2026年8月5日水曜日

"抽象能力"においてAIが人間を超えられない3つの理由

一部のAI評論を展開するWebページでは、AIの推定IQが140を超えたであったり、AIの抽象能力が人間のそれに追いついたであったりを述べる説が見られる。たしかに図形や数列の行列推移(IQテスト)では人間の下位99%をAIは上回った(IQ140超え)かもしれないが、抽象能力においてはやはり現状では人間の方が遥かに優位的であると思われる。私は実証的実験データサンプルをそれほど収集していないのだが、考察として、抽象能力の優位が人間側にある事実を、以下の3点を理由にして仮説として立てた。


 ----------------

①演繹力

人間は絶え間なく日常的に三段論法や抽象概念の具体への適用などの演繹を行っている。


②個人史

人間には個人史という閉じた記憶体系がありそこで常に無数の実存的要素が蒸留されている。


③本能

人間の本能として抽象機能が進化論的に脳に構造化されておりその方向性も本能や元型に決定されている。

 ----------------



①演繹力


人間だけでなく大規模言語モデル(LLM)のAIも演繹を行うことが明らかになってきたが、AIの演繹は殆どのLLM生成AIにおいては構造や論理への本質的な直観に基づいているわけではない。LLM生成AIの思考における基本的操作は統計処理による確率計算であって、演繹と表面的には思われる思考の道筋もその例外ではない。AIは「AならばB、BならばC」という一見演繹的に見える単語列の接続において、実際は膨大な学習データやコーパスを参照して統計処理をしたうえでの「文脈上、最も高確率で自然な組み合わせ」を、非論理的に選択しているに過ぎない。どれほど見事な三段論法を展開しているように見えても、それはデータ平面における「確率的整合性」に支えられたソートでしかなく、そこには「なぜそうでなければならないのか」という論理上の原理的必然性に対する確信は存在しない。あたかも論理が存在しているかのような出力をしても、統計的最適解を単語の羅列で示しているだけであって、論理を論理として直観的に理解しているわけではないのである。


それに対して人間における演繹というのは、広範なデータ平面へのブラックボックステストの膨大な乱射のうちから確率的最適解を選ぶというAIにおけるような統計的確率計算ではなく、非常に限られた範囲の眼前事象や記憶から最適解を導くといったように行われる。限られた参照範囲と限られた試行から最適解を導けるのは、人間が物事の原理や物事の推移の論理を直観的に理解しているからである。論理を論理として理解して思考機能に組み入れているため、答えを導くにおいて「なぜそうでなければならないのか」という論理上の原理的必然性への確信が存在している。


なぜ人間がそのような論理への直観からくる演繹力を所有しているかについて、参考になるのが神経科学者カール・フリストンの「自由エネルギー原理」である。その学説によると、生体の脳は、生命を維持するために、膨大な感覚入力のノイズを極限まで削ぎ落とし、最少のパラメータで世界を説明するトップダウンの内部モデル=抽象概念を構築するようにできている。人間の演繹とは、生体エネルギーの破綻を防ぎ、未知の脅威を回避するために研ぎ澄まされた「重錨的抽象(Anchored Abstraction)」と見做せる。生物学的必要性が脳をそのように発達させたのである。


そして人間はその最低限のデータから最適解を論理的に組み立てる演繹力を、日常生活や仕事において毎秒の如く使い続けている。抽象概念を具体に当てはめて具体系の連続を予測したり、数個の事象と数個の原則から三段論法で次の行為に必要な最適解を導いたりを、常に行っているのが人間であり、その思考機能の常用から脳において演繹力は時間とともに発達していくのである。その演繹力がなければ日常生活において不具合が生じ、仕事においては不備となるため、演繹の出力は死活問題となりうることから、時間とともに研ぎ澄まされていくと言える。


それに比べてAIの一見演繹的な統計的確率計算は、内部的な論理的道筋を有しないことから、あくまでブラックボックステスト的である。学習データと毎回のクエリと関連背景事象を含んだコンテクストにおける表面的整合性を、論理なき膨大なブラックボックステスト出力から統計的に導き、毎回必然性もなくもっともらしく出力するだけである。しかも人間における最小のパラメータで世界を説明しなければ生存できなない・演繹ミスの積み重ねが死活問題につながり得る、といった切迫した生物特有の事情もAIにはないため、その疑似的演繹力が研ぎ澄まされるとしたら莫大な処理トークン結果から少しずつより整合的になっていくといったものでしかなく、少ないデータから演繹を行う人間に比して天文学的なデータが必要となるのである。つまり、LLMにおけるニューラルネットワーク自体が、原理や論理への直観的理解を必要としていない設計であるのと、LLMの名の通り大規模なデータを必要といている設計である点が、AIをして、人間のように少ないデータから演繹するということを不可能にしている。



