2026年1月2日金曜日

預言者としてのニーチェ

「神は死んだ」と言う言葉で有名なニーチェは、あるいは"預言者"というレッテルに相応しくないかもしれない。しかし、預言とは必ずしも特定の宗教に基づくものであるべきではなく、必要なのはその言葉の持つ神がかった力であり、大預言者であるイエス・キリストもムハンマドも、既存の宗教に属していたというよりは新たな宗教を打ち立てた存在ということを考えると、『ツァラトゥストラはこう言った』などで超人思想や運命愛を峻烈な力で解いたニーチェも、このような預言者に位置付けても良さそうである。


ニーチェはわずか24歳で大学教授になり、28歳で処女作『悲劇の誕生』を執筆した。しかしその後に歴史的大著となった『悲劇の誕生』は、師のリッチュルには酷評され、アカデミズムにおいては孤立し始める。34歳で視力の問題や頭痛や胃痛などを理由に退職してからは、ドイツ・スイス・イタリアを転々と放浪しながら、執筆生活に入る。在学時から傾倒していたワーグナーとは決別し、ルー・サロメとの同棲を経るものの、思想的にも生活的にも非常に孤独な人生を歩むことになる。


反キリスト教で有名なニーチェは、当時のキリスト教道徳に偽善と虚しさを感じて痛烈に批判し続け、ドイツ社会の精神的危機を察知してニヒリズムを解き、思想上の孤独の中、放浪の中で執筆を続けてきたが、その彼の言葉には、孤独を深く体験して社会に否を唱える者にしかわからない荒野の預言の性質が幾分か含まれる。実存哲学者であり精神科医でもあるヤスパースはニーチェを「例外者」あるいは「預言者」と定義した。


ニーチェの言葉、特に『ツァラトゥストラはこう言った』の象徴的言語においては本人が自認する通り、人類に対する「贈り物」といった感が見受けられる。超人は世の中から離れ、世の虚無を見抜き、孤独のうちにそのニヒリズムを克服する言葉を独力で創造する。そしてそれを、孤独を知り受容する用意のできている他者に、贈与するのである。特に思想的に孤独な状態の読者にとってはニーチェの言葉は、実存の根底を揺るがす箴言であるだけでなく、俗世の社会構造の価値基盤さえをも破壊し、新たな人間や共同体の在り方を示唆する、「預言」となり得るのである。実際にニーチェは19世紀末〜20世紀の厭世的な作家や芸術家に大きな影響を与えただけでなく、「神は死んだ」キリスト教社会においての哲学者たちにも絶大な影響を与え、哲学史ではニーチェ以前ニーチェ以後が議論されるほどの思想的展開点となった。


それほどの変革を思想史に起こした大きな理由は、彼が孤独のうちに思想を形成したということだけではなく、その時代の社会の価値観に痛烈に否を唱えたということだろう。イエス・キリストはユダヤ教が信仰されるガリラヤ地方に生まれながら、当時、力を持っていたパリサイ派や律法学者を批判し、彼らが本当の神なる宗教を執行していないとして自らが新しい神の言葉を放ち、キリスト教の源流となった。ニーチェにおいても、当時のアカデミズムに幻滅しただけでなく、キリスト教道徳が本当に人を人たらしめる思想的な力やを失っていると見抜いて批判し、自ら超人思想を体現するような新たな価値を与える者となった。


同時代の一般的価値観というのは、預言者や思想家や社会変革などが前時代に作ってきた宗教や思想や社会観念の体系が形骸化して空虚となった産物でしかないということは往々にしてある。その価値観に安住することに満足するのは、人間の個としての力を弱めるだけでなく、人間や社会への洞察の不足から全体的な時代の危機に繋がることもあるので、新たな預言者、思想家が、人間全体の精神に力を与えるような強い言葉を預言するのである。預言者をそのような存在とみなすなら、まさにニーチェはヤスパースの言う通り預言者ではないだろうか。


