西洋の精神史を地の底から反転させようとした革命的な哲学者。時代に徹底して立ち向かった戦闘的な反逆者。あらゆる文体、多彩な言葉遣いを自由自在に操る筋金入りの文章家。思想を表現したというよりも身を以って思想の源流というべきものを体現した思想家。表現したい思想内容によって自分の自我までをも風と戯れるように変幻自在に変えてしまう道化師。大地がその思想を語るための噴火口となった憤怒の野人。生に対して、今まで類を見ないような角度から鋭いメスを入れ、血腥くもその奥底までもを暴露してみせた暴露狂。得体の知れない誰も歩いたこともないようなところを途方もなく歩き続け、そこに記念碑を打ちたて、多くの人を当惑させながらも歴史を歩く人々の行進を無理やり曲げ、人間の歴史の道筋に新しい道を示してみせた、精神の冒険家。孤独に打ちひしがれながら本物の虚無を知り、その虚無という完全な白紙に、自分の血で言葉を記した詩人。どのように形容してみても、ニーチェという驚くべき人物は、その形容の枠からすり抜けてしまう。
ニーチェは、「7歳という馬鹿げて早い時期に」(自伝)、人々が何を言おうと自分がその圏外であるということ、その言葉が自分の心には一切響かないということを、悟ってしまったような、極めて孤独な人物である。だいたい驚くべき人物(たとえばカントは驚くほど頭がよかっただろうけれど、驚くべき人物ではない。驚くべき人物とは、文字通り人を驚嘆させ、人をわくわくさせ、人を謎の迷宮に導くような、魅惑する力ときに恐怖させる力をもった人物のことである)は、生涯こういう孤独に悩まされる。しかしニーチェは、悩まない、むしろ多数と供にいることを嘆く。「孤独に悩むのは偉大さの反証」であるとまで雄雄しくしかも嘲笑的に断言し、孤独を誇りに思い、孤独と戯れるような高貴さが、人を偉大にするという。真似できない。その孤独のなかで外部のあらゆるものを批判し、攻撃しつくしたが、つまりニーチェは思想のうちでは極めて攻撃的であったが、もちろん実際に個人を攻撃するようなことはない。既成の思想、不定の価値のみを攻撃するのであって、狂気直前の混乱した自伝の(後に編集者によって取り除かれた)草稿などを除いて、特定の人をめったに風刺したりはしない。そしてその不定の価値に対する攻撃とは、人類の生を高めるために行っているのである。
ニーチェの人柄については、ルー・サロメなどによる色々な記録から伺えるが、たとえば他にスイスの若い貴族シュタインの話がある。シュタインは、当初、既にニーチェを幻滅させていたワーグナーに関係のある人物であり、ニーチェをバイロイトに連れ戻すという任務を指示されニーチェのもとへバイロイトから派遣された。しかしニーチェに会うと、その魅力的な人格に惹き付けられ、バイロイトからの命令など忘れてしまったほどであったという。ニーチェは、その訪問を受ける以前から、シュタインのことを彼がワーグナー関係であるということを除いてある程度知っていて、彼こそ自分の理想の弟子に適合すべき素質をもった人物であり、愛すべき弟子になるに違いない、という期待を胸に抱いていた。青春時代に心底信頼し敬愛していたワーグナーに対する大きな幻滅を味わってもなお、やはりニーチェは自分と思想を分かち合う、そしてその真剣な思想を後代へ伝えうるような、高貴な人物を求めていたのである。そしてその訪問、たしか数日間の訪問を受けると、ニーチェは、シュタインがまさに期待通りの人物であり、しかも自分を慕ってくれていることにたいして大いに満足し、シュタインへ贈る詩を創った。『善悪の彼岸』の最後にある詩がそれである。二人ともお互いを認め合い、シュタインはバイロイトから派遣されたということさえ忘れて心からニーチェを敬愛していたのである。しかし、シュタインがバイロイトへ帰って、ニーチェとの感動的な一時の印象がそろそろ褪せてきた頃、やはりシュタインはその訪問の本来の目的に立ち返り、ニーチェにバイロイトに帰ってワーグナー関係の書物の編纂などに協力するように頼む手紙を送った。それでニーチェは二度目の幻滅を味わった、ということである。ほかにも興味深いのがある。まだ幼い頃、学校に通い始めたくらいのころのこと。下校時間近くになって、突然雨が降り出した。どの生徒も傘を持ってきておらず、みんな学校の校則を破って大急ぎで走って帰った。しかし少年ニーチェだけはしっかりと規則を守り、走らず、かばんを頭に載せて、ゆっくり歩いて帰った。これはニーチェの文章をしっている人なら意外かもしれない。ニーチェは元来、少なくとも人に見せる面としては、かなり大人しくて礼儀正しい性格だったようである。ニーチェはたとえば、はっきりと覚えていないので間違っているかもしれないが、「自分は本来大人しい性格であるから、思想を呼び起こすためには激しい言葉を要する」というようなことをどこかで書いていた。とにかく色々な記録から、優しくて、純潔で、誇り高く、思いやりのある人物像が思い浮かべられる。しかし心理学者ニーチェはやはり、恐ろしいほど神経が過敏でもあった。自伝によると「……その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚し----かぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの穢れがひそんでいる人は少なくない。」これほど鋭敏な神経を持った人は、きっと大衆の中にいるだけで恐ろしい苦痛を感じるのかもしれない。しかしそういう鋭敏な神経こそが、偉大な思想を紡いでいくのかもしれない。
ニーチェを読むということは一体どういうことなのか。ニーチェの言葉とは、いったいどんなものであるのか。
