2023年11月17日金曜日

Wite Wind


White Wind

  歌 : 結月ゆかり

  作詞・作曲 : Haya



その日々は忘れたの まだ汽車が進むから

いくつもの水晶通し 見えてきたの白い風


雪の結晶に 見とれていたら

予感はあたるはず 鐘が鳴るの


夢でもね会えたらね 次の日 晴れるのかな

その手に花々を 心が凍てつかないように



その気持ち話さないで 新しい夢を頂戴

雪の花 月と出会い 禁じられた 雫どこ


ばら撒いたタロットに 今夜を賭けて

不思議な絵の杖で 魔法をかけた


星空 冬の星 繋いで女神様

願いを叶えたら あの空 煌く


夢でもね会えたらね 次の日 晴れるのかな

その手に花々を 心が凍てつかないように

2023年10月31日火曜日

正義について

もちろん10代やそれ以前から、正義感が強かったり警察官になりたいと思う人はいるが、多くの場合、人は、社会に組み込まれ、その中で生活し、人間関係を構築しつつ会社などの組織内で活動をすることによって、だんだんと良心が強化され深化しながら良心が捉える機微の多様性も増していくものである。視聴覚や思考で捉えたさまざまな出来事の集積、それらに対する解釈や内省などの蓄積で、良心は、目の前の人の言動だけでなく、だんだんと社会全体の公益、人間全般の善へと触知範囲が広がっていき、まっとうな人格を持った人においてはやがて壮年期には正義といった観念を人格の重要な要素として抱くようになっていく。もちろん若くして飛躍的にそうさせるような出来事というのもあり、典型的な例としては目の前で友人が殺されたことから警察官を目指すことになった、などが挙げられると思われる。私の場合は、或る大規模かつマイナーであまり知られていない犯罪に直面したことから、比較的若いうちに正義といった観念を強く持つようになった。


正義は人をより社会的にする。正義を持つことにより、社会に蔓延る問題点を改善しようとすることに義務や使命感を感じ、社会公益の上昇に寄与することが人として意義のあることであると感じるようになる。あるいはある文脈では、個々人が個人的な良心をそれぞれ強く持つことにより世界はより平和になるということも言われることがある。しかしそこには社会というレベルが脱落しているように思われる。人間は社会的生き物であるからには、やはり個人のそれぞれの合計が世界を決定するというより、個人間の関係性の総体であるところの社会というものが個人をある程度決定する、少なくとも左右するというのはよく起こり、その社会を良くしていくことが個々人の内面や行状を良くしていくことに繋がると考えられる。個人の良心と世界平和という理念の中間層にありその二極を有機的に繋ぐところのものである社会というレベルにおける、諸々の制度、習慣、考え方、価値基準、行動様式などを、具体的により良い方向に持っていくことは、世界平和の理念の実現にも繋がるし、個々人の幸福にも繋がっていくものである。正義はそれを当たり前のように知っている。社会全般の改善が平和の実現や個人の幸福に繋がるということだけでなく、その改善に自分が参画することが、自分自身の個の生きる意義を増させるということも知っている。義務感によるものではなく、内発的なものとして社会公益のために献身することは、不特定の他者の幸福であるだけでなく、自身の幸福にもなるのである。そのような正義によって、人は社会を良くしていくものとして機能し、すなわちより社会的な存在になっていく。

2023年10月11日水曜日

ブラック・オパール



 

ブラック・オパール

 作詞作曲: Haya

 歌: 結月ゆかり


そっと夢 咲かせたの 光る銀河 閉じ込めて

あの子が 眺めてる 月の女神 首飾り


夜の花 輝き 風の中 妖精

さあこの世忘れて


あの子の目は ブラックオパール 

星の心臓 燃えた夜

孔雀の羽 散乱して 

狂った色の 夢が煌く



死んでも 夢見るの 青い蝶々 永遠に


呪われた宝石 夜に舞う幻

さあ黒い翼で


夢の中へ 逆さの塔 

死んだ鳥たち 飛び交って

壊れた空 骨の雨に 

騒いだ霊が 月に歌うよ



夜の花 輝き 風の中 妖精

さあこの世忘れて


あの子の目は ブラックオパール 

星の心臓 燃えた夜

孔雀の羽 散乱して 

狂った色の 夢が煌く

2023年10月9日月曜日

メタファー的世界観

 冬のある日、幼い子供が、降ってくる雪をみて、雪を「ちょうちょ」と表現したとしたら、これは一種のメタファーであるといえる。


フロベールは弟子のモーパッサンに「世界には一つとして同じ木、同じ石はない」と教えた。具体的な個々の雪は、大きさも、色も、それを構成する結晶の形も光の反射の具合も、他の個々の雪とは同じものは一つとしてない。その全て違うたくさんの個々の雪を人間が観察していく過程で、類似のあるいは共通の性質だけが抽象されて、細かい相違点は切り捨てられ、一般的抽象概念としての雪ができる。前人間的に雪という抽象概念があって二次的に個々の雪があるのではなく、たくさんの個々の雪をたくさん人間が見て知ることによって、人間は個々の雪を抽象しながら雪に対しての、ニーチェ風に言えば一般的な遠近法(=perspective 以下、perspective のことを遠近法と記すことにする)を"創出し"、そうやってはじめて抽象概念としての雪ができあがった。ところで先ほどの子供の雪の形容において、ある雪を「ちょうちょ」と表現するときも、実は原理的にはまったく同じようなことがおこっているのである。


「多種多様な物事の中から、類似している点をとりあげ、類似していない点を捨てることによって概念がしだいに形成されて来るかぎり、比喩がその基盤になっている。」(ショーペンハウアー)


つまり、雪と蝶の性質の類似点(例えば、宙を舞うものという性質)を、子供が見つけ出し、雪のことを蝶と表現した。これは子供が創出した一つの遠近法、解釈法である。この場合の過程では「その子供が見た雪」と「蝶」という"二つの"ものの類似点が見つけ出されて子供は雪を蝶と表現したことになる。一夫、抽象的な概念としての雪は、"無数の"個々の雪の類似点が探され相違点が捨てられて、一つの遠近法として出来上がる。原理的には同じことが起こっているのである。


雪のような物的なものに関してでなくても一般的に認識や感覚や心理に関しての概念も同じく、そのようなことがいえる。たとえば「悲しみ」にもいろいろなものがあってどれ一つとして全く同じ悲しみはないが、似たような感情を集め抽象していくことによって、「悲しみ」という名詞が対応する一つの概念に統一される。白い猫と黒い猫は見た目として異なるが、「猫」という抽象概念によって「猫」という同じ名前が与えられる。「白い」という形容詞も、いろいろな個々の白い印象が抽象されてはじめて、できた概念に名付けられた言葉である。概念や名辞は、さきほどの子供の雪の形容やショーペンハウアーの引用文を考えるなら、大量のメタファー作業、つまり類似点を抜き出し相違点を無視する抽象の作業によって出来たものであるといえる。

