2024年2月9日金曜日

電線

恋に敗れた哀れな女が倦怠の机の上で地図に涙を落としながら、都会の線路に、ミシンを打っている。作業員は釣りでもするかのように呑気に。線路ができる、縫い目には、世間擦れした女の面倒見の良い思いやり、そして長年の知恵を蓄えたお婆さん、そういう人の心情が走る。電車が走ったら、きっと何処かで仕事に失敗した無様な男の辛みも一緒に並行に、電気の流れと、風を着る音とともに、走り続けるのだろう。ある一介の働き者の女神がそれをみて、こころもとなくすすり泣き、その涙の奇跡が新しい線路を、道路をつくり、電信柱になった砂の男がずっと、硬直した眼差しでそれを見て、悪戯好きな妖精が彼を笑う、ピアノの声で。そしてそのリズム、都会の弦が鳴らす喧噪と同調して、神々はその疲れ切った伴奏に合わせ、諦めの歌を歌い、その響きは飼い猫を失った氷漬けの男にだけ切実に響いた。誰にも知られない鉱脈となった涙を流し、役所のなかのたった一人の人格者だけがそれに気づき、自分の由来を知らない無知な電車に乗って、自然に歯向かう排気ガスを吐く車に乗り、猫の亡霊を、散らばった鉄屑と使い古された無意味な言葉を、擦り切れた可哀想な花々で埋葬して。また女たちはミシンで鉄の線路を打っていく。作業員は何も知らない、自分が人間であること以外、何も知らない。そこで炎の画家の亡霊が材料に魔法で草を宿らせ、全ては自然に回帰する。女たちの涙も、老女たちの知恵も、なにも止めることはできない。電線は怒っている。自分の影を無くすことに。そして電信柱となった男に、やくざな悪戯好きな妖精が命を吹き込み、彼は動き出す、線路と共に、道路と共に、車より少し遅い早さで、そして街が動き出す、時間の順序を間違えたやり方で動き出す。電車はトンネルをくぐり、山の霊を通過する、ぼやけた針と糸に絡まれながら。人は線路を走りたくなる衝動に駆られ、電車を、高級車を追い越し、草原へ。その古墳の祭器を探ろうと、た錆びたカッターの鈍さと男の肉欲のような勢いで、掘り返す。そして見つかったのは、神々の諦めの吐息が凝固したレアメタル、樹へのメタモルフォーゼを願う金属。それを使って人は徒労し、挙げ句の果てに作り出した無意味な平和の、鰐のような残虐さ。鰐も走っている、線路と道路の交錯を、そして虚しさが呼んだ女の縫い針を噛みながら。ここには意味はない。妖精と動物と自分を失った女の無感情な動作、そして神々の目的を失った吐息。それに乗って走って行く、まるでヴェネチアの水路とドイツのアウトバーンを目指して、なんの脈絡も無くただひたすら、向かっていくのだろう。電信柱になった男も走る。目的も意図も無く、ただ、貧乏な女神が気まぐれに作った居場所を求めて。そして踏切で、となりの国が人を跳ねた。ミシンでできた線路はそれほどに不正確だった。でもだれも咎められない。それは神々が決めた戯の絶対。金を蓄えた人が死ぬ、それでも"絶対"は死者を見捨てない。臓器を宝石にして、また、酒宴を開き諦めの乾杯をして、続いていく、その鳥さえ標識になる世界には慈悲すらない。上空ではミシンの音は続き、線路作りの作業員は針になって、突き刺す、地球に和音を建てながら、神々の許した罪をまるで呆けたように見過ごして。酔ったように土に埋まる。そして宝石が地中から湧き出る、それも仕事に飽きた妖精の仕業。"絶対"を超えた先には心情も意図も無く、音だけが、貫く糸の振動だけが、電線の電流だけが、解剖台の上の都会を嘲る。それを、千年つづいてもう飽きた祝いで、乾杯する女神たち。慈悲もなく、ただ俗世の喧騒でできた酒を、失恋の涙を、何ともしれずに、漠然と飲んだ。瓶の下には、忌まわし気に回転する魚の影があった。猫は彼女の時計を眺めていた。

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