2024年3月16日土曜日

精神と地球

  情感豊かな自然科学者や博学な詩人(たとえばゲーテや宮沢賢治)の心のなかには、一個の地球がある。

 たとえば彼が心地よさを感じると、すぐにそれは肌を打つそよ風の感触に喩えられる。そして風がどんな仕組みで吹いているのか、その原理がすぐに彼の心の裡に想起される。

 太陽の熱で海が蒸発して大局的に上昇気流が出来、そのあたりでは気圧が下がり、大陸のところでは相対的に気圧が高くなる。水分を含んだ上昇気流ははるか上空へ達すると、気温とともに空気の飽和水蒸気量も下がるので水滴となり、それが集まって雲となる。下からまだまだ上昇気流がくるので、雲を纏った上空の大気は、他のところ、つまり気圧の高いところへ移動する。海抜近くでは逆に、気圧の高いところから低いところへ、風が吹く。地球の大気の対流。彼は風を想起しただけで瞬間的にこういう様を思い描き、雨が降る仕組み、雨や風によって大地が風化して地形が出来ていく仕組みなど、そのほか色々な地球の現象を思い描くかもしれない。


 彼は風を想起するだけでなく、リアルに精神の裡に現象させるのであり、しかもその現象の仕組みを地球全体の関連の中で理解しているので、他の色々な自然現象も同時に彼にリアルに現象する。彼の情感が豊かな場合、色々な自然現象が彼の心の中で起こっているうちに、別の感情を、あるいはその感情に関連する記憶を、思い浮かべることもあるだろう。

 地殻や火山の激動は怒りの隠喩となり、低気圧や湿気や雨雲は憂鬱な気分を表現する。過去の恋人は、月を映す夜の湖、その深くを独りで泳ぐ魚のように、静かに心の中を泳いでいる。無数の植物を生やした一個の山の光合成のように豊かな深呼吸をしながら、空想は風のように自由に飛びまわって、その風に葉っぱが揺れて森がざわめくかのように、漠然とした歌ができる。あるいは雨が長く降らないで水分が不足して生気を失っていく森のように、その印象の戯れの歌声はだんだん枯れてくるかもしれない。しかし突然、インスピレーションの雷が天を裂いて発光する。轟音とともに激情の嵐がやってきて、その勢いで新しい作品の荒削りな草稿を完成させる。森は多少被害を受けたものの、久しぶりの雨だったので動植物はその恵みによって豊かな活動を開始するかのように、作品を彫啄する。


 自分の記憶や感情と色々な自然現象が密接に結びついているので、あらゆる精神活動が自然の生気を帯び、豊かな研究や芸術活動を行うことが出来るのである。彼は科学を行うと同時に精神を芸術化し、職業として科学を行っていたとしても夕方からは創作を行えるであろうし、逆も然り、詩人でありながら自宅での研究も有効に行うことができるだろう。

2024年3月9日土曜日

元型について

 ”元型論”というのは、ユングの代表的な一著作のタイトルにもなっているし、その著作に限定せず、ユングの遺した学問的な遺産のなかでも際立って重要な、つまり、ユングの思想の根幹に位地する、理論あるいは仮説である。


 ユングは、同じひとつの概念に対して曖昧な何通りもの説明を下したりしていて、元型に関してもその例に漏れない。元型の定義をいろいろと違った方法で説明している。それは、たぶん元型というものが簡単には説明できない、極めて認識しづらいものであって、元型を直接理解することは不可能にちかいものだから元型論というのは色々な言説や無数の具体例の中から総合的に導かれた理論であり、だからそれを説明するには、色々な方向から多角的に説明するしかなかったのだと思う。だから、そのユングによって曖昧に何通りも説明されている元型を理解する側も、いろいろな方向から総合的に認識していく必要があるように思われる。立方体のような簡単な形の立体なら、一方向からみただけで大体その外観がつかめるものであるが、歪な形をした立体は色々な角度からみてはじめてその立体的な姿を把握できるものである。しかも一つ一つの写真をばらばらに個々に覚えるだけでは、その立体の姿はつかめない。自分の想像力によって、いくつもの写真が映す面を頭の中で合体させて立体化させてはじめて、その立体の形が浮かび上がるのである。とにかくユングの元型という多角的に綜合判断しなければならない歪な立体みたいなややこしいものについて、色々な角度から、書いてみます。


ユングは、神話や宗教を研究していくなかで、人間の心の振る舞いに、一定の本能的な傾向をみつけた。その心の振る舞いや働きを導くときのパターンがすなわち元型。世界各地の神話や宗教には、あらゆる共通点があるが、それは生得的なものつまり元型によって決定されているからだということになる。つまり人間の心は人類共通の形式によって方向付けられていて、無意識のうちにその形式に従って考えたり想像したり、その考えに従って行動したりしていることになる。まだ元型というのは仮説の域を出ない仮定的なものであって、直接的な証拠から導かれた理論ではないが、ユングの膨大な量の博学と膨大な数の患者を診てきた経験を考えると、ユング個人の心によってつくられた理論だとしても、いろいろな事例に適応しうる、限りなく客観的妥当性のある仮説的理論だといえる。


ユングが元型論という考えをもつようになった発端は、最初に勤めていた精神病院においてである。長期間隔離されていた不治の精神分裂病患者とユングは関係をもつようになった。その患者は、発症後、それまで誰からも意味不明の狂人だとして相手にされたことがなかったのだが、精神病といっても人間の心の病である限りなにかしら意味を秘めているだから患者をただ隔離するだけの精神医学はよくないと考えていたユングは、この患者に興味をもちはじめ、患者の支離滅裂な話を根気よく聞いていた。その患者の話のなかに、「太陽の男根がみえる。私が頭を左右に動かすと、それも同じように動く。それが風の原因だ。」というのがあって、当時のユングはもちろんそんな馬鹿げた話を理解できなかったのだが、とりあえずその患者の言葉をメモして覚えていた。そして、四年後、ユングが神話や神秘主義について研究しているとき、ミトラ教の儀典とされる文書のなかに驚くべきことが書いてあった。太陽からぶら下がっている筒があって、それが西に傾くと東風が吹き、東に向くと西風がふく、この筒が風の原因である、というような内容である。これは、精神病患者の支離滅裂な空想とほとんど一致している。こういうことがあって、ユングは人間はなにか共通した原イメージをもっているのではないか、ということを考えるようになり、世界各地の神話や宗教を研究していくなかで、それは確信に近づき、元型論として理論化されていくことになった。


後天的に経験したり記憶したり習ったりして形成されていく”意識”の内容ではなく、その意識よりも深層にある”無意識”、その無意識の中でも特に深層にあって後天的なものの影響を受けるものではなく遺伝によって与えられ先天的に決定されている要素のみで成り立っている”集合的無意識”。その集合的無意識は、意識の内容と比べればもちろん混沌としていて意識の側からすれば把握しづらいが、それは無意識を意識化していない意識の側からみたときの印象であって、実は無意識の深層の集合的無意識の内容も一定の秩序やパターンによって決定されているとユングは考える。集合的無意識の内容を方向付けるその形式を、ユングは”元型”と呼ぶ。


