解釈の可能性を生み、常に未知のものになるのが、生の本質である。主体と対象のあり方は一定ではない。ある自己同一的な主体が、自分とは別の対象を、一方的に解釈するのではない。主体は対象を解釈することによって主体自身のあり方も変わってしまう。つまり主体も対象も相互浸透的で互いに相対的なものである。そういう相対性が認められるにつれて、究極的には、そこには常に流動し続ける解釈だけが存在し、主体も対象もその解釈結果でしかない、という認識論に近づいていく。超越的な自己同一的で独立的な主体を設定していた認識一般の枠組みは崩れてしまう。それが本当の生の在り方、力への意志の解釈作用相互の闘争の場なのである。しかしその流動的で多様な生を、理性は、確実性や安全性を求め、一定のものにしてしまう。認識一般の枠組みは理性によって捏造されたフィクションでしかないのである。それで安全や社会性は生まれるが、それが生の可能性をあらゆる面で貶めてしまう。だからニーチェは力への意志としての世界という弱いフィクションを突き破るための新しい世界展望を構想を主張しているのである。


 ここまで今までニーチェを未読の方にはよくわからないかもしれない流れで「力への意志」や「解釈」という言葉を用いたのでここでこれらの言葉をニーチェの文脈内で吟味してみると「解釈」とは、「力への意志」という無数にあり常に動きまわる素子的なものの、例えるなら「力」が原子だとしたら「意志」はその運動性であるところのものの、根本的な一次作用であり、存在のもっとも根本的な経験の様式を指していて、よってニーチェにおいてはかなり重要な言葉であるといえる。「解釈であって認識ではない」「解釈であって説明ではない」という彼の言葉が示すようにニーチェにとって「解釈」とはかなり根源的なものとして位置づけられている。そこで力への意志と「解釈」の関係について。まず事前に注意しておかなければならない点。主体の実在性を疑いつくし、主体と客体の関係、思考者と思考の関係などの相対性を暴露するとき、ニーチェはそれらを「解釈にすぎない」とよく表現する、さらに『力への意志』481では「解釈の背後に解釈者を設定する必要があるのだろうか? こうしたことが既に虚構であり仮設である。」とまで言ってしまうのだが、こういう場合においてはとくに「解釈」については少し注意しておくべき点がある。この点について考えながら、ニーチェの文脈からは一度脱線してみて、言語、主語と述語と目的語とはどういうものかについてにも関連させて色々考えてみる。


①「解釈」という語は、動詞形で使われるときはとうぜんのこと、動詞に直接的に由来しているような名詞の中でも特に動詞的な名詞であるのだから名詞形で使われているときも、人称的な主語や解釈対象となるべき何かが普通は前提とされている。

②ニーチェが思考者は思考の結果、思考は生理学的プロセスという力への意志の直接的な表れの結果だとみなしているということを考えると思考者と思考対象の関係、主語と目的語と述語の関係、主語は述語の原因であるという関係などは根底的に成り立たない。

