2023年10月2日月曜日

心的現象における象徴

 心的現象における象徴


-------Wikipedia 「象徴」より-------

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1%E5%BE%B4

象徴(しょうちょう)は、抽象的な概念を、より具体的な物事や形によって表現すること、また、その表現に用いられたもの[1]。一般に、英語 symbol(フランス語 symbole)の訳語であるが[2]、翻訳語に共通する混乱がみられ、使用者によって、表象とも解釈されることもある[3]。

ハトは平和の象徴である - 鳩という具体的な動物が、平和という観念を表現する[1]。

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「象徴」「シンボル」というのは人間の営みの中でも精神的なレベルにおいてはかなり重要な役割を持っているものだと思われる。哲学者、言語学者、心理学者、色々なジャンルの学者が象徴について考察しているのだが、彼らは「記号」を「象徴」に対置させて議論しているか、「記号」の中に含まれてる特殊例として「象徴」を定義づけているか、そのどちらかであることが多い。ここでは、「象徴」が「記号」に対するものとして心にどのように顕れ作用するかを取り扱う。「象徴」は外部からの所与として人間の心に強く作用するものである。また、人間の心の運動によって事象に象徴性というのが与えられたりすることもあるというように、内側から外部的事象に付与されるところのものでもある。この象徴と人の心の関係、およびその動性を考えるにあたって、古典的な心理学が用いていた「意識」と「無意識」の構図を踏まえて論及していく。


人間には「言葉」という、他の色んな他人と意味をある程度共有している共通のツールがある。しかしもちろん、言葉では表現できないものを色々と感じ取っているのも人間の特徴である。ところで、言葉と言うのは、それが指し示す物・事象や事柄についての、一般的な意味を概念として示すにすぎない。つまり、林檎というのは数的にも無数にあり、形態的にも多種多様であるが、林檎という言葉が指し示す概念は一つである。その概念が表す性質は、無数の林檎の性質を抽象して共通点を抜き出して一つに纏め上げたもの、つまり無数の林檎の平均値である。林檎のような実態のあるものの名詞だけでなく、観念的なことを意味する言葉においても、ある程度そういうことが言えるのであり、とにかく、言葉というのは一般性の枠組みを規定するものに過ぎない。一般性を保って人と交換できて意味を一義的に理解しあえる言葉を、この考察の中では「記号」であると定義しておく。


ここで意識と無意識の構図を持ち出してみる。言語化できているということは意識によってその言語化対象の心的内容物を捕らえることができているということが前提になっているのだから、一般的用法における言語というのは、人々の意識の側において人々間で交換されるものである。言語は物事を明確に把握したり、他者と共通の意味性を安心して交換したりするために、生み出されたものである。一つの意味を表す表象であり他者と一義的に交換できる表象を記号とするなら、言語は基本的に記号性を強く持っている。人の顕在的な意識領域、他人とコミュニケートできる範囲での識域というのは、ほとんど記号的言語によって成り立っているといってもいい。


一方、無意識の領域の心的現象というのは、それが意識的な思考によって明確化できないのでたやすく外界へ表出できないという意味において、そこで体験する心理的過程が少なくとも体験している最中の本人にとっては独自のものであり一般性を持つ言語によって表現し辛く、他人と記号的交換によって共有することが出来ない傾向が強い。言語化困難であるが、無理やりにでも言語化しようとするとどうなるだろうか。ここで出現するものの一つとして、象徴が挙げられる。


象徴というのは、上記Wikipediaによると(指示物と被指示物が)"直接的な対応関係や類似性をもたない"ものである。この考察の文脈にそのことを組み込んでみると、象徴性を持つ言葉というのは、一般的な対応関係、つまり意識領域の表出である言語的コミュニケーションで他人と共有できる物事同士の関係性をもたない、と言うことが出来る。裏返すと、共通の一義的意味性が付随している一般的な記号的言語化の方法によっては表現できない無意識領域のものを、言語化したものの一つが、象徴である、ということが可能である。では、無意識領域の心的諸要素が象徴になるということがどのようにして可能であるか、そのプロセスを見ていく。


人は言語という枠組みに縛られないで色々な事を感じ考え、それが言語的枠組みであるところの意識のフィルターではくみ取れず、無意識の領域に沈んでしまっているということがよくある。沈んでしまう先である無意識も、もちろん人間の心つまり生命の一部であるのだから、その無意識領域に沈んでしまった心的内容物も、その人の生命にとっての重要性を帯びることはもちろんあるだろう。主体がその無意識域内の重要度の高い内容を直感したときであれ、あるいは内容物のほうから主体の意識へ強く訴えかけてきてそれがヴィジョンとして見えたり夢として出てきたりしたときであれ、その主体はそれを表現したい衝動に駆られるであろう。そのとき主体がそれを言語化するとすれば、前述のように無意識の内容というのは一般的な言語体系によって表現しつくせないので、一般的でない言語の用法を迫られることになる。