よく誤解されてきたことなのだが、元型は形式であって内容ではないとユングは繰り返し主張している。つまり元型それ自体は遺伝するが、集合的無意識の内容であるイメージや観念がそのまま引き継がれる、つまり死んだ先祖からの記憶として今生きる人間に受け継がれている、のではない。その無意識のイメージや観念を生む傾向、そのイメージや観念が生まれるときのパターンなどが遺伝するのであって、そのイメージや観念、集合的無意識の内容そのものが引き継がれるのではない。ユングの集合的無意識や元型をオカルト的に誤解する人は、今生きている人と古代の人々が、集合的無意識によって繋がっていると考えるが、ユングは、共時性という超常現象に関する仮説でたまにそういうのに類した発想を展開することがあっても、仮設の域を出ようとしているほとんど経験科学的な理論である元型論においては、そのようなことを一度も述べたことはない。もっと身体的で、古代からとかではなく時間的にも短い単位の、具体例で喩えるなら、運動神経のいい家系があったとして、その家系は運動神経のよさは遺伝しても、その家系に属するアスリートが訓練によってえた能力は遺伝しない。先天的な、身体の構造、筋肉の質、反射神経の鋭敏は遺伝するが、最終的な身体の構造、肉付き、反射の速さは、遺伝しない。もしそれが遺伝してしまえば、当然、後代になっていくにつれて身体能力は優れたものになっていくことになる。同じように、集合的無意識の内容が遺伝してしまえば、つまり観念やイメージが後代に受け継がれてしまっては、人間の記憶というのは個人単位でもだんだん増えていくことになってしまう。しかし事実はそうではない。集合的無意識については、その形式のみが、遺伝するのであって、内容が受け継がれたりすることはない。そのイメージや観念が生み出される傾向、それを方向付けるパターン、つまり元型のみが、遺伝される生得的なものであって、集合的無意識の内容は生得のものでもなく遺伝するものではない。その内容が、生得的なパターンによって決定されている、というのが、元型論のいうところである。ユングは、元型が無意識の内容であるとか、ある観念やイメージがそのまま遺伝されるとかいう誤解をなくすために、元型を、元型それ自体と元型的イメージにわけて考えることもある。引用すると「何度も何度も私は、元型はその内容に関して決定されている、つまりそれは一種の無意識的な観念であるという誤解にあっている。元型は、その内容に関して決定されているものではなく、その形式に関してのみであり、それも非常に限られた範囲においてのみそうであることを、再びここで指摘しておかなければならない。元型的イメージは、その内容に関して、それが意識化される問い、従って意識的経験の素材によって満たされるときに満たされるときにのみ決定される。しかしながらその形式は、結晶の軸構造と比較しうるものであろう。それ自身は物質的な存在ではないが、母液のなかの結晶構造をつくりあげるかのようなものである。(以下「……」は省略記号とする)……元型はそれ自体では空で形式的であり、先天的可能性にすぎない。それは先験的に与えられている表象可能性なのである。」『元型論』(元型と集合的無意識) つまり、元型それ自体という形式的なものだけが遺伝し、集合的無意識の内容である元型的イメージが遺伝するわけではない、そしてその元型的イメージは、元型によって決定されているのだから、そのまま遺伝することはないが、元型それ自体の作用を介して超時代的に似たようなものとして現れる、ということである。


ユングの「元型」は、プラトンの「イデア」とよく比較されることがある。両者は、類似点と相違点をもっている。プラトンは、生々流転する現実の背後には、イデアという永遠に普遍の鋳型があると考えた。椅子を作る人が椅子の観念を知っている限り何回椅子がこわれても新しい椅子がつくられるように、現実上にあるものは色々と生まれては消滅するというのを繰り返しているけれど、それでも一定の同じ現実をたもっていられるのは、現実の背後にイデア界というのがあってそこに存在するイデアにそって現実のものが作られているからだとする。円が円として現実にあるのは円のイデアという抽象的な鋳型がイデア界に存在するから、人間が何かを美しいと感じるのはあるいは美しいものがこの世にあるのは美のイデアが存在するから、そういうのが、イデア論の簡単な概説になると思う。そしてプラトンは、イデアは五感で知覚できるものではなく、理性によってのみ把握できるものであるとした。このイデア論と元型論は一部共通点をもっている。あらゆる現象に先立つ普遍的なものであるという点、具体的なもの、あるいは具体的なイメージを形作るための鋳型として作用するという点で、二つは共通している。また、ユングは元型それ自体は人間によって直接知覚できるものではなく、その元型によってつくられた元型的なイメージを介してのみ、元型がどんなものかを把握できるとしているが、このことはイデアが人間の五感によっては近く出来ない超越的なものであるというイデア論と類似している。一方、元型とイデアの大きな違いは、プラトンのイデアというのはイデア界というところに存在している実体であり、そのイデアが人間の知覚できる現象界の人間心理や物質を含めあらゆるものを決定しているとしているが、ユングの元型は、そうした見えない「実体」や存在者ではなく、人間の深層心理の動きの「形式」である。


元型というのは、無意識が生み出す夢、空想、神話、御伽噺を生み出す人間の意志でもなければそれらの内容でもなく、それら夢や神話にみられる型のことをいうのであって、その生得的な型によって無意識の内容が方向付けられているから、夢や神話には普遍的な共通点がみつかるのだといえる。またプラトンの理性によってのみイデアを把握できるとするイデア論とユングの元型論の大きな違いは、イデアというのが理性によって把握できる抽象的なものであるのに対し、元型は抽象的なものではなく具象的なものである。正確にいうと元型それ自体は抽象的なものでも具象的なものでもなく、形式やパターンとしか言いようがないのであるが、その元型が生み出す元型的なイメージが、かなり具象的なものであって、理性よりも直観や感情によって把握できるものであるといえる。この意味で、プラトンのいうイデアよりも、ショーペンハウアーがプラトンのイデア論を解釈して自分の思想体系のうちで言い直したイデアのほうが、ユングの元型的なものに近い。ショーペンハウアーは、イデアを理性によって把握できる抽象的なものではなく、天才の純粋認識によってのみ把握できる直観的なものだとした。「……イデアに到達できるのはただ天才か、それともせいぜいのところ、天才の作品がきっかけとなって自分の純粋な認識力を高めて天才的な気分になった人に限られる」『意志と表象としての世界』(49節) ここでいう、天才的気分、というのはユングの解釈によると感情状態だとされているし、ショーペンハウアーはイデアと芸術を結びつけることが多いので、ショーペンハウアーにとってのイデアというのは具象性をもち人間の心理に直接的に作用する実感的なものだということもいる。ユングは、ショーペンハウアーが、イデア(とくに芸術に関係する言説においてのイデア)が、自分が根源的なイメージあるいは元型的なイメージとしているものと同じようなものとして説明されている、と書いている。イデアという先験的に存在するものは哲学者によって理解のしかたが違うので、イデア的先験的なものを、理念という抽象的なものと根源的なイメージ(あるいは元型的なイメージ)という具象的なものにわけるなら、「理念」が理性によって認識される抽象的なものであるのに対し、「根源的なイメージ」という元型的なものは具象的に人間の心にあらわれるものであり理念とはちがって先験的な感情価を帯びている。ユングは、理念は根源的イメージという元型的なものの後にうまれるものであって、根源的イメージは全ての心理的なものの母胎であると考える。つまり最初に感情的で具象的な根源的なイメージがあって、その根源的なイメージを合理的に使用可能なものとするために感情価を抜き去ったあとにできる抽象的なものが理念であると定義している。ショーペンハウアーはイデアについて比喩的に次のような説明をしている。イデアと概念の違いについて「……概念は生命のない容器にも似ている。人がそのなかに入れたものは、容器の中に実際に並んだまま横たわっている。しかし容器のなかからは、こちらが入れただけのものより多くは、取り出すことが出来ない。これにひきかえ、イデアは、イデアを把握した人間のもとでさまざまな表象を展開する。この表象はイデアと同じ名前の概念のうちには含まれていない新しい表象だからである。つまりイデアは生命のある、発達する、生殖力をそなえた有機体に似ていて、こちらがあらかじめ入れておかなかったものをも自分で生み出す力をもっている」『意志と表象としての世界』(49節) このように、ショーペンハウアーは、概念という抽象物は無機的なものであるのに対し、イデアという直観的なものは有機的なものだといっている。ユングは、自分の著作でショーペンハウアーのこの言説を引用して、イデアを根源的イメージに言い換えれば、そのまま自分の言いたいことになると書いている。プラトンやカントのいうイデアは理念的なものであり、ショーペンハウアーのいうイデアは、ある意味では、元型的なものであるといえる。ユングは、理念的なものや概念的なものが明瞭性を持っているのに対し、元型的なものは生命力をもっているという。このことは、ショーペンハウアーの引用の「生殖力を備えた有機体」という喩えとも共通している。ショーペンハウアーのイデアについての言及をさらに引用するなら「概念は生活にとってどんなに有益であろうと、また学問にとってどれだけ有用であり、必要であり、生産的であろうと、芸術にとっては永久に不毛でありうるが、一方、イデアの把握は、あらゆる本物の芸術作品の唯一の、真の源泉である。……イデアを汲み出すのは本当の天才か、あるいは瞬間的な霊感によって天才の境地にまで達した人のみである。不滅の生命を宿す真正の芸術作品は、ただこのような直接の受胎からしか生じようがない」『意志と表象としての世界』(49節) ショーペンハウアーのいうイデアが、ユングの元型に近いものであるとすると、芸術は、元型に導かれて集合的無意識の内容を開示し、集合的無意識の元型的な力を発現し、元型的なイメージを体現することにおいて、真に価値をもつものであるということができるが、実際、ユングもそのようなことを述べている。芸術は、大衆の表層的な意識からはぼんやりとしか感じられない集合的無意識、しかし同時に人間の心理にとって重要な精神的源泉である集合的無意識の内容を語ることで、鑑賞者を内側から感化し、元型的な認識に至ることを手助けしてくれる。人は、芸術によって、ショーペンハウアーのいうイデアや、ユングのいう元型を把握することができ、永遠に生命にとって重要である心理的要素をくみ出すことができるのである。絶望的に暗鬱な世界に響く悪魔の歌声のようなボードレールの詩、文明から逃亡せざるを得ない無垢でありつづけた精霊の祈りのようなランボーの詩、女性を女神のように愛してしまったウェルテルの自殺などは、元型的なものの典型である。ただ、ユングは、芸術に美的な価値は見出しても重要視せず、意味的な価値のみをくみ出そうとする、あるいは美よりも意味を優先させるので、芸術に関して元型的という言葉をつかうときは、そういうことも考慮しておいた方がいいと思う。


