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2026年7月18日土曜日

『ノルウェイの森』における男性の生命

『ノルウェイの森』といえば、

直子の孤独と深淵が語られることが多いものですが、

この小エッセイではこの作品においての男性について少し考察を施します。


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※以下、ネタバレが含まれます

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キズキの自殺は主人公はもちろん、直子の人生どころか命を基盤から構成していったのは言うまでもない。ここではまず、同作における究極の問いである直子はいったん脇におき、キズキの人格が主人公である渡辺に与えた影響と、キズキに比較したときの永沢、といった同作の男性的側面を考えてみたい。


キズキ、そして直子と渡辺の三角関係は、決して恋敵として一人の女性を取り合うような典型的な関係性にはあらず、極めてイノセントな幼馴染のお茶会といった場で形成されてきた無垢の現象学にあった。キズキは2人にとってはエンターテイナーであり、その小さなコミュニティの外で頭角を現す活発な人物ではなかったものの、2人を楽しませ、穢れのない絆を3人に定着させると同時に3人を心理的に隔絶された檻に閉じ込めてしまった。そこには外的社会性のノイズが入る余地がなく、幼馴染のイノセンスだけがあった。しかし第二次性徴期が始まるとともにキズキと直子は恋仲になり、渡辺は複雑な心象を抱えることになる。それでもキズキの天性はそこで典型的な少女漫画のような三角関係を本能的に排除し、3人はイノセントな幼馴染であり続けた。


そのキズキがなぜ、ガス吸引自殺を起こしてしまったのかは、作中では一切謎のままとされているが、おそらく作者も意図していない次元でキズキは人格として生きていて、彼は外界と3人の小さな世界のあまりにも惨たらしい聖俗の差異を感じていたのであろう。葛藤を抱えていたというよりは、キズキの死亡年齢を考えると本能的な怯えと恐怖といったものでキズキの命が本人の無自覚のうちに錯乱してしまっていたのだろう。


キズキは小さなコメディアンであり、2人を喜ばせた。直子とまるで幼児のように無邪気な恋愛関係になりつつ、渡辺を含めた3人に大きな矛盾を全く意識させない、社会的な気づかいと本能的な支える心を以っての司会者であった。3人は完全な世界で充足していた。二つの矛盾、すなわち外的社会から隔たれた3人の世界という事態と、潜在的に恋愛的三角関係にあるという事態が、おそらくキズキにおける急な錯乱としての自殺を齎したのだろう。とにかく、キズキはそういう人物だった。


その健気な命に比べたときの永沢の生は、男性的ヴァイタリティの化身といったほど対照的。東大入試をゲームのようにクリアし、大学生活でゲームのように女を抱き、暇のある間は外国語を英語以外にも習得し、国を動かしたいわけでもないのに人生を男性原理で最大化する一つの案として、上級の官僚試験を受けてクリアし、外務官となる。渡辺は物事に圧倒されるタイプの性格ではない、多少ニヒリスティックな人物であるが、それでもこの永沢に圧倒はされただろう。そしてそれと同時に、永沢に惹かれるだけでなく、その性質を模倣したくなるといったような追従の力学が働いていた。重要なのは、渡辺が経験した永沢がキズキと比較して村と国のように違っていたということ。


渡辺はキズキに無意識に感情移入し永沢に部分的に同化しつつも、基本的に孤独な性格で全く彼らを愛によって取り込んでしまうといったタイプではない。それでもやはり、あのニヒリスティックな渡辺の透明のなかにおいて二人は男性の全く別の命の形態として強い鮮明で通過していっただろう。男性的側面だけに目をやっても、メタ的にいうと、渡辺には生ける純文学が貫通し、男性の鮮烈な生命が漂いつづけていたのだろうと思われる。

2023年10月5日木曜日

ドストエフスキーのポリフォニーを可能にしたもの

 ドストエフスキーの小説においては、登場人物の言動も作中の物事も非常にダイナミックに動乱しているが、そのダイナミズムを可能にした創作の手法は、ミハイル・バフチンの言うように「ポリフォニー」にある。ポリフォニーは「多声音楽」を意味する音楽用語であるが、ドストエフスキーの小説の登場人物が非常によく喋り、ときには2~3ページにわたる長広舌をまくしたて、それが2人の対話においてだけではなく多人数が居合わせる場面でも為されることから、複数人の「声」の織り成す作品と特徴づけることは可能であり、「ポリフォニー」という用語をドストエフスキーの小説の際立った特徴に割り当てたのは、極めて正確な表現であると思われる。


ポリフォニーに対立する音楽用語は「モノフォニー」である。19世紀前後の西洋主知主義はモノフォニーによる思想の発言が顕著に見られる。宗教的にいうとキリスト教という一神論の影響下にあり、政治的にも絶対主義が蔓延ることの多かった西洋において、その知性は、唯一性が目指された。バフチンの言葉を引用するなら「単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパ合理主義が、近代におけるモノローグ原理を強化し、これが思想活動のあらゆる領域に浸透した。」(『ドストエフスキーの詩学』) 思想家の著作であれ文豪の作品であれ、そのモノローグ原理の影響は強く、形式的にも内容的にも著作家はその原理に無意識に規定されてきた。思想家は自分の唯一の思想を構築しその思想を単一の作者としての主体で緻密に述べる。作家は自分の表現したい思想や世界を一つ設定し、それを表現するために部品として登場人物や出来事を並べていく。


このモノフォニー性を覆したのがドストエフスキーのポリフォニーであった。おそらく作家自身が多数の声を自身に内蔵していたのであろう。ドストエフスキーはキリスト教への信と不信を同時に抱えていたし、世を生きる人間としてもキリスト教精神に基づいた極めて高い倫理と、賭博にみられるような不道徳を同時に所有していた。おそらく矛盾を抱えてしまうほど物事に影響をうけやすく、ある真理や思想に熱く傾倒しやすい、非常に多感な精神を持っていたのだろう。また、矛盾を抱えるだけでなく、おそらく他者の人格や思想に対しての、強い感受性、受け入れる度量、簡単に疎外しない寛容さ、他者の心理を体験できる感情移入の能力なども持っていたのだろう。とにかくドストエフスキーの生活や作品や人格を辿れば、きりがないほど多種多様な要素が犇めき合っている。


このドストエフスキーという人物の精神は、西洋主知主義・近代合理主義の世界に簡単に相容れるものではなく、その枠に収まらずにむしろ文学の形式に革命的なモデルを提供したものであった。バフチンは「カーニバル小説」とドストエフスキーの小説を呼称している。形式として固定性が強く、一義的に一つの論理が順次展開していく思考方法、一つの道徳によって人の生活が規定される生活様式、などに特徴づけられるところの近代西洋的なモデルを、キリスト者的生活・近代的社会生活とするなら、その外的な拘束力をもつ枠組みを一時的にでも打ち破り人が解放的に欲動を現実化させる「祭り」のように、カーニバル文学としてドストエフスキーの小説は展開している。つまり登場人物の個々人が、社会的拘束や作品の設定による拘束を打破する個の強さを持ち、それぞれが己を強く主張して、ぶつかり合いながら自立駆動しているのである。