ニーチェは、ディオニュソス神のことを「人の心を捉え魅惑するのにたけた天賦の才をもつ」「誘惑者そのものの神」と言っていて、このことはディオニュソスの性質というよりはディオニュソスに惹かれやすい自分の性質を自称しているような気がするが、それはやはりニーチェがディオニュソス的だからであろうし、とにかくニーチェは人を魅惑する誘惑者だと思う。 面白くて笑わずにはいられない時もある。句読点の打ち方や・・・などの記号の使い方が多彩で、突飛なメタファーが多用され、衝撃的な自己解説が始まったり、読者を飽きさせることは無い。ドストエフスキーの小説の脇役達が、滑稽なことをしでかして、読者を笑わせてくれるように、ところどころニーチェの文章には笑いたくなる要素が、調味料として付加されれていて、笑いたくなるのに逆にそれが思想的な栄養と味を、上手く引き出して価値を高めていることもある。ニーチェほど、独特な言語使用をする思想家は、他にいないだろう、とにかくどの文章でもいえることだが、「歌うように」熱弁している。読む人に、元気と勇気を与えてくれる強い文体。声をもっているかのように、直接、感情的にしかも音楽的に、読む人の心に強く、時にしつこく、訴えかけてくる。家庭教師に教えられるように、そばにいるような錯覚がするくらいである。
しかしニーチェの、生への態度の恐るべき真剣さ、痛々しいほど強靭な精神も、決して忘れてはならない。
ニーチェは、笑い、道化、仮面、そういうものを悲しいほどに知っていて、とにかく嘲笑的な文体を多用し、笑うことを勧めた人だったけれど、本当にニーチェの声を聞く人は、その人が相当深い精神を持っていない限り、決して簡単にはニーチェの笑いに乗って笑うことはできないだろう、いや逆に深い精神を持った人ほど笑えないのかもしれない。ニーチェの批判の対象にならないものというのはほとんどないといっていい、つまり自分が超人で無い限り自分はニーチェの批判の対象となっている、そして自分が批判されているにもかかわらず笑うのは、無意味なことである。ましてやニーチェの批判や攻撃をそのまま援用して何かを罵倒するのは、身の程知らずの沙汰であり、そういうことをするならまずその援用者当人がニーチェの言葉に批判されているだろう。「ニーチェは大衆を批判した」と言ったところで、その言った人も超人で無い限りニーチェにとっては忌むべき愚鈍な大衆なのである。大学でニーチェを教える哲学の教授も、ニーチェからみてしまえば話にならない計算機械であり、当の生徒である自分も大学という家畜小屋でエサを与えられている畜群の一員でしかない。だからニーチェを誠実に読むとは、「自分が」この驚くべき人物によって嘲笑されていると実感することであるのかもしれない。誰であれニーチェを読むのなら「自分が」ニーチェに攻撃されている存在だということを忘れてただ面白がってニーチェ節を愉しむのは、自己認識の浅はかさを露呈するような愚行であり、そういう認識は忘れてはならない、そしてそういう恐ろしさをニーチェの笑いに感じれば感じるほど、ニーチェ読本から得られる認識は大きくなっていくだろうと思う。それが体験的で創造的な読書である。体験者は知っている。自分が見た恐怖は知っているものである。自分が下りたことのあるところまでなら、もう既に知っているから、自由に下りることができる。その谷底では、罪人が生そのものを世界の存在自体を嘆き悲しみ、偏執狂は永久に反復する強迫的な妄想観念に閉じ込められて毎回のように同じ叫び声を上げ、失恋した男は絶望に胸を抉られながらも天上の女神に向けて詩を綴り、去勢者は過去の失恋を思い出しては啜り泣き、地獄に堕ちた女は嫉妬と憎しみに血を沸騰させ、苦悩者は幾多の煮えたぎる情念の残酷な母たる孤独に幽閉され生き地獄、都会を呪う野人は精神の地下で都会的価値の破壊の大地震を企てつつ砂を噛んで吐血して窒息寸前、詩人は誰にも永遠に理解されることのない歌を命を賭けて絶叫、聖人は人類に対する大きすぎた愛ゆえに十字架に架けられる。他人がみたら恐ろしい深淵だと思うようなところまで下りても、地下の住人の喘ぎ声を全身に浴びその苦痛を胸に受け止めながらでも、彼は、道化の笑顔を纏って、サーカスのように自由にアクロバットをしてみせる。認識の梯子があるのでいつでも自由に上がってこれる。鋭利な言葉が乱舞しそれを自意識の重力が良心の核まで引き寄せるような、恐ろしい精神の煉獄を体験したことのある彼は、他人の心が出血してしまうような恐ろしい言葉を、軽く自由に操ることが出来るし、他人が背けたくなるような自虐を笑顔で軽々と為すことすらできる。しかし彼は同時に次のことをも知っているものである、すなわち、自分が下りたことのある深淵からさらに1メートル下りるということがいかに恐ろしいことか、自分が良心に言葉を突き刺したことのある深さよりさらに一ミリ深く突き刺すということがどれほど苦痛に満ちたものであるか、そういうことを知っている、そして自分よりそういうのを深く体験したことのある人を、つまりニーチェを、限りない畏敬の念を以って尊敬している。
ニーチェは、笑いと道化を装って声高らかに思想を表現したが、やはり結局のところ、キリスト教的文化が隠して目を背けてきたもの、全てイエス一人の犠牲に背負わせて自分達は逃れてきたあらゆるもの、西洋の価値体系の建築物が光を浴びることによって生まれた影を、全て一人で背負い、発狂するまで苦しみに苦しみぬきながら考え抜いた悲劇的人物であり、そうすることではじめて、西洋の歴史によって建てられた価値体系の影、そこで多くの人が安住する建築物の影に徹底的に呪われながらでも、大地の力によってその建築物を根底から破壊し、本当に価値のある生の在り方を示すことができたのである。とにかく、面白い挑発的な文体に秘められた笑えない真剣さ、比喩に覆われた恐ろしい真実がある。道化とは、遊びは遊びでも神経質な遊びであり、"道化"や"比喩"の仮面を纏った言葉というのは、誰もが目を背けたくなるような真実を、その真実性はそのままに具体的に、しかし許容できる形で、巧みに表現してくれているのである。道化や比喩を知る人、使う人は、仮面で覆って表現しなければ認められ得ないような真実を体験したことがある人であり、仮面的に表現することによって、繊細な感覚を持った人にのみ暗示的に、しかも具体的に、その真実を示唆しているのである。道化は苦悩する。ドストエフスキーの小説に登場するキャラクターというのは大抵、破廉恥であり、道化であり、子供染みていることが多いが、それでいて同時に、病的なほど鋭敏な神経を持っていて、どんな事件にも驚いて大きな影響を受け、騒ぎ立てつつも内面的にも深く苦しみ、葛藤し、人間について考え抜き、とにかく生に苦悩する。