2025年11月17日月曜日

小説評5

『天才少女は重力場で踊る』緒乃ワサビ

極秘かつ私的に開発された未来との通信機。未来からのメッセージに登場人物が翻弄され、タイムパラドックスによる量子の暴走を恐れるという、SF世界でありながらも、青春やその先の愛もくっきり描かれていて、爽やかな感動の読後感。


『母の待つ里』浅田次郎

東京の忙しく都会的な生活に疲れた、別々の事情を持つ3人が、或る田舎へ"里帰り"をする話。序盤で驚きの仕掛けの設定が明かされるも、登場人物が母や里を想う憧憬は本物。都会の人生と対比された里と母の優しさが小説に漂い続ける。


『カラスの親指』道尾秀介

詐欺師であり、過去にヤミ金に生活を篭絡された主人公と、同じ組織に恨みをもつ人物たちが同居し、復讐の作戦を繰り広げる。まさかと思うほどの大きな詐欺を見せつけられる結末で、無数の因縁が晴れていくところが感動しました。


『海辺のカフカ』村上春樹

予言的動機で父のもとを離れ西へ向かう少年。怪現象を伴い生きる初老の男性も或る事件から西へ。二世界が並行的に語られ、やがて交錯。作中人物の歌詞と有名なギリシャ悲劇の内容が、夢の回路の現実化を通して、主人公の周囲に重なり巡る。不思議な読書体験。


『アヒルと鴨のコインロッカー』伊坂幸太郎

平凡な大学生が主人公の現在と、ペットショップ店員が主人公の2年前の両サイドが交互に進行。広辞苑を盗もうともちかけられた大学生が、2年前の物語にだんだんと参入する。日常から少し逸脱した事件群の中でのそれぞれの登場人物のドラマが面白い。


『ある微笑』フランソワーズ・サガン

とりとめのない倦怠を持って生きるパリの20歳の女が、中年の既婚者と、最初はちょっとした興味から不倫し、恋に落ちる話。二人で出かけるカンヌの描写、主人公の内面の移ろいの表現などの、全ての叙述が文学的で、小さな孤独を抱える彼女のラストの微笑を説明つくしている。

2025年11月12日水曜日

街のコンドル

  人の心の大群が空高く、あのコンドルの形を作って上昇した。時は、雲の大きなトンネル、命の涙の水滴が銀河の星の数ほど集まった白く巨大なアーチ・フラワーとなって、コンドルの通り道になった。昼の飛行機雲の下では、声援、歌、マーチ、レース、無数の歩行と買い物が、命の群れを営んでいる。

 時流にときめいたコンドルの胸は、それら営みのざわめきを宿して、次の時代に見えたり見えなかったりする雨を降らせるだろう。あの人はビルの屋上から霧のようなその雨と虹を見るだろうか。サピエンス・メモリーが、あの人の肋骨を通過しますように。翼の影は忙しい人の群れを遮った。時は止まりますように。大きな記憶が低空飛行する渡り鳥となって、彼らを吹き抜けますように。

2025年11月7日金曜日

小説評4

 


『名もなき星の哀歌』結城真一郎

人の記憶を取引きできる店での仕事という設定のもと、緻密なプロットで、ミステリーでありながら星空的ロマンを感じさせる物語が紡がれている。謎が解けていくに従って切ない真実が予感され、惹き込まれる先は遠く悲しい恋の歌。


『重力ピエロ』伊坂幸太郎

壁のラクガキと遺伝子をキーにして前衛的に展開していく物語。軽快な機知と斬新さが伴われながらも、登場人物の各人が強い感情や意志を持って群像してドラマティックで、謎解きに伴う悲劇が鮮やかに胸に迫る。


『ノルウェイの森』村上春樹

幾つかの交情が描かれるが、特にヒロイン直子さんとの恋愛が主人公にも読者にも忘れられない想いを残す。人の存在やその一部、そして命が、損なわれていく哀愁と喪失感。そんな霧の追憶の中、「私のことを忘れないでいてくれる?」が響き続ける。


