Ⅰ
1. カリスマという語の変遷
2. マナ人格としてのアーティスト
Ⅱ (未稿)
3. 集合的無意識の力動による憑依現象
4. 個人的なマナ人格との出会いの回想
5. 個人および共同体における生の意義と発展へ
1. カリスマの変遷
"カリスマ"という言葉の語源は、古代ギリシャ語の「χάρισμα(khárisma)」という単語に由来していて、ギリシャ語→ラテン語→フランス語/英語(charisma)という派生の経路をたどり、現代の日本でもカタカナ語として一般的に使用されている言葉である。なお現在の英語で慈善や博愛を意味する charity (チャリティー)、フランス語で慈悲や隣人愛や博愛を意味する charité (シャリテ) という言葉は、この言葉から派生している。
ギリシャ語での元来の意味は「恩寵、賜物、恵み、優雅さ、好意」という意味であった。西洋でこの語の意味が定着していく経緯として、A.D.1~2世紀頃のローマ帝国において当初ギリシャ語(厳密には当時のギリシャ語の一種「コイネ-」)で書かれた書物である新約聖書に出てくる使途パウロが、『コリントの信徒への手紙1』などにおいて、「カリスマ」を聖霊によってキリストの共同体のために神から無償で与えらる「霊的な賜物」として語ったことから、カリスマという言葉の意味はキリスト教圏では「神の恩寵」といったようなニュアンスで定着していった。そこには現代でみられるような比較的希薄な意味で用いられるカリスマ、多くの人に人気のある有名人、といった世俗のなかの個人といった意味はほとんどなく、超越的な次元からの恩寵の顕現であり、キリストの共同体=教会の維持と発展のために用いられるべき聖なる能力を意味していた。
この宗教的神学的な意味合いを帯びていたカリスマという言葉を、より広範で一般的な範囲で用いられる概念として普及させる上で重要な役割を果たしたのが、20世紀初頭の社会学者マックス・ウェーバーである。ウェーバーは『経済と社会』などにおいて「カリスマ的支配」という社会科学的分析概念を用いた。ウェーバーによると「カリスマ」とは、「ある個人が持つ、日常的ではないと見なされる特定の性質であり、それに基づいて、その人物は超自然的、超人間的、あるいは少なくとも特に例外的・非日常的な力、または性質を備えていると評価され、指導者として認められる」ところのものである。つまり指導者としての非日常的で強烈な個人的な資質や能力を指している。
ウェーバーにおいてはパウロの手紙が含まれる新約聖書の流れを汲む神学とは異なり、カリスマは必ずしもその源泉が神によるものとはされていない。ウェーバーの著作の影響もあり、カリスマという言葉は、キリスト教会やキリスト教徒たちのために神から与えられた霊的な恩寵ではなく、社会的に周囲の人々に強い影響をあたえる強力な個人の性質を意味するようになった。ウェーバーの「カリスマ的支配」という分析概念に関する枠組みでカリスマ的人物を挙げるなら、アレクサンドロス、カエサル、ナポレオン、その他、19世紀以降で言うなら革命的な指導者あるいは革命家たち、レーニン、ガンディー、チェ・ゲバラ等であろう。ウェーバーはカリスマに神的なあるいは霊的な意味合いを持たせてはいなかったが、これらの人物の成した大業を考えると、やはり20世紀頃まではカリスマというのは、超越的な性質を指し示すことを辞めなかったといえる。
現代においてはカリスマという言葉は、その本来の宗教的意義や超越的性質の範疇から世俗的な次元に引き下ろされ、「神からの恩寵」「日常からの超越性」から「強い人気のある有名人」「影響力のある個人」といったやや低いレベルで用いられるようになっていった。それでも平凡な日常から離れた非合理的な魅力によって人々が動かされるという現象が、カリスマと呼ばれる人たちによって(たとえ宗教革命や社会変革に至るほど絶大なものでなくとも)引き起こされるということは人間世界から消滅したわけではない。
2. マナ人格としてのアーティスト
ひと昔前の日本のテレビに現れる大衆文化においては、カリスマ美容師、カリスマ弁護士といったように、前述の歴史的起源から考えるなら軽薄な意味でカリスマという言葉は用いられた。それが指し示す個人の影響力も、前述のように特定の分野で強い人気のある個人、流行りのインフルエンサーといった比較的小さいものである。
しかし新約聖書あたりから続くカリスマの意味、宗教的意義を帯びるカリスマ的な個人というのは人間の社会上からまったく居なくなったわけではなく、ビン・ラディンなどイスラム過激派のテロリストの筆頭などを挙げずとも、多くの地域で革命を必要としない程度には平和になった戦後~21世紀の先進国およびその周辺において霊性を持つカリスマが存在するとすれば、私の個人的な見解ではあるが、強い影響力をもつ「アーティスト」たちであろうと思う。とくに視聴や鑑賞のする人の母数や媒体の感情的影響力を考えるなら、音楽とくにロックやポップのジャンルにおけるアーティストにおいて、パウロ的な意味に於いてのカリスマを持つ人物というのは、20世紀後半以降も存在していないだろうか。たとえば最も有名で影響力のあった人物といえば40歳で熱狂的なファンによって暗殺されたジョン・レノンである。