③そういう文法が消えうせる次元における作用を「解釈」と呼んでいる。

 ①②③は明らかに相矛盾してしまっている。この点が注意を要する点である。「解釈」だけでなく力への意志の「意志」も全く同じである。つまり、「解釈」あるいは「意志」という語は、厳密には、つまり根源的な次元においてニーチェがその語を使うときには、決して日常的な意味つまりそれには人称的な主体が存在するような意味でとってはならなくて、むしろニーチェの哲学の専門用語的術語ととるべきでもある。一見「解釈」も「意志」も人称的なものを前提としなければならない言葉ではあるのだが、ニーチェにおいてはそれらは人称的なものには関係しない。ニーチェは意志を、意識や主体や自我などの他の人称語や人称性の高い語と、はっきり区別していて、その前人間性没人称性を主張しているつまり一種の定義を下している。なぜニーチェがこういう主体も客体もない状態の領域で「解釈」という普通は主語や対象を必要とする語を使ったのか、なぜ力への「意志」なのか、なぜ力への意志が解釈作用として現れると考えたのか、一見不適切な語法のように思えるが、(もちろん言語化不可能な領域を言語化せざるを得なかったから文法の成り立たないところに不適切にも何か言葉を当てはめる以外にはなかったというのもあろうがもっとそういう表現がもつ意義を考えるなら)そう表現することによって、これは勝手な個人的な考えであるが、普段人称的主体や名詞になりうるものこそが解釈であれ何であれ他動詞的なことをしている思い込んでいるが、実はそういう他動詞的作用も、人称以前にある生の原理である生理学的な生成のプロセスつまり諸々の非人称的な力への意志のみが行っている、ということが改めて強調されてある。力への意志というあらかじめ前人間的非人間的と定義されたものの述語にあたるものとして「解釈する」という普通は人称語を主語としなければならないような語を用いる定式化によって、他動詞的なものさえ人称的主語つまり主語以前にある現象なのだということが際立っているのである。ある種の根源的逆説である。


 後に詳しく書くことだが、力への意志つまり生の根本原理は、人称以前の混沌のうちに作動しているものであるが、絶えず増大するため他を支配しようとするために、差異を判定し、他を評価し、つまり解釈をする。人称以前にすでに生は、能動的に動くものであり、生の中のある力は他の力を自らの解釈のもとに支配するのである。普段人称的なものやその他名詞になり得るものこそが動詞的な働きをすると考えるものだが実は、たえず流動し生成しつづける生のみが、つまり諸々の力への意志のみが、物事の動詞的動的な状態を引き起こすのであり、主体という概念は力への意志の解釈作用の諸関連の中でできたものでしかない。決して、「私」や「彼」のような人称名詞的なものや、その他名詞という概念として固定された後にあるものがあってはじめて、二次的な動詞的な現象が起こるのではない。ニーチェにとっては逆なのである。動詞的な動いている状態、つまり生の流動、そのなかに諸力があって、次にそれが概念として定着して固定されてようやく、名詞的なものができる。だからむしろ「解釈する」という語以前に解釈者という主語つまり名詞がないのは、生の前人間的前主体的な力を訴えるニーチェが言いたいことを如実に表す表現であると思う。主体の実在性を生による生のある特定の解釈の産物とみなすニーチェにとっては、究極的には、動詞に力への意志以外の主語があってはならない。動詞の名詞に対する根源性を示す科学的根拠がある。