『荒野のおおかみ』ヘルマン・ヘッセ

精神的なものを忘れ物質的享楽に溺れる文明に批判的で、市民の表面的な社会にも懐疑的なアウトサイダーの苦悩が描かれる。ユング心理学でいう"アニマ"の外在化たる女性ヘルミーネに導かれ、著者自身のものでもある内的体験が展開される精神的傑作。


『白夜行』東野圭吾

迷宮入りした殺人事件の周辺にいた少年と少女。2人のその後の19年間には周囲に様々な恐ろしい犯罪が影を見せる。人気の大衆作家の小説でありながら、19年間の登場人物2人の歴史や人物像に文学性が宿されている叙事詩的傑作。


『読書する女』レイモン・ジャン

家を訪問して声に出して本を朗読するという仕事を始めた女性主人公。訪問先の客たちとの交流でちょっとした出来事がいろいろ起こる。癖のある客とのやりとりが生き生きと描かれている。最後、サド侯爵の本が絡む男性3人との場面がコメディとして面白い結末。

2025年11月6日木曜日

鳩の祈り

 空は巨大な葉で 階段で 切断され

家々の会話は太陽を見れなくなった

創られた罪の花火が夜まで出血させ

私は鳩になるしかなかった


降らない命の涙の代わりに

呪われた肺からあの時の酒と血を流そう

明日の劇場に新しい平和の柱が在れ!

2025年11月4日火曜日

ジグソー

  あらゆるリビングルームが弾丸になった夜のパーティたちに、私の今はアイアンメイデンの中を夢想して怯えて傷ついた。そのシミュレーションでは、花はガラス製の刃物、人の言葉はタイプキー、口という口の歯の大群は殺人マシーン。リビングルーム群は世界のコアをマシンガンのように幾千の貫通を描いていた。量子コンピュータは、スズメバチの巣に冷たい炎が吹き抜けるように稼働していた。人のあらゆる暮らしは飛び散った。

 私にしか見えなかった世界の欠片の億千の散乱。欠けたピースは私の骨で補うから、災禍が見えている限りは、あるべき心と街のフラクタルを取り戻すための歩行と声を。モニュメントが歯車となってしまうことがあっても、失われた秩序がまた薔薇となって形になるまで。パラレルワールドを呼んだ朝……。

2025年11月2日日曜日

私はA子

 今から打ち合わせに行かないと……まず起きてからカーテンを開け、昼の日差しを髪と手首に浴びた。昨日は27時まで1人で飲んでいてたけど、心をお酒に泳がせて捕まえた真理はひとつだけ。

「私は今、歌ってあの世に行くしか生きる方法のない、アンプに繋がれたマネキンのような女」

あの人たち、ギターやベースやドラムスは、まだ私の歌声の秘密を知っていない。彼らの心をこっそり飲んでいるこの喉から発するのは、スタジオの音たちすべてをダンスの鱗にして室内すべてを私の小宇宙に閉じ込め、水槽のように彼らを捕らえるスパイダーネット。マリオネットたちになって音楽を奏でている彼らに、アリスが微笑んだことは何回あったかしら。今日も、骨から咲く花々がアリスを楽しませ、私たちの肉体は次の世界への扉を開くといいのだけど……


⭐︎2026/4/18


-続く

2025年10月30日木曜日

300の恩寵

遠い未来の大天使 ガブリエイルの教え子が

割れた空から舞い降りて 乗っ取る眼球 600個


浮世の罪 渦の彼方 「彼」の笛

音を聴く 呪われた脳 300個


風に浮かんだ視界から 「天使」は全て儚んで

呪いを解いた 愛の火と 消えゆく命 神聖に


幾億の 羽の行列 鳥の骨

白光の 星の出血 死んだ空


そして「天使」は言った

「あなたたちの天は あるべくして一回死んだ」



2025年4月11日金曜日

私を刺し抜いて

 