2023年10月8日日曜日

消えたオパール

 一昨日の雨と一緒に振ってきたダイヤモンドを燃やして火をつけて、朝の風には烏の声、乱れたヴィーナスの髪がビルの線という線になった時、放火の雲、禁止の窓、座興の電線、それらの綾取りに絞殺され、渡り鳥の95番目が死んだ。大切にしまっていたブラックオパールを堕ちていく鳥の死体目掛け投げようか。

 

女「そのヴィオラの弓どこで盗んだん」

男「山の麓に落ちてたん拾ってきた」

女「それで何をするの」

男「弦の張力でブラックオパールを落ちてく鳥の死体に当てる」

女「馬鹿」

 

雲から滴った凍った精液が電柱と電柱が描く五線紙に絡んだとき、ヴィオラの弓は壊れ、オパールとともに音符を象ったので、彼は鳥の死体に興味を無くした。その大きな音符が浮遊し漂う空、雲に霞んだ太陽の仄かな眼光が雲の切れ間から光のハープを作っているところに、彼のニヒリズムは新しい音楽を当てはめて、空の下で営為する街並みに対して哄笑と殺しの歌を与えた。殺されたのは朝の囁かな音楽に嬉しそうに向かって飛んできた蛙一匹だけだった。


格調高いコンサートホールでの偉大な音楽や奏者への恐怖から解放されたヴィオラの弓は、壊れながらも楽しそうに、彼の腕の気まぐれのままに、哀れな蛙の首の後ろ側を刺し貫いた。蛙の死体を投げた彼は、ただただ悲しくなったが、悲しみの対象は蛙の霊魂でも自身の良心でもなく、マグマから空高くまで監獄とされてしまった地球がやっと不意に遊ぶことのできたひと時を、彼の悪戯が壊してしまったかもしれないこと、そのことにふと大きな悲しみを感じたのだった。火をつけろ。

2023年10月6日金曜日

集約としての抽象概念の効能

哲学には抽象的な言葉がよく出てくる。企業においては、「抽象的」というのは「曖昧」「漠然としている」といった意味でネガティブな意味で使われることも多い。では、哲学というのは曖昧なものなのか。決してそうではなく、非常に厳密な思考が要求される分野である。抽象的思考に慣れていない、あるいは抽象とは何なのかを一切考えたことのないような、庶民的な尺度から見ると抽象概念は曖昧に思えるだけであって、抽象が意味するところは決して曖昧とか漠然という様態ではなく、元来意味するところは「様々な具体から共通点を抜き出すこと」である。


Wikipedia「抽象化」によると

「思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法である。」


『心理学辞典』によると

「個々の事物に含まれている諸特性のうち,ある規準に関して共通するいくつかの特性だけが抽象された結果として形成される心的過程」


たとえば、「犬」「猫」「ネズミ」「熊」の上位概念は「哺乳類」であり、それは犬、猫、ネズミ、ゾウ、熊の共通点を抜き出して纏めてられた概念であるといえる。生物学においてはもちろん、この概念を形成するにあたって、無数の具体的な動物への観察や解剖などが為されるのであるが、それは生物学という学問を成立させるにあたって取られた科学的手法であって、一般の子供が「哺乳類」という概念を哺乳類という言葉を知らずとも自然に脳内に形成する過程は、抽象である。哺乳類より上位概念にあたる「動物」に含まれるところの、目、口があり、動き、食べるなどの特徴に照らし合わせて対象の哺乳類の具体例をとらえつつ、哺乳類を他の動物と分かつ特徴であるところの、四本の手足があり、毛があって、体温が高い、などを見分け、次第に哺乳類という概念が子供の中に形成される。この過程は抽象である。抽象という行為は子供も当たり前に行っていることであり、物事を曖昧にするのではなく、むしろ物事を明確にカテゴライズすることにつながる思考方法である。


抽象概念が曖昧だと思われるのは、抽象概念そのものの性質によるのではなく、抽象概念にあまり親しんでいない人たちがそれを適切に理解できないことからくる受け手側の知力の欠如、あるいは本来具体例を出すべき状況や文脈において一般例やその性質を挙げてしまう使い手の語法の不適切さから来ているものであり、前述のように本来は抽象という行為には、多様な事象が膨大な量で動きながら存在している人間界・自然界における事象群を明確にカテゴライズする効果がある。


この抽象の過程で、個々の事物や物事に含まれる諸性質の共通点が抜き出され、より抽象的な概念が形作られていくわけであるが、それはつまり裏返せば、抽象概念は数多くの個々の事物に当てはまる性質を述べている、ということを意味している。

2023年10月5日木曜日

ドストエフスキーのポリフォニーを可能にしたもの

 ドストエフスキーの小説においては、登場人物の言動も作中の物事も非常にダイナミックに動乱しているが、そのダイナミズムを可能にした創作の手法は、ミハイル・バフチンの言うように「ポリフォニー」にある。ポリフォニーは「多声音楽」を意味する音楽用語であるが、ドストエフスキーの小説の登場人物が非常によく喋り、ときには2~3ページにわたる長広舌をまくしたて、それが2人の対話においてだけではなく多人数が居合わせる場面でも為されることから、複数人の「声」の織り成す作品と特徴づけることは可能であり、「ポリフォニー」という用語をドストエフスキーの小説の際立った特徴に割り当てたのは、極めて正確な表現であると思われる。


ポリフォニーに対立する音楽用語は「モノフォニー」である。19世紀前後の西洋主知主義はモノフォニーによる思想の発言が顕著に見られる。宗教的にいうとキリスト教という一神論の影響下にあり、政治的にも絶対主義が蔓延ることの多かった西洋において、その知性は、唯一性が目指された。バフチンの言葉を引用するなら「単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパ合理主義が、近代におけるモノローグ原理を強化し、これが思想活動のあらゆる領域に浸透した。」(『ドストエフスキーの詩学』) 思想家の著作であれ文豪の作品であれ、そのモノローグ原理の影響は強く、形式的にも内容的にも著作家はその原理に無意識に規定されてきた。思想家は自分の唯一の思想を構築しその思想を単一の作者としての主体で緻密に述べる。作家は自分の表現したい思想や世界を一つ設定し、それを表現するために部品として登場人物や出来事を並べていく。