ジョン・レノンは、The Beatles の中でもポール・マッカートニーと並んで音楽的才能や人物的人気の面でも前面にでていたが、ポールが通常の流れを汲む音楽やポップスおよび大衆文化に沿った資質を発揮したのに対して、どこか高次元からのメッセンジャー的な性質をもっており、本人の魂の苦悩であったり社会上の諸問題に対する感受性が強力であった、悲劇の影を少なくとも中期からはその作品内にも顕現させていた人物である。アルバム『Revolver』あたりからは音楽も歌詞もサイケデリックなものや深い痛みを表現するものが含まれ出し、解散後のソロ活動では顕著に魂の苦悩を表現し、どこか俗世を超えた次元からインスピレーションを得たような曲もあり、人間世界の全体的な精神的苦痛に通底しそれを表現しているような歌詞もみられる。そして彼の音楽は多くの人に歓喜や感性的体験を与えただけでなく、ファナティックなファンを生み出し、ヒッピー文化の重要な引き金にもなるなど、強力な精神的感化力や集団的影響力を持っていた。The Beatles がポップスやロック、大衆文化に与えた影響を考えるなら、現代におけるシャーマニズムといえるかもしれない。
他にもこのようなタイプの有名なポップスやロックのカテゴリーにおいてのカリスマといえば、悲劇的な次元においてはカート・コバーン、尾崎豊などが挙げられ、大衆文化やロックカルチャーにおけるファンへの影響力のレベルでいえば、フレディ・マーキュリー、マイケル・ジャクソン、ジミ・ヘンドリクスなどが挙げられるだろう。
例えば27歳で亡くなったカート・コバーンについていうと、日本でNirvanaが流行ったのは1995年~2000年頃であったが、2000年頃はロック好きのジャンルで人気があっただけでなく、心を病んだ若い男女の一部の間で人間世界の集合的シャドーを顕現するダークヒーローとして偶像視され神格化されていたのを覚えている。尾崎豊については、カート・コバーンよりも早い26歳で亡くなったが、憑依的で熱狂的なファンを持っていた彼が亡くなった直後は、後追い自殺するファンが絶えなかった。X-JAPAN のギタリストHideが亡くなったときも後追い自殺が多数発生した。2025年現在、ここ数年の日本ではこのような例はないが、90年代においてはロック界のアーティストが超越的ともいえる俗離れした霊的感化を一部のファンに与えていた。
ファンによる他殺や、ファンの後追い自殺といったような極端な事例を挙げずとも、彼らの音楽や感性が個人に与えた影響というのは大きい。ロックやポップスのカリスマの中でも悲劇を体現したような人物たちに共通するのは、彼らが音楽や歌唱の才能に恵まれていたりフロントマンとしての資質があったというだけでなく強い精神的苦悩を抱えていたということである。
ジョン・レノンは10代の頃から共産主義が人間社会に蔓延ることを警戒していたがその感受性が強すぎ、共産主義者たちが自分を殺そうとしているという被害妄想に陥っていたこともあったし、30代の作品においては自身や人間全般の存在の痛みを表現する歌詞が多くみられると同時に、世界平和を願う普遍的な愛も歌っている。尾崎豊は当時の日本社会における大人の道徳を懐疑し社会的規範に反発し、人の魂が外界の社会的事象に縛られることの危機を感じとって精神的な自由を強く希求すると同時に、それらが原因の実存的苦悩だけでなく人間にたいする純粋な愛や慈悲を歌った。
このような社会現象を齎した The Beatles のジョン・レノンや後追い自殺を引き起こした尾崎豊など極端な例だけでなく、人の痛みや悲しみを歌うロックやポップスのシンガーは霊的憑依力とまではいわなくとも強い精神的感化力を持つことが多い。人が名状しがたい暗い感情やイメージに苛まれたとき、その名状しがたさのひとつの理由としては社会性や精神衛生の観点から暗くネガティヴなイメージや痛み苦しみ悲しみに関連する感情というのは日常生活では言語化されていないことに起因する。もう一つの理由としてはその感情が複雑すぎて日常人の思考では概念化さえできないということである。それらが歌詞にされているということは、ファンにとっては本人の苦しみを代理して言葉、それも純粋な人の言葉としてあるいは芸術表現として巧みな言葉で表現されているということであり、それが精神の拠り所となり、苦痛を感動に昇華する魔法的な媒体となる。それだけでなく重要なのが、この章でアーティストを音楽界に限定した一つの理由としても上述したことだが、音楽あるいは歌が与える人間への直接的なあるいは感情的な力である。哲学者ショーペンハウアーは音楽こそがイデアの最も直接的な客観化であり、宇宙の盲目的な意志が人間のうちに最も直接的に顕現したものと記述したが、そのような存在論の難しい言説を引用しなくとも、絵や小説や詩や文章とは違って音楽が人の感情に麻薬のように強く作用することは音楽好きの皆が知るところである。
上記のパラグラフではアーティストのなかでもカリスマとしての極端な例と、そこまでいかなくとも人に対する強い精神的感化力をもつアーティストについて述べたが、後者に比して前者に強く表れる性質としては20世紀オーストリアの心理学者ユングが心理学的概念として学術的枠組みを与えた「集合的無意識」(下記"元型論について"のリンク参照)に接触してそれらの要素を表現し「マナ人格」を体現しているということである。それが1世紀頃にパウロがキリストにみた「神の恩寵」としての charisma に通じる点であるが、その聖霊的で超越した力については、続稿に記述する。
(集合的無意識の元型について
https://bloominghumanities.blogspot.com/2024/03/blog-post.html )
Ⅱへ続く