ニーチェはキリスト教道徳に批判的ではあったが、私がニーチェを預言者に位置付けたい理由のひとつに、神秘体験がある。ニーチェが『ツァラトゥストラはこう言った』を書いた時というのは、神秘体験といっても良いほどの霊的に強力なパトスに取り憑かれたような文体が現れている。またニーチェは永劫回帰を悟ったとき、永劫回帰の思想が突如自分に「襲いかかってきた」と回顧するほどその神秘的啓示を強調している。宗教を批判しながらも、本人が宗教史上の預言者のような生涯と諸経験を経ていたのが、逆説的だがニーチェの預言者性である。そしてその言葉も、預言者たちの言葉のように強い力を持っており、数々のメタファーや象徴表現に溢れている。


決して同時代の社会に安住しなかったというだけでなく、形骸化したキリスト教とニヒリズムの世界において新たな光を持ち込み、強力な言葉を預言したのがニーチェである。

2025年12月21日日曜日

未来データの音

サイバネティクスが時を超え鼓動した……

真珠色の雨が5滴降る 私の見上げた虚空
陽光が差すとき幻が 私に開けた未来

光はさんさんと矢の音楽に 空気は250年後の酸素
文化たちが何回半ば死んで 脳のレンガが積まれただろう

ただシナプス群は力学の 未来の歯で編んで死ぬ
その明滅は文化出産 太陽までもが歓喜

夢の果てには光しか聴こえなかった……!

2025年11月17日月曜日

小説評5

『天才少女は重力場で踊る』緒乃ワサビ

極秘かつ私的に開発された未来との通信機。未来からのメッセージに登場人物が翻弄され、タイムパラドックスによる量子の暴走を恐れるという、SF世界でありながらも、青春やその先の愛もくっきり描かれていて、爽やかな感動の読後感。


『母の待つ里』浅田次郎

東京の忙しく都会的な生活に疲れた、別々の事情を持つ3人が、或る田舎へ"里帰り"をする話。序盤で驚きの仕掛けの設定が明かされるも、登場人物が母や里を想う憧憬は本物。都会の人生と対比された里と母の優しさが小説に漂い続ける。


『カラスの親指』道尾秀介

詐欺師であり、過去にヤミ金に生活を篭絡された主人公と、同じ組織に恨みをもつ人物たちが同居し、復讐の作戦を繰り広げる。まさかと思うほどの大きな詐欺を見せつけられる結末で、無数の因縁が晴れていくところが感動しました。


『海辺のカフカ』村上春樹

予言的動機で父のもとを離れ西へ向かう少年。怪現象を伴い生きる初老の男性も或る事件から西へ。二世界が並行的に語られ、やがて交錯。作中人物の歌詞と有名なギリシャ悲劇の内容が、夢の回路の現実化を通して、主人公の周囲に重なり巡る。不思議な読書体験。


『アヒルと鴨のコインロッカー』伊坂幸太郎

平凡な大学生が主人公の現在と、ペットショップ店員が主人公の2年前の両サイドが交互に進行。広辞苑を盗もうともちかけられた大学生が、2年前の物語にだんだんと参入する。日常から少し逸脱した事件群の中でのそれぞれの登場人物のドラマが面白い。


『ある微笑』フランソワーズ・サガン

とりとめのない倦怠を持って生きるパリの20歳の女が、中年の既婚者と、最初はちょっとした興味から不倫し、恋に落ちる話。二人で出かけるカンヌの描写、主人公の内面の移ろいの表現などの、全ての叙述が文学的で、小さな孤独を抱える彼女のラストの微笑を説明つくしている。

2025年11月12日水曜日

街のコンドル

  人の心の大群が空高く、あのコンドルの形を作って上昇した。時は、雲の大きなトンネル、命の涙の水滴が銀河の星の数ほど集まった白く巨大なアーチ・フラワーとなって、コンドルの通り道になった。昼の飛行機雲の下では、声援、歌、マーチ、レース、無数の歩行と買い物が、命の群れを営んでいる。

