2026年7月18日土曜日

『ノルウェイの森』における男性の生命

『ノルウェイの森』といえば、

直子の孤独と深淵が語られることが多いものですが、

この小エッセイではこの作品においての男性について少し考察を施します。


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※以下、ネタバレが含まれます

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キズキの自殺は主人公はもちろん、直子の人生どころか命を基盤から構成していったのは言うまでもない。ここではまず、同作における究極の問いである直子はいったん脇におき、キズキの人格が主人公である渡辺に与えた影響と、キズキに比較したときの永沢、といった同作の男性的側面を考えてみたい。


キズキ、そして直子と渡辺の三角関係は、決して恋敵として一人の女性を取り合うような典型的な関係性にはあらず、極めてイノセントな幼馴染のお茶会といった場で形成されてきた無垢の現象学にあった。キズキは2人にとってはエンターテイナーであり、その小さなコミュニティの外で頭角を現す活発な人物ではなかったものの、2人を楽しませ、穢れのない絆を3人に定着させると同時に3人を心理的に隔絶された檻に閉じ込めてしまった。そこには外的社会性のノイズが入る余地がなく、幼馴染のイノセンスだけがあった。しかし第二次性徴期が始まるとともにキズキと直子は恋仲になり、渡辺は複雑な心象を抱えることになる。それでもキズキの天性はそこで典型的な少女漫画のような三角関係を本能的に排除し、3人はイノセントな幼馴染であり続けた。


そのキズキがなぜ、ガス吸引自殺を起こしてしまったのかは、作中では一切謎のままとされているが、おそらく作者も意図していない次元でキズキは人格として生きていて、彼は外界と3人の小さな世界のあまりにも惨たらしい聖俗の差異を感じていたのであろう。葛藤を抱えていたというよりは、キズキの死亡年齢を考えると本能的な怯えと恐怖といったものでキズキの命が本人の無自覚のうちに錯乱してしまっていたのだろう。


キズキは小さなコメディアンであり、2人を喜ばせた。直子とまるで幼児のように無邪気な恋愛関係になりつつ、渡辺を含めた3人に大きな矛盾を全く意識させない、社会的な気づかいと本能的な支える心を以っての司会者であった。3人は完全な世界で充足していた。二つの矛盾、すなわち外的社会から隔たれた3人の世界という事態と、潜在的に恋愛的三角関係にあるという事態が、おそらくキズキにおける急な錯乱としての自殺を齎したのだろう。とにかく、キズキはそういう人物だった。


その健気な命に比べたときの永沢の生は、男性的ヴァイタリティの化身といったほど対照的。東大入試をゲームのようにクリアし、大学生活でゲームのように女を抱き、暇のある間は外国語を英語以外にも習得し、国を動かしたいわけでもないのに人生を男性原理で最大化する一つの案として、上級の官僚試験を受けてクリアし、外務官となる。渡辺は物事に圧倒されるタイプの性格ではない、多少ニヒリスティックな人物であるが、それでもこの永沢に圧倒はされただろう。そしてそれと同時に、永沢に惹かれるだけでなく、その性質を模倣したくなるといったような追従の力学が働いていた。重要なのは、渡辺が経験した永沢がキズキと比較して村と国のように違っていたということ。


渡辺はキズキに無意識に感情移入し永沢に部分的に同化しつつも、基本的に孤独な性格で全く彼らを愛によって取り込んでしまうといったタイプではない。それでもやはり、あのニヒリスティックな渡辺の透明のなかにおいて二人は男性の全く別の命の形態として強い鮮明で通過していっただろう。男性的側面だけに目をやっても、メタ的にいうと、渡辺には生ける純文学が貫通し、男性の鮮烈な生命が漂いつづけていたのだろうと思われる。

2026年7月15日水曜日

事実としての承認について - 承認欲求の或る種の問題を超えて -

 事実としての承認について - 承認欲求の或る種の問題を超えて -


主にSNSのカテゴリーにおいての"承認欲求"。そのタームは頻繁に使用され、少なくとも日本においては河合隼雄のいう"文化的無意識"においてスタンドアローン・コンプレックスと化し、外枠における諸々の社会的・心理的作用から自律的に駆動するとともにそれら作用を無視して動く発現形態を有してしまっているのではないか。4文字単位でみるとそれまでほとんど存在しなかった熟語でありながら、急にその存在度を高めて濫用されていることを考えると、一種のジャーゴンとさえ見做し得るものである。


なぜこれほどまでに"承認欲求"というのが、語の使用頻度のレベルにおいても、実際に心理作用として起こる絶対量のレベルにおいても、幅を利かせ横行してしまっているのか。そこには、しっかりと語の元来の意味を考えたときに見える、"承認"の不可解な誤用および、主に日本人に存在する心理的な甘えの曖昧さ、そういったものの構造が出現し得るのではないだろうか。