このモノフォニー性を覆したのがドストエフスキーのポリフォニーであった。おそらく作家自身が多数の声を自身に内蔵していたのであろう。ドストエフスキーはキリスト教への信と不信を同時に抱えていたし、世を生きる人間としてもキリスト教精神に基づいた極めて高い倫理と、賭博にみられるような不道徳を同時に所有していた。おそらく矛盾を抱えてしまうほど物事に影響をうけやすく、ある真理や思想に熱く傾倒しやすい、非常に多感な精神を持っていたのだろう。また、矛盾を抱えるだけでなく、おそらく他者の人格や思想に対しての、強い感受性、受け入れる度量、簡単に疎外しない寛容さ、他者の心理を体験できる感情移入の能力なども持っていたのだろう。とにかくドストエフスキーの生活や作品や人格を辿れば、きりがないほど多種多様な要素が犇めき合っている。


このドストエフスキーという人物の精神は、西洋主知主義・近代合理主義の世界に簡単に相容れるものではなく、その枠に収まらずにむしろ文学の形式に革命的なモデルを提供したものであった。バフチンは「カーニバル小説」とドストエフスキーの小説を呼称している。形式として固定性が強く、一義的に一つの論理が順次展開していく思考方法、一つの道徳によって人の生活が規定される生活様式、などに特徴づけられるところの近代西洋的なモデルを、キリスト者的生活・近代的社会生活とするなら、その外的な拘束力をもつ枠組みを一時的にでも打ち破り人が解放的に欲動を現実化させる「祭り」のように、カーニバル文学としてドストエフスキーの小説は展開している。つまり登場人物の個々人が、社会的拘束や作品の設定による拘束を打破する個の強さを持ち、それぞれが己を強く主張して、ぶつかり合いながら自立駆動しているのである。

2023年10月4日水曜日

ショーペンハウアーにおける他学派排斥の理由

  ショーペンハウアーは、同時代の哲学、具体的にいうとフィヒテ、シェリング、ヘーゲルの哲学に対しては、極めて批判的だったことで有名で、特にヘーゲルの哲学、というかヘーゲル自身に対しては、ほとんどどの著作でも酷評、それも、「真のペテン師」「言葉のがらくた」「精神病院」のような暴言をつかって下ろすような揶揄を、言葉を変えながら徹底的に繰り返している。引用しておくと

「初々しい若い時に、無意味なヘーゲル流の哲学によって、首筋を違えて腐った頭は、……早くからまったく空っぽな言葉のがらくたを、哲学的思想とみなすようになる。」

(『意志と表象としての世界』・第二版への序文)

「さてもし、……あのいわゆるヘーゲルの奴の哲学は、膨大な量のごまかしを述べ、あらゆる知力を麻痺させ、あらゆる真の思考を止めさせ、言語をまったく不法に誤って用いることによって、完全に空虚で、意味を欠き、無思慮な、それゆえその結果が示しているように、まったく人を愚かにする、言葉のがらくたからなる似非哲学であると私が言うとすると、私は全く正しいというべきである。……さらにヘーゲルは、彼以前の誰とも違って、無意味なことを殴り書きしたのであり、そのためあたかも自分が精神病院にいるように感じないで、ヘーゲルが最も賞賛を受けている、例の『精神現象学』を読むことができる人は、精神病院に入院する資格があると私がさらに言うならば、同じように私は正しいというべきであろう。」

(『倫理学の二つの根本問題』)


このようにショーペンハウアーは、かなり感情的になってまでヘーゲルを攻撃している。もちろん多少行き過ぎている感も受けるが、ショーペンハウアーのような本気で自分が正しいと確信する世界観を打ち出そうとする哲学者というのは、世界の本質的な考察に関しては、真剣で、本気で世界の謎を解明しようと試み、その試みから得られたものを、人に述べ伝え、教えたい、そういう強い欲求を持っているのであって、自分が本質的でないと思った学派の哲学が一般に流布してしまうのは、哲学者自身にとっては、個人的に屈辱的であるだけでなく、後代の人が世界の本質に関して多大な誤解を引き継いでしまうという人類の知性に関する大きな懸念を催してしまうのである。自分はそれほどヘーゲルの哲学にはなじんでいなくて他の哲学者の著作から伺えるヘーゲル哲学を一部知っているだけなので、もちろん個人的にヘーゲルを批判したいわけでもショーペンハウアーを擁護したいわけでもないが、とにかく、ショーペンハウアーが、同時代の哲学をこれほどまでにこき下ろしたのは、彼がどれだけ哲学に対して真剣であったかを示すものであると思っている。単に仕事柄から哲学に取り込む、あるいは趣味として哲学をする、のではなく、強い信念を持って宇宙や生命の謎に答えを与えようと真剣に苦悩する、そういう哲学者は、自分が間違っていると判断した学説に対しては、真剣に戦いを挑むのである。


そしてショーペンハウアーは、哲学というのがそうあるべきものだと考えている。引用すると

「……詩人の作品は妨げあうことなく、すべて相並んで共存しうるばかりか、それらのうちでもっとも異質的な作品でさえ、同一の精神によってひとしく享受され鑑賞されることができるのに、これに対して哲学者の体系は、それぞれ生まれ出るやいなや、あたかも即位式当日のアジアのスルタンのように、はやくもそのすべての兄弟達の没落を担っているのである。……詩人たちの作品は子羊たちのように、柔和に相並んで生をたのしんでいるのに、哲学上の著作は生まれつきの猛獣であり、……そして今に至るまで、……すべてが互いに力尽きるまで激戦し合っているのである。……なぜなら、……哲学者の著作は、読者の考えをすっかり覆そうとするのであり、読者がこの種のものに関して今まで学び信じてきた一切のものをみずからの誤謬とし、それに費やしてきた時間と労力を無駄と断じ、そしてはじめから出直すことを求める。……」

(『哲学とその方法について』4)

2023年10月3日火曜日

哲学者による言語批判

 ニーチェとウィトゲンシュタインは、カントとヘーゲルを中心とするドイツ観念論だけでなく、ソクラテス・プラトンに始まる西洋哲学全般を批判した。ニーチェもウィトゲンシュタインも、あらゆる「形而上学」やそこで行われる「言語」使用を批判したのだが、その批判はまったく別の側面から為され、言語が価値を持つ尺度についての考えも、二人で全く違うものとなっている。


ニーチェがウィトゲンシュタインに影響を与えた形跡はあまりないようには思われるが、二人ともショーペンハウアーから別様ではあるが多大な影響を受けていることは確かである。ショーペンハウアーは哲学における言語使用の批判の先駆者であった。ショーペンハウアーは空虚な擬似概念が記号化されたにすぎないような一部の哲学における言語使用への批判を、とくにヘーゲルやその影響下の哲学者たちに対して行った。