サイキ「私 今は天使で あなただけを殺すの」

ソフィア「貴方は誰だったの? それはタナトス」

サイキ「愛でしかなかったことには間違いない。その目と、先にある神殿には失われていく世界があった。その痛みには、窓という窓がタロットカードになったときの、ビルも人も、神経系の植物になるほどの、命の血があった。もっと血を流そうか?」

ソフィア「生きてても仕方ないとはいっても、貴方に私の血を流す権利はどこからきたのかわからない」

サイキ「一人は23世紀に持って行かないと、新しい聖者たちがつまらなくなるだろう。ミューズは常にいても、受肉しなければならない」

ソフィア「私はサクリファイス?]

サイキ「単にタイムリープするだけだと考えてもらえばいい」

ソフィア「目なんていらないけど、今生きてる世界が平和になってほしい。200年後に行ったとして、今生きてる病める命、滅びていく街、崩壊した国の秩序、壊されていく自然は、どうするの」

サイキ「私が妖精にでもなって、アニミズムを起こし続ければいいはなし。とりあえず、21世紀の街々からは逃げなさい」

ソフィア「あなたは私たちより、人が死なないための愛はあるの? それを見るまでこの目は差し出さない」

サイキ「未来の人たちの共同体と、今の人たちの億千の命を、アストレアにお願いして、天秤にかけてもらっている」

ソフィア「恋の日々も大事にしてほしい」

サイキ「恋の日々は消してから、母とグレートマザーに帰ること。月の近くの宇宙ステーションが高層ビルの上に移動したら、月も月経発作で不要なものを浄化して、モルヒネが降り注ぐだろうから」

ソフィア「何言っているかわからない」

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1. オフィス街で

2. 出会いと2回目の出会い

3. ソフィアという命名

4. ヘルメスと2000年代の世界秩序

5. 繁華街の路地裏での出来事

6. サクリファイスは受肉するか?

7. アンドロイドの実験体に出会う

8. 実験室ではなくあの世へ?

9. 未定

10. 新しいボーンコレクター

11. Lady Luck : 血肉のためのエルフとオルフェウスの骨

12. University の書庫

13. ソフィアのための自殺はAirの矢で

14. アストレアの本当の気持ち

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1. オフィス街で

1-1. 梨穂の日記


4月2日

(午前)

早朝、夢で声を聴いて目を覚ました。

「夜が自殺した。朝のために、人の目と爪と髪と肌と服を全て隠していた衣装を、太陽で燃やして」

私といえば聴く音楽は流行りのポップスで、読む本といえば東野圭吾さんの現実味のある事件と解決が書かれたミステリー小説。詩なんてまともに読んだことなかったし、日記を書くのは好きだけど、目で見たことを細かく書きながら、働いたり家でぼんやりしていたときに思ったこととかを、ありきたりに書くだけだった。どこからこんな言葉が降ってきたんだろう……。


朝この夢を見てから、ふと月に大きな槍を飛ばして突き刺す計画が何年か前にあったことを思い出し、実行されたのかしら、成功したとして、それが何の意味になるのかな?……って午前中の間は空想していた。その午前中のオフィスでは、生まれて初めて読んだ詩のような不思議な夢の続きであるかのように、視界の風景は白昼夢のように過ぎて行った。


今日は、新年度あたらしく働くコールセンターで出勤初日なのに。緊張も不安もなく、空気は希薄で、見るものは半分くらい半透明の箱庭の模型みたいで、幽霊が目の前に現れても怖くないような、そんな気分だった。


そして目の奥に赤紫色の水の矢が貫通したような、それでいて意識が透明になって、川に繋がって、見たことない漠然としたイメージがたくさん入ってくるような感覚。ビルの入り口の自動ドアはきっと、これからまたしんどいお仕事をしていく日々へ入るためではなく、新しい未来への予感に満ちた境界面だったのかもしれない。


とにかく今日は、色々なことが起こった。正確に言ったら、なにげない研修初日でありながら、あの夢の声のせいで、人も机やパソコンも日常の世界に色んな穴やドアを開けて、私の心に夢の向こうの世界から語り掛けていたのかもしれない。