天才の表現、芸術作品、神話や宗教には、元型的なものが現れている。あるいは元型的なものが現れているからこそ、それが永遠的な人間の精神的財産になったのだともいうことが出来る。天才や、集合的無意識の元型的なものへの認識に至った人は、個を超越する。「……ショーペンハウアーの作品は彼個人の人格をはるかに超え出ている。それは数え切れないほどの人間がぼんやりとしか考えたり感じたりできないことを表現している。ニーチェについても同じである。とくに彼の『ツァラトゥストラ』はわれわれの時代全体がもつ集合的無意識の諸内容を明るみに出しており、……」『タイプ論』とユングが書いているように、元型が生み出した集合的無意識の内容の認識に至ることによって、人間は刹那的な単なる個々の認識から開放され、もっと永遠的に普遍の価値をもつ真理を認識することができるのだといえる。ユングはこのような認識にいたることを、宗教的なことだと形容している。ユングのいう宗教的とは、決して神の信仰に関するものではなく、神に関していうなら、神の信仰というより神の認識に関するものであり、一般的に、元型的なものつまり集合的無意識の内容の認識に関することを宗教的といっている。「問題の解決は『ファウスト』の場合も、ワーグナーの『パルジファル』の場合も、ショーペンハウアーにおいても、ニーチェの『ツァラトゥストラ』においてさえ、宗教的である。……ある問題が宗教的に理解されるとすれば、それは心理学的に言うと、その問題が意味深いということ、特別に価値が在るということであり、人類全体に関わっている、それゆえ無意識にも関わっている、ということである。」『タイプ論』


元型、というのは個人を超越する生得的に普遍のものである。しかし元型の普遍性は、概念の表面的な一般性とは別のものである。ショーペンハウアーのいうように概念というのは生命力のないものであるが、元型は生命力を生み出す力を持っているものである。たとえば、本能的なものは元型によって導かれて元型的イメージとして人間に認識される、つまり元型的なイメージは本能に関するものであるからには強力な感情価を有している。概念というものが、具体的な事例や経験から抽象されてはじめて一般性をもつに至ったものであるのに対し、元型というのは生命が生得的に持っているという意味での普遍性をもっている。つまり、概念が、例えば先生と生徒の関係についてどう考えるかという質問の答えとして生徒は先生に従わなければならないという一般性を与えるものだとすると、元型は、例えば母親と子の関係についてどう感じるかというかというと多くの人がそこに愛をみるような意味合いで普遍的なのである。先生と生徒、という関係は、生得的なものに関するものではなく、人間のつくった様式にもとづくものであるが、母と子の関係は生得的なものであり、そのなかで生まれる感情は本能である。別の具体例でいえば、死に対する恐怖は本能的で生得的であるが、13や9という数字に対する恐怖というのは特定の文化においての経験のなかで決定されてきたものでしかない。概念と元型的なものはどちらも普遍性をもつものであるが、こういう点つまり概念が経験的なものから抽象されてはじめてできたものであるのに対し、元型は生得的という意味で先験的であるという点で、全く別種の普遍性をもっているといえる。


元型はこのように人類共通の普遍的なものではあるが、しかし、元型が元型的なイメージとして個人に把握されるとき、それは個人の心を介して行われるのだから、当然、個人によって彼が把握した元型的イメージというのは異なるものである。例えば、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、集合的無意識の内容をくみ出しているが、その認識や表現はニーチェの個人の精神というものに大きく左右されている。だから、元型的なイメージのなかに人類共通の元型を見出して永遠に価値のあるものの認識にいたるのも重要であるが、その元型が個人やそれぞれの文化によって元型的イメージとして具体化されているということを考慮して、元型的イメージの現れ方の文化間や個人間の差に注目することも重要である。日本というキリスト教には疎遠な国の文化で育った人が、キリスト教のみによって元型的なものの認識に至ることは稀である。キリスト教というのは、根源的な次元では普遍的で元型的なものではあるが、それが西洋の価値観を媒介してはじめてキリスト教の教義として成立しているのであるから、その西洋の価値観を通ってキリスト教の元型性に辿りつけても、西洋と関係していない日本人がそうすることは辻褄があわない。ニーチェの精神という個人的なもの、西洋の価値観という特定の文化に関わるものなども、元型が元型的イメージとして表現されるときにおおきく関与している。というよりも、個人的なものや文化差的な要素を媒介してはじめて元型的なものが表現されるといえ、だから、ある特定の元型の表現だけで満足してしまえば、それは一面的にしか元型を捉えていないことになり、元型それ自体に対する限りなく接近した認識をえるとするなら、多面的にあらゆる差を考慮しながら元型を見つめるべきだといえる。たとえば、林道義 著『ユング思想の真髄』より引用すると、「キリスト教とグノーシス主義とは、人間の自己実現に必要な心理的な要因を半分ずつもっていた。すなわちキリスト教は「神の人間化」を、グノーシス主義は「人間の神化」を。不幸にして両者は互いを敵として争ったが、じつは互いに自身の欠けているところを補い合う存在だったのである。両者を綜合したものこそユングの思想だということができる。」 このことは、自己元型という元型の中でも最も重要な元型に対する認識が、キリスト教徒とグノーシス主義で対照的な差があり、その両者の認識を総合的にみてはじめて本当の自己元型の認識や自己実現に至る、ということを示している。