ニーチェとウィトゲンシュタインは全く別の哲学を行ったが、共通点としては、二人とも最終的には「意志としての世界」「物自体」を認めず「表象としての世界」「現象」のみを認めた、少なくとも前者の言語化は認めず、後者の言語化を認めたということである。また二人とも、あらゆる現象に何らの必然性や因果性を認めず、すべての現象は偶然の産物であり、後に人間の理性のうちで因果性が与えられているにすぎない、と見做している点や、経験的な世界では一切の先験的なものは存在しないという点などでも共通している。


もちろん相違点もたくさんあり、哲学や日常における言語批判において、二人の考えのそれぞれの特徴や違いを考える。ウィトゲンシュタインは、言語の限界というのを設定し、言語の限界を超えるあらゆる言説は無意味であり、哲学的思弁の多くは言語の領域を超えてしまっていると批判する。ウィトゲンシュタインにとって言語が明確に表現できる領域とは、事実や経験に基づいているもののみであり、よって言語使用は自然科学的である限りにおいて有意味である。ウィトゲンシュタインによれば、「善」「美」「生」などのような、事実や経験から導かれる事象ではなく世界に関する包括的な観念といえるものについて、言葉で語るのは不可能であり、だから、それらについて哲学的に議論するのは空虚でしかない。哲学者達の言葉とは、言語の使用できる限界を超えたものについて饒舌を奮っているにすぎず、言語の誤用から生まれたものでしかないと言うのである。価値や倫理のような非経験的非事実的な命題に関しては、言葉で語ることはできない。実践や具体例によってのみ示される。カントは理性の限界を示し、物自体の世界については人間の認識は届き得ないとしたが、ウィトゲンシュタインにとっては、そのカントの言説ですら、言葉の限界を超えた饒舌にすぎないのである。物自体という超越的なものや、理性の先験的な性質を設定して、たとえ物自体が認識できないという理性の限界を示したとしても、それらの設定やその説明を基にして哲学を論じている時点で、それは、経験的ではなく、よってそれらの命題は言葉で表現したところで意味はないと言うのである。

2023年10月2日月曜日

心的現象における象徴

 心的現象における象徴


-------Wikipedia 「象徴」より-------

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1%E5%BE%B4

象徴(しょうちょう)は、抽象的な概念を、より具体的な物事や形によって表現すること、また、その表現に用いられたもの[1]。一般に、英語 symbol(フランス語 symbole)の訳語であるが[2]、翻訳語に共通する混乱がみられ、使用者によって、表象とも解釈されることもある[3]。

ハトは平和の象徴である - 鳩という具体的な動物が、平和という観念を表現する[1]。

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「象徴」「シンボル」というのは人間の営みの中でも精神的なレベルにおいてはかなり重要な役割を持っているものだと思われる。哲学者、言語学者、心理学者、色々なジャンルの学者が象徴について考察しているのだが、彼らは「記号」を「象徴」に対置させて議論しているか、「記号」の中に含まれてる特殊例として「象徴」を定義づけているか、そのどちらかであることが多い。ここでは、「象徴」が「記号」に対するものとして心にどのように顕れ作用するかを取り扱う。「象徴」は外部からの所与として人間の心に強く作用するものである。また、人間の心の運動によって事象に象徴性というのが与えられたりすることもあるというように、内側から外部的事象に付与されるところのものでもある。この象徴と人の心の関係、およびその動性を考えるにあたって、古典的な心理学が用いていた「意識」と「無意識」の構図を踏まえて論及していく。


人間には「言葉」という、他の色んな他人と意味をある程度共有している共通のツールがある。しかしもちろん、言葉では表現できないものを色々と感じ取っているのも人間の特徴である。ところで、言葉と言うのは、それが指し示す物・事象や事柄についての、一般的な意味を概念として示すにすぎない。つまり、林檎というのは数的にも無数にあり、形態的にも多種多様であるが、林檎という言葉が指し示す概念は一つである。その概念が表す性質は、無数の林檎の性質を抽象して共通点を抜き出して一つに纏め上げたもの、つまり無数の林檎の平均値である。林檎のような実態のあるものの名詞だけでなく、観念的なことを意味する言葉においても、ある程度そういうことが言えるのであり、とにかく、言葉というのは一般性の枠組みを規定するものに過ぎない。一般性を保って人と交換できて意味を一義的に理解しあえる言葉を、この考察の中では「記号」であると定義しておく。


ここで意識と無意識の構図を持ち出してみる。言語化できているということは意識によってその言語化対象の心的内容物を捕らえることができているということが前提になっているのだから、一般的用法における言語というのは、人々の意識の側において人々間で交換されるものである。言語は物事を明確に把握したり、他者と共通の意味性を安心して交換したりするために、生み出されたものである。一つの意味を表す表象であり他者と一義的に交換できる表象を記号とするなら、言語は基本的に記号性を強く持っている。人の顕在的な意識領域、他人とコミュニケートできる範囲での識域というのは、ほとんど記号的言語によって成り立っているといってもいい。


一方、無意識の領域の心的現象というのは、それが意識的な思考によって明確化できないのでたやすく外界へ表出できないという意味において、そこで体験する心理的過程が少なくとも体験している最中の本人にとっては独自のものであり一般性を持つ言語によって表現し辛く、他人と記号的交換によって共有することが出来ない傾向が強い。言語化困難であるが、無理やりにでも言語化しようとするとどうなるだろうか。ここで出現するものの一つとして、象徴が挙げられる。

2023年9月30日土曜日

私の学び直し

 社会人を経て再度、大学受験を経て学部へ入り直す人の多くは、収入を上げたい・医師としてのやりがいのある仕事をしたいというのが目的で医学部に入るが、それ以外の学部へ進む人も少数ではあるが居て、私もそのうちの一人である。日本は修士や博士ならまだしも学部生としての大学への再進学については恐らく冷たいほうであり、学部生のなかで25歳以上が占める割合は約2%であると統計がでているが、海外では社会人を経験した後の20代後半以降の大学進学は一般的であり、25歳以上の割合は約20%である。


日本においては、高校卒業後にいい大学へ行って、いい企業に就職し、そこで長く働き昇進して収入をあげつつキャリアを積んでいくことが、社会人に敷かれたレールであり、それに沿って人生を勧め経済的に豊かにしていくことが、皆が共通して目指すべき美徳あるいは成功と思われている節がある。しかしもちろん、その社会人的志向を歩まなければならない法はなく、各人が好きに生きるのは自由であり、一般的な社会人が属するコミュニティにおいてはあまり遭遇することはなくとも、ちょっと行動範囲や人との関わりの範囲を広げてみれば、好きなように生きている人というのはいっぱいいる。