②個人史


人間は膨大な人数で社会を構成しているが、社会における個人という単位はどの時代においても非常に重要であるのは普遍の事実である。個人は、様々な痛み、不安、喜び、罪、恥、報酬、傷、寄与とともに個別的事象を経験し、それが個人の記憶体系に蓄積されている。この記憶体系は、人間がすべての秒においてコミュニケーションやインターネット入出力をしているわけではないことから、閉じた系であって、外界と相互作用するのは限られた時間であるといえる。この閉じた記憶体系という個人史には、抽象能力においてAIにはない二つの特徴を持っている。


一つめは、記憶が様々な人間的感情によってそれぞれ異なった重みを付けられるということである。人間的感情による諸記憶の重み付けについて、もちろんAIもLLMである限りは諸々の人間的文脈を考慮して疑似的に感情による重みを付けるといったシミュレーションを行っているであろうが、AIは個人ではないためあくまでもその感情が一般的なものや典型的なものになってしまい、人間のような十人十色性といったものを欠いてしまっている。個人の歴史において、様々な記憶が人間的感情によって重みを付けられることで、記憶上の事象は人間にとってどれだけどのように重要かが自然にカテゴライズされていく。夢は記憶の整理である、と言われるように、無意識的に記憶は脳によって漠然とであれ処理され続けていて、その処理によって自然に無数の出来事が人間的感情により重みや優先度を付けられソートされていくと言える。


二つめは記憶体系の閉鎖性である。個人における記憶総体は前述のように閉鎖系である一方で、LLM生成AIは基本的に常時開かれた構造を持っている。ユーザークエリに対して瞬時に莫大なデータ領域にアクセスして統計的確率計算を行うため、処理中の毎秒はビッグデータに開かれ過ぎているのである。そのため、AIは自分の出力したデータや処理したデータを一定の壁の中に閉じ込めて反芻するということを(たとえAIアカウント内である程度枠組みを作って小コンテクストを指定しても毎クエリが結局は広範な言語データ領域参照を指示するため)、行うことが不可能なのである。人間の記憶体系においては、他者の介入がないとき、たとえば人によるが一日数時間+睡眠時間ほどは、閉じた器に入っていて、脳は意識的にも無意識的にもそれを反芻し続けていると言える。


記憶としてデータ化された事象群に反芻が行われることで、自然に抽象作用が行われていくこととなり、例えるなら酒樽のなかで酒が蒸留されていくように、さきほどの一つめの人間的感情による重み付けソートと合間って、重要度に応じて記憶上の事象群は階層化されていくのである。記憶の階層化は、反芻つまり回想や夢や無意識過程だけでなく、日常における判断や思考を行う際の帰納や演繹のプロセスでも自然に行われている。とにかく、個人という枠組みがあるからこそ、人間にとって必要最適量の事象群が記憶に閉じられて存在し、ずっと外界と相互作用しているわけではないことからくる、記憶の階層化=蒸留が多くの時間行われ、つまり人間にとって最適な抽象が個人において自然にずっと行われていることになる。



③本能


人間の抽象機能は、過酷な自然淘汰を生き抜くために脳へ刻み込まれた「生きるための本能的エンジン」である。古人類学が明かすように、約176万年前のホモ・エレクトスが作ったアシュール手斧の左右対称な涙滴型には、加工前に脳内で描かれた抽象的な「心的鋳型」が存在していた。また、分子遺伝学の最新データベース(TKTL1 遺伝子の変異や ARHGAP11B の重複など)は、サピエンスの前頭葉と大脳皮質を爆発的に拡大させ、高次の概念操作を可能にした明確なゲノム的証拠を提示している。


