数学の分野で微積法を開発したことで有名なライプニッツが、周知のとおり哲学で"モナド"や"予定調和"という語を使った哲学体系で非常に大きな功績を成したこともまた有名である。ライプニッツにおいては、実体の最小単位として"モナド"という概念が定立されているが、もちろんライプニッツ本人にとってはそれは概念以前にある事象の根源的様態を示す表象あるいは実体素子であろう。私たちがそれを直観できるかは別として、そして、ライプニッツの合理主義的形而上学が現代の哲学や数学の枠組みから見て必ずしも真とは言い切れない様式であると思われるという事実は別として、ライプニッツは実際にモナドを体験的に捉えて見ていただろう。
モナドとは一体何か。念のため断っておかないといけないが、モナドとは原子や素粒子といった空間上の物理的な小粒子ではなく、非空間的な要件をもち表象を展開していく実体である。それは単に実体の諸要素のこれ以上分割できない最小単位という定義に留まらず、それが予め規定を持ちその規定に則って作用を成していくといった幾何学的運動を内在させているような実体の最小単位である。その幾何学は単にニュートン的な外界を対象化してみたときのオブジェクト同士の関係性を編むものというレベルにとどまらず、それが扱うところのモナドに無限の情報を潜在させそれ(幾何学)の視点から宇宙を計算して表象するようなプログラムといった、モナドを通して宇宙がアウトプットされ物理的現実となるようなレベルの幾何学である。つまり、実体としての現実は、すべてこのモナドによって構成されていて、モナド群の総体がその幾何学の有する"予定調和"の働きによって、個々のモナドが独立的に必然性を以って動きながら物理法則などを崩さず世界が形成されている、そのように彼は現実を見た。
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これからライプニッツ・カント・マイモンの哲学を貫く認知科学あるいは科学論を私の独自の思考で展開していくにあたり、前準備として、一旦、三者の認識論的系譜をGeminiによって纏めてもらったものを提示します。
以下、Gemini3.5 による三者の説の概略。
------ Gemini3.5 によるサマリー↓ ------
1.ライプニッツ――世界そのものが理性によってできている
ライプニッツ哲学の基盤は、世界のあらゆる存在が理性的構造を持っているという確信にある。
モナドと表象する宇宙: 真の実体は物質ではなく、非延長的で単純な実体「モナド」である。各モナドは外部から影響を受けないが、内部に「欲求・欲動」を持ち、自律的に変化する。全てのモナドは神の「予定調和」によって完全に同調しており、それぞれ独自の視点から宇宙全体を表象(知覚)している。人間を含む低次のモナドの知覚の多くは、未分離で潜在的な「微小表象」として存在する。
充足理由律と述語内属説: 彼の合理主義は「矛盾律」と「充足理由律(全ての事象にはそうであるべき十分な理由がある)」に支えられる。これに対応する「述語内属説」では、あらゆる真なる肯定命題において、述語は主語の概念に最初から含まれているとされる(例:「カエサルがルビコン川を渡った」という事実は、カエサルの個体概念に内包されている)。神の無限知性にとっては全ての偶然(事実の真理)も必然(理性の真理)へ還元可能である。
感性と知性の連続性: ライプニッツにおいて、感覚と知性は異質ではない。感覚とは、知性的認識が「不明瞭で混雑した状態」にあるものにすぎず、両者の違いは種類の差ではなく、明晰さ・完全性の「程度差」である。
2.カント――存在の理性から、認識条件の理性へ
カントは、概念分析だけで世界の真理を語ろうとするライプニッツ=ヴォルフ学派の「独断論」を批判し、問いの方向性を存在論から認識論へと転換した。
コペルニクス的転回と二能力論: 「客観的経験が可能であるための主観側の条件」を問うた。認識が対象に従うのではなく、対象が認識形式に従う。人間の認識には「感性(直観を受け取る受容性)」と「悟性(概念によって統一する自発性)」の双方が不可欠であり(「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」)、両者はライプニッツの主張とは異なり、決定的に「異質な能力」である。
空間・時間と総合的ア・プリオリ判断: 空間と時間は物自体の性質ではなく、人間が対象を受け取るための「ア・プリオリな直観形式(超越論的観念論)」である。また、経験に先立ちながらも概念分析にとどまらない「総合的ア・プリオリ判断(例:因果律や数学的命題)」が経験を可能にする。しかし、現象の背後には認識不可能な「物自体」という残余が残り、これがシステム上の緊張を生み出す。
3.マイモン――カントを内側からライプニッツ化する
サロモン・マイモンは、カントの批判精神を継承しつつも、その二元論的体系の不備を鋭く突いた。
カント批判の核心: マイモンは、互いに異質な「感性的素材」と「悟性的形式」がなぜ客観的経験として結合できるのかという「権利問題(quid juris)」と、そもそもそのような客観的経験が成立しているのかという「事実問題(quid facti)」を提起した。カントのままでは、どの知覚内容にどのカテゴリー(因果性など)を適用すべきかの根拠が立証できず、体系が恣意的な空中楼閣になると批判した。
ライプニッツ的連続性の復活と物自体の転換: マイモンは感性と悟性の異質性を否定し、両者を同一能力の「程度差」とするライプニッツの立場へと回帰した。人間にとっての「外部からの所与」とは、単に「その発生過程を意識できていない表象」にすぎない。また、「物自体」を主体の外部にある実体ではなく、「対象についての完全な認識という、無限に接近していく極限(理念)」へと再定義した。
知覚の微分と規定可能性の原理: 微積分学を認識論に応用し、経験対象は無限小の知覚的差異(微分)から生成されるとした。感性が微分を提供し、想像力がそれを積分して直観対象を作り、悟性がその関係(規則)を把握する。また、概念間の非対称的・内的な依存関係を示す「規定可能性の原理」により、真の総合を根拠づけようとした。
------ Gemini3.5 からの引用終 ------