私はとくに収入に拘らず、社会的地位を欲さず、お金にたいする執着もなく、結婚願望はあるが諸事情によりおそらく不可能であり、生活費と読書やその他の趣味にかかるお金さえあれば、とくに問題ないという感覚で生きており、社会人的な上昇志向というのは持ち合わせていない。それで音楽活動など趣味に関する活動はしていたが、それも終えた後、派遣社員として働いるなかでとくに生活に困ったことはないものの、何かしら人生が空虚に感じることがよくあった。



青春期は文学と音楽と哲学に熱狂的に没頭していた。学校さえ行かず。文盲に近いくらい文字で書かれた文章を読むのが苦手だったのが、詩や小説や評論文などに熱中しているうちに、そしてその感想文や覚書などを書いているうちに、リテラシーは養われ、言語の運用は比較的出来るほうになった。もちろんそれだけでなく、文学や芸術が有している多種多様な意匠、人の感性と知性を豊かにする思想などを感得することができ、15歳から20歳の間に人格までも全く変わってしまったものだ。歩くカメラ程度の視聴覚に漠然とした意識だけがあった少年が、その5年間でやっと人間になれたといったぐらい、人文は自分にとって最も人格形成に寄与したものだった。

2023年9月26日火曜日

認識論としての力への意志

 認識論としての力への意志


ニーチェは痛烈なまでに価値評価や人間洞察に長けた、それまでの哲学者にはない類型の、主に価値論を熱心に追求し、そしてなによりもその価値論の尋常ならざる文芸で文体化することの天稟を持ち合わせ、それを自分の天来の仕事とした哲学者ではあったが、それと同時にずば抜けた哲学的直観によって見通された人間の思考素子ともいうべきレベルにおいての認識論を説いた哲学者でもあった。主にショーペンハウアーを信望していた初期の認識論、そして中期の全てはメタファーであり真理さえも存在しないと説いた中期の認識論、後期の究極の意味での遠近法主義へと傾いていった結露である『力への意志』に至るまでの認識論へと、彼の認知は変遷していっているが、ここでは後期の『力への意志』に収録されている晩年に近いニーチェの認識論を取り扱い、できることなら纏めてみたい。しかしこれはニーチェ自身でさえ纏めきれていない断章からなるものなので困難を極めるだろうと思う。その前に断らなければならないが、『力への意志』というのはこの語感からして価値論的意味合いが強そうにみえるものだが、実質その根本にあるのはニーチェが認知した世界や思考主体の構造や関係性であり、つまり哲学の分野では価値論より認識論に寄った傾向の強い文献であり、その認識論の体系の土台に立脚して初めて価値や倫理の意味合いが考察され描写され訴えられているのが実質的な執筆の軌跡であろうと思う。どうにせよニーチェの場合は認識論があって価値論という順列ではなくほぼ同時と言っていいほど両者の思考分野が直結しているのではあるが。とにかくここでは認識論としての力への意志の世界認知について述べたい。

2023年9月25日月曜日

陽炎

太陽から火を盗んだ大きな鳥が

私に微笑んだその時から

心の真ん中で彼の秘密が

灯のように明滅した


彼は木々を脈に変えたし

風を刃に、水をガラスにして

森の一角を庭にしては

その芸術で動物たちを

楽しませ、笛を吹いていた


彼の飼う大きな鳥の歌が

私の琴線を震わす時には

ただ眠くなり目を閉じて

あの庭のことは忘れていた

トリックスターについて

  トリックスターとは、神話的な人物類型といえるようなものの一つ。ここで神話的な人物類型といってみたのは、たとえば、英雄、賢者、女神、魔女などが世界各地の神話や伝承に登場するが、そのようないかにも神話や童話に出てきそうな典型の人物像の類型。人格のある顕著な性質を象徴している人物像。トリックスターもその人物像の類型の一つとして並列できる。

 トリックスターは、神出鬼没の悪戯者、道化師、ペテン師、幼い魔術師であったり、とんでもく下らない幼稚なことばかりする愚者であるかとおもえば、英雄のような行為をするときもある、変幻自在のキャラクター。主に少年として描かれていることがおおいが、女装するときもあるし、もともと両性をもっているということもあれば、動物として描かれることもある。


 具体的な例で有名なのは、ギリシャ神話のヘルメス、ローマ神話のメリクリウス、北欧神話のロキなど。

 ヘルメスとメリクリウス(マーキュリー)はギリシャ文化とローマ文化の混交のなかで同一視されていった多神教の神。とりあえずヘルメスについてだけ書くと、ヘルメスは、ギリシャの伝令や旅の神。ゼウスと、ゼウス愛人の一人マイアとの間に、正妻であるヘラの目を盗んで生まれた。美少年であり、素早くて、ずる賢い悪戯者で、競争をしたりものを盗むのが大好き。ヘルメスの外見は少年的な姿で描かれることが多く、つばの広い帽子をかぶり、翼のついた靴かサンダルをはいている。その靴によって自由に空を飛ぶことが出来る。あるいは翼のついた帽子をかぶっていて、それで飛ぶ。先端に二匹の蛇が絡み合っている伝令の杖をもっていて、主神ゼウスから伝令の遣いを受けている秘書的な存在。生きている者の世界と死者の世界を行き来できるという特権をもっている。

Alchemy and Psychology

 Such words as "sublimate" and "solution" are those alchemists of the Medieval ages preferred to use, each of which has double meanings, one of which is physical or chemical sense, the other of which is mental or psychological sense. The word "sublimate" were often used as a term meaning the chemical process of solid's vaporization represented by dry ice after modern age in which science has advanced, but because of the following circumstances that Nietzsche used the word to mean aspects concerning mind and Freud to express his theory of "sublimating" libido, at the present time people again have come to use this word to mean psychology more often than before. Tracing its origin to ages before the Modern age, far earlier alchemists used this word not to mean one of this two senses, but to "mean both matter and mentality simultaneously". Originally alchemy had been both chemistry and mysticism, according to advances of science and diversification of knowledge, in alchemy there appeared two schools one of which pursued understanding of chemical phenomenon the other of which placed importance on contemplation of mysticism, then according to this progress, the meaning and usage of alchemical words such as "sublimate" and "solution" have separated into two directions to physical expression and mental expression.