その言葉で表現できない無意識領域の内容物を表す際、メタファーが発生することになる。なぜなら隠喩というのは、事象と言語の決まった記号的対応関係を持たず、独自の関係を作るものであり、言語の一般性が対応しきれないものは、言語化においてその一般性を侵して独自性や一回性を持つことになるからである。つまり、言語が対応する概念に定義された、抽象の産物である諸性質から逸れた独自の要素を表現するということである。すなわちメタファーというのは、慣用句でない限りは一般的概念性を持たない表現であり、そのメタファーを使う人の独自の創作物である。そのメタファーは、その人の記号的に一般的な用法で言語化できない心理や感覚を示している。


神経症の渦中にある人、あった人ならわかるかもしれないが、内向的な心理状態で深刻な心理的葛藤を体験しているとき、メタファーが大量に出てくることがある。内向状態というのは、一般性を帯びた記号的で言語でやりとりされている外界から孤立した状態であり、意識と無意識の構図でいうなら無意識の方へ心的運動が傾いている状態である。神経症者の苦悩であれ、詩人の詩作の過程であれ、共通していえるのは、主体が無意識の領域の記号的には言語化できないものを強烈にあるいは深く体験していて、それを何とか言語化しようとしているということであり、その過程で象徴的なメタファーが生まれるのである。その、直感的には感じているが記号化できないイメージや感覚や感情を、さしあたってこれ以上適切な表現が見当たらないというような代理物で置き換えてみたのが、象徴なのである。


あるいは神経症患者や詩人が自ら象徴を生むという心的過程だけでなく、他人の言葉、とくに詩集や名言集の言葉を象徴的に受け取るということもある。誰でも、精神的に苦しい状態にあるときに、ある詩句に強烈に感動してしまうということはよくあるだろう、それはその詩句に象徴性を感じ取っているのである。その受け取る主体にとって、その言葉が象徴性を帯びるというのは、その言葉が受け取る主体の無意識界に潜んでいるイメージや観念の中でも重要性を持ったものに通じるものがあるときである。つまり単なるメタファーと象徴の違いをこの考察でいうとしたら、メタファーは特に重要でない気まぐれでもありえるものを含むが、象徴というのは重要な心的内容をこれ以上的確に表すことができないような言葉である。無意識に潜在している生にとって重要度の高いイメージや観念というのは、意識上へと強く浮上したがるが、主体の言語体系ではなかなか意味づけることはできないので、読んだ詩や名言に象徴性を見出し、その詩句や金言の助けを借りて、漠然としてはいたが強い感情価を持っていた無意識内容を、意味づけていて意識領域の体系へと組み込んでいくのである。象徴は一般的一義性を持たないという意味で非記号的ではあるが、言語ではあるので、それを考察することによって意味付けができるものではある。詩の感動は読者の無意識内容に呼応していて、詩は言葉であるから思考の対象になり得ることにより意味付け可能であるから、意識内容にその感動が組み込まれていくのである。


しかし誰もがいつでも詩に象徴性を見出せるわけではないのは当然で、ある言葉がそれを解釈する主体にとって象徴性を帯びかどうかは、そしてその象徴性がどれだけ深く広いものかは、その主体の精神の状態や構えの如何に関わってくる。精神状態の如何についていうと、その人の無意識の内容物が意識へ働きかけている状態であることが必要である。精神の構えの如何についていうと、詩句を一般性の強い思考によって既知のものに還元して捉えるのではなく、自分の内面・無意識の深くにあるイメージを詩句と照らし合わせながら意識領域にとっては新しい意味を構成していくように、能動的捉えることが必要である。


自分でメタファーを生み出してそれが象徴する心理内容を考え意識化する過程であれ、詩句や金言に象徴性を見出し意味付けするときであれ、それは無意識だったものが意識のものになることなのであるから、象徴に関する心的現象によって意識の領域は拡大していくことになる。


象徴が象徴であるのは、それが意識的な態度で記号的な把握が不可能であるときに限定される。つまり、ある物がある心理内容の象徴であったり、ある言葉が自分の心理内容を象徴しているときというのは、その象徴が主体の意識によって明確化された状態では認識されていない状態にとどまる。明確化あるいは一般化されたときに、以前は象徴的な表現であったものが象徴ではなくなってしまい、意識領域の記号体系のうちに明示的に意味化されてしまう。心は無意識の産出した象徴的な言葉を意味づけて意識に体系的に組み込むことによって拡大する。つまり個人にとってある象徴が象徴でなくなってしまうのは、生命感が失われることでもあるのだが、その生命感が失われる過程は、言い換えれば自分の生命に対する意識的把握の範囲が広がっていく過程でもあり、自らの精神体系の樹の成長でもあると言えよう。