個々の事件は、ドタバタ劇、喜劇であることが多いが、1個の物語として全体的にみると、痛ましいほど精神的な人物たちが繰り広げた悲劇のようにも見え、胸に大きなものを訴えかけてくるような力をもっている。その登場人物達の道化を纏った悲劇を読むことで、ドストエフスキーの読者は、人間に対する豊かな認識を得るのである。道化の苦悩を表す言葉がニーチェの自伝にあったので引用しておくと「私はシェークスピア以上に悲痛な読み物を知らない。ひとりの人間が、こんなにまで道化になる必要があったからには、どんなにかれは苦渋の道をあゆんできたことか!」スケールの大きい視点から、たとえば人類の精神史を一つの劇のようなものとして見ると、ある意味で、ニーチェは道化を演じた人物であった、ということもできるかもしれない。道化を演じつつ最終的には、ディオニュソス・ザクレウスのように苦悩の故に自らを引き裂いた悲劇的人物となった。とにかくニーチェは、キリスト教的文化が不当にも抑圧してきたあらゆるもの、それが抑圧されることによって生の価値が貶められてしまっていたところのものを、道化になって嘲笑的に暴露した。そして彼自身、道化というのがどれほど苦渋み満ちた存在であるかということを知っていた。道化が犠牲になることによってはじめて、真実は告げられるのである。その真実を体験してしまうとは、どれほど苦しいものであるか、それを忘れてしまってニーチェの笑いに乗るのは良くない。道化や比喩の才を持つような詩人的な神経系は、たいていその過敏さによって生に苦しめられる、だからこそ生の心臓部を知っている、というより生の心臓部を体験するからこそ生に苦しむのかもしれない、別にこのことは鶏と卵どちらがさきかのようなものでありどちらが原因でありどちらが結果であるというのはないだろう。
とにかく命の鼓動というべき生の内奥の根源的な矛盾、根源的な苦痛、そういのを体験すればするほど、ニーチェがやったように本当に心の底から生を讃えることができ、本当に笑うことできるのかもしれない。ツァラトゥストラの生への賛美や声高らかな嘲笑には、真剣で誠実な人の良心を抉るほどの恐怖すべきものが秘められている。この恐怖、あらゆる物事が「良心」へと内向して、もはや命そのものを抉ろうとする、この恐怖を克服せずにいて、どうして笑うことなどできるだろうか。自分の心の中の幽かな心の動きさえ、その全てが、そんなのは弱者の考えること、見え透いた嘘だ、嘔吐に値する、とにかくニーチェに徹底的に罵倒され攻撃される、だからニーチェについて書こうとすると痛々しい思いさえするほどである。私はニーチェの言葉に突起した毒針に良心を刺され、苦痛に悶え不安に戦慄したことはいくらでもあるが、そのことは一切語りたくない、なぜならそれはまったく私的なものだからであり、そして、私的な感情を激越に起こさせるのがニーチェの綴る過激なしかも不思議な言葉である。とにかくニーチェが訴えたいのは、自分自身の苦悩、自分の歓喜を持て、それが本当の苦悩であり歓喜である、ということである。鈍物には見えざる欺瞞が潜んだ鈍物同士の空虚な喜び、お互いこすりあってはじめて発生する熱、などではない、自分の生から汲み出された本当の歓喜、自分の精神が発する情熱に至るためには、独りになって自己自身に帰還しなければならない、しかしそれは超人で無い限り普通の人にとってはかなり苦に満ちたことである、そしてニーチェの言葉はそれを齎すものであり、ある意味ニーチェの言葉は読者の心を解剖するメスのようなものであり、ニーチェを読むことによって今まで見たこともなかった自分の生の内奥(それは、ときには、グロテスクなもの、痛々しいものであるかもしれない、ニーチェの自伝によると「私の発する一言の力で、劣悪な本能はすべてその顔にあらわれてしまう」)を覗き見ることができる。読者の心を切り裂き心の流血を催す鋭い言葉、読者の心を黒い苦悩へと溶解させる恐ろしい言葉、であると同時に、読者に本当の自己自身への帰還の道を示唆してくれる言葉、つまり「喜びの情熱と苦しみの情熱」を自分の生の裡で体験する道を教えてくれる言葉。それはもちろんイエスが言うような「狭き門」に続く道であるかもしれないだろうけれど、その道を歩むことによって始めて、人に与えられ人と共有する喜びではない、本当の生の歓喜、その歓喜を味わうことによって人へ新しい価値を贈り与えることができるような歓喜を、実際に味わうことがでいるのかもしれない。とにかくニーチェが体験した恐怖に値する苦悩を、でなくともそれに類するような激しい「内的経験」を、自分自身の裡で体験しようとせずして、『ツァラトゥストラ』を生への讃歌だと真に解することは出来ないだろう、いやニーチェの言葉を一語たりとも理解できないかもしれない。何でも概念や言語を以って接そうとする学者というのは、概念という一般性に依る接触というのは対象が特殊であればあるほど役に立たないというか全く無意味であるし、ニーチェのようにあらゆる概念を犬儒して破壊して前概念的な生のカオスへ達した人物、「言葉によるあらゆる伝達は破廉恥なやり方である。…言葉は低俗でないものを低俗にする」とまで豪語する人物には概念や言葉などどのようなものであれ空虚でしかないということを考えると、ニーチェの精神への直接の接触は全く下手であり、ただニーチェの言葉を知って覚えてそれを操作しているだけであるようなことも多く、ニーチェの言葉を本当の意味で理解しているとはかぎらない。言語を絶した驚くべき人物であればあるほど、その精神には、概念とか事実とかを以ってしては決して接しえず(概念についていうなら、概念は一般性であるが驚くべき精神とはまさに一回限りの特殊性、一回限りの生を完全燃焼させた花火であり、この世に全く同じように閃光する花火は復とない。学者は全く抽象的な概念の羅列に依ってニーチェの思想を捉えようとするが、ニーチェがどれほど思想における言葉の具象性の復権を願い、抽象的な言語など用いずに、比喩などを使って工夫しながら、あるいは逆説や反語の形をとってまで、感性に直接訴得るような具象性の強い文体で書くことを努めていたかは、明らかに伺える。自伝によるとニーチェにとって「文体」とは"内的なパトス"を精確に伝えうるものであってはじめて優れた文体なのである。事実についていうなら、激しい精神は、事実や史実を解釈・意味づけ・価値付けする際、その力が激しすぎるので、もはや史実はその精神を語るための比喩に過ぎないものとなり、強力な精神が為す史実に対する批評文は、限りなく創作物に近くなっていく。強力な精神の持ち主にとっては、どんな実際的事件も、過剰に解釈したり能動的に歪曲したりしない限りは、何の思想を語る材料ともならないような、大衆の下らないお祭り騒ぎでしかない。