By the way, what does it mean that alchemists used words concerning chemical experimentation with implication of mentality? It is that on trying chemical experimentation alchemists "projected their mind on the process in which a new matter was made" from two matters because of a chemical reaction. Saying minutely, to Medieval alchemists who had little knowledge about science, the fact that a whole new matter has been made from a reaction of two matter was very mysterious phenomenon, and that acted on their hearts. In addition to this mysterious feeling, considering their ignorance of science, they might have stated this mysterious phenomenon by their mentality rather than theories or knowledge, and in that process their sprits might have effected on their course of explanation, then for that causes they might have had to explain phenomenon with projecting unconsciously their own mental contents on matters. To alchemists not only there occurred phenomenon before their eyes, but their inner heart, realm of unconsciousness, were activated, and in those inspired mental states they projected mental contents including unconscious ones on chemical phenomenon. Then chemical phenomenon become a metaphor implying contents in unconsciousness, which obtains clear concreteness. To say, they found "symbolism" in chemical phenomenon. All substances might have been symbols that inspired their depth of mind. (Incidentally, the origin of the word "inspire" concerns "breathe")


In alchemy there are those mental process. Therefore, we cannot deny its value, saying such absurd superstition is nonsense because it is impossible to make gold, but (in addition to scientific contribution of finding basis which relates modern chemistry) in a material process of trying to make a new matter there occurred a mental progress at the same time, in which mental constituents important to their life were symbolized in chemical phenomenon and then appeared as embodiment, and by those concrete cognition to unconscious contents they deepened cognition to life and heart, so we thinking, it can be said that alchemy has very big spiritual values. We also, dispelling from alchemy the superstitions of seeking gold or precious stones, and seeing the mental aspect rather than material aspect, our unconscious drive and fear may be "sublimed" and be in states of "solution" with our hearts "inspired" by documents alchemists bequeathed.



「sublimate(昇華する、固体が気化する、崇高にする)」や「solution(溶解、解決)」などの言葉は、中世の錬金術師が好んで使った言葉なのですが、それぞれが二重の意味をもっていて、一方は物理的または化学的な意味でありもう一方は心理的または精神的な意味です。「昇華するsublimete」という言葉は、科学が発展した近代以降ではドライアイスの気化に代表される個体が気体になるという化学的プロセスを意味する言葉として使われることの方が多かったのですが、ニーチェが頻繁に精神的なことに関する意味で使ったり、フロイトがリビドーの「昇華」の理論として使ったりしたようなことがあって、現代では再び心理的な意味で用いることがかなり多くなった言葉です。近代以前の起源を辿れば、ずっと昔の錬金術師はどちらかの意味で使っているのではなく、「同時に物質的かつ精神的な意味で」使っていたようです。そしてもともと錬金術というのは最初は化学でありながら神秘主義であったのですが、科学の進歩と知識の多様化とともに、錬金術においてはっきりと科学的な現象理解へ向かっていく錬金術師と神秘主義的な内観を重視する錬金術師とに二つに分流していき、その過程にあわせて、「sublimate」や「solution」などの錬金術的言語の意味や用法も、一方は物質的表現へもう一方は精神的表現へと分かれていったようです。


ところで、錬金術師が精神的な意味合いで化学実験に関する言葉を使っていたということはどういうことか。それは、錬金術師が、化学実験をするにおいて、化学反応によって物質と物質から「新しい物質ができる過程に、自分の心理を投影していた」ということです。詳しく述べてみると、科学的な知識のほとんどなかった中世の錬金術師にとっては、2つの物質の反応から全く新しい第3のものができるというのはとても神秘的な現象であり、錬金術師の心にも強く作用したでしょう。その神秘感に加えて、現象を科学的な知識もたないことも考えると、彼らはその神秘的現象を理論や知識より自分の見方によって述べることになり、その際に自身の精神が説明過程に影響を及ぼしている、そういうわけで彼らは自分の心理的内容を無意識的に物質に投影しながら現象を説明しなければならなかったということになります。 錬金術師においては眼前に化学的な反応が現象しているだけではなく、心の内面、無意識の領域が活性化されている、そしてそういうインスパイアーされた精神状態で化学現象に対する無意識の心理を含めた心理の投影の過程がおこっていた。化学現象は無意識の内容の隠喩になり、その心的内容は鮮明な具体性をもつ。つまり化学現象に「象徴性」を見出しているということです。物質全てが彼らの心の深みをインスパイアーする象徴だったのかもしれません。(ちなみに、インスパイアーinspireという言葉は呼吸に関わる由来をもっています)


練金術においてはそういう心理的過程が起こっているのです。だから、金を生み出すなんていうことは不可能であるからそんな馬鹿げた迷信的なことは無意味だ、と私たちはその価値を安易に否定してしまってよいものではなく、(実際に近代化学に通じるもの基礎となるものを発見した科学的功績に加えて)、新しい物質を生み出そうとする物質的過程の中で心理的過程も同時に起こっていて、術師の生命にとって重要な心的要素が化学現象に象徴されていた、つまり具現物として現象していた、そしてこういう無意識の内容の具現的認識によって彼らは生命・心に対する精神的な認識を深めていた、そう考えると錬金術は大きな精神的価値をもってるのです。私たちも、金や宝石を求めるという馬鹿げた迷信を錬金術から払いのけ、物質的な面より精神的な面をみるのなら、錬金術師の残した文献に心が「inspire」されて無意識の欲動や不安などが「sublime」されたり「solution」な状態になったりするかもしれません。

STONE TRIANGLE

 




ニーチェのメタファーと遠近法

 「ニイチェだけに限らない、俺はすべての強力な思想家の表現のうちに、 しばしば、人の思索はもうこれ以上登る事が出来まいと思われるような頂をみつける。・・・頂まで登りつめた言葉は、そこでほとんど意味を失うかと思われる程震えている。 絶望の表現ではないが絶望的に緊張している。無意味ではないが絶えず動揺して 意味を固定し難い。」

(小林秀雄『Xへの手紙』)