15階のビルの8階のオフィスへは、出勤初日だったのにほとんど無意識でたどり着いて、オフィスの入り口に入った先の内線の電話機もほとんど意識せずに行ってたし、電話の先の事務の人と話してる時も、早朝の夢からその時までの記憶が漠然と脳裏をよぎりながら、ただ名前と最低限の挨拶をしていただけだと思う。


オフィスの受付から研修室までは、壁は真っ白で、道は普通より細く感じて(あとで確認したら、そうでもなかった)、どこか迷路といったような感じだった。貰ったばかりの首から下げたカードキーで研修室のドアを開くと、そこにはもう一人の新人女性と、どこか疲れ切っていそうな華奢な男性の研修講師がいた。


新人女性は秋田さん。研修講師は舘(たち)さん。


「舘」といったら高校の時に習った日本史で、ヤマト政権あたりだったかな?豪族が住む、集落の外れの屋敷のことを指す言葉だったと思う。漢字一文字の名前を聴くと、ひらがなで聴いた名前から漢字を自然に想像するけれど、まずその記憶がもやもやしたイメージとなって思い出されて、たちさんが自己紹介するときホワイトボードに「舘」と書いたとき、勝手にこの人は古風な人なんだろうと思った。髪は長くて、目は虚ろな二重で、病弱なのか色が白くて顔色はよくなくて、とにかく疲れていそう。今日の私みたいに、心ここにあらず、といったような感じ。ジャケットは真っ黒に近いグレーで、ネクタイは絞めていない。身長は少し高いけど、あまり男性的な威圧感というものがなくて、細美なのにどこか曲線美のあるシルエット。


秋田さんは、がんばって研修をこなしていくぞというような気概を、終始、手の仕草や姿勢を変えたりするときなどの挙動で放っていた。パンツスタイルのリクルートスーツで、少しだけふくよか。髪はショートで少しだけカールしていて、マニュキュアはしていなかった。


私は研修初日なのに、オフィスカジュアルってメールに書いてあったのを朦朧としていた朝に思い出して、そのあとは自動的に私服の中で少しフォーマルなのを選んでいた。ロングスカートに、襟のついたシャツ。グレーのカーデガン。


私はコールセンターや事務の仕事は慣れていたから、白昼夢みたいな午前の研修の座学は行儀よく座ってホワイトボードを眺め、舘さんの柔らかくも涼しげなナチュラルに頭に入ってくる声と言葉を聴きながら、たぶん問題なく情報セキュリティとか、会社の概要とか、お客様対応の指針とか、理解していと思う。


ランチは近くのカフェに行ったけど、食欲はなくて、自分の体が鎖骨から上しかないような希薄な感覚で、コーヒーとパンだけを頂いた。


コーヒーカップの円形の水面に、私の瞬きが映った。瞼の中に瞳があったかもわからないぐらい、今日の夢みたいな意識では、睫毛の軌跡だけしか見えなかった。


(午後)



-----続く


2025年4月7日月曜日

小説評3



『若きウェルテルの悩み』ゲーテ
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文学や自然を愛する感受性の強いウェルテルは片想いの相手シャルロッテに対する恋情を加速させて女神のように想う。彼女の結婚により、懊悩し命を絶つ。ロッテを取り巻く俗物的な人間関係と、ウェルテルの崇高な内面や田舎の綺麗な自然との対比が印象的。天才が仮託した美しい魂が滅んでいく悲劇はどこまでも悲しい。
『ロカ』中島らも

巨額の印税を抱えた無頼の老年作家が主人公。アルコール、ドラッグ、ロック、反骨など、中島らもらしさが詰まっている未完の小説。ドアーズ、ローリングストーンズなど昔のロックが好きな人には楽しめる要素がいっぱい。擦り切れた心象が多い中、ククへの片思いがピュア。
『サロメ』オスカー・ワイルド