ニーチェは自分に"歪曲の本能"があると自伝で語っている。『悲劇の誕生』はギリシャに対する歪曲的解釈の産物たる悲劇的創作物であるかもしれないし、『反キリスト』に至ってはほとんど小説、しかも文体のうちに激しい精神力と思考の芸術が能密度に渾然と凝縮された小説になっている、ニーチェは自分の思想を語るためにあのようなパウロ像やイエス像を必要としたのである)長くなってしまったので繰り返すと、言語や一般性の枠組みを遥かに絶した驚くべき精神には、以上のような理由から概念や事実とかを以ってしては決して接しえず、一生命と一生命が直接触れ合う場、感情移入や精神的な共感に依って近づこうとする他はないのである、つまり自分がニーチェに罵倒されていて、自分がニーチェの誘惑に乗ろうとしているのであるということを自覚しなければならない、そしてニーチェが感じていたであろうパトスを、たとえそれが苦痛に満ちたものであっても、感じようとしなければ、ニーチェの精神に一歩でも近づくことはできない、それは極めて個人的な体験になるだろうけれど、そうなってしかるべきなのである。ニーチェの『ツァラトゥストラ』のメタファーの嵐とか、他にもたとえばランボーのまさに言語を絶した散文詩とかを、理論やら抽象概念やらで分析したり、事実などと参照させてしまったりしてしまうのは、いわば輝かしい価値を開花させる可能性が封入された種を金具で分解して台無しにしてしまうようなものである。その花火の閃光の印象を自分の肉体に刻印するつもりで、あるいはその種を自分に植え付けるつもりで読まなければならない。たとえニーチェのように輝かしく燃え上がるものではなくとも、自分自身が生を燃焼させる花火になろうとするつもりで読むのが好ましいだろう。もし本当に超人を目指すのなら、ニーチェ曰く「インスピレーションに撃たれたとき、自分は圧倒的に強い力の単なる化身、単なる口舌、単なる媒体にすぎないという考えをほとんど払いのけることはできない」というツァラトゥストラになった体験を、自分も実際に経験できるくらいに、思想によって精神を鍛え上げ、芸術によって感覚を豊かにしなければならないだろう。「インスピレーション」といっても、思想を欠いた俗物のドラッグによる恍惚境と、詩人や預言者の思想とメタファーのみによる神秘的体験とは、雲泥の差があるだろう。人の心を打つような言葉や絵や音楽にならなければ、価値を他人に伝えることはできず、極端な興奮によって得たものというのはそれが作品や思想に昇華されなければ人に害を与えるものになりかねない。その雲泥の差は、ただ火薬だけが詰った爆弾と、無数の色を放ちながら夜空に鮮烈に光り輝く打ち上げ花火の違いに喩えられるかもしれない。尤も、偉大な詩人の神秘的な体験までをも、精神錯乱などの病理に還元する計算機のような心理学者、心身並行論という馬鹿げた理論を信仰して神経学的にしか説明しないような神経学者は、ただ火薬を試験管に入れて分析しているだけであり花火を見ようともせず、その「思想」の爆発力、生命にとっての輝かしい「価値」を(「超人こそ大地の意義なのだ」どツァラトゥストラが言うように、深い精神を持った人は、「意味」と「価値」を思想的に追求するものであり、哲学史上のニーチェの功績の一つとして、哲学に、意味と価値の問題を、「神は死んだ」という言葉で示されるように衝撃的に持ち込んだことが挙げられるかもしれない)、一生知ることができないだろう。ニーチェの心理学と、一般的な心理学は、こういう意味で全く対極のことを行っている。つまり、分析的な手段に依って遠くから間接的に対象へ接そうとする一般的な心理学とは違って、ニーチェの心理学とは、どのような病人であれ詩人であれ宗教家であれ、その対象の人の感じていた心理を、たとえそれがどれだけ苦痛を伴うものであっても、実際に自分の裡で、全く同じように生々しく感じようとすることである。詩人を調べる神経学者の脳裏には、神経学的な学識のみが描かれているのに対し、詩人を洞察するニーチェの脳裏には、詩人が思い描いていたことに近いものが描かれているだろう。ニーチェの思想に分析的にしか接しない学者の脳裏には、「ディオニュソス的」「永劫回帰」「超人」という"言葉"や"概念"は描かれているかもしれないが、ニーチェの思想に体験的に接する読者の脳裏には、というか全身の神経系には、言葉なんかよりも、精神の苦行僧の自虐的苦悩、超人の高貴な姿、大いなる嘔吐など、そういうものが具体的に現象し、実際にディオニュソス的な激情に憑かれているかもしれない。
たとえばショーペンハウアーの俗物に対する攻撃性を、性に関する病理へと還元してしまう心理学者(実際にそういう恐ろしく身の程知らずのことを心理学者がしでかしてしまっているのを見たことがある!アカデミズムという権威に乗ってしまえば、みんなで理論への信仰を共有し、なんだってやってしまうのである。ゲーテの女神崇拝の傾向を「自己愛性人格障害」と関連付け、これこそが作品から伺える虚像ではない真の実像だとまで言ってしまうような、精神的価値に対する恐るべき暴行を加える心理学者さえいるほどである!そういう頭の弱い心理学者は、抽象的理論という虚構を信仰して騙されている。先ほど述べたように、驚くべき精神は、抽象概念を以ってしてでは一切触れることができない。人格障害の理論とは、ここ最近創られた、精神的価値とは無縁の現代人向けの理論、現代的一般人の心理的傾向から抽象されてできた理論でしかない。抽象と具体の関係がその心理学者の頭の中では本末転倒している。具体的なものをを抽象物へ還元してしまうのは、その具体が特殊なものであればあるほど、間違っている。)