タバコの中の天国
― 梅雨明けに私は世界の境界を跨いだのかもしれない ―
1
自転車が突っ込んでくる。お互い斜めによけた。
「すんません」
と、自転車の主。
「こちらこそ」
私は会釈をしたが、それを彼はせわしない視界の片隅で捉えていただろう。
西成の低所得者層の人たちは、まるで自転車の車輪や節を自分の手足にしているかのように、歩行とソーシャルディスタンスが変わらないかのように、元無法地帯だった故のある種の自由を自転車においても享受していた。それはもちろん、生身の肉体のみに限った話においてもだ。梅雨が明けたばかりの夏、36度の湿った空気に漂うのは排気ガスだけでなく路上タバコの煙。
残り少なくなったタバコ、ハイライトがポケットに入っている。元来は酒豪だった私は、なけなしのお金を握ってコンビニで缶チューハイを買ったのだが、その大気がもたらすどんよりとした熱と圧で、たかだかその1本のお酒である種の酩酊の中に居た。コンビニから40メートル離れた歩道を、歩く。自転車は相変わらず歩道にまで例の自由を利かせて乗り込んでは、斜めに、ジグザグに、ふらふらと、数台が駆け抜ける。蜃気楼みたいな酩酊で白昼夢まで見えかけていた私は、自転車を本能的に避けるなか、ハイライトの箱を落としてしまった。
いつもはピースを吸っていた。ハイライトを持っていたのは、ピース特有の甘い香りの強さを楽しむためではなく、ヨモギを連想させる植物みたいな味を楽しみたいといったふとした昨日の衝動からだった。それは湿った熱気と西成の雑然がさせたちょっとニヒリスティックな遊び心だったかもしれない。
地面に落ちた微かな衝撃で、一本だけタバコが2センチ飛び出た。私は拾う時、なんとなく爪でその一本に傷を入れた。たかだか0.5ミリの傷だったかもしれないけど、そこには爪垢ではなく西成へと淪落した私の舌打ちめいたものがあったような気もする。傷口から未来が入ってきて欲しかったし、煙には新しい世界が広がって欲しかった。
西成には阪堺線の路面電車がその道を猥雑な町に貫通させ、南海電車は高架の上を音を立てて走っている。その高架の下のひとつ、通り抜けられる道の脇、コンクリートの天面に守られ、ホームレスが敷いた布の上に横たわっていた。きっと高架は道を通すだけではない。酩酊した私にとっては。向こうにはきっと西成よりはマシな街並みであるようなパラレルワールドが広がるんだろう、そんな白昼夢。
その境界を跨ごうとするときに、まるで現世を忘れるなという印であるかのように、そのホームレスは横たわって顔をタオルで覆いつつ肘から先を壊れたロボットのように動かしていたのだ。私には憐憫が到来した。
私はこの土地の人々を観察することはよくあった。彼らは独特の社会的生態系を持っていて、偶然というわけでもなくあたりまえのように数日前や数週間前に飲み屋で会話していた人が再会し、「よぉ、久しぶり」と話し始める。挙動は失礼ながら、不審すれすれ、人によっては不気味の谷だ。芦屋と比べたらサファリパークだ。失敬。
私は決して彼らを見下ろしているわけではなく、人の世においてとても興味深い対象として、社会制度から落下した先の過酷な生活を生きる人として、尊重して観ている。しかし、その究極系であるホームレスに対してはそれほど関心がなかった。世の絶望を感じることに対しての本能的な警戒が働いて、フィルタリングしていたのだろう。だが、その高架の下の道に横たわる先ほどのホームレスには、本能的というより何か必然的な興味を示してしまった。あるいは灼熱と飢餓で死に瀕した人間を感覚した本能だったのかもしれないが、たしかにそこには不可解なる Synchronicity があった気がする。私がシャツの中に隠しているネックレスについているのは、壊れたロボットの人形であった。
2