現代の大脳生理学によると、人間は、脳内で、動詞→副詞/形容詞→名詞→固有名詞、が、大まかにではあるが脳の、原始的中枢→皮質表面上、に対応していて、実際に言葉の想起は、動詞が直接なされるのに対し、形容詞や副詞はその動作の感覚を介して始めてイメージされるし、名詞はそれに関する形容詞や副詞とその形容詞副詞が含包される動詞との二重介在によってはじめてイメージされるという、大脳生理学の知識もほとんどない中で「文法上の習慣」を徹底的に敵視したニーチェの哲学的直観の正確さを裏付けるような、科学的根拠も、現代においては発表されている。主語があってはじめて述語があるのではない。目的語があってはじめて他動詞的述語がある、のではない。科学的にも、まず主語の動詞形のイメージや述語のイメージがまず最初にあるのである。動詞という時間の流れに沿う動作を表す語を、西洋的言語の世において人は無自覚的に、名詞という一連の時間から独立した空間的表象に置き換えてしまっていて、その空間的な表象である名詞が時間と結びついている一連の動作を表す動詞を起源にもつということを忘れてしまっている。こういう忘却があってはじめて、名詞という語や、主語と述語の文法的関係が成り立っているのである。しかし科学的にも実際は、名詞無き動詞的状態という全く非文法的な状態が神経組織の中で一次的にイメージとして想起される。だから普段の語感における「解釈する」という動詞の主語たとえば「私」という名詞が想起される前に、たとえば「私が居る」という動詞的なイメージがある。「私が居る」「私は欲する」「私は好む」「私は思う」という動詞的なイメージが在ってはじめて、そのイメージの中から類似点だけが抜き出され、抽象化され、それでやっと「私」という概念は生まれたといえる。つまり私という概念は様々な解釈作用と抽象化の産物たるフィクションでしかない。原始人においては「自分が動いている」というイメージがあっても、「自分」という概念はなかった。「私」の前にくるイメージである「私が居る」というイメージを一つの動詞とみて、仮にその動詞的イメージに主語があるとすれば、それは力への意志という生の根本原理以外にはありえない。力への意志が解釈することで「私が居る」というイメージが出来上がるともいえる。とにかく根源的なところでは、存在ではなく生成が、名詞ではなく動詞的イメージのみがある。本当はそういう感じでイメージされるのに、文法的にはそうではなく名詞は名詞として前提され、主語と述語の関係が先験的に設定される。このように不当にも文法を虚構してしまっているのだから、人以前言語以前の生の極め難い現象を直観的に理解するために反語的非文法的ではあるが動詞的な「解釈」という語によって説明した方が、ずっと生の主体以前の様態を深く具体的に感じ取れるのである。それはショーペンハウアーが論理的矛盾を犯しながらも物自体に意志という絶えず欲する性質を持たせたのと似ている。この段落で何が言いたかったかというと、あるのは解釈のみだ、主体もない、ということがいったいどういうことなのかイメージしてきただけのことであり、決して解決不可能なパラドックスを説こうとしたのではなく、主体以前に生における解釈があってはじめて主体ができるということが一体どういうことなのかを掘り下げただけのことである。断っておくが、この段落に書かれていることは、勝手に個人的に考えたもの、自分の非言語的直観の動きを無理やり言語化したものでしかないので、その信憑性は保証できない。あくまで表現としてみてほしい。創造性のためなら明証性を切り捨てる、むしろ明証性を誤謬として明示してしまうニーチェは、パラドックスの解決なんか目もくれず、敢えて逆説的言説を展開するのであり、いちいちこんな細かい事に拘らない。しかし自我や意識や主体の自律的実在性や自己同一性を頻繁に批判しながら、つまり生を主体以前のものだと訴えながら、力への「意志」や「解釈」といった普段人称に結びついている言葉を生の原理をあらわすものとして用いられていることは、たぶん「文法上の習慣」に従っている限りは多くの人が混乱させられるところであると思う。