 時流にときめいたコンドルの胸は、それら営みのざわめきを宿して、次の時代に見えたり見えなかったりする雨を降らせるだろう。あの人はビルの屋上から霧のようなその雨と虹を見るだろうか。サピエンス・メモリーが、あの人の肋骨を通過しますように。翼の影は忙しい人の群れを遮った。時は止まりますように。大きな記憶が低空飛行する渡り鳥となって、彼らを吹き抜けますように。

2025年11月7日金曜日

小説評4

 


『名もなき星の哀歌』結城真一郎

人の記憶を取引きできる店での仕事という設定のもと、緻密なプロットで、ミステリーでありながら星空的ロマンを感じさせる物語が紡がれている。謎が解けていくに従って切ない真実が予感され、惹き込まれる先は遠く悲しい恋の歌。


『重力ピエロ』伊坂幸太郎

壁のラクガキと遺伝子をキーにして前衛的に展開していく物語。軽快な機知と斬新さが伴われながらも、登場人物の各人が強い感情や意志を持って群像してドラマティックで、謎解きに伴う悲劇が鮮やかに胸に迫る。


『ノルウェイの森』村上春樹

幾つかの交情が描かれるが、特にヒロイン直子さんとの恋愛が主人公にも読者にも忘れられない想いを残す。人の存在やその一部、そして命が、損なわれていく哀愁と喪失感。そんな霧の追憶の中、「私のことを忘れないでいてくれる?」が響き続ける。


『荒野のおおかみ』ヘルマン・ヘッセ

精神的なものを忘れ物質的享楽に溺れる文明に批判的で、市民の表面的な社会にも懐疑的なアウトサイダーの苦悩が描かれる。ユング心理学でいう"アニマ"の外在化たる女性ヘルミーネに導かれ、著者自身のものでもある内的体験が展開される精神的傑作。


『白夜行』東野圭吾

迷宮入りした殺人事件の周辺にいた少年と少女。2人のその後の19年間には周囲に様々な恐ろしい犯罪が影を見せる。人気の大衆作家の小説でありながら、19年間の登場人物2人の歴史や人物像に文学性が宿されている叙事詩的傑作。


『読書する女』レイモン・ジャン

家を訪問して声に出して本を朗読するという仕事を始めた女性主人公。訪問先の客たちとの交流でちょっとした出来事がいろいろ起こる。癖のある客とのやりとりが生き生きと描かれている。最後、サド侯爵の本が絡む男性3人との場面がコメディとして面白い結末。

2025年11月6日木曜日

鳩の祈り

 空は巨大な葉で 階段で 切断され

家々の会話は太陽を見れなくなった

創られた罪の花火が夜まで出血させ

私は鳩になるしかなかった


降らない命の涙の代わりに

呪われた肺からあの時の酒と血を流そう

明日の劇場に新しい平和の柱が在れ!

2025年11月4日火曜日

ジグソー

  あらゆるリビングルームが弾丸になった夜のパーティたちに、私の今はアイアンメイデンの中を夢想して怯えて傷ついた。そのシミュレーションでは、花はガラス製の刃物、人の言葉はタイプキー、口という口の歯の大群は殺人マシーン。リビングルーム群は世界のコアをマシンガンのように幾千の貫通を描いていた。量子コンピュータは、スズメバチの巣に冷たい炎が吹き抜けるように稼働していた。人のあらゆる暮らしは飛び散った。

 私にしか見えなかった世界の欠片の億千の散乱。欠けたピースは私の骨で補うから、災禍が見えている限りは、あるべき心と街のフラクタルを取り戻すための歩行と声を。モニュメントが歯車となってしまうことがあっても、失われた秩序がまた薔薇となって形になるまで。パラレルワールドを呼んだ朝……。

2025年11月2日日曜日

私はA子

 今から打ち合わせに行かないと……まず起きてからカーテンを開け、昼の日差しを髪と手首に浴びた。昨日は27時まで1人で飲んでいてたけど、心をお酒に泳がせて捕まえた真理はひとつだけ。

