ショーペンハウアーは、同時代の哲学、具体的にいうとフィヒテ、シェリング、ヘーゲルの哲学に対しては、極めて批判的だったことで有名で、特にヘーゲルの哲学、というかヘーゲル自身に対しては、ほとんどどの著作でも酷評、それも、「真のペテン師」「言葉のがらくた」「精神病院」のような暴言をつかって下ろすような揶揄を、言葉を変えながら徹底的に繰り返している。引用しておくと
「初々しい若い時に、無意味なヘーゲル流の哲学によって、首筋を違えて腐った頭は、……早くからまったく空っぽな言葉のがらくたを、哲学的思想とみなすようになる。」
(『意志と表象としての世界』・第二版への序文)
「さてもし、……あのいわゆるヘーゲルの奴の哲学は、膨大な量のごまかしを述べ、あらゆる知力を麻痺させ、あらゆる真の思考を止めさせ、言語をまったく不法に誤って用いることによって、完全に空虚で、意味を欠き、無思慮な、それゆえその結果が示しているように、まったく人を愚かにする、言葉のがらくたからなる似非哲学であると私が言うとすると、私は全く正しいというべきである。……さらにヘーゲルは、彼以前の誰とも違って、無意味なことを殴り書きしたのであり、そのためあたかも自分が精神病院にいるように感じないで、ヘーゲルが最も賞賛を受けている、例の『精神現象学』を読むことができる人は、精神病院に入院する資格があると私がさらに言うならば、同じように私は正しいというべきであろう。」
(『倫理学の二つの根本問題』)
このようにショーペンハウアーは、かなり感情的になってまでヘーゲルを攻撃している。もちろん多少行き過ぎている感も受けるが、ショーペンハウアーのような本気で自分が正しいと確信する世界観を打ち出そうとする哲学者というのは、世界の本質的な考察に関しては、真剣で、本気で世界の謎を解明しようと試み、その試みから得られたものを、人に述べ伝え、教えたい、そういう強い欲求を持っているのであって、自分が本質的でないと思った学派の哲学が一般に流布してしまうのは、哲学者自身にとっては、個人的に屈辱的であるだけでなく、後代の人が世界の本質に関して多大な誤解を引き継いでしまうという人類の知性に関する大きな懸念を催してしまうのである。自分はそれほどヘーゲルの哲学にはなじんでいなくて他の哲学者の著作から伺えるヘーゲル哲学を一部知っているだけなので、もちろん個人的にヘーゲルを批判したいわけでもショーペンハウアーを擁護したいわけでもないが、とにかく、ショーペンハウアーが、同時代の哲学をこれほどまでにこき下ろしたのは、彼がどれだけ哲学に対して真剣であったかを示すものであると思っている。単に仕事柄から哲学に取り込む、あるいは趣味として哲学をする、のではなく、強い信念を持って宇宙や生命の謎に答えを与えようと真剣に苦悩する、そういう哲学者は、自分が間違っていると判断した学説に対しては、真剣に戦いを挑むのである。
そしてショーペンハウアーは、哲学というのがそうあるべきものだと考えている。引用すると
「……詩人の作品は妨げあうことなく、すべて相並んで共存しうるばかりか、それらのうちでもっとも異質的な作品でさえ、同一の精神によってひとしく享受され鑑賞されることができるのに、これに対して哲学者の体系は、それぞれ生まれ出るやいなや、あたかも即位式当日のアジアのスルタンのように、はやくもそのすべての兄弟達の没落を担っているのである。……詩人たちの作品は子羊たちのように、柔和に相並んで生をたのしんでいるのに、哲学上の著作は生まれつきの猛獣であり、……そして今に至るまで、……すべてが互いに力尽きるまで激戦し合っているのである。……なぜなら、……哲学者の著作は、読者の考えをすっかり覆そうとするのであり、読者がこの種のものに関して今まで学び信じてきた一切のものをみずからの誤謬とし、それに費やしてきた時間と労力を無駄と断じ、そしてはじめから出直すことを求める。……」
(『哲学とその方法について』4)