 次に、実際にその解釈の働きについて考察する。解釈という語が出てくる言説で重要なのを引用しておくと「力への意志が、解釈の働きをするのである(ある機関の形成の際に問題なのは、解釈である)。すなわち、この力への意志は、度合いを、力の差異を、区別し、規定するのである。たんなる力の差異はそれだけではまだそれとして感じ取られないかもしれない。そこには、成長しようと欲する何か或るものが現存していなければならない。このものが、ほかの成長しようと欲するものをことごとく、それぞれの価値の点から解釈するのである。この点でおしなべて、実は、解釈とは、何ものかを支配して主人となるための手段そのものである」(『力への意志』643


 例えば実在、主体、因果律、真理などの先験性など、あらゆるものを批判し、在るのは解釈、力への意志のみだ、というニーチェの認識論は、悟性や感性の形式を先験的なものだとするカントの認識論を克服できないと思う。それはカントの方が論理的思考力が優れていたからとかそういうことではなく、もっと根本的なことに起因している。すなわち、カントの『純粋理性批判』もニーチェの『力への意志』も主語と述語が必要な"言語で書かれている"という根本的なことに起因しているのである。ソクラテスの理性による方法論、プラトンのイデア論、デカルトの「我思う、故に我あり」、カントの先験的なもの超越的なもの、そういう類のものは、西洋文明の思想の内容だけでなく言語使用の形式や思考の形式そのものを基礎付けてきたし、逆にそれらは西洋の言語や思惟形態に影響を受けて構築されたフィクショナルな理論でもある。つまり、もし『純粋理性批判』と『力への意志』が昔の漢文で書かれていて、それが漢文的東洋的思惟形態にある人たちのなかで評価されるとしたら、『力への意志』が『純粋理性批判』に認識論的には劣るものとして見做されない、なぜなら、東洋においては、思惟形態や言語の形式そのものが全く違っていて、認識論のうちに論理性というものが何も重要な位置を占めてはいないからである。英語、日本語、中国語、と下っていくにつれて、主語と述語の関係は曖昧になっていくのだけど、昔の東洋の人たちにおいては、さらには原始時代の野人たちにおいては、その主語と述語の関係はもっと曖昧で、言語用法がひどく具体的個別的すぎて、今の西洋人にとってみれば詩に近いようなものだともいえる。東洋の哲学は同時に文学でもあった。そういう思惟形態にニーチェは接近していたのであると同時にしかし主語と述語を明確に使ってドイツ語で認識論を書かなければならないという状況の板ばさみにあり、カントを克服できないのである。西洋文化の延長にあるかぎり、つまり文法上の習慣に従っている限り、無自覚的に人は、超越的なものを想定しているし、神を信仰している、あるいは少なくともそういう形而上学的なものを想定した上でしか生まれないような思考形態で考えている。ニーチェが認識論においてカントを克服するということは、世界中の言語が根底から革新して一般的多数の人の思惟形態や標準的な言語用法そのものが東洋的になってはじめて、それは可能なのである。ニーチェの認識論が堂々巡りをするのは明白なことだが、一体ニーチェの認識論のどこに根本的な矛盾があるのるかというと、主語と述語の関係を先験的絶対的なものと見做していなくて単なる習慣的な虚構だといっているのに主語と述語をつかってその認識論を書いているところが矛盾点だ、としか言いようがない。西洋の価値観を掘り崩し西洋に新しい世界『力への意志』としての世界を価値転換の可能性として後代に伝えたかったニーチェは、原始時代にタイムスリップして野人になるわけでもなくインドに隠遁してインド語を話して哲学をするのではなく魔法を使って世界中の人々の脳内をニーチェ語に洗脳するのでもなく、西洋人に自分の思想をドイツ語で表現するという道をとる以外になかったのだから、矛盾を敢えてでもおかしてそういう認識論を説いたのである。生には先験的に確かなものは何一つなくしかも矛盾だらけであるのが当然で、その矛盾を誤魔化そうとする言語や西洋の思惟形態が生の可能性を拘束してしまっていると考えたニーチェは、「万物は常におのれのうちに全ての対立物をもっている」と言ったヘラクレイトスがそうであったように、生に潜む矛盾を矛盾としてそのまま受け入れるという逆説的な方法をとる他はなかった。