"承認欲求"というのは現在の語法からいうとその意味するところは「他者から認められたいという欲求」といったものであるが、元来、"承認"の語法における使用頻度の多い意味するところは、「外的事実に裏づけられた認可」であり、辞書的にいうと「それが正当または事実であると認めること」である。もちろん"承認欲求"という言葉が生まれたのは、2字熟語+2字熟語の4文字の熟語として語感が良く、言いやすいし書きやすいから、といったものがあるだろう。つまり、「(事実性より)心理性のレベルで認める」というニュアンスを、語の上記の便宜上の都合や必要性から"承認"を意図的に誤用して生まれた単語である可能性は高い。


しかしながら、この"承認"の元来の意味に立ち返ったときのほうが事実関係においても心理現象においても見えてくるものが多いということが起こるだろう。承認と言う言葉がもつ事実性に立ち返るなら、たとえば、「JAPAN MENSA の会員という事実」こそが MENSA に与えらたIQの高さの承認であり、一定の社会的事実関係における知性の高さの認可であるのだが、それを主に日本人は心理的に次元を取り違えて延長し「MENSA 会員であるから他の人々から尊敬を集めて認めてもらえる」という風に無意識的な心理的拡張を起こしている傾向が高いのである。これは無自覚的な虚栄と言え、主にSNSなどで見られる JAPAN MENSA 会員が嫉まれる場合があることの原因となっている。


ある主体が「外的事実にとして認可されたい」=Aと思うのと「他者から心理的に認められたい」=Bと思うのは本質的には全く異なる。「外的な認可の後に心理的に実際に人に認められる」=Cというのはもちろん頻度の多い事実ではあるが、A、B、Cの関係を厳密にいうと、Aの"あとに"BがあってはじめてCがあるのであって、AとCあるいはBとCは従属関係に配置できるレベルにはないということは、私は論理学に疎いのだがおそらく言えていることだろうと思う。つまり、繰り返しになるが、日本人における"承認欲求"のカテゴリーでは無自覚的に論理的ではない心理的拡張が、「(元来の意味での)承認する」という現象において起こっているのである。


あくまで"承認"という言葉の意図的な誤用から生まれた言葉であってそれは便宜の問題なのではあろうが、一旦、厳密な語の成り立ちは括弧に入れて、語源や論理のレベルから心理的現象のレベルに落としてみると、そこには日本人特有の文化的無意識における「甘え」の構造が見えてくるのではないだろうか。和を好み、協調性を大事にし、人との相互作用を主体よりも集合レベルで重要視するといった日本人の意識や無意識の構造は、外国と比べても非常に良い傾向だと思える。一方で、それが行き過ぎると、「他人に(心理的に)認められないと自分の存在意義が薄れる」といった非西洋的で非合理的な心理的誤謬に陥る危険性も孕んでいる。それだけでなく、「(たかだか他人に)認められただけで十分だという甘え」という現象も発生してしまうのではなかろうか。(私は日本と西洋のどちらの心理的態度が傾向的に優れているかといったことを言おうとしているのではなく、日本人の協調主義も西洋人の個人主義もどちらも良い面と悪い結果に繋がり得る面があると思っているということは、一応断っておく。この文章では"承認欲求"の問題を論じるので、その言葉が爆発的に流行った日本における心理的問題を取り上げているだけであるのは理解いただきたい。)


「(たかだか他人に)認められただけで十分だという甘え」には創造性や発展性を欠如させてしまうという問題がある。その他人は当然のことながら神のような絶対者ではいし、公的機関でない場合もほとんどである。その他人が一体、何を知っていて、何を価値基準にしているか、というのは一般的に曖昧であるので、(主に心理的に)認められたところで、それが(資格などの)外的証明にならないだけでなく、数人であったり一定人数の文化クラスタであったりに優遇されたり尊敬されたりのレベルに留まってしまうのである。もしその数人のグループや文化クラスタが仮にも誤った価値観や世界観を共有してしまっていたら、認められたところの特性が全くの虚妄だったということもあり得てしまう。それを認知したうえで、その優遇や尊敬を集めるといったことを正当化するのであれば、少しは社会的に有利になったところで、人類の大きな流れからみると全く無意味になってしまうところの心理的自己満足に陥ってしまうのである。


一方、「外的事実としての認可」の実態を述べるのであれば、その外的事実がより公正でありより高度である機関からの認定といったものであればあるほど、認められたところの価値は、心理的レベルを抜きにして、絶対的判定に近いものに評価されたことになる。さきほどのC=「外的な認可の後に心理的に実際に人に認められる」への方向の有無にかかわらず、その評価された価値は、数人のグループや文化クラスタといったアテンションエコノミーなどに左右される移ろいゆく曖昧な集団性とは別次元の枠で、価値を持ち続けることになるだろう。