「私は今、歌ってあの世に行くしか生きる方法のない、アンプに繋がれたマネキンのような女」

あの人たち、ギターやベースやドラムスは、まだ私の歌声の秘密を知っていない。彼らの心をこっそり飲んでいるこの喉から発するのは、スタジオの音たちすべてをダンスの鱗にして室内すべてを私の小宇宙に閉じ込め、水槽のように彼らを捕らえるスパイダーネット。マリオネットたちになって音楽を奏でている彼らに、アリスが微笑んだことは何回あったかしら。今日も、骨から咲く花々がアリスを楽しませ、私たちの肉体は次の世界への扉を開くといいのだけど……


⭐︎2026/4/18


-続く

2025年10月30日木曜日

300の恩寵

遠い未来の大天使 ガブリエイルの教え子が

割れた空から舞い降りて 乗っ取る眼球 600個


浮世の罪 渦の彼方 「彼」の笛

音を聴く 呪われた脳 300個


風に浮かんだ視界から 「天使」は全て儚んで

呪いを解いた 愛の火と 消えゆく命 神聖に


幾億の 羽の行列 鳥の骨

白光の 星の出血 死んだ空


そして「天使」は言った

「あなたたちの天は あるべくして一回死んだ」



2025年4月11日金曜日

私を刺し抜いて

 

サイキ「私 今は天使で あなただけを殺すの」

ソフィア「貴方は誰だったの? それはタナトス」

サイキ「愛でしかなかったことには間違いない。その目と、先にある神殿には失われていく世界があった。その痛みには、窓という窓がタロットカードになったときの、ビルも人も、神経系の植物になるほどの、命の血があった。もっと血を流そうか?」

ソフィア「生きてても仕方ないとはいっても、貴方に私の血を流す権利はどこからきたのかわからない」

サイキ「一人は23世紀に持って行かないと、新しい聖者たちがつまらなくなるだろう。ミューズは常にいても、受肉しなければならない」

ソフィア「私はサクリファイス?]

サイキ「単にタイムリープするだけだと考えてもらえばいい」

ソフィア「目なんていらないけど、今生きてる世界が平和になってほしい。200年後に行ったとして、今生きてる病める命、滅びていく街、崩壊した国の秩序、壊されていく自然は、どうするの」

サイキ「私が妖精にでもなって、アニミズムを起こし続ければいいはなし。とりあえず、21世紀の街々からは逃げなさい」

ソフィア「あなたは私たちより、人が死なないための愛はあるの? それを見るまでこの目は差し出さない」

サイキ「未来の人たちの共同体と、今の人たちの億千の命を、アストレアにお願いして、天秤にかけてもらっている」

ソフィア「恋の日々も大事にしてほしい」

サイキ「恋の日々は消してから、母とグレートマザーに帰ること。月の近くの宇宙ステーションが高層ビルの上に移動したら、月も月経発作で不要なものを浄化して、モルヒネが降り注ぐだろうから」

ソフィア「何言っているかわからない」

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1. オフィス街で

2. 出会いと2回目の出会い

3. ソフィアという命名

4. ヘルメスと2000年代の世界秩序

5. 繁華街の路地裏での出来事

6. サクリファイスは受肉するか?

7. アンドロイドの実験体に出会う

8. 実験室ではなくあの世へ?

9. 未定

10. 新しいボーンコレクター

11. Lady Luck : 血肉のためのエルフとオルフェウスの骨

12. University の書庫

13. ソフィアのための自殺はAirの矢で

14. アストレアの本当の気持ち

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1. オフィス街で

1-1. 梨穂の日記


4月2日

(午前)

早朝、夢で声を聴いて目を覚ました。

「夜が自殺した。朝のために、人の目と爪と髪と肌と服を全て隠していた衣装を、太陽で燃やして」

私といえば聴く音楽は流行りのポップスで、読む本といえば東野圭吾さんの現実味のある事件と解決が書かれたミステリー小説。詩なんてまともに読んだことなかったし、日記を書くのは好きだけど、目で見たことを細かく書きながら、働いたり家でぼんやりしていたときに思ったこととかを、ありきたりに書くだけだった。どこからこんな言葉が降ってきたんだろう……。