集合的無意識は、内向的な心理過程によって把握される。近代以降の世界観では、内面の心的なものというのは外的な事実の派生物でしかないという考え方もあり、もちろんそれは極端な例であるが、一般的に、内的なものよりも外的なものを優先させる傾向がつよい。しかし、心というものは、自律的な構造をもったものであり、だから外的なものからみたら二次的なものでしかないのではなくそれ自身価値をもったものである。ものを認識するには、主体が必要不可欠であり、認識するという動詞の主語にあたるのは人称以外にはありえない。認識が認識の主体に作用されているのは当然のことなのだから、客体の性質だけでなく主体の性質も、認識においては重要な要素になっている。だから、近代以降の西洋合理主義、主知主義においての、内的なもの主観的なものを蔑視したり自己中心的だと批判したりするのは間違っている。それに、無意識の心理要素というのは、内的な心理過程を経てはじめて体験されるものであり、そういう体験から得ることは、外的な表面の価値観に則ることよりも、ずっと重要なのである。なぜなら、表面的な価値観というのは、時代によって変わっていくものであるのに対し、無意識の心理要素、とくに集合的無意識の元型的イメージなどは、超時代的に不変の価値をもったものであるからである。時代に合わせるとはすなわち、その時代に流通している概念や言語に価値を見出すということであるが、ショーペンハウアーが概念と(上述で根源的イメージという意味合いの)イデアの違いについて述べたように、概念というその時代それぞれの経験からつくられた抽象物は無機的な力しかもっていないのに対し、永遠に普遍の価値をもっている根源的イメージすなわち元型的なものは、それ自身で有機的な生命力を有している。


無意識の深層の元型的イメージへとたどり着くということは、そのためには内面へと認識を向けなければならないのだが、以上のように生にとって重要なことである。しかし、元型的なものというのは重要な価値をもったものであるが、同時に恐ろしいものでもある。なぜなら元型は、形式という面だけでなく、エネルギーを生み出すものという面ももっていて、そのエネルギーというのが個人の制御を超えた激しいものになることもあり、ときには破壊的な働きをしてしまうからである。元型の力動性についての言説を引用すると、元型は「母であり、形式であって、経験されるものはすべてこの形式によって把握される。これに対して父にあたるのは、元型の力動的な面である。つまり元型は形式とエネルギーの両面をもつのである。」『元型論』 また、元型の認識とは内的な心理過程であり、つまり孤独な作業である。外部とのつながりが遮断され心理の方向が内側へ向かっているときほど集合的無意識に接触することになる。だから、集合的無意識の元型が危険なかたちで発現されてしまっても、その人はかなり孤立した心理状態にあるのだから、外部のだれからも心理的な救いを得られない場合が多い。元型という力のあるものは、色々な意味で危険な要素ももっているのである。元型は力動的なものであるが、この性質を、ユングは”ヌミノーゼ”といっている。あるいはヌミノースな、という形容詞で表現することもある。ヌミノーゼとは、宗教学者のルドルフ・オットーによって名づけられた現象であり、「聖なるもの」に対しての感情のことをいう。聖なるものや神々しいものに魅惑させられるときというのは、美的な印象だけでなく、畏怖や激情のような強い感情価を帯びた心理を伴うことが多い。元型が生み出す心的力動は、ヌミノースな性質、つまり、恐ろしくて、魅力的な性質をもっているのである。だから、元型的なものを認識するのは大事であるが、それが危険をともなうことも考慮しなければならない。元型は力をもっている。この恐ろしい力に自我が支配されている状態こそ、"憑依"という現象である。また元型的な力というのは、それが認識されず触れられずにいると、無意識の中へと抑圧されて、その抑圧が限度をこえると、反作用的に一気に表に溢れてしまうということもある。その反作用的に一気に発現されるときというのは、必ずしもその発現の媒体になっている人たちに意識されているとは限らず、無意識のままであることが多い。この状態が、集団妄想であるといえる。ドイツのゲルマン民族のオーディンに象徴される荒々しい精神は、長い間キリスト教という平和主義の清らかな宗教や、近代の合理主義によって、つまり無意識の世界をあまりみない意識的な価値観によって、抑圧されてきた。抑圧された元型的なもの、ゲルマンの血は、表面には姿をみせないけれど地下でずっと力を蓄えながら潜在する。だから、意識的なほうへあるものが少し緩めば、とつぜん潜在していた力が逆転的に地上へあふれ出すのであり、このことは元型的な力が意識によってうまく方向付けや統合がされていないことになり、生々しい元型的な力の発現というのは危険なものなのである。たとえば、ゲルマンの血は、ナチスという狂気的な集団妄想によって地上に現れてしまい、悲劇が起こってしまった。もし、ニーチェという骨の髄までゲルマンの荒々しい血が染込んだ思想家の言説を、多くのドイツ人たちが、ヒトラー的にではなく哲学的に解釈することができたら、抑圧されたゲルマン的な元型的潜在力を思想というかたちで認識することにより、しっかりその危険な力が方向付けられたのかもしれない。つまり、元型的なものを認識すること意識化することが重要なのであって、元型的な恐ろしい力のなすがままになっているだけでは、憑依や集団妄想の状態に陥ってしまうのである。思想や芸術や神話によって導かれてはじめて、元型的なものは安全に意識へと統合される。ゲルマン人の危機を、時代批判のなかで誰よりもいち早く察したニーチェでさえも、元型に憑依されているようなところがある。ニーチェは自伝の最後のほうで、自分を、十字架にかけられたイエス、愛による平和と禁欲を説くイエスに対するものとして、本能と激情の体現者であるディオニュソスの弟子であると比喩的に自称している。発狂後にいたっては、比喩ではなく、ディオニュソス、仏陀、ナポレオン、イエスなどと自分を完全に同一視している。発狂後の完全な狂乱はともかく、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に見られる過剰な超人への望み、神の否定あるいは神に対する憎悪や、発狂直前のディオニュソスと自分の同一視は、自己元型にとり憑かれていたからだとユングは考える。自己元型というのは、元型のなかでも最も上位にあるもので、神のイメージを生むものである。ニーチェは哲学者や思想家の中でも特に元型的なものへ迫り、生の深淵の奥深くまで覗き込んだ人であるが、ユングによれば、ニーチェは、キリスト教の神が当時うまく機能していなくて生の創造性を貶めてしまう偶像に堕っしていたことはうまく見抜いていたものの、神というものがもつ本質的な意義を見落としてしまっていた。だから、自己元型に近づいたとき、それを神のイメージとして認識し意味を求め意識化するという自己実現の過程を達成することはできず、結果的に自分と神を同一視し、つまり自己元型にとり憑かれ、その強力な元型的な力に身をゆだねていまい、最終的には自我が破壊され、狂人となってしまったのだと考える。神を殺し、自分が(心理的に)神となるという、大きな罪を犯してしまったため、罰として、その神的なものを自分ひとりの自我で制御することは出来ず、自我の破綻がおきてしまった。人間一人の中に、神的な恐ろしいものを全て抱え込んで、超人となるのは、すなわち破滅でしかなく、元型を認識・意識化することが重要なのであって、元型に憑かれて、恐ろしい力の成すがままになるのは破滅を導いてしまうのである。「ニーチェの『ツァラトゥストラ』を一度注意深く、心理学的な批判の眼をもって読んでみたまえ。ニーチェは稀に見る首尾一貫性と宗教的な情熱とをもって、自分の神が死んでしまった「超人」を描いたのである。「超人」とは、神の世界のパラドックス(善と悪)を死すべき人間という小さな入れ物に詰め込んだために、破滅してしまった人間のことである。」『元型論』