もう一つ重要なのが、外的事実としての認可を与える機関が社会的あるいは人類的に大きな公正を持つ存在であった場合、その承認は"創造性"や"発展性"に寄与するということである。つまり、承認されることが創造性を加速させる。限定的かつ変遷的な文化クラスタから心理的に認められただけというさきほどの虚妄性や閉鎖性から離脱しているため、そして承認する機関が大きな射程でものを見ているため、本質的に普遍の有意義さを承認によって得られるだけでなく、創造性の発展がほとんど何物にも阻害されない、という事実がいえると思われる。狭いカテゴリーの人たちから認められるということは、そのカテゴリーが移ろいゆくしかも曖昧なものであれば、そしてその心理的承認に甘えてそこに安住し人類的な意義を考えないのであれば、創造性はそこで発展を停止させてしまうだろう。人間は人間である限り、創造的であるべきだ。心理的で移ろいゆく見えない檻の中の安住は、泡沫でしかなく、土から剥離された草木である。水を与える機関が、最初から人類規模のものである必要はもちろんなく階層的であってよかろうが、とにかく何事かを承認するということは事実評価において公正でありなるべく普遍的絶対性をもつものであるべきである。

2026年7月14日火曜日

タバコの中の天国

タバコの中の天国


 ― 梅雨明けに私は世界の境界を跨いだのかもしれない ―


1


 自転車が突っ込んでくる。お互い斜めによけた。

「すんません」

 と、自転車の主。

「こちらこそ」

 私は会釈をしたが、それを彼はせわしない視界の片隅で捉えていただろう。


 西成の低所得者層の人たちは、まるで自転車の車輪や節を自分の手足にしているかのように、歩行とソーシャルディスタンスが変わらないかのように、元無法地帯だった故のある種の自由を自転車においても享受していた。それはもちろん、生身の肉体のみに限った話においてもだ。梅雨が明けたばかりの夏、36度の湿った空気に漂うのは排気ガスだけでなく路上タバコの煙。

 残り少なくなったタバコ、ハイライトがポケットに入っている。元来は酒豪だった私は、なけなしのお金を握ってコンビニで缶チューハイを買ったのだが、その大気がもたらすどんよりとした熱と圧で、たかだかその1本のお酒である種の酩酊の中に居た。コンビニから40メートル離れた歩道を、歩く。自転車は相変わらず歩道にまで例の自由を利かせて乗り込んでは、斜めに、ジグザグに、ふらふらと、数台が駆け抜ける。蜃気楼みたいな酩酊で白昼夢まで見えかけていた私は、自転車を本能的に避けるなか、ハイライトの箱を落としてしまった。


 いつもはピースを吸っていた。ハイライトを持っていたのは、ピース特有の甘い香りの強さを楽しむためではなく、ヨモギを連想させる植物みたいな味を楽しみたいといったふとした昨日の衝動からだった。それは湿った熱気と西成の雑然がさせたちょっとニヒリスティックな遊び心だったかもしれない。

 地面に落ちた微かな衝撃で、一本だけタバコが2センチ飛び出た。私は拾う時、なんとなく爪でその一本に傷を入れた。たかだか0.5ミリの傷だったかもしれないけど、そこには爪垢ではなく西成へと淪落した私の舌打ちめいたものがあったような気もする。傷口から未来が入ってきて欲しかったし、煙には新しい世界が広がって欲しかった。


 西成には阪堺線の路面電車がその道を猥雑な町に貫通させ、南海電車は高架の上を音を立てて走っている。その高架の下のひとつ、通り抜けられる道の脇、コンクリートの天面に守られ、ホームレスが敷いた布の上に横たわっていた。きっと高架は道を通すだけではない。酩酊した私にとっては。向こうにはきっと西成よりはマシな街並みであるようなパラレルワールドが広がるんだろう、そんな白昼夢。

 その境界を跨ごうとするときに、まるで現世を忘れるなという印であるかのように、そのホームレスは横たわって顔をタオルで覆いつつ肘から先を壊れたロボットのように動かしていたのだ。私には憐憫が到来した。


 私はこの土地の人々を観察することはよくあった。彼らは独特の社会的生態系を持っていて、偶然というわけでもなくあたりまえのように数日前や数週間前に飲み屋で会話していた人が再会し、「よぉ、久しぶり」と話し始める。挙動は失礼ながら、不審すれすれ、人によっては不気味の谷だ。芦屋と比べたらサファリパークだ。失敬。