その酩酊と熱気の中で目にとまった必然から、私は高架下の道を通り抜けるとき、そのほぼ仰向けで横たわるホームレスの前で歩みを緩めた。横目で数秒、観察。どうやら死にかけているわけではなさそうだ。ただ、限界に近い肉体の動きをしていた。遠くからみたら壊れたロボットの腕のような動きだったが、そのときは水を長い間与えられていない両生類の瀕死のようなものを感じた。人間の機能は失っていなかったが、彼は両生類としては息絶えかかっていたのだと思う。比喩的に。私は「大丈夫ですか?」と言う変わりに、遅い歩みで通り過ぎるかたわら、
「お酒を飲んでいて御免なさい」
と、誰にも聞こえない程度の声量で口走った。そして見ぬふりというわけではないが少しの慈しみの眼差しを向けつつも、やはり通り過ぎて行った。次の口を缶チューハイにつけるか戸惑いながら。
躊躇の結果、私はそのホームレスを振り返っても目に入らない程度に歩きを進めてから、残りのお酒を飲みほした。空き缶用のダストボックスはなかったので、手にもったままにした。警察にさえ半ば黙認されている元無法地帯のルールである路上タバコの灰皿として。残りのタバコは3本。どこでどのように吸おうか、3本で喫煙所巡りをしようか、それとも帰宅して最後の一本をこの散歩の回想にあてようか。取るに足らぬように思えることを思案していた。しかし、それは決してどうでもいいことではなかったことが、後に判明したのだった。
― 彼の天国の代わりに私が見たリアル ―
3
少しだけ曇り気味。高架橋の先、約45歩、タバコはポケットに仕舞った。その時、前を向くと、歩道に並ぶ一直線の電柱たちが不気味なぐらいお互い接近しつつ重なって見えた。そして白昼夢の中、さきほどのホームレスの壊れたロボットのような腕、息絶えかけた両生類の腕が、幻視として電線を掴もうとしているのが見えた。最近の疲れと、熱気と、酩酊が見せた、ちょっとした幻だろう。そうとしか思っていなかったが、その幻視の腕が電線を掴んだ瞬間、サギがその虚空から急に現れたのだった。サギは大阪市には一定数、生息している。とくに川や用水路ではそこそこの頻度で見かける。
しかし西成のその地帯には用水路も川もなかった。それに電柱の向こうはダークグレーの建物、電柱はグレー、電線は黒の中、白い鳥が急に現れたのは錯視か何かだとは思えなかったし、そのサギは私の上、約3メートルをそのまま通過していったので幻視でもない。私の視力は0.6ほどは保たれている。サギは先ほどの高架橋の上の線路内に着地したようだった。
私に急に憐みの気持ちが沸き起こった。何に対する憐みかさえ、ロボットのような腕の幻視とサギの出現によってわからなくなっていたが、その腕が先ほどのホームレスのものに由来することに今更のように思い当たった。彼は死にかけてはないと見られたし、警察官が頻繁に巡回しているので長い目で見ても亡くなることはないだろう。しかし昔は日本のスラムであった西成の道端で、彼にはこの世のあらゆる絶望の外枠が檻となって降ってきて彼を地面に接地したのかもしれない。
4
私は引き返した。彼を助けたいという善意はなかった。私は私で彼は彼。違う人生があって、彼も空き缶集めなどで彼なりの立身をしているのだろう、そして死に瀕しているわけではなさそうだ。でも、私の良心、あるいは何らかの命のメカニズムが、
「彼には天国が来るべきだ。できれば生きたままで」
と、私の心臓から喉にかけて囁くようだった。私はそれを口に出した。いつのまにか空き缶は手元になかった。幻視と超常現象に心を奪われていて落としてしまったのだろう。左のポケットに財布、右のポケットにタバコとライターだけがある手ぶらで、私はそのホームレスのいた高架橋へ白昼夢の中、ふらふらした早歩きで向かった。
あと10歩ぐらいというところで、南海電車が高架の線路を通過した。思ったより短い時間だった。さきほどのサギは見当たらなくなっていたが、カラスが数匹、列車の通過とともに羽ばたくのが見えた。太陽が少しだけ雲間から光を覗かせていた。