このように集合的無意識の領域は恐ろしいものであり、しかも集合的無意識と表層の価値体系が完全に切り離されてしまっている現代においてはそういう領域との接触というのはかなり孤独な心理過程でもあるのだけど、やはり元型に触れるというのは生命にとって普遍の価値をもつことだと思う。人間の心の深層に対する認識が欠けた時代に生きてきた人、つまり無意識の深層に潜む破壊的な生の力に無縁の価値観のなかで生活してきた人にとって、内面の世界を覗き込むという行為は、周囲の一般的平均的な人から見れば異端でもあるし、無意識の世界というのはもともと危険な領域であるから、困難なことなのだけど、元型を体験するには、そういう孤独な狭い地下への道を通る以外にはない。元型から心理的エネルギーをうまく汲み出すことによって、その人の心はしっかり生命の基盤に根ざすことになる。川に浮いてる水草がたくさんあったとして、隣の水草同士絡まりあったりして、一つの大きな塊をつくっている。一度その塊から離れてしまう水草が一つあった。その水草は、流されたりして一定した位置を保てなくて孤独で不安を約束される。しかしやがてその水草は本能的に根を伸ばし、時間をかけて水底にまで根が達し、しっかり固定された。そして以前の隣の水草に支えらていた時の状態よりも安定したとする。このとき、そういう安定した地に根を下ろした生存を手に入れたのは、一度隣の水草と逸れてしまったことがきっかけになっている。そして、「地」という生の普遍的な場所と繋がっている。水草同士絡まりあっていたときは、水草同士の支えあいが重要だったけど、でも地に根を下ろすことの方が実はもっと普遍的な価値のあることだった。この水草は、周りに水草があろうとなかろうと、川に流されずに安定していられる。外面との関係、社会的関係というのはこのたとえの中では、水草同士の絡まりあい。内面の深くに認識の根を下ろしたとき、根源的な普遍の生の基盤つまり、水底、地に、その人の自我はしっかり固定されることになる。


元型には、自己以外に、影、アニマ、アニムス、大母、童児、トリックスター、老賢者などがある。ユングはこのように人格化された概念をよく使うのであるが、それには恐らく、無意識がもともと心理の具象性を持っているという理由と、人格化された概念を使った方がユング心理学を体験しようと思っている人にとっては心理を人格化具象化しながら体験的に元型概念に触れることができるからという理由があると思う。無意識へ遡れば遡るほど、思考には感覚が付着し、具象的になる。具象性とは、抽象性に対するもので、五感やその他実感的なものが混じっている心理の性質のことをいう。具象性があるほうがイメージしやすい。たとえば、「影」は自分の今まで見られていなかった部分、人格の否定的な領域、表面とは反対の価値観、というような意味なのだけど、もし「影」という概念が別の抽象的な名前だったらその場合はよりイメージしにくく、この概念が「影」と具象的に比喩的に名づけられていることによってこの概念はイメージしやすくなっている。無意識を湖のような水に喩えてみると、「影」は水面に移った自分の影だと喩えられ、水の中へ入るとき自分の影を通らなければならないように「影」は無意識への門だということもできる。ユング心理学というのはただ覚えたり考えたりするだけでなく、体験することが、つまり実際に元型に触れることが大事なのだから、「能動的想像」必要になってくる。想像するときはユング的にいうと無意識の内容が意識に進入することが起こるのだが、能動的想像とは、無意識の方から一方的に意識への許しを許し続けるだけではなく、意識的な構えもしっかり保ち、無意識から湧き上がってくるそれ自体では意味のないイメージの断片をしっかり読み取り、ユング心理学の概念と照らし合わせたりしながら意味づけしていくことをいう。無意識は具象性が高いので、具体的になにかイメージできるものについて想像したほうが、ただ抽象的な概念について思考するよりも、無意識の内容を喚起しやすい。そういう意味で、元型のそれぞれのように意味のあたえられている具象的人格的な概念は、無意識の深層を体験するには丁度いいのだと思う。しかし具象的であればあるほど他の概念や心理要素と分化されていなくて絡み合っていて、溶け合い、はっきりせず、曖昧になってしまう。普通の言語を読み取るときは一義的であるのに対し、比喩を理解するときときは多義的な読解が可能であり、曖昧な印象がするが、これは比喩による表現が具象的であることに由来している。ユングの文章は、元型に関しての理論だけでなく、全般的に、比喩や比喩かそうでないか分からないような言葉がよく出てくるし、ひどく連想的に主旨があちこち移り変わったりで、全体的に曖昧な印象がするが、これは、ユングがもともと抽象的な思考よりも具象的な思考の方が得意なのか、または無意識の深層という具象性の極めて高い領域に常に接しているからだと思う。ユングの概念の定義や説明の仕方は曖昧である、という批判をユングは浴びたことがあるが、無意識という非常に具象性の高い領域を洞察する心理学という分野においてはそういう思考の性質になってしまうのは必然的なことなのである。むしろ、人間の心理全てを完全に抽象的な要素へ還元し、心理が還元されたそれぞれの要素を抽象的な概念によって公式的に組み立てて人間の心理を科学的に説明する、という精神分析学の方法は、意識の側からみたらいいように見えても、患者や分析対象の人が無意識を体験しているのに対しその分析する医者や学者が無意識には接触せず単に意識の側からのみ分析を進めることになり、本質的に無意識の領域を洞察しているとはいえない。またレヴィ=ストロースは、西欧の抽象的な思考が、現実に存在する具体的なものから離れてしまっていることを批判し、神話的な世界観や未開人的な野性の思考の必要性を説いた。未開人は具象的な心理で生きている。だから、具象性は太古性とも深い関わりを持っている。そういう意味でも、集合的無意識という太古から変わらないものを説明するにおいて、たとえ曖昧になっても、具象的に説明するのは正当なことだと思う。元型の性質のひとつの太古性は、たとえば激情的で荒々しく、神のようなあるいは悪魔のような、極端で荒唐無稽な性質のことをさす。神話に出てくる神々やその他人物、物語の展開をみればみんなそんな感じである。また太古の人は、ものごとの境界が曖昧で、自他の区別もつかなく、とにかく色々なものが溶け合ったような世界観のなかで生きている。このような様態を、ユングは、レビィ=ブリュールの述語を借りて「神秘的融即」と呼んでいている。神秘的融即とは、主体が自分を客体と明確には区別できていなくて、客体と自分を部分的に同一化しているような状態をいう。たとえば、トーテミズムは、特定の動物を殺すことを禁じているが、これは、その未開人が自分とその動物を部分的に同一化しているため、つまり両者が神秘的融即の状態にあるため、先祖がその動物だと思い込んでいることに由来する。神秘的融即の状態においては、心理の具象性が高く、思考に感覚が混ざっている。感覚とは生理的刺戟を知覚することであるが、未開人はその感覚と思考がまざっているために、たとえば自然物について思考するとき、感覚的刺激が伴いやすい。感覚とは五感のような外界との接触に関するものだけではなく、身体の内部の感覚など自分が存在しているということに伴うような内的な要素に関する感覚があり、神秘的融即の状態においては主体と客体が溶け合っているため、未開人は内的な要素を外部の自然物に投影してしまう。神話や童話において、動物や自然物が人間の言葉を話したりするのは、このようなことが起こっているからである。内的な要素とは無意識の心理と関わるものであるから、神秘的融即の状態にある太古の人は、客体に無意識の深層の元型的なものを投影していることになる。だから、太古の人たちの物語である神話には、元型的なものがたくさん潜んでいる。