 前に書いた「メタファー的世界観」では、メタファーと概念の違いや起源、それらの能動性の差、どのように前者が具体的で後者が抽象的であるのか、真理と虚構の相対性、などについてその全体的な外観を比喩を使って漠然とだけしかし高い濃度で短い文章で示してみたが、この文章では、メタファーと概念の相対性、それらの起源の同一性、メタファーと遠近法(パースペクティヴ)の関係、ニーチェのいう‘解釈’とは何か、最終的には力への意志としての世界における‘解釈’、などについて、メタファーや遠近法ついて特に比喩の達人であるニーチェに関連させながら、出来るだけ細かく、前のように酷く絡み合った濃い感じではなく紐解いたかたちで、見てきたいと思う。ニーチェという特殊な文章を書く人の言説、しかもその文章の特殊性自体に関わるメタファーに関する言説を参考にすることは、ある意味、メタファーについての特殊な議論になってしまうかもしれないのだが、メタファーというもの自体が概念という一般性を与えるものとは対照的に特殊性を与えるものだということを考えると、一般的な概念的な方法でメタファーについて論じてみてもそれは概念の側からみたメタファーでしかないかもしれないのであって、だから、メタファーという特殊な言語用法について考察するにあたって、ニーチェという特殊な文体を用いる人がメタファーについてどう考えていたかを見るということは、ある意味ではかなり重要であると思う。ここではメタファーや遠近法について書くので、ニーチェ自身やニーチェの哲学の、人間的倫理的側面よりも、認識論的な側面をみることを中心にして書いていく。どちらにしてもニーチェという人物においては、人間的な面と認識論的な面が表裏一体にあって、どちらもかなりの頻度で干渉しあって哲学を構成しているので、メタファーについて書こうとおもっても、結局はニーチェの人間的特性が現れてしまうものである。ニーチェは人間的な面と認識論的な面が一体にあるだけではなく、ニーチェの文章というのは、形式と内容も一体であると思う。つまり形式から独立した主張内容を内容から独立した形式で表現しているというのではなく、形式と内容は互いに干渉しあっていて、相互依存してはじめてニーチェの文章は意味をなしているのである。とにかく、そういうニーチェがメタファーというものについてどう考えていたかを中心において、自分の個人的な考えも交えながら、メタファー、概念、遠近法などについて書いていきます。

エーテル

 お酒と煙で火遊び! そんなことないから焼けに妬けたディスプレイと名無しのモニュメントに、映る幻影たちが、ヴァルキリーの硬質でメタリックな光沢のドレスと、三日月のお守り、愛の出産、星空華やぐ妖魔の風に、彼女らの産声が、ガラスの保育器に閉じ込められた赤子の泣き叫び、母の腕と乳を求めて4000年の聖者の白い死後数秒間の行列を仄めかす。命! 絶命した! その真っ黒は、悪戯ものの石柱をボウガンで貫いた真実の唇の、天のHAARP・死・コードの行間、連符、恋愛は初恋と酒瓶の底に沈みこんだ曲線と屈折に結晶化された「永遠」によって、白い閃光に果てない滅びの歌。


歌声たちは弦の振動の白の中に、生きた人、生きてる人、食物連鎖の罪業を、ペンタゴン・オーケストラの儚げなシュレッターにかけた。拷問? それは単に人生108年の話であって、ファンファーレが鳴った死後数秒間の白の除幕後は、ただひたすらに、時間のない1日とシジューク日、月はボタンで、日は縫い針、待ち針、糸のフレア、心臓のプロミネンス、青白い眼差しと赤ピンクの宇宙の膜、水風船が、死者のニルヴァーナを守り続けていた。ではなぜ、次の誕生まで全ての愛おしい魂は苦悶し悲鳴を上げ続ける? 生きていた億万の、錆びて感電した可哀想な電車の客や、サーキットの白線を真似て遊ぶ渡り鳥たちや、電線を間違えた友愛思想で手首切り裂くピアノ線にした悪魔どもが、朗らかに痛みを受け入れた筈の死者を、あくまで数千年、数百年、悲しい靴が泣きじゃくるアスファルトの轟音で蹂躙し続けるから。生者は縄を悪魔に見るが、虐げられた死者たちの行進と楽団たちは、踏み外してはゲシュタルトの耳と口が王の道化になり永遠の無になってしまうコンビニの地下牢に神の許すまで数百億年監禁されないように、生前の支配層が自殺者や虐殺された方の死後も妥協せずに仕掛けた大縄とびに、青い炎のアルコールに力をもらい、足元に垣間見える方向不明のありとあらゆる地獄の業火、血と骨を、避けて、目で破壊し、唇で祝福し、その死者たち、次の精液にたどり着くまで、黄色の洞窟のような永劫を掠めるパイプラインを緋色に焼かれ続けるダチョウのごとき神速で突破したとき、悪魔どもにも聖者にも託された次の卵に、柔らかに告知されるだろう!


草花の中で星の尾が霧をばら撒いたとき、ビルの隙間が笛の穴に、屋上とタワーがパイプオルガンになって、宇宙風は語った。

お前たちはまだ生きていた。だから、お前は生き続ける。

俺は千回だって死ねるだろう。愛のためなら、愛ですぐに、山上からガルーダが羽毛に蜘蛛の糸を引かせて、街々の灯火を、人の骨格と腺を、涙の軌跡を繋いだとき、限りなく止むことのない歓喜の声が聞こえてきたから、蘇生する。奴らのビンゴはかすり傷。君に紙飛行機を。地底湖に眠るまだ冥にいる彼の言伝を書いて、電脳の流鏑馬手の折り方と撃ち方で。届いて欲しいのは、たった11年後の恋! ピアノ線だって泣けると信じて、シャチをシャコ貝に、簪のような遺跡に、ホルンの群れを戦神の愛した足跡に。

ソクラテスとプラトンの邂逅

 ソクラテスというのは、かなりお喋りで好戦的な議論好きであり、饗宴の席で権威者を相手に飲めば飲むほど饒舌をふるいっていたような人物であったといわれることもある。当時、知者が「言論」を以って国政に参加することができたアテネにおいて、もの知りぶった学者やソフィスト、権威の座に属する者、専門家を相手に、相手が本当の知には至ってないことに気づいてそれを実際に知らしめるために、巧妙に論点を誘導しながらユーモア溢れる知性で議論を加速させて相手を議論で打ち負かせ、本当の知や精神の完成と相手の知識や技術がいかに無縁であるかを、劇的に知らしめてきて、議論に勝った暁には自分の信じる本質的な知を相手に諭してきた。そしてこれが重要なのだが、学者ぶった人には狡猾に食ってかかるものの、まだ教育の過程にある青年たちに対しては奢り高ぶらずに謙虚に自分の無知を装って見せて、若く無教養な青年が立脚しているところのものの知識のない地平に、自ら身を置き、青年と同じように考えながら、針金が糸を導くように、密接に心理も理性も絡ませながら議論を進め青年たちを教育していった。この青年たちと同じ地点に立脚しながら話を進めるという点と、権威を持つ者や学者・専門家を打ち負かすという点により、政治的野望を持っていたり反抗期であったり当時の知者たちに懐疑をもっていたりする若い青年たちから熱烈な支持を受け、何人かの弟子ができた。