彼の腕はさきほどとは違い、敷かれた布の上に横たわっていた。力なく。顔に掛けられたタオルはそのままだった。それが濡れタオルで体温を下げるためだったのか、ホームレスとしてでも自尊心から衰弱した顔を見られたくなかったのか。それはわからない。もともと再度彼を訪れた私に、「大丈夫ですか?」と言い放つつもりはなかったが、なおさらのこと、そのタオルが私と彼の個人の境界線を強くしていた。私は通り過ぎるような形で、しかし彼の布に接近しつつ、歩みを進めた。
3本入っていたタバコの箱から1本、手でつまんで引き抜いた。傷があった。ホームレスが灼熱のもと横たわっているという現実をまだ直視したことがなかった、10分ほど前にニヒリスティックな気持ちで爪で刻んだ傷。未来が侵入してきて新たな世界が煙とともに出てきて欲しいと、ふと頭に浮かんだ傷。私の脳裏には、言いようのない力で、なけなしの100円玉を彼の布に置くより、このタバコを置いていったほうが彼にとっていいだろう、という思いが微かに一瞬だけ走った。ライターは持っているだろう。私はサンダルのベルトを確認する体裁で、傷の入ったタバコを布の上に置いた。
あるいは、それは私がたとえば彼に「大丈夫ですか?」と言って起し、300円なりパンとコーヒーなりを渡して一時的に彼を助けることができないという、私の臆病さからさせた行為なのかもしれなかった。しかし、この西成は何かが異常だ。脱スラム化が進んだ今でもホームレスが当たり前に炎天下で横たわっていること自体、日本では異常なことではあるが、それだけでなく、人が人の普通の生活形態からまるっきり脱皮して、自由人のようなそれでいて動物のような生態系のなか、何らかの秩序が町ごと崩壊していている。
亀裂からは不可思議な力が乱入してきて、それがさきほどのサギとなって表れたのかもしれない。お化け屋敷のようなワンダーランドのような、不気味で自由なギミックが人の生活荒廃とともに駆動している。私はその不可解な力に身をまかせ、言いようのない力で虚無の傷の入ったタバコを1本、布の上に置いていたのだろう。そしてたかが1本だが、10数分前に入れたその傷には、私の強い願いがあった。
タバコを横たわる彼の敷いた布に置いた瞬間、不謹慎かもしれないが、彼を含めてホームレスなど全くどうでもいいことのように感じた。虚無の傷の入ったタバコを置くという儀式が、私の漠然とした絶望感を消し去ったのだ。さきほど飲み干した缶チューハイの酔いがちょど良く高潮に達していたからかもしれないが。とにかく私の気持ちはタバコの置き去りとともに切り替わり、急に幸福になった。そしてその前日に雑誌で読んだ、ある話を思い出した。
ニューヨーク州在住のアンドリュー氏は、上り慣れた険しい山で滑落し、地面にたたきつけられ意識を失った。その間際に彼は臨死体験をすることになる。彼は幻視あるいは異世界に意識を飛ばされ、そこはまるで取調室のような場所だった。そこで"守護天使"と思わしき存在に尋問されつつ「これは起こらなければならないことだ」と言われたそうだ。
5
私はただある種の絶望感とともに酩酊して白昼夢を見ていただけだった。ホームレスは瀕死というほどではなく、灼熱の中で半分睡眠しながら、腕をロボットか両生類のように動かしていただだけだろう。臨死はそこにはなかったが、私が感じていた絶望感とは、西成という町の臨死だった。さきほど述べた不気味で自由なギミックは西成の脳卒中からくる四肢の不具合かもしれない。
きっと"守護天使"は大いなる存在としては現れなくとも、町の空間のあちこちに開いた亀裂から、サギとして、幻視として、ロボットの動きとして、人間の動物化として、現れるのだろう。せっかくなら天国が彼に降り注いだらいいのに。できれば生きたまま。