ユングは元型をかなり重要なものだとみていて、だからこそ元型論はユングの思想の根幹に位置するのであり、その重要性を何度もつよい口調で訴えている。そこでなぜ元型が人間の生にとって重要なものであるかを個人的に考えてみる。元型、というのは、生得的なもの、遺伝されるものである。人間の遺伝子というのは、先史時代から続く生命の長い経験によって決定されている。生命というのは身体を動かしているだけでなくたとえ人間のように鮮明なものではなく漠然としたものであっても意識をもつものであるのだから、身体的な構造だけでなく、心的なものも、自然淘汰のなかで決定され、遺伝子に刻み込まれている。死にたいする恐怖感は生命の本能であり、それは生まれつきそなわっている。その遺伝的生得的なもののなかで心に関するもののうち、とくにイメージをつかさどるものが、ちょうど元型にあたるといえると思う。元型は、生命の長い大地上での他の生物や環境との干渉のなかの心理的経験によって決定されたものであるのだから、生命にとって重要な価値をもつものであり、心の働きに関して生命が生きる上で大切な方向性を握っているものだといえる。だから、元型は、無視するべきものではなく、ただ学説として取り扱うだけでもなく、実際に自分の心のなかに見つけ、それを体験することが、人間の生にとって意義のあることなのだと思う。元型によって構成された集合的無意識という先天的なものではない、人間の後天的な意識のうちにあるものは、太古から続く生命の経験という単位に対しては比較的短い期間のうちに形成されてきた人間の文化というものを、生まれてから教えられて得たものである。それは人間の文化のなかで生きる限りにおいては価値をもつものであるが、生命一般というのはもちろん人間の文化だけが全てではない。むしろ、生命の膨大な経験からつくられた心の生得的要素によって、人間の文化の軌道が、自然にも生命にも調和するかたちへと導かれてこそ、その文化は生にとって価値のあるものとなるのだと思う。その心の生得的要素とはすなわち集合的無意識であり元型なのである。ユングは再三、元型を‘導くもの’だといっている。生命にとって重要な価値をもつ元型によって人間の精神的なものが導かれることで、それは意義をもつことになる。元型から切り離されてしまったつまり集合的無意識には繋がっていない生は、人間的な価値をもっていたとしても、人間の文化以前の大自然を考慮するなら、本質的な価値をもってはいないといえる。いわば集合的無意識は地下でその元型は地下に潜んだ大きなエネルギーであり、そこに根を伸ばすことで、生命にとって重要な心理的エネルギーを汲み出せるのである。神話は、科学やその他色々な概念体系や言語体系などの、人間が西暦を向かえてはじめて特に近代になってつくった文化よりも、ずっと以前に起源をもつものであるから、近代からみれば誤謬であっても意識以前の集合的無意識からみれば正当な価値をもつものなのである。例えば、科学は、神話による自然現象の説明は誤りだとするが、しかし、それが自然現象の説明としては誤りであっても、その説明の仕方に古代の人の心理要素が絡まっているのだから、古代の人の心理が近代以降よりもずっと生得的で元型的なものによって決定されているということを考えると、その神話は、心理的なものとしては大きな価値をもっていることになる。自然現象の説明以外にも神話というのはたくさんあって、むしろ自然現象に関しての神話というのはほんの一部なのだけど、とにかく神話には、色々なものが描かれている。世界の創造、英雄的な人物像、妖精、女神、神や悪魔など、それら神話に描かれるものは、ただ美的な像として価値があるだけでなく、それが元型的なものであるという理由で、人間の生にとって意味的にも大きな価値をもつのである。もちろん、近代以降においては、神や悪魔という類のものは、そのままの形では通用しない。しかしそういうものが本能的な動力、人間の心理を導く元型としての価値などを秘めていることは、人間が人間である限り普遍の真理である。だから大事なこと、するべきことは、その元型的根源的なものを、現代においても通用するかたちに翻訳することだといえる。ユングの言葉を引用すると、「本能のダイナミズムがわれわれの現在の生活にも流れ込むようにしておこうというのならば、またそれはわれわれの存在の維持に絶対必要なことなのだが、そのときは、われわれに備わってうる元型的な形式を、現代の要請する観念へと、再形成することが必要なのである。」『現在と未来』


参考文献

C.G.ユング『元型論』『タイプ論』

ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』

ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

林道義『ユング思想の神髄』

2024年2月18日日曜日

無機物


視界が鱗で満たされる 眼に映るもの全て

意味もなく憎い 光も鱗を清めない


脳内を蛆が這い回る 心に巡るもの全て

意味もなく憎い 光が核に届かない


心の影が悪寒を生んで 全身全霊 気持ち悪い

忌々しい幻覚の渦 頭蓋骨が 割れそうだ 

地面に踊る鱗達 何もかもが生き物で

生臭くて湿っている 純粋な光が欲しい


光を浴びたものは 影を生み その影に呪われる

憎しみと恐怖で満たされて 心臓にヒルが蠢き回る

どうしようもなく苦しいから 私は無機質になりたい


鈴の漣 拒絶して 硝子のように冷ややかに

光線の綾 走らせて 私は無機物になりたい

人に砕かれ粉々になり 肌を切り裂き血を浴びて

飛沫の中で赤く染まり 綺麗な音を響かせて

光に抱かれて煌きながら 何も感じず物理的に

虹と共に消えて逝けたら なんて幸せなんでしょう

2024年2月17日土曜日

記憶の場所

10年以上前に書いた英作文です。考え方や文法に間違いが存在する可能性が高いです。

 (The followings are not based on firm evidences but a result of my intuition.)

(And I'm sorry that my English is sometimes wrong or too poor to describe abstract affairs such as the followings.)

(Here I mean by the word Memory not memorizing but memorized contents.)

Generally, scientists and modern people under their theories think of Memories as contents being stored in each Brain, but I don't think that. I think, though a brain have the function of taking in the images of things which the nervous system perceived and the function of recalling these images, it don't mean having the function of a storehouse. Likening memories into water, a brain have roles of watercourses and valves but don't have the function of a water tank.


Well then, Where are memories stored. But there is a nonsense in this question. That is the fact that we apply memories to the concept "where" Naturally, and Actually memories have no places in the sense of our ordinary thinking. And our tendency to allot memories to Place, Brain the firm material realm, is involuntary wrong application due to the fact that we live experiencing the three-dimensional space ordinarily, that is our unconsciously confusing spirit with matter, I suspect.


Fundamentally speaking, regarding three-dimensional space, it have not been varified perfectly as actual existence, or some people say that it is no more than a tool or a concept through which we human beings feel the outer world. Adopting this theory here, three-dimensional space is the concept which spirit invented for life to live in this world conveniently. By the way, Memory is a such thing that is more fundamental and essential than a tool to live, I think. That is to say, memory is not a thing that spirit have invented but the tracks of spirit itself, process of life. Then returning to the earlier problem, applying perfectly the concept, that is no more than a tool to grasp, to memory, that is essential movement and tracks of spirit itself, is obviously false if we think that way. To say, memories don't exist in a brain that is physical and three-dimensional space. Spatial places don't correspond to memory, but memory exist at a Place which we are hard to call as Place. Boldly speaking, even if a brain vanish, it can be possible for memories to exist Somewhere. Merely, it is difficult to indicate the Somewhere by a clear concept of Place, which is often haunted by three-dimensional space. Anyway, if only we separate memory from the physical concept, three-dimensional space, it is obvious to us that memory exist somewhere but the brain.