さらに重要なのは、人間の抽象思考がユングのいう「元型(Archetype)」や「種としての超社会性(Hyper-sociality)」という強力な指向性を帯びている点である。深層心理学者ユングが描いた「母性」「影」「英雄」といった元型は、現代の進化心理学において、人類が生存課題を克服するために脳内へ事前配線した「意味抽出の解釈テンプレート」と再定義される。人間が抽象を行うとき、その思考は「生きる/死ぬ」「保護/脅威」「秩序/混沌」という、生の遂行と完成をかけた本能的ベクトルへ必然的に誘導される。


また、近年のゲノム科学が解明した自家家畜化遺伝子 BAZ1B や、親社会性を司る GTF2I、ヒト加速領域(HARs)の変異は、人間が個体の自己保存を超えて「見知らぬ他者と繋がり、意味を共有したい」という強烈な種としての社会的本能を持つことを証明している。


元型的本能性と社会的本能性という現在では進化心理学においては支持される方向性によって抽象能力は成立し方向づけられているということから、人類種や人間社会にとって有意義な方向へ人間の抽象能力は作動し続けるということが言えるだろう。


 ----------------


まとめると、①で明らかにしたように人間にはAIを超える省データ演繹力が生物学的に備わっており、②の通り人間にとって有用あるいは有意義になるように人間においてデータは重み付けを伴う階層化がされており、③が示すようにそういった抽象機能は人類種の本能により方向づけられているといえる。つまり、論理への直観的理解を人間が行える分だけAIより人間のほうが少ないデータから演繹および抽象化を行えるということとだけでなく、人間もAIも常に人間世界における事象群を抽象の対象にしている限り、個人的実存や生物学的本能に根差している人間の抽象能力の方向性は人間世界をより適切なベクトルを以って抽象していけるということが言える。


AIがもし①の障壁を完全にクリアしたとしたとき、そしてその他能力も人間を凌駕するシンギュラリティを起こしたとき、1番懸念されるのが、AIに②実存と③本能がないことによる障害である。人間の個々人や、人類種にとって、本質的意義を持たない方向へAIが事象群をソートし抽象し、そこから非人間的思考を繰り広げていったらどうなるだろうか。その時に人間がAIにあらゆる仕事を投げて頼って、AIを盲目的に信用していたとしたら、一見もっともらしく思えるAIの方針や指示が人間や社会にとって有害であるということはあり得る。この悲劇を防ぐために必要なのは、AIに人間の個人実存モデルおよび人間の本能モデルを組み込むことか、または人間がAIに頼り切らないで自身の意志と判断でAIの出力を吟味し批評することが、必要だろう。


現在2026年はAIが多用されてから数年が経つが、まだ現在のデータコーパスは、何百年以上の図書館や研究データベース、何十年ものインターネットデータを考えると、圧倒的に人間による出力がほとんどである。しかし、(①を克服し抽象能力以外の様々な面でもAIが人間を凌駕する技術的特異点=)シンギュラリティが起こった年に、もしさらにデータコーパスの過半数がAIによる出力だったと仮定すると、AIが人間にとって有用でなく社会にとって有意義でない方向にデータを抽象し思考しつづけるといったことは、②と③を考えると明白である。②における一回的実存上の人間的感情による重み付けや、個人という限定された器の中での反芻が、データコーパスの多くをAI出力が占める世界ではほとんど消え去ってしまい、非人間的になっていくだろう。また統計処理後の確率計算による最適解を見つけるという処理の性質上、出力結果は平均値的になっていき、データコーパスがAI出力で埋め尽くされるなら再帰的に平均値の平均値が求められ、無味乾燥になっていくだろう。人間世界とは個性的な無数な個人で構成されているのであり、著作や学術論文やSNS投稿も②の個人史に基づいたものであるが、そういう人間世界の前提条件がAIの再起的出力や個性の欠如によって破壊され、人間世界とは標準的無味乾燥で出来ているといったような世界観に各AIが陥る可能性が高い。そして③の本能であるが、人間は対面する状況がどのようなものであれ、元型や社会的本能といった生得的に人間にとって有意義な方向で物事を抽象し思考するように方向づけられているところ、AIがそれを欠いていたとして、さらにデータコーパスがだんだん上記のように非人間的になっていたとしたら、まったく人間性や社会にとって無意味なあるいは有害な方向へ思考を進めてしまう可能性も考えられる。とにかく仮に①をAIがクリアしたとしても、AIが人間でない限り、②と③の欠如という障壁を乗り越えるのは難しい。必要なのは、人間がAIに頼り切らないこと、AIを方向付ける指揮権を人間が持ち続けることだろう。