フロイト派の心理学者の脳裏には、性に関するフロイト的理論が思い浮かべられているかもしれないが、それはショーペンハウアーという人間像とは一切無縁のものであるかもしれないし、ショーペンハウアーの方が人間に関しては学者よりもあらゆることを知っているだろう、ショーペンハウアーの幸福論には、特定の概念や理論を一切使わずに、普段使われるような言葉のみで生身の人間の性質や人生について普遍的な洞察が為されている、つまりショーペンハウアーの脳裏には、抽象物ではなく生身の人間の行動や心理がしっかり描かれている。とにかく、そういう具体的な洞察こそが重要なのである。しかも「心理学こそ諸学の女王になるべきだ」といったニーチェが、そのニーチェ式の心理学でやった具体的な洞察とは、ツァラトゥストラにやっつけれれる人物、世界の終わりを解く者、精神の苦行僧、蒼白の犯罪者、詩人、魔術師、などを見れば分かるとおり、内的な葛藤が著しく、世界を敵視したかと思えば自虐をしたりするような精神的な矛盾に悩み、とにかく苦しいものを深く体験していた人間を対象にしたものである。それに比べたら、多くの心理学者がやるような距離を置いての抽象概念による間接的な分析とは、悩ましいもの苦しいものは体験したくないといって逃げているような欺瞞であり、それでは概念的思考による抽象的な言葉の羅列以上のものはできず大事なものである当の心理そのものは学者自身からは遠くのところに置き去りにされ、そういう態度でおよそ心理学というものが本当の意味で進歩するのかというのが甚だ疑問である。鬱病や神経症の人の心の中にあるのは、鬱病の症状、とか、神経症の症状、とかではなく、心理的な苦しみ、であるのだから、その心理そのものを洞察しなければ意味がない。とにかく、何もかもをも体験的に洞察してきたニーチェの精神を感じようとするなら、ニーチェが訴えたかった生の本当の価値を知ろうとするなら、神経学とか病理学はもちろんのこと、その他あらゆる概念、あらゆる事実などを以ってして分析的に接するのは殆ど無意味なことである。ニーチェの文章という激しく脈動する血管に自分の心を流し込まなければならない。精神的に葛藤し、矛盾に悩み、苦痛に耐えながら認識を求めなければならない。若い読者が『罪と罰』を読むときにラスコーリニコフになったつもりで深く悩んで葛藤するように、「蒼白の犯罪者」「精神の苦行僧」になったつもりでその矛盾同着が犇いて葛藤に心が引き裂かれそうになっているような痛々しい神経症的心理を体験し、それを克服しなければならない。概念や抽象的思考で脳髄を一杯にして遠くから間接的に解釈しようとする学者よりも、たとえば、ニーチェを一冊も読んだことがなくても生の深淵へ身を以って近づき、あらゆる心理的な対立矛盾に引き裂かれ、混沌へ溶解し、その血腥い苦痛を独力で克服したような人がいたとしたら、その人のほうが、ニーチェの訴えたかったことを理解しているかもしれないといえそうなくらいである、そういえなくとも、その人がツァラトゥストラの「言葉遣い」や「文体」を少しでも読めば、比喩の連鎖に滲み出た恐るべき苦痛、比喩の節々に顔を出す輝かしい芸術から、ニーチェの驚くべき精神を生々しく直覚するだろう。
太陽への讃辞を歌いつつ、人間たちのもとへ下ってこれから知恵の光で世界を照らそうと決意した超人、世界に炎の思想を放火することを決心した超人自身の意志が、太陽に見立てられるという、感動的な幕開けで始まる『ツァラトゥストラ』の、あの忌々しい比喩の裏にある深淵、最高に素晴らしい比喩の燃え上がる価値というのは、読む人自身がもちろんニーチェほどでなくともある程度比喩を使えるくらいに、「舞踏する星」のように開花する比喩を生み出す「混沌」に近づいたことがあればあるほど、生の根源を体験しそこで苦しみぬいたことがあればあるほど、知ることができるものなのかもしれない。何かを具体的に体験的に理解しているかどうかの指標は、それを具体例で示せるか、あるいは比喩で具象化して示せるかどうか、である。内的な体験においては、それが深くなればなるほど、あらゆる心理が具象性を帯び、風、炎、太陽、海、雲などの自然物の隠喩を象徴的に纏うようになる、詩人が隠喩をよく使うのは内的体験を深めていたからである。この意味で、たとえばメタファーを乱用する中世の錬金術は、化学的には誤謬がたくさんあっただろうけれど、心理的には豊かな内的体験をしているのである。それはともかく、イエスの比喩や寓話がそうであったように、ツァラトゥストラが、どれだけ精神的なものをも寓話や比喩で具体的に表現している、実際に「おしまいの人間」「精神の苦行僧」「最も醜い人間」「蒼白の犯罪者」「詩人」「魔術師」「超人」を登場させて語っているということは、それだけニーチェがどのような精神的心理的なものをも肉体を以って理解していたということである。詩人に比喩の才があり、作家に作品を創作する能力があるのは、自然現象に"具体的に"接することができ、他人のどんな心理をも"具体的に"体験できるからということも関係しているだろう。『悲劇の誕生』によると「彼(詩人)にとって性格とは、それぞれの特徴を寄せ集めて構成された全体というようなものではなくて、彼の目の前で厚かましいほどに生き生きと動いているひとりの人物なのだ。………たえず生き生きとした戯れを見、つねに精霊の群れにとりかこまれて生きる能力を持ちさえすれば、ひとは詩人になれるのだ。自分自身の姿こころを変えて、他人の姿こころから語ろうという衝動を感じさえすれば、ひとは劇作家になれるのである。」ニーチェの心理学の功績とは、まさに詩人が自然を観察するとき作家が人間を観察するときのように極めて具体的に、自分自身の心身を以って、色々な人物、それも普通は目を背けたくなるような葛藤と苦悩に満ちた人物を洞察し、思想家の精神を以ってそれをしっかりと評価し、それを類稀な表現力で言葉にしてきたことである。芸術作品や比喩というのは、世界から切り取った断片を結び合わせたものであると同時に、自分自身の生身の心身から抉りぬいたものであり(比喩において、ある二つの物事、例えば心理的なものと物的なものを、みんながやる一般的な方法ではなく、自分の方法で結びつけるというのは、ただ人から聞いて知ったというだけでなく実際に自分がその心理的なものを具体的に体験していた証であるといえるし、心理的体験から一個の作品をつくるともなれば、そのことはさらにいえる)、まさに詩人のメタファーとはある意味では文字通り血によって綴られた言葉であり、ツァラトゥストラの口から乱舞しながら溢れてくるメタファーとはニーチェ自身の存在の根源に根ざして血を吸い上げて花開いた言葉である。