 ニーチェほど、言語や概念が人間に生というものが何かを忘れさせてしまっているということ、人間が言語を信仰してしまって大事なことを忘れてしまっていることを鋭く直感し、言語や概念そのものを徹底的に憎悪し批判しつくした哲学者は、他に滅多にいないと思う。ニーチェは、未だ言語では一度も表現されたことのないような未知の新しい概念や発想を大量生産するあまり、既存の言語の一般的用法ではそれが伝達不可能であったから、ああいうメアファーや逆説的表現を多様せざるを得なかったのであるが、それだけでなく、言語そのものに対して、文法や思惟形態に対してさえも、多くの西洋人にとっては未知の知られざる観点を持ってしまったので、もはや自分の考えが伝達不可能である、神秘主義者のような孤立した世界へ幽閉されてしまっていたのかもしれない。しかしニーチェが神秘主義者とは全く逆のことをした。非言語に生きること、表現しないこと、隠遁することを決めた神秘主義者、自分の深遠な直観による認識をただ自分のうちで終わらせようとする神秘主義者、言語や他との関わりを断ち切ってしまう神秘主義者とは対照的に、言語を恨みながらも、価値転換を願い、世界が変わることを願い、詩人のように必死に表現を凝らしながら、自分の認識を贈り与えようとし、後代へ伝えようとし、文体を色々と変えながら膨大なテキストを書き残したのである。矛盾や論理的欠点を含みつつも恐ろしいまでもの表現力を持ったニーチェの言葉の数々、とくに『ツァラトゥストラ』は、苦悩、精神的孤立、必死の工夫の産物である。ニーチェは自分の思想を文体や表現の形式を変えながら幾通りにも表現しようとした。だから断片だけを取り出してたの断片と比較すると明らかに矛盾しているようにもみえるのだけど、結局ニーチェが表現しようとしたものは言語では表現不可能なものであり、それを言葉を変えて色々な方法で無理やりに表現したのだから、一見矛盾しているように思えるのは必然的なことなのかもしれない。神秘主義者や錬金術師の言葉、例えば「上にあるものは下にあるものに似ていて、下にあるものは上にあるものに似ている」などは、近代西洋においてはユングのような素質をもった一部の人にしか理解できないし創造的な影響も与えない。一方ニーチェの多彩な言葉は、矛盾や理論の破綻や晦渋な表現が多くて、仮に一部の人にしか適切には理解できない、完全に理解できる人は一人もいないのかもしれないとしても、類稀な影響力を持っていること、ニーチェの言葉に影響を受けて創造的な思想を紡いでいった思想家、ニーチェの言葉に強く感化され霊感を得た詩人が多数いることは明白な不動の事実である。


 ある程度詳しく、『力への意志』に書かれていることの認識論的側面やニーチェの言葉の性質など、認識そのものに関わる認識、メタ的なものについては、以上で書いてみた。しかしやはりニーチェの魅力といえばメタ的認識論的なものと価値的なものさらには「余りに人間的な」ことや芸術に関することが渾然が一体になり密接に絡み合ってその思想が形成されていることである。一般的な倫理的人間的な意味での価値観が、どれほど不純な認識論や言語論のもとに陳腐なものにされてしまっているか、こういうことを考えると、より創造的で強度のある人間観を示すために、既存の倫理的価値観の土台となっているところの認識論的前提の不純さを暴くための新しい認識論のモデルが必要になるのであり、そういう認識の認識に関するメタ的土台を築いて始めて、人間的価値的なもののほうも真に根底から価値転換され得るのである。認識論的考察は最終的に価値的人間的な思想に結びついてはじめて価値をもつし、逆に人間論は思惟形態そのものを認識論的考察によって掘り下げることによって新しく深い側面をみせる、これは当然のことだが、このことを特にニーチェは教えてくれるだけでなく実感させてくれる。多くの学者は、深遠な認識論が極まりすぎるあまり感覚的なものや人間的なものを自分の思考裡にある意味体系のもとに解釈してしまうものである(だからあんな下らない芸術論ばかり嘯くのである! 芸術を語るときには哲学は道具にすぎないのに。冒涜冒涜)が、ニーチェは常に、感覚や欲動、実感できる感覚的「生理学的」現象に一次的な価値を置いているのである。それはともかく、とにかく以上の認識論的なことを踏まえて、次は力への意志の価値的側面、力への意志や遠近法が実際どのようなものとして世界において働いているのか、その作用と、力への意志としての世界や遠近法主義がもつ生にとっての意義について考察していくことで、この文章を終わりたい。