 私は決して彼らを見下ろしているわけではなく、人の世においてとても興味深い対象として、社会制度から落下した先の過酷な生活を生きる人として、尊重して観ている。しかし、その究極系であるホームレスに対してはそれほど関心がなかった。世の絶望を感じることに対しての本能的な警戒が働いて、フィルタリングしていたのだろう。だが、その高架の下の道に横たわる先ほどのホームレスには、本能的というより何か必然的な興味を示してしまった。あるいは灼熱と飢餓で死に瀕した人間を感覚した本能だったのかもしれないが、たしかにそこには不可解なる Synchronicity があった気がする。私がシャツの中に隠しているネックレスについているのは、壊れたロボットの人形であった。



2


 その酩酊と熱気の中で目にとまった必然から、私は高架下の道を通り抜けるとき、そのほぼ仰向けで横たわるホームレスの前で歩みを緩めた。横目で数秒、観察。どうやら死にかけているわけではなさそうだ。ただ、限界に近い肉体の動きをしていた。遠くからみたら壊れたロボットの腕のような動きだったが、そのときは水を長い間与えられていない両生類の瀕死のようなものを感じた。人間の機能は失っていなかったが、彼は両生類としては息絶えかかっていたのだと思う。比喩的に。私は「大丈夫ですか?」と言う変わりに、遅い歩みで通り過ぎるかたわら、

「お酒を飲んでいて御免なさい」

 と、誰にも聞こえない程度の声量で口走った。そして見ぬふりというわけではないが少しの慈しみの眼差しを向けつつも、やはり通り過ぎて行った。次の口を缶チューハイにつけるか戸惑いながら。


 躊躇の結果、私はそのホームレスを振り返っても目に入らない程度に歩きを進めてから、残りのお酒を飲みほした。空き缶用のダストボックスはなかったので、手にもったままにした。警察にさえ半ば黙認されている元無法地帯のルールである路上タバコの灰皿として。残りのタバコは3本。どこでどのように吸おうか、3本で喫煙所巡りをしようか、それとも帰宅して最後の一本をこの散歩の回想にあてようか。取るに足らぬように思えることを思案していた。しかし、それは決してどうでもいいことではなかったことが、後に判明したのだった。




 ― 彼の天国の代わりに私が見たリアル ―



3


 少しだけ曇り気味。高架橋の先、約45歩、タバコはポケットに仕舞った。その時、前を向くと、歩道に並ぶ一直線の電柱たちが不気味なぐらいお互い接近しつつ重なって見えた。そして白昼夢の中、さきほどのホームレスの壊れたロボットのような腕、息絶えかけた両生類の腕が、幻視として電線を掴もうとしているのが見えた。最近の疲れと、熱気と、酩酊が見せた、ちょっとした幻だろう。そうとしか思っていなかったが、その幻視の腕が電線を掴んだ瞬間、サギがその虚空から急に現れたのだった。サギは大阪市には一定数、生息している。とくに川や用水路ではそこそこの頻度で見かける。

 しかし西成のその地帯には用水路も川もなかった。それに電柱の向こうはダークグレーの建物、電柱はグレー、電線は黒の中、白い鳥が急に現れたのは錯視か何かだとは思えなかったし、そのサギは私の上、約3メートルをそのまま通過していったので幻視でもない。私の視力は0.6ほどは保たれている。サギは先ほどの高架橋の上の線路内に着地したようだった。


 私に急に憐みの気持ちが沸き起こった。何に対する憐みかさえ、ロボットのような腕の幻視とサギの出現によってわからなくなっていたが、その腕が先ほどのホームレスのものに由来することに今更のように思い当たった。彼は死にかけてはないと見られたし、警察官が頻繁に巡回しているので長い目で見ても亡くなることはないだろう。しかし昔は日本のスラムであった西成の道端で、彼にはこの世のあらゆる絶望の外枠が檻となって降ってきて彼を地面に接地したのかもしれない。



4


 私は引き返した。彼を助けたいという善意はなかった。私は私で彼は彼。違う人生があって、彼も空き缶集めなどで彼なりの立身をしているのだろう、そして死に瀕しているわけではなさそうだ。でも、私の良心、あるいは何らかの命のメカニズムが、

「彼には天国が来るべきだ。できれば生きたままで」

 と、私の心臓から喉にかけて囁くようだった。私はそれを口に出した。いつのまにか空き缶は手元になかった。幻視と超常現象に心を奪われていて落としてしまったのだろう。左のポケットに財布、右のポケットにタバコとライターだけがある手ぶらで、私はそのホームレスのいた高架橋へ白昼夢の中、ふらふらした早歩きで向かった。