朝この夢を見てから、ふと月に大きな槍を飛ばして突き刺す計画が何年か前にあったことを思い出し、実行されたのかしら、成功したとして、それが何の意味になるのかな?……って午前中の間は空想していた。その午前中のオフィスでは、生まれて初めて読んだ詩のような不思議な夢の続きであるかのように、視界の風景は白昼夢のように過ぎて行った。


今日は、新年度あたらしく働くコールセンターで出勤初日なのに。緊張も不安もなく、空気は希薄で、見るものは半分くらい半透明の箱庭の模型みたいで、幽霊が目の前に現れても怖くないような、そんな気分だった。


そして目の奥に赤紫色の水の矢が貫通したような、それでいて意識が透明になって、川に繋がって、見たことない漠然としたイメージがたくさん入ってくるような感覚。ビルの入り口の自動ドアはきっと、これからまたしんどいお仕事をしていく日々へ入るためではなく、新しい未来への予感に満ちた境界面だったのかもしれない。


とにかく今日は、色々なことが起こった。正確に言ったら、なにげない研修初日でありながら、あの夢の声のせいで、人も机やパソコンも日常の世界に色んな穴やドアを開けて、私の心に夢の向こうの世界から語り掛けていたのかもしれない。


15階のビルの8階のオフィスへは、出勤初日だったのにほとんど無意識でたどり着いて、オフィスの入り口に入った先の内線の電話機もほとんど意識せずに行ってたし、電話の先の事務の人と話してる時も、早朝の夢からその時までの記憶が漠然と脳裏をよぎりながら、ただ名前と最低限の挨拶をしていただけだと思う。


オフィスの受付から研修室までは、壁は真っ白で、道は普通より細く感じて(あとで確認したら、そうでもなかった)、どこか迷路といったような感じだった。貰ったばかりの首から下げたカードキーで研修室のドアを開くと、そこにはもう一人の新人女性と、どこか疲れ切っていそうな華奢な男性の研修講師がいた。


新人女性は秋田さん。研修講師は舘(たち)さん。


「舘」といったら高校の時に習った日本史で、ヤマト政権あたりだったかな?豪族が住む、集落の外れの屋敷のことを指す言葉だったと思う。漢字一文字の名前を聴くと、ひらがなで聴いた名前から漢字を自然に想像するけれど、まずその記憶がもやもやしたイメージとなって思い出されて、たちさんが自己紹介するときホワイトボードに「舘」と書いたとき、勝手にこの人は古風な人なんだろうと思った。髪は長くて、目は虚ろな二重で、病弱なのか色が白くて顔色はよくなくて、とにかく疲れていそう。今日の私みたいに、心ここにあらず、といったような感じ。ジャケットは真っ黒に近いグレーで、ネクタイは絞めていない。身長は少し高いけど、あまり男性的な威圧感というものがなくて、細美なのにどこか曲線美のあるシルエット。


秋田さんは、がんばって研修をこなしていくぞというような気概を、終始、手の仕草や姿勢を変えたりするときなどの挙動で放っていた。パンツスタイルのリクルートスーツで、少しだけふくよか。髪はショートで少しだけカールしていて、マニュキュアはしていなかった。


私は研修初日なのに、オフィスカジュアルってメールに書いてあったのを朦朧としていた朝に思い出して、そのあとは自動的に私服の中で少しフォーマルなのを選んでいた。ロングスカートに、襟のついたシャツ。グレーのカーデガン。


私はコールセンターや事務の仕事は慣れていたから、白昼夢みたいな午前の研修の座学は行儀よく座ってホワイトボードを眺め、舘さんの柔らかくも涼しげなナチュラルに頭に入ってくる声と言葉を聴きながら、たぶん問題なく情報セキュリティとか、会社の概要とか、お客様対応の指針とか、理解していと思う。


ランチは近くのカフェに行ったけど、食欲はなくて、自分の体が鎖骨から上しかないような希薄な感覚で、コーヒーとパンだけを頂いた。


コーヒーカップの円形の水面に、私の瞬きが映った。瞼の中に瞳があったかもわからないぐらい、今日の夢みたいな意識では、睫毛の軌跡だけしか見えなかった。


(午後)



-----続く