キリストが生きていた時代のユダヤの王女サロメと、救世主の到来を激しい言葉で説く洗礼者ヨハネの話をモデルにした戯曲。芸術至上主義者の表現だけあり言葉が文芸の極みで、サロメの狂った恋とそれが齎した聖書に書かれている悲劇が、完璧な芸術と化している。
『その雪と血を』 ジョー・ネスボ

ノルウェーのマフィア界を舞台に、ハードボイルドであるが善人である主人公が波乱と恋愛のなか殺し屋をやっている話。北欧のクリスマス前の夜の寒さの中、女、ボス、裏切りに翻弄されながらどこか愚直に殺しをする主人公の姿は、雪の中で寂寞のリリカル。

『マツリカ・マジョルカ』相沢沙呼
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廃墟ビルに一人で住む魔女めいた謎の美少女マツリカさんと、主人公の冴えない男子高校生の話。学校の怪談、学校で起こるちょっとした事件を中心としたミステリー以外にも、恋愛や青春など色んな要素があるなか、なによりもマツリカさんの存在感が圧倒的。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹

全く異なった二つの世界が交互に語られて、終盤にいくにつれて両世界の繋がりの秘密が明かされていくという話の構成。世界が失われる悲しみや失われてほしくない願いが両主人公の回想や感慨を通して漂う、その悲哀の表現が文学的。
『プシュケの涙』柴村仁

冒頭で起こってしまった美術部の女子高生の死、その真相を解明していく変人っぽい男子という青春ミステリとして進行しながら、中盤で起こる男子の突然の逸脱行為。最後に近づくにつれその理由がだんだんわかってくる切なさに、恋愛の話としての面白みもある青春小説。

2025年4月5日土曜日

Nirvana の音楽と伝記

 Nirvana のギターボーカルでありほとんどの楽曲の作詞と作曲を担当しているカート・コバーンが生まれた1967年のアメリカは、ベトナム戦争の激化で反戦感情が高まっており、また公民権運動が推し進められていたり、ソ連との冷戦の緊張度も最高潮に達するなど、国内や国際の情勢が激動するなかで、街頭抗議、デモ、反戦抗議、暴動、社会不安、および文化の変革、などで特徴付けることができる、大衆や文化においても動乱があった期間に属する。1967年サンフランシスコで開催された「サマー・オブ・ラブ」では数万の若者が自由を掲げ、新しい文化、社会体験のために集結し、愛と平和、フリーセックスとドラッグ、自由恋愛、反戦、反抗やカウンターカルチャーなどを主張した。カート・コバーンはこの1967年という、サンフランシスコを中心とする西海岸でヒッピー運動が最高潮に達してカウンターカルチャーが産声を上げたような年に西海岸の北にあるワシントン州アバディーンで生まれた。


夏に若者が自由をむき出しにして終結したサンフランシスコと比べてカートの生まれたアバディーンは、雨が多くて陰鬱な空気に覆われた小さな町であり、その頃は経済的な閉塞感が漂っており、若者の間では未来への希望よりも焦燥感や諦念が蔓延していた。そのような土地で自動車整備工の父とウェイトレスの母の間に生を受けたカートは、幼いころから絵を描くことが好きでビートルズに熱中していた感受性が強く感情の豊かな子供であり、のちに悩まされる双極性障害を思わせるエピソードとして、誕生日プレゼントとして親に首掛け式の小さなドラムセットを買ってもらったとき、狂喜してその小さなドラムを叩きながら町を歩き回ったというエピソードがある。しかしカートが8歳のときに両親が離婚し、そのあとの不安定な家庭環境もあわせてこの離婚は、幼い彼に深刻な傷を与え、おそらく一生続くような疎外感と内向性を与えたとみられる。父親に預けられていたときはトレーラーハウスで The Beatles 以外にも Aerosmith、Black Sabbath、Led Zeppelin などのハードロックを聴いていたといわれているが、その音の力が強く攻撃的なディストーションの多い音楽を愛好していた一方では、学校には馴染むことのできない内向的な少年であり、図書館で独り文学作品を読みふけるような学校生活を送っていた。カートがそのとき好きだった文学はウィリアム・バロウズやチャールズ・ブコウスキーといったアンダーグラウンドあるいはアウトサイダーといったようなジャンルに属するものであったが、これらの文学は生涯続く大衆文化や社会通念など既存の価値観に反抗する性質を形作っていったといわれ、思春期にカートの内的な世界はポップスやロックだけでなく社会性から距離を置いているような文学や芸術を通して形成されていったとみられる。