一般的に、科学者やその理論の影響下にある現代人にとって、記憶は脳に保存されていると見なされているが、私はそうではないと思っている。思うに、脳は神経系が知覚した事象の印象を取り込む機能や、その印象を思い出す機能は持っているが、記憶の保存庫としての機能は持っていない。記憶を水に喩えるなら、脳は水路やバルブの役割を持っていても、貯水の機能は持っていない。


では記憶は何処に保存されているのか。しかしこの問いには一つのナンセンスが含まれている。すなわち、記憶に「何処」という概念をあたりまえに当てはめてしまっているということであり、実際のところは記憶には私たちが一般に思っている様な意味での場所など存在しなく、私たちが記憶に対して、場所、脳という確固たる物質的領域をあてがいたくなるのは、私たちが日常で三次元空間を体験しながら生きていることに依る無意識の間違った適用であり、精神と物質の無意識的な混同なのではないのだろうか。


もともと、三次元空間だって、それが確固たる実在として完璧には立証されていない、いわば人間が外界を感じるときのための道具や概念でしかないという説もよく見受けられる。その説を採用して、三次元空間も生命が世界を便利に生きるために精神が開発したものでしかないとしよう。ところで、記憶というのは、生存のための道具というよりも、もっと根源的で本質的なものではないだろうか、すなわち精神が開発したものではなく、精神の軌跡そのものなの、生命の過程そのものなのだ。そこでさっきの問題に立ち返ってみると、精神の本質的運動そのものとその過程である記憶に、精神が生み出した単に生存のための一種の捉え方でしかない三次元空間という概念を、ぴったり当てはめることは、こう考えてみると明らかな誤謬になる。すなわち記憶は脳という物的三次元空間には存在しない。空間的な場所が対応しているのではなく、場所とは呼びにくい場所に存在している。大胆に言ってしまえば、脳が消滅したとしても、記憶は何処かにある可能性がある。ただ、その何処かというのが、はっきりとした場所という概念で示しにくい。場所という概念には三次元空間という概念が普通はよくつきまとっているから。とにかく、記憶を三次元空間という物的概念から引き離せば、その場所は脳ではない何処かだということは明らかだろう。

2024年2月14日水曜日

散骨と電子警報

疲れ切って音の縁を落下させてしまった鐘 大海を象る青銅の光

因果の経絡が割れた時 世への疼きに似た祝福と企んだ


あたかも音素の願い 退屈から神秘を抽出する

再度の轟音 1人だけしか聞いていなかったその無常

窓は電線の視座 儚い硝子の動きに転じつつ

彼に先駆けて未来の警報 営為は風の線の気まぐれで

大鐘の乱動に任された


人形遊びはお座興だ 血は凍らせて保存するように

2024年2月12日月曜日

Sirius and Nommo

We see from the earth Sirius, the Dog-star, move in a bit disorder, of which earlier scientists inferred there would be an invisible companion star, whose gravitation might make Sirius move on elliptical orbit in the Universe. Several decades after it, owing to development of science and technology, scientists found the star's companion Sirius B, the Pup, which has mass roughly equal to the Sun though has only the size roughly equal to the Earth, then which has large density and gravity but is invisible to the naked eyes, whose color is white and whose gravitation they verified effects on the orbit of Sirius. This discovery was in 19th century.


By the way, there is an African tribe who have a mythology about Sirius. The Dogon in Mali. The fact that Sirius is an important star for the Dogon is not amazing because that is explained by the prominent brightness of Sirius, but according to French anthropologists, astonishingly, the Dogon knew already the existence of the companion star in far earlier than 19th, ancient times. Furthermore they described in detail the fact that the Sirius B was very heavy in spite of its small size and was white, and the fact that Sirius A and B moved on elliptical orbit. The Dogon is a tribe who doesn't have the science and technology such as telescopes or advanced astronomy. That Dogon have the amazing knowledge about Sirius from ancient times, and moreover they knew that Jupiter had four large satellites, which is invisible to the naked eyes.


When the Dogon are asked why they knew these astronomic facts, they explain that the Nommo, the spirit who live in outer space, taught them the facts. And they describe the situation in which a spacecraft carrying the Nommo were landing with spin before them.


How do we interpret this. In my personal observation, it is more real that we understand it as delusions or paranormal perception common to the Dogon, than that we interpret it as aliens' invading, that is pretty occultic. At this point I associate words of an American writer, who has a certain-degree grounding in science and philosophy. Aldous Huxley says that, though we human beings perceive events which happened far away in the universe, a brain and nervous system function as restriction or as the regulating valve so that all perceived contents don't appear on consciousness, because if appear all of perceived contents that may disorder our ordinary life. This view he reach by his mystical experience using drags, but if his view is true, we can explain the knowledge Dogon have about astronomy. To say, those in Dogon who have constitution of hallucination perceived directly things about Sirius or Jupiter in trance, I guess. And Nommo appeared as the vision of symbol that told the truth of the universe in trance.


According to Aldous Huxley, we experience as visions various things of the universe, which involve matters concerning religion or mysticism and things which are useless to or harmful to our daily life, due to disordered conditions of brain, for example a brain's trouble in fasting or dyschylia in taking in drugs, rather than due to our higher function of brains or advanced technology. If that's the case, we can say that the normal function of a brain is to select useful perceived contents out of all ones (rather than to perceive things purely) and to make nerves concerning these images work then make tissues move so as for us to live accommodating ourselves to daily life and reality. And that when this function's order is broken we perceive events of the universe which don't concern our reality is not astonishing nor mysterious, if we think that way.


It is true that we may not perceive in any paranormal situation things which don't concern human reality in any degree, but the Dogons, to whom mythology of the universe is important in living, place more direct importance on things about Sirius than we do, so when the valve relax in a trance the companion of Sirius appeared before them. To civilized people Sirius is no more than a scientific concern, but to the Dogons it is important to live. To say, useful perception was selected out. A brain and nerves can be said to be tools to select perceived contents useful to reality out of innumerable ones which life perceives unconsciously and to make use of these selected for our acting and living. A brain only select useful perception, and if I was allowed to say boldly, perception itself happen neither at a brains nor nerves......

2024年2月11日日曜日

1.グノーシス主義の誕生

グノーシス主義とは、ユダヤ教の精神的な感化力が衰えてローマ帝国の戒律としての宗教になってしまい、人々の精神的欲求が彷徨し新たな宗教を求めていた時代、つまり1世紀ちょうどキリスト教が出来たくらいの時代に、ヘレニズム時代の思想やシンクレティズム(複数の宗教が個別的に現象している状態)のなかで生まれた神秘主義である。


宗教というのは、出来た当初はその象徴体系が人々の心理に具体的に機能して精神的な源泉と人の心を繋ぐ役目を果たすものなのだが、だんだん信者が増え時が経つにつれ、ある国や組織のイデオロギーとして利用されることがある。例えばイエス・キリストは、ローマ帝国による圧政や、パリサイ派などにおける形骸化した戒律の裡に、ユダヤ教が象徴体系として人々に息づく精神的価値を喪失していたことを見射抜いていただろう。そしてある種の人々は、精神性への欲求をもつことになる。結果、既存の宗教にとらわれない新しい宗教を人々は求め、西暦の初めのころ、小規模の新興の宗教がたくさん誕生した。その新興の宗教の中でも後に残って大規模なものへと発展していったのが、キリスト教とグノーシス主義なのである。


この二つの大宗教および大神秘主義には、共通点もあれば相違点もある。ユダヤ教パリサイ派、つまりローマ帝国の圧政が強制する過酷な世界において人々を戒律的なユダヤ教が、強制的に与える「現実」への対抗として、イエス・キリストは"革命"の旗を掲げ、グノーシス主義は"精神"を希求した両者ともに反現世的でまた禁欲を勧めるという点で、共通している。出来た当初は、当時のユダヤ教との対置性において共有するものも多く、互いに要素を交換することも多く、時が立つにつれて両者は対立していくことになる。グノーシス主義は3~4世紀に特に地中海地方で勢力をもち、マニ教の母胎となった。マニ教とともに東方にもその勢力を拡大していくのだが、やがてキリスト教から激しく批判されることによって勢力が衰退していくことになる。批判されたのは、グノーシス主義は、ローマ帝国の支配下の世界にそれに対立したものとして生まれたという点と反現世的禁欲的だという点、そして精神性の体現を求めるという点を除いて、多くの点でキリスト教と対立しているからである。反キリスト教的であるということがなるにつれて、キリスト教の教父エイレナイオスや著名な神学者アウグスティヌスらによって長い間批判され続け、ほとんど根絶やしにされてしまう。中世もキリスト教に対抗する神秘主義や錬金術などが生まれるが、代表的には魔女狩りとして、そういう神秘主義はグノーシス主義と同じようにキリスト教から排除され、強い勢力を保つことはなかった。しかし20世紀になってグノーシス主義をはじめ神秘主義や錬金術に精神的な価値を見出して再解釈したのが、ユングである。