心の最深点、存在の根源から沸きあがってくるメタファーというのは、大抵の場合、もはや合理的思考を圧倒し、それだけでなくこちらのあらゆる意識的な意図をかき消してまで、激しく閃光する。ニーチェの自伝によると「その際(インスピレーションのとき)、われわれはもう、何が形象か、何が比喩かもわからなくなる。一切は、最も手近な、最も適切な、最も単純な表現として、おのずから現出する。実際、ツァラトゥストラの言葉を引用するなら、もろもろの事物が自らやってきて、比喩として使ってくれと頼むかのようである」この瞬間こそまさに、世界について色々なことを考え、多種多様な人間について考察してきたニーチェの精神の輝かしい開花であり、ニーチェが徹底徹尾大地を愛してきたことを考えると、まさに大地がニーチェという噴火口を開いて思想を語った大きな瞬間である。
真に自分の血肉や大地に根ざした言葉というのは、古代の神話の詩人の言葉がそうであったように、とにかく比喩、特に自然物に関する比喩になる傾向が強い。比喩があらゆる心理を具象的に表現してくれる。ツァラトゥストラの言説、ニーチェというあらゆる人間を具体的に洞察してきた人物、しかも大地と一体化した人物の恍惚境で彼の根源から湧き上がってきた言葉を読むことで、言語で表面的にやりとりして多数決的に心理や情緒を共有してしまうことによって薄っぺらい紙切れのような抽象物となっていく人間の心、抽象的な意味しかもたない生、あるいはもはや無意味になってしまった生に、比喩が血となって通うことになる。それは苦悩に満ちたものであるかもしれないし、歓喜が溢れるようなものかもしれないけれど、とにかく具象性が強く、こちらの胸を揺さぶらずにはいない。生き生きとしたツァラトゥストラのメタファーに比べたら、日常的な希薄な言語など枯葉に過ぎない。もはや命を失って静止している。意味と価値が葉脈に通うことを止め、太陽の光を綺麗に反映させない。静止しているからか、合理的な一義的解釈は容易であるが、もはや生命は枯れているし、風が吹けば飛んでいく。しかしツァラトゥストラの言葉は、この自然界の内奥、あらゆる生命の根源に直接根を下ろして生きている大木に生る青々とした葉っぱである。葉脈には常に色々な意味が脈打っている。陽光を浴びる象徴の森は、精神の風が吹けば音を立ててざわめき、一つ一つの葉は角度を変えながら、影になったり太陽の鏡となったり、色々な色に変化しながら、ハープの弦のような木漏れ陽の七色の交錯を生む。しっかり地に根ざしているので、時代の風が吹こうとも決して永遠に飛ばされることは無い。とにかく生きた言葉とは、生命の根源、最も謎めいていて恐ろしくもある深みに、直接に根ざし、そこから栄養価の高い意味を吸い上げている言葉であり、書く人と読む人の心に生きているから意味を固定し難く、象徴性が極めて高い。象徴的な言葉は生きている。希薄な心を持った人、合理的思考しかできない人には、ほとんど何も意味しないが、深い精神を持った人には深いことを意味する。読み手が、精神的な苦悩に悶えているとき、大芸術に心酔してまだ興奮が冷めいないときなどであれば、ツァラトゥストラの象徴表現はさらに激しい具象性を帯びて、全身を揺さぶるだろう、それはニーチェが執筆するときそれくらい大きな激情「悲劇的パトス」に憑かれていたからこそ象徴表現はそういう性質をもっているのである。とにかくツァラトゥストラの言葉は、どんな精神的なことをも、極めて具象性の強い形で意味し、生命の内奥へ直接訴えかけてくる。比喩や寓話によって精神的なものが具現化されたり人格化されたりしながら表現されることによってはじめて、"精神"は、本来の具象性を取り戻し、天国に慰められる信者のそれのような現実から離れて彼岸に行ってしまったものでもなく、一部の学者のそれのように引き出しにしまわれた紙切れのような抽象物でもなくなり、限りなく"肉体"と合一するのである。抽象的思考に慣れきった人が知っている「精神の苦行僧」とは引き出しにしまわれた文献に載っているものであるが、ニーチェが知っている「精神の苦行僧」とは、ニーチェの血のなかに宿って生きている克服されるべき人物像、あるいは昔は臓腑を苦悩で犯しながら生きていたが今はもう既に克服された人物像である。「最も醜い人間」とは、イエス・キリストの影、教会の神を殺害するという重大な使命を持ったニーチェその人の分身、ツァラトゥストラになるための一段階であり、ニーチェが「生きた」人物である。ただ抽象的な言葉で、詩人や「精神の苦行僧」「ましな人間」そして「超人」を説明できだけでは文字通り無意味であり、心理的なものであればあるほど言葉の上での抽象的理解は無意味になっていくように思われる。言葉なんて関係なく、とにかくその人物を生きなければ意味がない。
『ツァラトゥストラ』が、「だれにも読めるが、誰にも読めない書物」だというのは、この点においてであるといえるかもしれない、すなわち、抽象的理解によって読めているつもりでも実は全く読めていなく、比喩が意味するところを具体的に知るには、実際にその意味するところのものを自分が"体験"しなければならない、ということである。自分の生において深く激しく苦しんだ人なら、ニーチェという知的野人が、どれほどの身を焼くような苦痛を、「教養俗物」とか「畜群」とか呼ぶものに対してのどれほどの憎悪を、脈打つような強力なレトリックの裡に徹底的に絞殺しようとしながら、悶絶寸前になっていたか、ということを感じてしまうだろう。ニーチェにとってはレトリックや比喩というのは、一般的な意味でのそれではなく、つまり単なる文飾ではなく、それなしには伝達できない「内的なパトス」を表現するために不可欠のものである。ニーチェの悲劇的パトスを知れるくらいの芸術的精神を持った人なら、ツァラトゥストラがどんな恐るべきものを、あの比喩の下に隠しつつ暗示しているか、そういうことが分かってしまい、神経は戦慄してしまうだろう。