そういう離婚と不安定な家庭環境に傷つき内向的な感性を形成していったカートを大きく変えたのは高校時代におけるパンクロックとの出会いである。ハイスクールでカートは Melvins のリーダー、バズ・オズボーンと出会いパンクロックの世界に導かれることになる。Sex Pistols や Iggy & The Stooges などのイギリスやアメリカを代表するパンクバンドや、当時は現在よりも生々しく荒々しかったハードコア・パンク、たとえば Black Flag などの音楽を好きになり、様式美や技工に偏りがちだった当時主流のヘヴィメタルに馴染めなかったカートは、パンクに現れているような剝き出しの生命力、社会体制への怒り、通俗的な価値観に対する破壊衝動、そして権威などから脱した個人主義などを、若い心的エネルギーに任せて粗削りなサウンドともに形成していくことになる。


1987年、カートはベーシスト:クリス・ノボセリックと邂逅して Nirvana を結成。当初はバンド名は流動的に変わっていき、Fecal Matter、Sellouts、Skid Row などを経て最終的に Nirvana というバンド名で定着することになる。Nirvana とは仏教用語の「涅槃」を意味しており、輪廻転生における生命の苦しみの循環から完全に脱却した至高の安らぎを伴う悟りの境地のことである。パンクバンドは攻撃的、本能的、反抗的、挑発的と形容できるような名前を付けることが多い中、カートは「美しい素敵な名前にしたかった」という美学によって、このアメリカのバンドとしては珍しい響きの脱俗的なバンド名をクリスとのバンドに与えた。そして1987年、ファーストアルバム『Bleach』をわずか600ドルの低予算で数回のスタジオセッションだけで完成させたが、そのサウンドはハードコア・パンクの影響が強くみられ、粗野かつ攻撃的であり、綺麗な音には作られておらず、初期衝動が強く表れたものになっている。しかし『Bleach』の中でも About a Girl という曲だけは後の全米を席巻するようなバンドのヒットを思わせる非常にキャッチーかつ美しいメロディでできていると同時に、Aメロは単純な2コードの繰り返しである一方でBメロは不可解とも思われる理論を無視しながらも必然的にカートらしい音楽になっているような不思議なコード進行でできており、カートの音楽的才能が現れている。このアルバムはインディーズとしてはまずまずの成功を納め、アメリカ国内やヨーロッパへのツアーを開始するが、カートはドラミングには不満を抱えていた。


1990年に当時のドラマー:チャド・チャニングが解雇され、デイヴ・グロールが加入したことにより、Nirvana は新たな推進力と確かな音楽的土台を得ることになる。デイヴ・グロールのドラムは、確かな技術力に裏打ちされた非常に力強い演奏であり、Nirvana の音楽の武器であるラフでありながら呼吸やエネルギーが団結したような素晴らしいグルーヴ感を作るうえで重要な役割を果たしているだけでなく、バンド音楽に精通し音楽知識に造詣の深いデイヴは、カートの独特のリズム感や不可解なコード進行や曲の展開に合わせることのできる知性や音楽力を持っていた。彼のドラムの音はメインストリームで後に成功に至るための必要不可欠な要素だと思われる。また内向的でナーヴァスなカートとは対照的にデイヴは明るくコミュニケーション力があり、3人の中ではスポークスマン的な役割を大きく担っていくことになったのも、反抗的なバンドが成功するためには欠かせない重要な要素だろう。





(続く Nevermind 以後)