 あと10歩ぐらいというところで、南海電車が高架の線路を通過した。思ったより短い時間だった。さきほどのサギは見当たらなくなっていたが、カラスが数匹、列車の通過とともに羽ばたくのが見えた。太陽が少しだけ雲間から光を覗かせていた。


 彼の腕はさきほどとは違い、敷かれた布の上に横たわっていた。力なく。顔に掛けられたタオルはそのままだった。それが濡れタオルで体温を下げるためだったのか、ホームレスとしてでも自尊心から衰弱した顔を見られたくなかったのか。それはわからない。もともと再度彼を訪れた私に、「大丈夫ですか?」と言い放つつもりはなかったが、なおさらのこと、そのタオルが私と彼の個人の境界線を強くしていた。私は通り過ぎるような形で、しかし彼の布に接近しつつ、歩みを進めた。


 3本入っていたタバコの箱から1本、手でつまんで引き抜いた。傷があった。ホームレスが灼熱のもと横たわっているという現実をまだ直視したことがなかった、10分ほど前にニヒリスティックな気持ちで爪で刻んだ傷。未来が侵入してきて新たな世界が煙とともに出てきて欲しいと、ふと頭に浮かんだ傷。私の脳裏には、言いようのない力で、なけなしの100円玉を彼の布に置くより、このタバコを置いていったほうが彼にとっていいだろう、という思いが微かに一瞬だけ走った。ライターは持っているだろう。私はサンダルのベルトを確認する体裁で、傷の入ったタバコを布の上に置いた。


 あるいは、それは私がたとえば彼に「大丈夫ですか?」と言って起し、300円なりパンとコーヒーなりを渡して一時的に彼を助けることができないという、私の臆病さからさせた行為なのかもしれなかった。しかし、この西成は何かが異常だ。脱スラム化が進んだ今でもホームレスが当たり前に炎天下で横たわっていること自体、日本では異常なことではあるが、それだけでなく、人が人の普通の生活形態からまるっきり脱皮して、自由人のようなそれでいて動物のような生態系のなか、何らかの秩序が町ごと崩壊していている。

 亀裂からは不可思議な力が乱入してきて、それがさきほどのサギとなって表れたのかもしれない。お化け屋敷のようなワンダーランドのような、不気味で自由なギミックが人の生活荒廃とともに駆動している。私はその不可解な力に身をまかせ、言いようのない力で虚無の傷の入ったタバコを1本、布の上に置いていたのだろう。そしてたかが1本だが、10数分前に入れたその傷には、私の強い願いがあった。


 タバコを横たわる彼の敷いた布に置いた瞬間、不謹慎かもしれないが、彼を含めてホームレスなど全くどうでもいいことのように感じた。虚無の傷の入ったタバコを置くという儀式が、私の漠然とした絶望感を消し去ったのだ。さきほど飲み干した缶チューハイの酔いがちょど良く高潮に達していたからかもしれないが。とにかく私の気持ちはタバコの置き去りとともに切り替わり、急に幸福になった。そしてその前日に雑誌で読んだ、ある話を思い出した。


 ニューヨーク州在住のアンドリュー氏は、上り慣れた険しい山で滑落し、地面にたたきつけられ意識を失った。その間際に彼は臨死体験をすることになる。彼は幻視あるいは異世界に意識を飛ばされ、そこはまるで取調室のような場所だった。そこで"守護天使"と思わしき存在に尋問されつつ「これは起こらなければならないことだ」と言われたそうだ。



5


 私はただある種の絶望感とともに酩酊して白昼夢を見ていただけだった。ホームレスは瀕死というほどではなく、灼熱の中で半分睡眠しながら、腕をロボットか両生類のように動かしていただだけだろう。臨死はそこにはなかったが、私が感じていた絶望感とは、西成という町の臨死だった。さきほど述べた不気味で自由なギミックは西成の脳卒中からくる四肢の不具合かもしれない。

 きっと"守護天使"は大いなる存在としては現れなくとも、町の空間のあちこちに開いた亀裂から、サギとして、幻視として、ロボットの動きとして、人間の動物化として、現れるのだろう。せっかくなら天国が彼に降り注いだらいいのに。できれば生きたまま。


 白昼夢は大概にして私は散歩を続けようと思った。酔いと儀式によって得た幸福に身をまかせ。私はその酔い心地のまま、やはり高架橋という境界を越えた先の、さきほどサギの出現を見た方向へ引き返したくなったので、4歩歩いてから回れ右をして、さきほど不気味に思えた電柱たちのほうへ歩いて行った。