白昼夢は大概にして私は散歩を続けようと思った。酔いと儀式によって得た幸福に身をまかせ。私はその酔い心地のまま、やはり高架橋という境界を越えた先の、さきほどサギの出現を見た方向へ引き返したくなったので、4歩歩いてから回れ右をして、さきほど不気味に思えた電柱たちのほうへ歩いて行った。
違和感。何かが明らかにおかしい。
「歯抜け」
ふと私の口からその言葉が漏れた。今日3回目だろうか、独り言ちたのは。歯抜け、という概念が頭に過ぎった数秒後に、あきらかに電柱が1本、足りないことに気づいた。それは先ほどサギがあらわれた電柱だったかもしれないし、その隣の電柱かもしれない。電柱の綾取りはその"歯抜け"によって様相を微妙に変えていたので、サギの電柱か特定するのは難しかった。とにかくその電柱は西成に入った"亀裂"なのだろう。不気味な何かが町に侵入してくる予感。
そして電柱の斜め上に目を向けると、さきほどサギが現れたときの背景にあったビルが、ダークグレーから青系のシアン色がかったグレーに変化しているのが見えた。太陽光の下限で、色が明るくなるのはありえるが、青くなることなんてあり得るだろうか。気のせいかなと思いつつ、あたりを見回した。
私はこのエリアを15回以上は散歩していたことがあった。そして商店の類やキャッチコピーなどがもともと好きだったので、あちこちの看板やのぼり旗には目をやって散歩していたものだ。
にもかかわらず、目をやった看板の5回に1回は、全く新しい文字が書かれていたのだ。たとえば「寿商店: 三途」「カーサー・フューチャー」「SoRa ~天の畑~」「コンバット不動産」「街の山荘: アルケミスト」。新しく目撃した看板たちのなかで"フューチャー"とつくアパート以外の4つは、どことなくキャッチコピーとしての違和感があった。
私は彼に出会った。彼は歩いていた。ほんの1~2分前にタバコの儀式をしたときには横たわってタオルで顔を覆っていたホームレス。彼は元気に歩いていた。タオルがない。顔の中央はもちろん識別できないが、顔の輪郭や四肢の構造はまさに彼だったし、服装も変わらない。そして何より不思議なことに、彼は高架橋があったところとは反対側からこちらに向かって歩いている。
私は怖くなり通り過ぎるとき早歩きでやり過ごした。スマホで地図を見た。物理的に1~2分で回り道をして私の前に現れるのは不可能なはずだと認識した。高架橋へ50秒かけて歩く。彼は居なかった。そしてタバコはなかった。
私は焦燥感から残りの2本のタバコを吸おうと思い、ポケットからハイライトのソフトパッケージを取り出した。中には3本のタバコがあった。そのうちの1本は、ピースだった。
焦燥感から本能的に、半ばニコチン依存症のような感覚で、ピースを吸った。天国のような味がした。そしてアンドリュー氏の話をまた思い出した。臨死の彼の幻視に現れた"守護天使"とは一体何者だろうか。未来人が本当は死ぬはずの彼を救ったのではないか? 逆に足を滑らせて臨死にさせたのではないか? そのことによって半ば謝るように「これは起こらなければならないことだ」と言ったのか? そんな疑問がどこからともなく、酩酊が焦燥とタバコで醒めた私に訪れた。
それはともかくとして、私のハイライトのパッケージに入っていたピースは本当に天国のような味だった。未来人が私のちょっとした善行にお返しとしてワープ技術で私にタバコを返したのだろうか。そうだとしたら、ワープでもしないとあり得ない方向から歩いてきたあのホームレスも、ハイライトを天国のように味わったのかもしれない。
とりとめもない虚無と酩酊。そのあとの、わけのわからない超常現象。でもとにかく、彼がいつかもっと元気になっている未来を描いておこう。そうしたら、西成の町の脳卒中も治り、きっと私も幸せになるだろう。