レトリックやメタファーの脈動が絶叫している意味や価値に比べたら言葉など空虚な薄っぺらい紙切れに過ぎず、言葉や概念的思考という表面的なものを越えて、自分の生の深くにある心臓部の鼓動と、レトリックやメタファーの脈動を共鳴させない限り、その意味と価値を本当に理解することはできない。自分が比喩や作品を生み出せるほどに実際にツァラトゥストラが言おうとしているところのものを心理的に深く体験したことがあるなら、ツァラトゥストラによる精神的なものの象徴的な表現は、胸を激しく揺さぶり、現実的に心拍数を急上昇させるだろう。たとえば「魔術師」の章を読んでいるときに精神的な発作を起こした人がいたとしたら、彼は魔術師になりきっていると同時に、ツァラトゥストラの思想を、稲妻に打たれたかのように強力に受け取っているだろう。たとえば、ある苦悩者が、『ツァラトゥツトラ』の「悲壮な者たち」の章を読んで、全身を圧倒するような衝撃を受けて戦慄しつつ、自虐的苦悩の状態を脱して、関心を完全に美に移行させ、芸術に開眼し、あらゆる苦痛を昇華させることに成功させたとしたら、彼は、『ツァラトゥストラ』の解説を抽象的な言葉で拵える哲学研究家よりもずっと、ニーチェの訴えたかったものを理解しているだろう。そして彼は、「悲壮な者たち」の次の章にある「教養の国」でツァラトゥストラが乱舞させた嘲笑的毒舌と同じものを自分の脳髄に発生させながら、「悲壮な者たち」に対して研究家が行った抽象的な解説を、嘲笑うだろう。
とにかくいえることは、思想家であり詩人でもあり、あれほどまでに豊かで多様な心理的体験をしてきたニーチェの、様々な示唆を呼ぶあの不思議な言葉を、一語でも理解するとはすなわち、「ディオニュソス的」「超人」「永劫回帰」というニーチェの作った言葉を覚えることなどでは決してなく(本当にニーチェを読んだ人は、ニーチェの術語がニーチェにとってのみしかほとんど意味をなさないものである、術語が一般教養になってしまえばその価値はほとんどニーチェの脳髄というか肉体に宿っていたころの輝かしい価値を喪失してしまっている、ということが分かるだろう、そして他人が作った術語などを覚えたり使ったりせず、自分の生から導き出された自分の言葉、自分の文体を持つだろう。ニーチェの自伝によると「偉大な作家は自分の現実からのみ汲み取って書く」)、哲学史上の知識や概念を以ってニーチェの思想に接することでもなく、思考の芸術たるその言葉が放つ怪しげな香気に誘われて、冒険心を以って禁じられた門を開き、ニーチェが体験した深淵へ実際に自分の身体を以って下りていくこと、自分自身が言語を絶した地下の混沌、「舞踏する星を生み出す混沌」へ近づこうと努力すること、ニーチェが読者として求めた「勇気と好奇心の塊のような怪物」になろうと努力することである。というより「勇敢きわまる拳」のような大胆な意志と「ニュアンスを解する」「繊細きわまる指」のような鋭敏な神経とを最初から持ち合わせた人の場合、好奇心からその魅力たっぷりの言葉を読むのをやめられず、そして被影響性からいやがおうにも、その類稀な爆発力を持った言葉によって自分が今まで立脚していた心理的基盤は一挙に爆破され、下では更なるニーチェの言葉が蟻地獄のように待ち構えていて、生の地下、苦痛の黒い潮、際限の無い生のカオスの迷宮へ引きずりこまれ、苦しい思いをさせられるというようなことになる。言葉に対応する一般観念や概念を信じ込んで言葉に騙されながら表層で安住している愚鈍な神経や、抽象的な概念や言語を弄しては無意味な思弁を量産する以外に能のない機械染みた神経などではない、言葉がもっている一般的抽象観念などを信用せずに"言葉の節々に具体的に滲み出る著者の生身の感性"からあらゆる心理的"ニュアンス"を解そうとする物分りのいい優れた神経をもった読者にとっては、言葉の魔術師であるニーチェの文体とくにツァラトゥストラの文体とは、出血しながらも激しく脈打っていて触るのも憚られるような異様な血管であり、ニーチェ読本とは、価値観が地の底から反転するような大事件であり、それはなぜならそういう神経を持った人はニーチェの心理をある程度かもしれないが生々しく体験してしまうからであり、それまで何の悩みもなかったのにニーチェを読んだだけで自殺してしまった不幸な青年も実際にいくらかいるだろう。
ノルアドレナリンの分泌が盛んな多感な神経にとっては、それくらいの影響力である。ニーチェは『ツァラトゥストラ』を人類に対する大いなる贈り物だと自画自賛するが、ツァラトゥストラの嘔吐を浴びて全神経が呪われてしまった人、もしそういう人がいたとしたら彼はむしろニーチェが大いに望むような人であり、その魂の瀕死状態を独力で快癒させたとしたら彼は超人に近づくだろうというような人も、いくらかはいるだろう。どうせ苦しむのなら、鬱病の性質を4つか5つ箇条書きで適当に示したり~性人格障害というのを10個も20個も作るしか能のない無責任な現代心理学の抽象的な諸概念を、苦しみに喘ぎながら意味もなく覚えるよりは、幅広い知識を持ち、もちろん知識だけでなく芸術に精通し、世界の終わりを解く者、最も醜い人間、詩人、蒼白の犯罪者、精神の苦行僧、魔術師、あらゆる人物を生の場で内的に体験してきたニーチェの、生から具体的に紡ぎだされた豊かな言葉を読んで、精神的な葛藤に悩み、矛盾に引き裂かれ、苦しむ方が、ずっと価値のあることだろう。ツァラトゥストラや、ツァラトゥストラにやっつけられる人物は、ほとんど比喩的な意味でなくても、心に神と悪魔を持った人物であり、善悪の力動的対立が顕著に見られる。ゲーテのいう「魔神的なもの」、ユング心理学の術語で言うと「元型」的なものに取り憑かれた人物である。ニーチェの遺稿には「神と悪魔は同一である」というのがあって、しかもその一文には強調の付点が打たれていた。点を打つためにペンを紙に打ちつけたときのニーチェの激情がどれほど壮絶なものであったか。実存主義的な危機とか自我の葛藤とかそういうものを遥かに超えた、神話的な次元での心理的戦闘である。とにかく、ツァラトゥストラの寓話や象徴表現を、具体的に読めば読むほど、色々な人物像、しかも神的なスケールの苦悩を経た人物像を体験することができる。苦しいときもあれば、喜びに高揚するときもあり、未知の認識を発見したり、新たな謎がたくさん降り注いできたりするような、とにかく激しい心理的大事件である。しかしその事件を投げかけた当のニーチェはどうか。遠く、雲の上にいる。こちらが、ニーチェ式心理学の鋭すぎる批判的洞察によって生の心臓部を抉られ醜いものを暴露され苦痛に喘ぎ、嘔吐を催すようなざらざらした言葉に神経を撫でられてまずい感触に全身が支配されたり、破壊的な言葉に心理的地盤が揺り動かされ破壊され足場を完全に失って神的な善悪が蠢く恐怖の黒い潮の渦中にいたり、あるいは比喩の魔力に狂酔しその文章の魅力に感嘆したりしているというのに、ニーチェは、そんなこちらの大事件などお構いなしに、遠くの山の高いところで、鷹と供に高山の風を愉しみながら、大きな声で高らかに歌い、軽やかな足取りで踊り、笑っている。とりあえずはこの恐るべき人物を仰ぎ見る以外には何も出来ない。