 違和感。何かが明らかにおかしい。

「歯抜け」

 ふと私の口からその言葉が漏れた。今日3回目だろうか、独り言ちたのは。歯抜け、という概念が頭に過ぎった数秒後に、あきらかに電柱が1本、足りないことに気づいた。それは先ほどサギがあらわれた電柱だったかもしれないし、その隣の電柱かもしれない。電柱の綾取りはその"歯抜け"によって様相を微妙に変えていたので、サギの電柱か特定するのは難しかった。とにかくその電柱は西成に入った"亀裂"なのだろう。不気味な何かが町に侵入してくる予感。

 そして電柱の斜め上に目を向けると、さきほどサギが現れたときの背景にあったビルが、ダークグレーから青系のシアン色がかったグレーに変化しているのが見えた。太陽光の下限で、色が明るくなるのはありえるが、青くなることなんてあり得るだろうか。気のせいかなと思いつつ、あたりを見回した。

 私はこのエリアを15回以上は散歩していたことがあった。そして商店の類やキャッチコピーなどがもともと好きだったので、あちこちの看板やのぼり旗には目をやって散歩していたものだ。

 にもかかわらず、目をやった看板の5回に1回は、全く新しい文字が書かれていたのだ。たとえば「寿商店: 三途」「カーサー・フューチャー」「SoRa ~天の畑~」「コンバット不動産」「街の山荘: アルケミスト」。新しく目撃した看板たちのなかで"フューチャー"とつくアパート以外の4つは、どことなくキャッチコピーとしての違和感があった。


 私は彼に出会った。彼は歩いていた。ほんの1~2分前にタバコの儀式をしたときには横たわってタオルで顔を覆っていたホームレス。彼は元気に歩いていた。タオルがない。顔の中央はもちろん識別できないが、顔の輪郭や四肢の構造はまさに彼だったし、服装も変わらない。そして何より不思議なことに、彼は高架橋があったところとは反対側からこちらに向かって歩いている。

 私は怖くなり通り過ぎるとき早歩きでやり過ごした。スマホで地図を見た。物理的に1~2分で回り道をして私の前に現れるのは不可能なはずだと認識した。高架橋へ50秒かけて歩く。彼は居なかった。そしてタバコはなかった。


 私は焦燥感から残りの2本のタバコを吸おうと思い、ポケットからハイライトのソフトパッケージを取り出した。中には3本のタバコがあった。そのうちの1本は、ピースだった。


 焦燥感から本能的に、半ばニコチン依存症のような感覚で、ピースを吸った。天国のような味がした。そしてアンドリュー氏の話をまた思い出した。臨死の彼の幻視に現れた"守護天使"とは一体何者だろうか。未来人が本当は死ぬはずの彼を救ったのではないか? 逆に足を滑らせて臨死にさせたのではないか? そのことによって半ば謝るように「これは起こらなければならないことだ」と言ったのか? そんな疑問がどこからともなく、酩酊が焦燥とタバコで醒めた私に訪れた。

 それはともかくとして、私のハイライトのパッケージに入っていたピースは本当に天国のような味だった。未来人が私のちょっとした善行にお返しとしてワープ技術で私にタバコを返したのだろうか。そうだとしたら、ワープでもしないとあり得ない方向から歩いてきたあのホームレスも、ハイライトを天国のように味わったのかもしれない。


 とりとめもない虚無と酩酊。そのあとの、わけのわからない超常現象。でもとにかく、彼がいつかもっと元気になっている未来を描いておこう。そうしたら、西成の町の脳卒中も治り、きっと私も幸せになるだろう。


2026年7月13日月曜日

ライプニッツ・カント・マイモンにおける実体の系譜

数学の分野で微積法を開発したことで有名なライプニッツが、周知のとおり哲学で"モナド"や"予定調和"という語を使った哲学体系で非常に大きな功績を成したこともまた有名である。ライプニッツにおいては、実体の最小単位として"モナド"という概念が定立されているが、もちろんライプニッツ本人にとってはそれは概念以前にある事象の根源的様態を示す表象あるいは実体素子であろう。私たちがそれを直観できるかは別として、そして、ライプニッツの合理主義的形而上学が現代の哲学や数学の枠組みから見て必ずしも真とは言い切れない様式であると思われるという事実は別として、ライプニッツは実際にモナドを体験的に捉えて見ていただろう。


モナドとは一体何か。念のため断っておかないといけないが、モナドとは原子や素粒子といった空間上の物理的な小粒子ではなく、非空間的な要件をもち表象を展開していく実体である。それは単に実体の諸要素のこれ以上分割できない最小単位という定義に留まらず、それが予め規定を持ちその規定に則って作用を成していくといった幾何学的運動を内在させているような実体の最小単位である。その幾何学は単にニュートン的な外界を対象化してみたときのオブジェクト同士の関係性を編むものというレベルにとどまらず、それが扱うところのモナドに無限の情報を潜在させそれ(幾何学)の視点から宇宙を計算して表象するようなプログラムといった、モナドを通して宇宙がアウトプットされ物理的現実となるようなレベルの幾何学である。つまり、実体としての現実は、すべてこのモナドによって構成されていて、モナド群の総体がその幾何学の有する"予定調和"の働きによって、個々のモナドが独立的に必然性を以って動きながら物理法則などを崩さず世界が形成されている、そのように彼は現実を見た。