哲学的な言説というのは、ただ単に哲学としての言説というだけでなく、人の認識に根底から影響を与えるものであって、たとえばショーペンハウアーは「カントの哲学は体質までをも変える」と言っている。だから、間違った哲学に触れるということは、ただその間違った哲学の知識を得るというだけでなく、その人の価値観や価値以前にある認識の土台が間違った泥で侵されるのである。そしてショーペンハウアーが間違った哲学の代表として挙げたのが、前述の通りヘーゲルの哲学である。とにかくショーペンハウアーは、当時ドイツで主流だったヘーゲルに対してひどく好戦的で、大学を含め当時のドイツの学界とは、真っ向から対立している。一言で言うとショーペンハウアーにとって、ヘーゲルの哲学は抽象的すぎて空虚に思えたからである。ショーペンハウアーのヘーゲルの哲学に対する批判は、精神病院、がらくた、というような感情的な言葉を除くとたとえば、抽象的、空虚、曖昧、無意味、不明瞭、といったような言葉で為されることが多い。抽象的な概念だけが大量に構築されて、その概念には何の内実もないということをヘーゲルの哲学に見たのである。それが実際どうなのかは自分には判断できないし他の学者が一般的にどう思っているのかも知らないが、少なくともショーペンハウアーはそのように見抜いた。何の内実もない空虚な擬似概念でしかないものを、構築していって、それを言葉で表現したところで、それは無意味な言葉遊びに過ぎない。ただ哲学という場で遊んでいるだけのことであって、それ以外の場においては何の意味も無い。あるいは、その間違った哲学によって、日常の認識の土台までも侵されることになると、無意味なだけでなく、悪い影響を与えてしまう。無意味な言葉を並べて遊ぶだけでなく、その空虚な遊びが、日常の感覚にまで害を及ぼしてしまうのである。
ショーペンハウアーやニーチェは特に他の哲学者たちの学説の中で二人が誤っていると思う哲学には攻撃的であった。おそらくそのことが、二人をアカデミズムから孤立させた要因の一つになっているであろうと思わる。二人とも主流のアカデミズムと対立したが、それは決して学問的素質が無かったからではなく、ショーペンハウアーは多種の哲学に精通して仏教やバラモン教についても深い造詣を持っていたことで有名であるが、ニーチェも決して学術的方法を知らなかったわけではなく、初期の文献学者としての研究においては古代ギリシャ哲学に関して学問的方法がしっかり取られている。それでもアカデミズムとは相容れなかった二人ともの共通点として、以下のことが挙げられる。
まず、二人とも極めて具体的な観察者・心理学者であり、人に対する洞察に長けていたということである。ショーペンハウアーは幼い頃、商売を営んでいた父親に連れられてヨーロッパ各地を回り、具体的に各地の人々の様子を早熟な精神で観察してきた。そのうえで、ペシミズム的な達観に達したのであって、決して仏典を読んで世の無常を悟ったわけではない。少年であったショーペンハウアーは、酒場でトランプをしている大人たちを見て、無意味で何も創造しない浅はかな大衆の営みを嘆いていたのである。ニーチェも『人間的な、あまりに人間的な』からわかるように、実際の人との交わりにおいての具体的な洞察から色々な類型の人々の思想を読み取っていたのであり、つまり交わる人の脳内をレンズにして世界の思想の諸形態を読み取っていた。ショーペンハウアーによると、「哲学者は書物ではなく世界を読む」べきであった。この二人の人の心理や思想への洞察は鋭く、文章に使われる語彙や文体からも明らかなように、書物というものが副次的な物でしかないと言えるほど、現実の人や物事への洞察に基づいた哲学的考察が見られるのである。彼らにとって、ドイツ観念論の流れを汲む哲学において使われる用語というのは、本来哲学が対象とすべき「世界」ではなく、「哲学的言説」を対象としているように感じられた。既に書物において抽象化された言説からさらに思弁を抽象的に弄して作られていったもの、現実世界からだんだんと離れていったものになり、本来哲学が扱うべきものを述べていないということを、彼らは直観し、哲学におけるアカデミズムに対して批判的になっていったのである。
