認識論としての力への意志
ニーチェは痛烈なまでに価値評価や人間洞察に長けた、それまでの哲学者にはない類型の、主に価値論を熱心に追求し、そしてなによりもその価値論の尋常ならざる文芸で文体化することの天稟を持ち合わせ、それを自分の天来の仕事とした哲学者ではあったが、それと同時にずば抜けた哲学的直観によって見通された人間の思考素子ともいうべきレベルにおいての認識論を説いた哲学者でもあった。主にショーペンハウアーを信望していた初期の認識論、そして中期の全てはメタファーであり真理さえも存在しないと説いた中期の認識論、後期の究極の意味での遠近法主義へと傾いていった結露である『力への意志』に至るまでの認識論へと、彼の認知は変遷していっているが、ここでは後期の『力への意志』に収録されている晩年に近いニーチェの認識論を取り扱い、できることなら纏めてみたい。しかしこれはニーチェ自身でさえ纏めきれていない断章からなるものなので困難を極めるだろうと思う。その前に断らなければならないが、『力への意志』というのはこの語感からして価値論的意味合いが強そうにみえるものだが、実質その根本にあるのはニーチェが認知した世界や思考主体の構造や関係性であり、つまり哲学の分野では価値論より認識論に寄った傾向の強い文献であり、その認識論の体系の土台に立脚して初めて価値や倫理の意味合いが考察され描写され訴えられているのが実質的な執筆の軌跡であろうと思う。どうにせよニーチェの場合は認識論があって価値論という順列ではなくほぼ同時と言っていいほど両者の思考分野が直結しているのではあるが。とにかくここでは認識論としての力への意志の世界認知について述べたい。