 まず力への意志というのは解釈作用によって他の力への意志を「支配」する、能動的なものである。人称以前にまず在るものではあるのであるが、先ほどの逆説について述べたのと同様に主語ぬきで常に絶え間ない能動的支配を行おうとするのが力への意志である。ある力への意志のいくつかが他のある力への意志のいくつかを解釈したときにたとえば、人称があったほうがいいと他の力への意志に説き伏せて支配に成功した時に、人称というものが発生する。その力への意志の発現は最初は能動性の高い力強いものであったかもしれないが、その支配の産物の人称性という概念が時代を通じてあたりまえになったとき、それは徐々に力動性を失い固定され形骸化され弱い抽象的なものとなってしまう。たとえば、類人猿や原始人には人称や自分という概念はなく自然に溶け込んだ意識しかもっていなかったが、集団的な狩りや一定の規模の村での営みを継続していく際に彼らに潜む諸々の力への意志に対する自然環境の諸々の力への意志の解釈と支配の関係の総体が、人称性や主体性という概念を形作り、より便利に強く自然環境を生きることに成功した、つまり自己概念という力への意志の解釈の産物たる力強いものが自然の過酷さをある程度支配することに成功した。しかしそれから数万年たつうちに主体性だとか自分が他と分化されて形成されているという概念などいうのはあたりまえになり特に何も特別に現在の生活を高めるために意識する価値のないものに成り下がった。人称性や主体性という概念は根本的な問題のでまず取り挙げてみただけだがそれだけではなく当然、あらゆる真理、ニーチェによれば神さえも、もちろんもっと卑近な庶民の価値観や頭の固い学者の概念の類でも、力への意志という「意味を知らずただただ支配するために動き回る素子」の相互関係の解釈結果で生まれたものであり、その解釈作用ではじめて意味が生まれて、ある力への意志の集合が他の力への意志の集合を「支配したときにそれは意味だけでなく価値をもつ」ことになる。ここがニーチェの認識論と価値論の接点だともいえよう。しかしこここで重要なのは、「歴史的にあるいは世襲的に支配的なだけのつまり一般的でしかない価値観であれ習慣的でしかない概念体系であることが価値をもつとは限らないの」である。ニーチェにとって支配するというのは、実際に或る人が恋人を支配したり企業が社員を支配したり独裁者が国民を支配したりするレベルにおいて以前の問題の意味でのレベルでの支配であり、自分のなかで蠢く力への意志の群れに強度があってたとえばアカデミズムの概念体系の中の形骸化して力動が停滞している力への意志の総体を支配してそれらの形骸物を超克したときには、たとえばアカデミズムに革命を実際に起こさなくとも、「価値論的に支配に成功している強い生の在り方」なのである。学問と実存の関係だけではなくもちろん、平社員でもあらゆる意味で精神レベルにおいて会社を支配し満喫することが出来るだけの力強さがあり、そこで上司や社長やあるいは資本主義の実験を握る投資家などよりも遥かに大きな快楽と満足を得、上の人間や企業や資本主義のシステムを見抜いて面白がったりしていたら、それは社長よりも力強く生きていること、価値価の高い社員生活を送っていることになるだろう。強いTIは現実世界を謳歌するか、実存の存立の位置づけを自由に変えて、脱出するか支配層に挑むだろう。


これが何故なのかを単なる心理学ではなくさらに遡及して認識論レベル(→遠近法レベル)に還元して考えてみると、つまりは交友であれ社会生活であれ学問体系であれ恋愛でさえも、自然界や人間界というか宇宙全体で動き回っている無数の力への意志がお互いを解釈して支配することによって発生したフィクションでしかない、少なくともお仕着せたフィクションが事実として現実になっているということに帰着する。このことは、切実な、あまりに切実な逆説である。つまりは学問はもちろんのこと、恋愛することも会社で働くこともメタレベルでは単なるフィクションに過ぎない。もちろんそれは形而上学的に言った言い方に過ぎないが、比喩ぬきでは表現しにくいが、色眼鏡によって違う大地や街を生きているということである。そのフィクション性としての世界立脚をどれだけ力強く喜ばしく満喫できるか。世界という誰かに捏造されたうえに形骸され力を喪失した地平をを自身が含有している力への意志の総体でどれだけ支配できるか。あらゆる事象を支配してどれだけの規模の法悦へ達することができるか。宇宙全ての事象が快楽に思える恍惚境。そしてその境地で大地と街を生き続けること。それが力への意志としての世界の行き着く最終目的地点である。


・参考文献

リー・スピンクス『フリードリヒ・ニーチェ (シリーズ現代思想ガイドブック)』

ニーチェ『力への意志』

ベルクソン『形而上学入門』


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(2008)

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