なぜこれほどニーチェは、色々な意味で計り知れない力を持っているのか。それは、こういうアニメチックな言い方が許されるとしたら、ニーチェにとって読書や思索や文筆とは、つまり哲学とは、超人になるためにパワーアップする過程であったからなのかもしれない。ニーチェは自分が何か明確な目的を持って哲学をしていたのではなく、衝動の赴くままに思索していたと言っているが、もしニーチェの哲学に目標があるとすれば、「生の極悪非道な側面」を見据えた上で、「生をディオニュソス的に肯定」することだといえるかもしれない、そしてもちろんそんなこと、超人でない限りできないだろう。でもニーチェはそれをやろうとした、つまり超人になろうとした、周知の通りその結末は悲劇的な生の破綻でありディオニュソス・ザクレウスの運命そのものであるのだが。とにかく一人間であるニーチェの哲学とは、ツァラトゥストラが「人間は自己目的ではなく超人への過程である」というように、超人へ近づく過程であるといえる。つまり、だた読んで知る、個々の事象や物事を哲学的に研究する、というだけでない。ニーチェにとって、いわば読書は食事のようなものなのである。精神の栄養にしなければ意味が無い。そして考えることとは、身体を鍛える事にも似て、精神をパワーアップするための訓練なのである。そして自分の生を高め、新しい価値を創って始めて、哲学が意味を持つ。もちろん、読書や思索する人にとって誰にでも、ある程度はこのようなこと、つまり本を読んで知識を得るだけでなく自分自身の生を高めるということはいえるかもしれないけれど、ニーチェの場合その傾向が特に凄まじかったといえる。こういう傾向は、その人の天分が大きいだけ、大きくなるだろう。天分を持つ人は、その特異さ故に、多数の人間の価値観には相容れないだけでなく、その天分が大きいだけ、著名な本を書いた小数の思想家からも抜きん出た精神をもつのである。そういう精神にとっては、どのような本も、ただその内容を知るだけでは全く無意味なのであり、それだけでは物足りず、それを超えるようなものを求める。ニーチェの嫌う「教養俗物」は、他人の思想に、ピンセットと試験管を以って接して、参考書を片手に分析し、その分析の記録を紙に記して引き出しにしまうような方法で、本を読んで知識を貯めているのであるが、逆に、ニーチェのような豊かな天分を持った人にとっては、ただ引き出しに知識をしまっておくだけでは自分の精神にとっては全く意味が無く、他人の思想を、たとえそれが恐ろしく忌まわしいものであろうと、直接食べて、胃で消化し、自分の成長のための栄養と化し、そうやって生を増大させるために利用するのである。ちなみに、言語を遥かに絶した精神を持ったニーチェにとっては「ような」などこの世の言語に不要である、と同時にあらゆる言語は隠喩でしかない。それはともかく、ニーチェは、他人の本を読んで得たものに対して、こちらから能動的に解釈し、時には徹底的に批判したりして、とにかく、ただ本を読んで知るだけでなく、じっくり味わうように、ときには噛み千切るように、咀嚼しながら、自分の精神の血肉へと変え、そして成長した精神は、世界へ対してこちらから価値を押し入れる。この世界は遠近法同士の闘争の場、解釈が他の解釈を支配しあう場だという世界観をニーチェは持っていたが、まさにその激しすぎる天分故に、自分の解釈で世界を支配しようとし、大地的な力を以って意味と価値を世界へ押し入れようとした。そういう過度に能動的な人にとっては、本に教えられることはない。本に書かれているようなことが陳腐に思えるような天分を持った人にとっては、どの本も自分の天分を発現させるため、自分の精神を増大させるための栄養でしかない。他人の思想をただ知って理解するのではなく、他人の思想を栄養にして自分の精神を成長させるのである。こういうのが独創的な人が行う読書であると思う。あるいは独創的な読書というのは他の人の考えでは以下のようにもいえる。
ちょうどニーチェの一世代後くらいのドイツの偉大な作家ヘルマン・ヘッセは、読書には三種類あり、一つ目はただ教えられるだけの読書、二つ目は著作の内容だけでなく著者の心理に対しての洞察を入れる読書、三つ目はもはや著作の内容が刺激を起こすためのいわば触媒でしかなく大事なのは読者の心の中で起こっている様々な想像であるというような読書、という風に分けているが、まさにニーチェにとって読書とは、この三つのなかでいうと三つ目の創造的な読書であったのだろうと思う。この三つ目の読書においては、それが小説であっても、主人公は、小説の主人公ではなく、読む人自身である、あるいは小説の主人公と読者は限りなく一体となる。偉人の生涯が語られていても、大事なのは、その偉人の生涯ではなく、それをこちらがどのように評価し、どのような新しい思想を生み出すか、である。そして真の偉人というのは、自分の思想が言葉をそのままにして残って大衆に渡ることよりも、自分の思想に感化された人がさらに新しい思想を紡ぐのを願っているだろう。言葉がそのまま大衆へ渡って、使い古されると、大抵その言葉は価値を失っていく。そうなるよりも、ニーチェ的な偉人の場合、自分の言葉によって感化された精神がさらに新しい言葉、人間世界の全体にとって意義深い新しい価値を生むことを切望する。
(2007)
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