言語の発生について考えてみよう。言葉は人間の創作物であり、少なくとも類人猿だったころには鳴き声や叫び声くらいしかなかったであろう。どうやって言葉が生まれたか。それは、原始人の生活様式が社会性を帯びてきて動物より複雑なコミュニケーションの必要に迫られたときだろう。共通の意味の枠組みを、記号を、必要としたときだろう。とにかく人間が、コミュニケーション不可な無意識性からの脱却、意識的態度の確立を得るために、言葉を生み出したのだから、心的なメカニズムでいうと、無意識から意識へ向かう方向性の過程で、言葉が生まれたことになる。原初の人類において意識が確立されておらず言語がない状態では、イメージや感覚を表現するには、あるいは行為や事物を名付けるには、メタファーを創作していくしかない。つまり言葉自体、メタファーであり、もともとは象徴なのだある。このことはニーチェの初期~中期あたりの認識論を参照すればどういうことかが別方向からはっきり理解できると思うのだが、ここでは省略する。とにかく、言葉の発生自体が象徴化作用である。


ところで、象徴が明確化されたときそれは象徴でなくなってしまうとさっき書いたが、この明確化される、つまり意識的態度によって言語化され得る、という事態は、つまるところ象徴が記号になったと言うことができる。言語の発生は象徴化作用であれ、その言語が一般化されあらゆる主体の意識によって共通の意味性を保持しながら共有されると、象徴は記号になったということである。小数の原始人がそれぞれ断片的に言語を生み出していった誕生直後の言語は象徴的であったであろうが、だんだん一般化されるにつれて記号的になっていったのである。


象徴が記号になっていく過程は避けられない。同時代の人々の間の共通の認識の上で言葉がやりとりされるために、つまり共同体上の安定したコミュニケーションの必要性から、言葉が記号性に傾くことは便宜的な面で仕方ない。しかし、記号的な言語というのは一般性を保持するものの、人間の無意識のうちに含まれる多様なイメージがそぎ落とされた上で成立しているのだあり、その多様なイメージというものの中には生命にとって重要なものも含まれるだろう。象徴であったものが記号性へ傾くにつれ、生命感は失われていく。そこで詩人が新たに自分の感性による言葉を、メタファーを、象徴をつくるのである。詩人や作家の生み出す象徴的な表現によって、言葉に生命感が付与されていくということはよくあることである。


ここで、詩人や作家や哲学者が生み出す言葉が同時代や後世代の人々にどう影響するかを考えてみる。ユングは「集合的無意識」というものの存在を説いているが、簡単に言うならそれは、個人の無意識ではなく、時代の無意識である。たとえば、1900年あたりのドイツを例にとってみよう。ドイツ人たちはナチスに扇動された。その直前ニーチェは思索と言語表現によって荒れ狂っていた。これはニーチェがドイツの集合的無意識を直観していたと言い換えることができるかもしれない。あのドイツにたいする過激な批判を見ればわかるだろう。そのドイツの神経症を、もっと広げると第二次世界大戦前の人類の神経症を、時代精神に敏感なニーチェは感じ取り、自分一身に引き受けてしまったとも言えるかもしれない。


1900年頃のキリスト教、ドイツ、反ユダヤ主義、ニーチェ、ヒトラー、ナチスなどについては、恐らくあらゆる方面から様々な分野の学問や批評が対象としうるところではあるが、ここでは心的現象の面の一部をみて、少しだけそれらにおける心的現象を述べてみたい。あのころは、科学などの発展によりキリスト教的宇宙観が崩壊してきたことから、キリスト教の世界を生命を以って全面的に心から信じることはできず、また、人類の社会的様式や倫理的在り方がキリスト教の原初の教えや中世の教義とはそぐわないものとなっていたころから、人の道徳や倫理を本質的に規定することができず、キリスト教を信じることが形式的になっていく傾向があっただろう。キリスト教の信仰がまさに「記号」的なものになってしまい、人は本当のところは何を信じればいいかわからず何に意味と価値があるのか分からない混乱と虚無の状態にありながら、表面的には、キリスト教に由来する道徳には、記号的になりつつあった習慣には従っていた。多くの人がキリスト教を信じているからその共通意識にそぐうものとして意識的態度はキリスト教であるが、無意識ではキリスト教を本当には信じ切れていないのである。