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これからライプニッツ・カント・マイモンの哲学を貫く認知科学あるいは科学論を私の独自の思考で展開していくにあたり、前準備として、一旦、三者の認識論的系譜をGeminiによって纏めてもらったものを提示します。

以下、Gemini3.5 による三者の説の概略。



------ Gemini3.5 によるサマリー↓ ------

1.ライプニッツ――世界そのものが理性によってできている

ライプニッツ哲学の基盤は、世界のあらゆる存在が理性的構造を持っているという確信にある。

  • モナドと表象する宇宙: 真の実体は物質ではなく、非延長的で単純な実体「モナド」である。各モナドは外部から影響を受けないが、内部に「欲求・欲動」を持ち、自律的に変化する。全てのモナドは神の「予定調和」によって完全に同調しており、それぞれ独自の視点から宇宙全体を表象(知覚)している。人間を含む低次のモナドの知覚の多くは、未分離で潜在的な「微小表象」として存在する。

  • 充足理由律と述語内属説: 彼の合理主義は「矛盾律」と「充足理由律(全ての事象にはそうであるべき十分な理由がある)」に支えられる。これに対応する「述語内属説」では、あらゆる真なる肯定命題において、述語は主語の概念に最初から含まれているとされる(例:「カエサルがルビコン川を渡った」という事実は、カエサルの個体概念に内包されている)。神の無限知性にとっては全ての偶然(事実の真理)も必然(理性の真理)へ還元可能である。

  • 感性と知性の連続性: ライプニッツにおいて、感覚と知性は異質ではない。感覚とは、知性的認識が「不明瞭で混雑した状態」にあるものにすぎず、両者の違いは種類の差ではなく、明晰さ・完全性の「程度差」である。


2.カント――存在の理性から、認識条件の理性へ

カントは、概念分析だけで世界の真理を語ろうとするライプニッツ=ヴォルフ学派の「独断論」を批判し、問いの方向性を存在論から認識論へと転換した。

  • コペルニクス的転回と二能力論: 「客観的経験が可能であるための主観側の条件」を問うた。認識が対象に従うのではなく、対象が認識形式に従う。人間の認識には「感性(直観を受け取る受容性)」と「悟性(概念によって統一する自発性)」の双方が不可欠であり(「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」)、両者はライプニッツの主張とは異なり、決定的に「異質な能力」である。

  • 空間・時間と総合的ア・プリオリ判断: 空間と時間は物自体の性質ではなく、人間が対象を受け取るための「ア・プリオリな直観形式(超越論的観念論)」である。また、経験に先立ちながらも概念分析にとどまらない「総合的ア・プリオリ判断(例:因果律や数学的命題)」が経験を可能にする。しかし、現象の背後には認識不可能な「物自体」という残余が残り、これがシステム上の緊張を生み出す。


3.マイモン――カントを内側からライプニッツ化する

サロモン・マイモンは、カントの批判精神を継承しつつも、その二元論的体系の不備を鋭く突いた。

  • カント批判の核心: マイモンは、互いに異質な「感性的素材」と「悟性的形式」がなぜ客観的経験として結合できるのかという「権利問題(quid juris)」と、そもそもそのような客観的経験が成立しているのかという「事実問題(quid facti)」を提起した。カントのままでは、どの知覚内容にどのカテゴリー(因果性など)を適用すべきかの根拠が立証できず、体系が恣意的な空中楼閣になると批判した。

  • ライプニッツ的連続性の復活と物自体の転換: マイモンは感性と悟性の異質性を否定し、両者を同一能力の「程度差」とするライプニッツの立場へと回帰した。人間にとっての「外部からの所与」とは、単に「その発生過程を意識できていない表象」にすぎない。また、「物自体」を主体の外部にある実体ではなく、「対象についての完全な認識という、無限に接近していく極限(理念)」へと再定義した。

  • 知覚の微分と規定可能性の原理: 微積分学を認識論に応用し、経験対象は無限小の知覚的差異(微分)から生成されるとした。感性が微分を提供し、想像力がそれを積分して直観対象を作り、悟性がその関係(規則)を把握する。また、概念間の非対称的・内的な依存関係を示す「規定可能性の原理」により、真の総合を根拠づけようとした。


