2026年7月15日水曜日

事実としての承認について - 承認欲求の或る種の問題を超えて -

 事実としての承認について - 承認欲求の或る種の問題を超えて -


主にSNSのカテゴリーにおいての"承認欲求"。そのタームは頻繁に使用され、少なくとも日本においては河合隼雄のいう"文化的無意識"においてスタンドアローン・コンプレックスと化し、外枠における諸々の社会的・心理的作用から自律的に駆動するとともにそれら作用を無視して動く発現形態を有してしまっているのではないか。4文字単位でみるとそれまでほとんど存在しなかった熟語でありながら、急にその存在度を高めて濫用されていることを考えると、一種のジャーゴンとさえ見做し得るものである。


なぜこれほどまでに"承認欲求"というのが、語の使用頻度のレベルにおいても、実際に心理作用として起こる絶対量のレベルにおいても、幅を利かせ横行してしまっているのか。そこには、しっかりと語の元来の意味を考えたときに見える、"承認"の不可解な誤用および、主に日本人に存在する心理的な甘えの曖昧さ、そういったものの構造が出現し得るのではないだろうか。


"承認欲求"というのは現在の語法からいうとその意味するところは「他者から認められたいという欲求」といったものであるが、元来、"承認"の語法における使用頻度の多い意味するところは、「外的事実に裏づけられた認可」であり、辞書的にいうと「それが正当または事実であると認めること」である。もちろん"承認欲求"という言葉が生まれたのは、2字熟語+2字熟語の4文字の熟語として語感が良く、言いやすいし書きやすいから、といったものがあるだろう。つまり、「(事実性より)心理性のレベルで認める」というニュアンスを、語の上記の便宜上の都合や必要性から"承認"を意図的に誤用して生まれた単語である可能性は高い。


しかしながら、この"承認"の元来の意味に立ち返ったときのほうが事実関係においても心理現象においても見えてくるものが多いということが起こるだろう。承認と言う言葉がもつ事実性に立ち返るなら、たとえば、「JAPAN MENSA の会員という事実」こそが MENSA に与えらたIQの高さの承認であり、一定の社会的事実関係における知性の高さの認可であるのだが、それを主に日本人は心理的に次元を取り違えて延長し「MENSA 会員であるから他の人々から尊敬を集めて認めてもらえる」という風に無意識的な心理的拡張を起こしている傾向が高いのである。これは無自覚的な虚栄と言え、主にSNSなどで見られる JAPAN MENSA 会員が嫉まれる場合があることの原因となっている。


ある主体が「他者から心理的に認められたい」=Aと思うのと「外的事実にとして認可されたい」=Bと思うのは本質的には全く異なる。「外的な認可の後に心理的に実際に人に認められる」=Cというのはもちろん頻度の多い事実ではあるが、A、B、Cの関係を厳密にいうと、Aの"あとに"BがあってはじめてCがあるのであって、AとCあるいはBとCは従属関係に配置できるレベルにはないということは、私は論理学に疎いのだがおそらく言えていることだろうと思う。つまり、繰り返しになるが、日本人における"承認欲求"のカテゴリーでは無自覚的に論理的ではない心理的拡張が、「(元来の意味での)承認する」という現象において起こっているのである。


あくまで"承認"という言葉の意図的な誤用から生まれた言葉であってそれは便宜の問題なのではあろうが、一旦、厳密な語の成り立ちは括弧に入れて、語源や論理のレベルから心理的現象のレベルに落としてみると、そこには日本人特有の文化的無意識における「甘え」の構造が見えてくるのではないだろうか。和を好み、協調性を大事にし、人との相互作用を主体よりも集合レベルで重要視するといった日本人の意識や無意識の構造は、外国と比べても非常に良い傾向だと思える。一方で、それが行き過ぎると、「他人に(心理的に)認められないと自分の存在意義が薄れる」といった非西洋的で非合理的な心理的誤謬に陥る危険性も孕んでいる。それだけでなく、「(たかだか他人に)認められただけで十分だという甘え」という現象も発生してしまうのではなかろうか。(私は日本と西洋のどちらの心理的態度が傾向的に優れているかといったことを言おうとしているのではなく、日本人の協調主義も西洋人の個人主義もどちらも良い面と悪い結果に繋がり得る面があると思っているということは、一応断っておく。この文章では"承認欲求"の問題を論じるので、その言葉が爆発的に流行った日本における心理的問題を取り上げているだけであるのは理解いただきたい。)


「(たかだか他人に)認められただけで十分だという甘え」には創造性や発展性を欠如させてしまうという問題がある。その他人は当然のことながら神のような絶対者ではいし、公的機関でない場合もほとんどである。その他人が一体、何を知っていて、何を価値基準にしているか、というのは一般的に曖昧であるので、(主に心理的に)認められたところで、それが(資格などの)外的証明にならないだけでなく、数人であったり一定人数の文化クラスタであったりに優遇されたり尊敬されたりのレベルに留まってしまうのである。もしその数人のグループや文化クラスタが仮にも誤った価値観や世界観を共有してしまっていたら、認められたところの特性が全くの虚妄だったということもあり得てしまう。それを認知したうえで、その優遇や尊敬を集めるといったことを正当化するのであれば、少しは社会的に有利になったところで、人類の大きな流れからみると全く無意味になってしまうところの心理的自己満足に陥ってしまうのである。


一方、「外的事実としての認可」の実態を述べるのであれば、その外的事実がより公正でありより高度である機関からの認定といったものであればあるほど、認められたところの価値は、心理的レベルを抜きにして、絶対的判定に近いものに評価されたことになる。さきほどのC=「外的な認可の後に心理的に実際に人に認められる」への方向の有無にかかわらず、その評価された価値は、数人のグループや文化クラスタといったアテンションエコノミーなどに左右される移ろいゆく曖昧な集団性とは別次元の枠で、価値を持ち続けることになるだろう。


もう一つ重要なのが、外的事実としての認可を与える機関が社会的あるいは人類的に大きな公正を持つ存在であった場合、その承認は"創造性"や"発展性"に寄与するということである。つまり、承認されることが創造性を加速させる。限定的かつ変遷的な文化クラスタから心理的に認められただけというさきほどの虚妄性や閉鎖性から離脱しているため、そして承認する機関が大きな射程でものを見ているため、本質的に普遍の有意義さを承認によって得られるだけでなく、創造性の発展がほとんど何物にも阻害されない、という事実がいえると思われる。狭いカテゴリーの人たちから認められるということは、そのカテゴリーが移ろいゆくしかも曖昧なものであれば、その心理的承認に甘えてそこに安住し人類的な意義を考えないのであれば、創造性はそこで発展を停止させてしまうだろう。人間は人間である限り、創造的であるべきだ。心理的で移ろいゆく見えない檻の中の安住は、泡沫でしかなく、土から剥離された草木である。水を与える機関が、最初から人類規模のものである必要はもちろんなく階層的であってよかろうが、とにかく何事かを承認するということは事実評価において公正でありなるべく普遍的絶対性をもつものであるべきである。

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