ニーチェはその時代の無意識の混乱と虚無に鋭く洞察を入れ、神は死んだと断言したのである。ところが、ドイツ人一般はそのこと、つまり自分達の無意識界に潜在している混乱に気付かずに、そういうものは全て抑圧して識域にのぼらないようにしながら、表面的にはキリスト教から由来する道徳や習慣に従い生きていた。もちろんこの集合的な心的混乱はドストエフスキーがテーマとしていたキリスト教への信と不信に関するものだけではなく、急な社会変動であったり、物質的経済的な発展に伴う生活の激変であったり、様々なものに起因しているだろう。とにかくそういう病理的な矛盾を抱えたドイツ人たちの中に現れたのがヒトラーである。集団的に無意識の領域に抑圧されていた混乱した情動価が、カリスマの演説によって呼び覚まされ、大衆が憑依的に扇動されてしまうことなる。つまりナチスはまさにドイツの病理を象徴しているといえるだろう。しかしツァラトゥストラとナチスは全く別物である。ニーチェは人類の無意識界の病理に対して強固な意識からの批判的な眼差しを向けることによってその病理を象徴する数々の象徴的な言葉を生み出したのに対し、ナチスにおいては人類の病理がなんの意識的な批判態度を伴わずに一人のカリスマの影響によってそのまま現実へと表出してしまったのだ。つまり、ニーチェの怒りに満ちた荒ぶる言葉を、学者・政治家・大衆の多くの人が意識的にしっかりと解釈し意味付け個々人の集団の意識に組み込んでいくことによって、つまりドイツに潜在した病理を象徴する言葉を意味づけて理解することによって、自分の時代のうちに潜む、いや自分自身のうちにも潜在している病理を、しっかり認識していれば、ナチスという現象など生まれなかったのかもしれない。ニーチェは同時代には理解さていない預言者として、ドイツの混乱を予言していたともいえる。傾ける耳をもった人が多かったなら救われただろうに。象徴は重要なものであると同時に危険なものでもあり、十全な心による吟味を欠くと、憑依を起こすことがあるのである。


ニーチェはヒトラーに大きく影響を与えたが、反ユダヤ主義であったニーチェの妹のエリザベートにニーチェは強く反発しており、ニーチェは反反ユダヤ主義であった。反ユダヤ主義に対しての批判は多くみられる。ヒトラーは自分勝手にニーチェの言説を利用したのであって、真の意味でニーチェの言葉に含まれるドイツの集合的な神経症を批評的にくみ取ったわけではなかった。


ニーチェの言葉がそうであるように、時代の何か、あるいは人類の何かを象徴する言葉というのがあることを上の段落で示した。つまり、象徴を生み出す心理的過程は無意識内でおこる過程、言い換えれば簡単に言葉で表現できる意識内容を他人と交換しあえる外界から孤立した場所においての過程であるのだが、主体の関心圏の広さや認識の深さによっては、そういう発生源としては個体独自に起源をもつ象徴的な言語表現が時代性や普遍性を持つことがあるのである。だいたい大衆というのは象徴的な言葉に耳を傾けることができない、あるいはできたとしても吟味はできないので、同時代の人々からニーチェは理解されなかったが、後の世代に絶大な影響を与えたことは異論の余地がない。そして現代思想のたくさんの言説がニーチェの象徴的な思想が元となって生まれたといっていいだろう。


しかし、ニーチェの言葉も、ニーチェの批判的表現でいうところの「蓄群」大衆や「計算機械」のような学者たちに受け取られ、その解釈が現代の世の中に蔓延していくことで、共有されるものとしての記号になってしまう。もちろんこれは集団レベルでみたときにいえることであって、ニーチェの言葉に対して独自に向き合って深い象徴性を見出す人もいくらかはいるだろう。しかしそれは少数の個人における現象である。人類規模の物事を象徴する言葉は、大衆に卑近な物に置き換えられ、アカデミズムによって通説的解釈が施されることによって、集団レベルでみたその言説の象徴性というのは失われていくのである。


そこで、また新しい詩人、新しい作家、新しい哲学者が、時代的なものや普遍的なものを象徴する言葉、そのときの人類において集合的に重要な心的要素を表現する言葉、生命に満ち溢れる言葉を生み出していくことになる。このサイクル、つまり同時代の観念体系に束縛されていない生命力の豊かな象徴的な言葉が生まれ、それが時代精神に生命を注ぎ込むが、やがて陳腐な解釈に去らされ象徴性を失っていく、そしてまた新しい詩人・哲学者が言葉を生み出す、というサイクルにおいて人間の集合的な意識の総体は、集合的無意識から生命力を補給するのである。


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・参考文献


C.G.ユング『タイプ論』『元型論』『創造する無意識』『現在と未来』


ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』『道徳外の意味における真実と虚偽』


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