------ Gemini3.5 からの引用終 ------


カントは認識力の限界を示すために物自体を措定しなければならなかった。詳しく言い換える。物自体というあらゆる人間の認識形式から、カントの学説でいうと感性と悟性の双方から、完全に独立した形而上的対象を完璧に認識するのは不可能である。また、感性と悟性はアプリオリにその機能が決定されている。そして、感性による把握が時空間に制約されているという理由と、悟性が時空間から自由な作用であるものの人間に有用なものとして機能するには時空間の次元で現れなければならないという理由で、時空間を完全に超越した物自体を把握し思考することは不可能であると見た。

人間にとって物自体は認識不可能なので、時空間から自由である悟性の働きをもってしてでも、物自体の周辺において物自体に関する因果関係などを構築していくことが可能でしかないのである。それは、永遠に物自体に届かない。しかし、現象という事態をカントは想定しており、物自体が時空間を通して現れているところのものである対象に対しては、悟性はそれを思考対象とし適切に因果関係の構築やその当てはめ、属性の把握などを行えるとした。そしてカントにとっての理念とは、悟性が現象において捉えた因果関係や属性などの総体を総合した、限りなく物自体に近いレベルでの現象に対応する概念のことである。カントは時空超越体である物自体については永遠に不可知であるとみたのだが、感性という時空間に直接的に制約を受けたものに相対(あいたい)する、悟性によって現象の本質理解のための概念である理念を構成していけると見たのである。

社会で女性原理が駆動するために (1/n)

ひと昔前、「〇〇女子」という言葉がXなどSNSだけでなく、テレビ番組それもニュースなどにおいても流行っていた。これは女性の趣味・趣向の自発的な活動化を表す肯定的な事柄を示す語法ではあったものの、私にとっては或る問題があったように感じる。すなわち、「女子」というのが若さを含めて意味しつつも、あまりにもそれが強調され、女性の精神年齢が全般的に幼くなってしまってはいなかったか、という問題である。


平成の初期では「女子」と言う言葉は、「女子バレー」などの語法以外では、小学生~高校生での使用に限定されていたため、30歳前後の人にはサブリミナルで女性に社会的ジェンダーを自覚する以前の思春期の感覚を想起させていなかったか、ということが懸念されうる。またテレビやSNSで消費的に何度も反復され用いられることにより、個々の人の無意識どころか意識に女子という若すぎる女性像が刷り込まれすぎていなかったか。もちろん、女性が若くて自発的な意志で趣向に則り何らかの活動を行うというのは褒められたものである。しかしやはり女子という言葉はあまりにも若すぎる、あるいは可愛らしすぎる。単語単位の言葉を含めた言語が人間の認知や行動様式を規定するという仮説をサピア=ウォーフは提唱している。


さらに懸念をいうのであれば、他の女性だけでなく男性側から女性のアクティヴィティが可愛らしいものとして消費対象として受け取られていたのではないか、という深刻な事態である。この風潮が、単に女性を可愛らしさの消費物に成り下がらせていただけでなく、経済構造の裡で社会の男性原理に支配されやすい女性像を実態として形成していなかったか。ここで経済構造と言ったのは、たとえば日本経済において、「森ガール」「カメラ女子」という言葉が流行ったとすると、各企業がその注目されているライフスタイル・ファッション・趣味を収益に利用するために、様々なサービスや商品を生み出し、女性を方向付けるということであり、日本という高度な資本主義社会における企業の社会的影響力を鑑みるなら、女性のアクティヴィティが経済に回収され支配下に陥ってしまうというシステムである。


「女性」という言葉となるとそこには本能的に尊重が存在し得るものの、「女子」となると流行りの軽さと無意識的感覚としての幼さや可愛らしさ故に、経済からも操作しやすい記号として働いてしまう。女性本人からみても可愛さや無邪気さを連想させることからの安易な受容性、およびトレンドの「〇〇女子」という言葉を使ったりアイデンティティとして自覚することによる自分達がかっこいいという感覚による、若年性の想起やファッション的感覚からの動かされやすさという現象が、社会規模で動くのである。日本は世界的に見て女性原理が比較的強く動く社会ではあるものの、資本主義の高度さや複雑さや経済規模などを見ると、やはり男性原理つまり資本や記号操作や支配などの総体に、女性の若い可愛らしさが無自覚的に従属させられていたと言わざるを得ない。たとえ女性当人たちが自発的アクティヴィティを「〇〇女子」という言葉で行っていても、本質的な「女性の自立」は心理学面からも経済面からもそこには存在しなかったよう言える、と思えてしまう。


ここまででは、女性に対して起こっていた記号的消費と女性において現れかけていた心理的退行、および経済機構という男性原理の配下になってしまっていたのではないかという懸念を述べてきたが、ここからは「女性の自立」と「社会で女性原理が駆動する条件」を考察していきたい。


(続く)