次に、共通点として際立った個性、あるいは彼らの仕事が哲学史に大きな足跡を残したことを考えるなら、類まれな天性が挙げられる。ショーペンハウアーが哲学において革命的であったところは、人間は思惟する主観だというデカルトの後を告ぐ以前の哲学者たちとは異なり、人間とは身体化された意志であると言うように、前人間的な意志を措定したことである。この「意志」は主観や身体性より根本に存在し、それ以前の段階にある、見ることや言語化もできなければ鮮明には認識できない宇宙論的な意志である。ショーペンハウアーはこの意志こそ物自体であると説いたが、これにはカントの厳密な定義から言うと、物自体に性質を与えているという点で矛盾は見られる。しかしショーペンハウアーが天性として授かった直観で見た宇宙観を説明するには、物自体に意志するという性質を与えざるを得なかった。ショーペンハウアーにとっては、ほぼ全ての人が人が発生させるものと思っていた「意志」が、認識不可能で前人間的な宇宙全体の意志であったのである。引用しておくと、
「私に先行するすべての哲学者たちは、最初の哲学者から最近の哲学者にいたるまで、人間の本来的で真の内的本性あるいは核心を、認識する意識に置いてきた。したがって彼らは、自我を、あるいは多くの者にあっては魂と呼ばれたこの超越的な基体を、第一次的にそして本質的に認識するものとして、実のところ思考するものとして把握し、説明してきた。その結果として、彼らはそれを、第二次的・派生的に意志(意欲)するものとして把握し、説明してきたのである。この非常に古くからの、根本的誤り……が何よりもまず取り除かれるべきである。」
(『意志と表象としての世界』18)
ニーチェも、「力への意志」という用語において、意志の前人間性を説いている。ニーチェにとって意志する「主体」というのは、「力への意志」の解釈作用相互の結果として生まれた虚像、少なくとも解釈結果生まれた概念の複合に過ぎなかった。二人とも、認識主観以前の意志作用を直観したという点で、際立った特性を持っていたと言える。そのような極めて特徴的な直観を持った哲学者は、哲学学者ともいうべき先人の哲学を学ぶ学者たちのように書物から学ぶのではなく、自分の直観が見た人間世界や宇宙を説明するために、ただ先人の哲学的言説を利用するか評価するだけなのである。
他に共通点を上げるなら、最初のほうに述べたように、哲学によって人間の認識体系あるいは人間世界を変えないといけないという使命感を持っていたことだろうと思われる。ショーペンハウアーは人間界を憂いてペシミズムに陥り、宇宙は盲目的な意志に過ぎないと達観し、その宇宙的意志の中における人間の営みなど水泡のようなものでしかないというような諦観を持っていた。だから哲学全般や人間の認識体系においての誤謬を諭して人間の全般的な認識の形態を変えていこうという意欲はあったであろうが、恐らく人間世界を変えようという意志はなかったように思わっる。ニーチェにおいては哲学界を変えたいというだけでなく、人間一般の認識の土台を覆したい、新しい価値を創造する人を生産したい、そのことによって理想の世界を創りたいという、革命的意志があったように思われる。それに比べたらショーペンハウアーは消極的ではあるが、それでも哲学者として哲学における誤謬を訂正し、正しい認識や思考の方法を流通させたいという意図はあっただろう。その結果、ヘーゲル学派に対して極めて攻撃的になっている。
まとめると、ショーペンハウアーが他学派に対して攻撃的であったのは、書物を読むことより実際の人間や世界の諸事象への洞察を重要視していたこと、際立った天性による直観があったこと、正しい哲学や認識・思考の方法があるべきでありそれを示さなければならないという使命感があったこと、が挙げられる。
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