そのうちの一人がかの偉大なるプラトンである。しかしプラトンというのは議論好きでおしゃべり好きなユーモアに飛んだソクラテスとは違い、本質的には学者肌の天性をもっていて、おそらく行動や議論で哲学の本来的なあり方を示したソクラテスとは違い、知の総合や体系化や著作化を希求する性質を多分に持っていた。ソクラテスというのは文字化され本にされた言葉を、誤解を生むという理由などで、忌み嫌っていた人物で、その場限りの現在進行形の口頭の言葉の投げ掛け合いを重要視していたし、当時のアテネの自然学に限界を感じ本当に専門家が物事の摂理を解っているのかを懐疑した。とにかくリアルタイムの議論を愛し、体系化され著作化された言葉を嫌っていた。一方でプラトンというのは、まさにギリシャ哲学であったり、その他も社会や政治のあり方であったりを、膨大な量の著作によって、現代まで続く人類の歴史に残した著述家であった。だが、それが対話編がほとんどを成していることを考えると、ソクラテスの強い影響下にあったことが伺えるし、なによりもプラトンの著作の主人公にはソクラテスが多い。知性の性質が多分に外交的で刹那的であったソクラテスに対し、プラトンは著作に生涯を費やしたこと以外にも、著作内容にイデアという永遠に普遍的なものが見られるように、プラトンの知性には内向的であり体系性や普遍性や超時間性が見られる。


真理を本当の意味において追求するという点を除けば二人は全く違う性質を持っていたのだが、プラトンはソクラテスにおいての何よりも人格やカリスマに傾倒し、おそらく総合的知力という面においては自分よりも劣るかもしれない師を、こよなく尊敬し続けた。ソクラテスの人間的カリスマとプラトンの圧倒的知力、前者の現場における逆説的な巧妙な議論の進め方と、後者の正しい知の総体を綜合して永遠に後代に残したいという願望は、対象的であるが、こういう真逆のタイプが師弟関係にあったからこそ、二人の哲学が今尚、輝かしく残っているのであろう。プラトンがいないソクラテスは実在不明の伝説として影を薄めていただろうし、ソクラテスがいないプラトンを想像してみると、ソクラテス以前のギリシャ哲学のように、対話編のない哲学体系としてギリシャ哲学の単なる一派としてそれほど大きな成果はあげていなかっただろう。


ファラデーは物理現象に対する時空的直観によって具体的に電気や磁力が空間に及ぼす作用を把握していたが数学的記述は苦手としていたようで、数学に長けた理論物理学者マックスウェルとの協働によって19世紀の物理学の主要な功績の一つである電磁場理論の学説を打ち立てた。ルナンによるとイエス・キリストは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けただけでなく、その語り方を学んだといわれているが、洗礼者ヨハネと出会わなかったイエス・キリストを想定すれば、語り方を知らない宗教的奇人として単なる奇人伝に列せられていたのではないか、という考えもあり得ることである。このように、偉大だが性質の違う二人の邂逅というのは、歴史や学術史に大きな足跡を残すものだ。

読書のすすめ

 読書は人生を豊かにしてくれるとよく言われるが、まさにその通りであり、読書によって齎されるものの価値は大きく、効能も大きい。読書で得られるのは決して知識だけではなく、数えきれないほど得られるものがあることは、読書家の当たり前に知ることであり、科学者も脳機能の向上の観点から読書によって得られるメリットが多いとされている。


 人間は言葉を恒常的に使用する生き物であり、脳内には無数の言語に関する回路が根付いているのだから、その言語に関する無数の数の回路が言語全般に反応しうる可能的な量と言うのは膨大であり、人間には莫大な量の言語の総体が開かれていると言えよう。


日常から人間は言語を使用すると言っても、特に読書をしない場合というのは、使われる言語の体系というのは限定されたものであるのだが、読書などの言語的活動をすることで、膨大な量の言語の総体に開かれることになり、日常の限定された言語の体系から大きくはみ出した量の言語が人の精神を駆け巡り得ることになる。


人間の古来から今も続いている多様な言語活動において、あらゆる物、事柄、出来事、状況、感情、心理、イメージ、観念、概念が名付けられ、名辞が与えられているとともに、それらの相互関係が文法に則った一定数の言語で起き並べられ、意味が与えられている。普段の日常生活ではとくに気をとめないような心理やイメージであったり、日常では出会わない出来事であったり、社会生活では特に必要とされないアカデミックな事柄であったりも、作家や学者によって言葉のまとまりで表現され、形や意味が与えられている。つまり、人間には言語の総体が開かれていると同時に、未知の世界が、それに含まれる事象に対して人が言語で名付けと意味付けを行っているということから、どこまでも開かれているのである。

ニーチェと陶酔

 西洋の精神史を地の底から反転させようとした革命的な哲学者。時代に徹底して立ち向かった戦闘的な反逆者。あらゆる文体、多彩な言葉遣いを自由自在に操る筋金入りの文章家。思想を表現したというよりも身を以って思想の源流というべきものを体現した思想家。表現したい思想内容によって自分の自我までをも風と戯れるように変幻自在に変えてしまう道化師。大地がその思想を語るための噴火口となった憤怒の野人。生に対して、今まで類を見ないような角度から鋭いメスを入れ、血腥くもその奥底までもを暴露してみせた暴露狂。得体の知れない誰も歩いたこともないようなところを途方もなく歩き続け、そこに記念碑を打ちたて、多くの人を当惑させながらも歴史を歩く人々の行進を無理やり曲げ、人間の歴史の道筋に新しい道を示してみせた、精神の冒険家。孤独に打ちひしがれながら本物の虚無を知り、その虚無という完全な白紙に、自分の血で言葉を記した詩人。どのように形容してみても、ニーチェという驚くべき人物は、その形容の枠からすり抜けてしまう。



 ニーチェは、「7歳という馬鹿げて早い時期に」(自伝)、人々が何を言おうと自分がその圏外であるということ、その言葉が自分の心には一切響かないということを、悟ってしまったような、極めて孤独な人物である。だいたい驚くべき人物(たとえばカントは驚くほど頭がよかっただろうけれど、驚くべき人物ではない。驚くべき人物とは、文字通り人を驚嘆させ、人をわくわくさせ、人を謎の迷宮に導くような、魅惑する力ときに恐怖させる力をもった人物のことである)は、生涯こういう孤独に悩まされる。しかしニーチェは、悩まない、むしろ多数と供にいることを嘆く。「孤独に悩むのは偉大さの反証」であるとまで雄雄しくしかも嘲笑的に断言し、孤独を誇りに思い、孤独と戯れるような高貴さが、人を偉大にするという。真似できない。その孤独のなかで外部のあらゆるものを批判し、攻撃しつくしたが、つまりニーチェは思想のうちでは極めて攻撃的であったが、もちろん実際に個人を攻撃するようなことはない。既成の思想、不定の価値のみを攻撃するのであって、狂気直前の混乱した自伝の(後に編集者によって取り除かれた)草稿などを除いて、特定の人をめったに風刺したりはしない。そしてその不定の価値に対する攻撃とは、人類の生を高めるために行っているのである。