2024年2月9日金曜日

電線

恋に敗れた哀れな女が倦怠の机の上で地図に涙を落としながら、都会の線路に、ミシンを打っている。作業員は釣りでもするかのように呑気に。線路ができる、縫い目には、世間擦れした女の面倒見の良い思いやり、そして長年の知恵を蓄えたお婆さん、そういう人の心情が走る。電車が走ったら、きっと何処かで仕事に失敗した無様な男の辛みも一緒に並行に、電気の流れと、風を着る音とともに、走り続けるのだろう。ある一介の働き者の女神がそれをみて、こころもとなくすすり泣き、その涙の奇跡が新しい線路を、道路をつくり、電信柱になった砂の男がずっと、硬直した眼差しでそれを見て、悪戯好きな妖精が彼を笑う、ピアノの声で。そしてそのリズム、都会の弦が鳴らす喧噪と同調して、神々はその疲れ切った伴奏に合わせ、諦めの歌を歌い、その響きは飼い猫を失った氷漬けの男にだけ切実に響いた。誰にも知られない鉱脈となった涙を流し、役所のなかのたった一人の人格者だけがそれに気づき、自分の由来を知らない無知な電車に乗って、自然に歯向かう排気ガスを吐く車に乗り、猫の亡霊を、散らばった鉄屑と使い古された無意味な言葉を、擦り切れた可哀想な花々で埋葬して。また女たちはミシンで鉄の線路を打っていく。作業員は何も知らない、自分が人間であること以外、何も知らない。そこで炎の画家の亡霊が材料に魔法で草を宿らせ、全ては自然に回帰する。女たちの涙も、老女たちの知恵も、なにも止めることはできない。電線は怒っている。自分の影を無くすことに。そして電信柱となった男に、やくざな悪戯好きな妖精が命を吹き込み、彼は動き出す、線路と共に、道路と共に、車より少し遅い早さで、そして街が動き出す、時間の順序を間違えたやり方で動き出す。電車はトンネルをくぐり、山の霊を通過する、ぼやけた針と糸に絡まれながら。人は線路を走りたくなる衝動に駆られ、電車を、高級車を追い越し、草原へ。その古墳の祭器を探ろうと、た錆びたカッターの鈍さと男の肉欲のような勢いで、掘り返す。そして見つかったのは、神々の諦めの吐息が凝固したレアメタル、樹へのメタモルフォーゼを願う金属。それを使って人は徒労し、挙げ句の果てに作り出した無意味な平和の、鰐のような残虐さ。鰐も走っている、線路と道路の交錯を、そして虚しさが呼んだ女の縫い針を噛みながら。ここには意味はない。妖精と動物と自分を失った女の無感情な動作、そして神々の目的を失った吐息。それに乗って走って行く、まるでヴェネチアの水路とドイツのアウトバーンを目指して、なんの脈絡も無くただひたすら、向かっていくのだろう。電信柱になった男も走る。目的も意図も無く、ただ、貧乏な女神が気まぐれに作った居場所を求めて。そして踏切で、となりの国が人を跳ねた。ミシンでできた線路はそれほどに不正確だった。でもだれも咎められない。それは神々が決めた戯の絶対。金を蓄えた人が死ぬ、それでも"絶対"は死者を見捨てない。臓器を宝石にして、また、酒宴を開き諦めの乾杯をして、続いていく、その鳥さえ標識になる世界には慈悲すらない。上空ではミシンの音は続き、線路作りの作業員は針になって、突き刺す、地球に和音を建てながら、神々の許した罪をまるで呆けたように見過ごして。酔ったように土に埋まる。そして宝石が地中から湧き出る、それも仕事に飽きた妖精の仕業。"絶対"を超えた先には心情も意図も無く、音だけが、貫く糸の振動だけが、電線の電流だけが、解剖台の上の都会を嘲る。それを、千年つづいてもう飽きた祝いで、乾杯する女神たち。慈悲もなく、ただ俗世の喧騒でできた酒を、失恋の涙を、何ともしれずに、漠然と飲んだ。瓶の下には、忌まわし気に回転する魚の影があった。猫は彼女の時計を眺めていた。

2023年10月31日火曜日

正義について

もちろん10代やそれ以前から、正義感が強かったり警察官になりたいと思う人はいるが、多くの場合、人は、社会に組み込まれ、その中で生活し、人間関係を構築しつつ会社などの組織内で活動をすることによって、だんだんと良心が強化され深化しながら良心が捉える機微の多様性も増していくものである。視聴覚や思考で捉えたさまざまな出来事の集積、それらに対する解釈や内省などの蓄積で、良心は、目の前の人の言動だけでなく、だんだんと社会全体の公益、人間全般の善へと触知範囲が広がっていき、まっとうな人格を持った人においてはやがて壮年期には正義といった観念を人格の重要な要素として抱くようになっていく。もちろん若くして飛躍的にそうさせるような出来事というのもあり、典型的な例としては目の前で友人が殺されたことから警察官を目指すことになった、などが挙げられると思われる。私の場合は、或る大規模かつマイナーであまり知られていない犯罪に直面したことから、比較的若いうちに正義といった観念を強く持つようになった。


正義は人をより社会的にする。正義を持つことにより、社会に蔓延る問題点を改善しようとすることに義務や使命感を感じ、社会公益の上昇に寄与することが人として意義のあることであると感じるようになる。あるいはある文脈では、個々人が個人的な良心をそれぞれ強く持つことにより世界はより平和になるということも言われることがある。しかしそこには社会というレベルが脱落しているように思われる。人間は社会的生き物であるからには、やはり個人のそれぞれの合計が世界を決定するというより、個人間の関係性の総体であるところの社会というものが個人をある程度決定する、少なくとも左右するというのはよく起こり、その社会を良くしていくことが個々人の内面や行状を良くしていくことに繋がると考えられる。個人の良心と世界平和という理念の中間層にありその二極を有機的に繋ぐところのものである社会というレベルにおける、諸々の制度、習慣、考え方、価値基準、行動様式などを、具体的により良い方向に持っていくことは、世界平和の理念の実現にも繋がるし、個々人の幸福にも繋がっていくものである。正義はそれを当たり前のように知っている。社会全般の改善が平和の実現や個人の幸福に繋がるということだけでなく、その改善に自分が参画することが、自分自身の個の生きる意義を増させるということも知っている。義務感によるものではなく、内発的なものとして社会公益のために献身することは、不特定の他者の幸福であるだけでなく、自身の幸福にもなるのである。そのような正義によって、人は社会を良くしていくものとして機能し、すなわちより社会的な存在になっていく。

2023年10月11日水曜日

ブラック・オパール


 

そっと夢 咲かせたの 光る銀河 閉じ込めて

あの子が 眺めてる 月の女神 首飾り


夜の花 輝き 風の中 妖精

さあこの世忘れて


あの子の目は ブラックオパール 

星の心臓 燃えた夜

孔雀の羽 散乱して 

狂った色の 夢が煌く



死んでも 夢見るの 青い蝶々 永遠に


呪われた宝石 夜に舞う幻

さあ黒い翼で


夢の中へ 逆さの塔 

死んだ鳥たち 飛び交って

壊れた空 骨の雨に 

騒いだ霊が 月に歌うよ



夜の花 輝き 風の中 妖精

さあこの世忘れて


あの子の目は ブラックオパール 

星の心臓 燃えた夜

孔雀の羽 散乱して 

狂った色の 夢が煌く