Nirvana のギターボーカルでありほとんどの楽曲の作詞と作曲を担当しているカート・コバーンが生まれた1967年のアメリカは、ベトナム戦争の激化で反戦感情が高まっており、また公民権運動が推し進められていたり、ソ連との冷戦の緊張度も最高潮に達するなど、国内や国際の情勢が激動するなかで、街頭抗議、デモ、反戦抗議、暴動、社会不安、および文化の変革、などで特徴付けることができる、大衆や文化においても動乱があった期間に属する。1967年サンフランシスコで開催された「サマー・オブ・ラブ」では数万の若者が自由を掲げ、新しい文化、社会体験のために集結し、愛と平和、フリーセックスとドラッグ、自由恋愛、反戦、反抗やカウンターカルチャーなどを主張した。カート・コバーンはこの1967年という、サンフランシスコを中心とする西海岸でヒッピー運動が最高潮に達してカウンターカルチャーが産声を上げたような年に西海岸の北にあるワシントン州アバディーンで生まれた。
夏に若者が自由をむき出しにして終結したサンフランシスコと比べてカートの生まれたアバディーンは、雨が多くて陰鬱な空気に覆われた小さな町であり、その頃は経済的な閉塞感が漂っており、若者の間では未来への希望よりも焦燥感や諦念が蔓延していた。そのような土地で自動車整備工の父とウェイトレスの母の間に生を受けたカートは、幼いころから絵を描くことが好きでビートルズに熱中していた感受性が強く感情の豊かな子供であり、のちに悩まされる双極性障害を思わせるエピソードとして、誕生日プレゼントとして親に首掛け式の小さなドラムセットを買ってもらったとき、狂喜してその小さなドラムを叩きながら町を歩き回ったというエピソードがある。しかしカートが8歳のときに両親が離婚し、そのあとの不安定な家庭環境もあわせてこの離婚は、幼い彼に深刻な傷を与え、おそらく一生続くような疎外感と内向性を与えたとみられる。父親に預けられていたときはトレーラーハウスで The Beatles 以外にも Aerosmith、Black Sabbath、Led Zeppelin などのハードロックを聴いていたといわれているが、その音の力が強く攻撃的なディストーションの多い音楽を愛好していた一方では、学校には馴染むことのできない内向的な少年であり、図書館で独り文学作品を読みふけるような学校生活を送っていた。カートがそのとき好きだった文学はウィリアム・バロウズやチャールズ・ブコウスキーといったアンダーグラウンドあるいはアウトサイダーといったようなジャンルに属するものであったが、これらの文学は生涯続く大衆文化や社会通念など既存の価値観に反抗する性質を形作っていったといわれ、思春期にカートの内的な世界はポップスやロックだけでなく社会性から距離を置いているような文学や芸術を通して形成されていったとみられる。
そういう離婚と不安定な家庭環境に傷つき内向的な感性を形成していったカートを大きく変えたのは高校時代におけるパンクロックとの出会いである。ハイスクールでカートは Melvins のリーダー、バズ・オズボーンと出会いパンクロックの世界に導かれることになる。Sex Pistols や Iggy & The Stooges などのイギリスやアメリカを代表するパンクバンドや、当時は現在よりも生々しく荒々しかったハードコア・パンク、たとえば Black Flag などの音楽を好きになり、様式美や技工に偏りがちだった当時主流のヘヴィメタルに馴染めなかったカートは、パンクに現れているような剝き出しの生命力、社会体制への怒り、通俗的な価値観に対する破壊衝動、そして権威などから脱した個人主義などを、若い心的エネルギーに任せて粗削りなサウンドともに形成していくことになる。
1987年、カートはベーシスト:クリス・ノボセリックと邂逅して Nirvana を結成。当初はバンド名は流動的に変わっていき、Fecal Matter、Sellouts、Skid Row などを経て最終的に Nirvana というバンド名で定着することになる。Nirvana とは仏教用語の「涅槃」を意味しており、輪廻転生における生命の苦しみの循環から完全に脱却した至高の安らぎを伴う悟りの境地のことである。パンクバンドは攻撃的、本能的、反抗的、挑発的と形容できるような名前を付けることが多い中、カートは「美しい素敵な名前にしたかった」という美学によって、このアメリカのバンドとしては珍しい響きの脱俗的なバンド名をクリスとのバンドに与えた。そして1987年、ファーストアルバム『Bleach』をわずか600ドルの低予算で数回のスタジオセッションだけで完成させたが、そのサウンドはハードコア・パンクの影響が強くみられ、粗野かつ攻撃的であり、綺麗な音には作られておらず、初期衝動が強く表れたものになっている。しかし『Bleach』の中でも About a Girl という曲だけは後の全米を席巻するようなバンドのヒットを思わせる非常にキャッチーかつ美しいメロディでできていると同時に、Aメロは単純な2コードの繰り返しである一方でBメロは不可解とも思われる理論を無視しながらも必然的にカートらしい音楽になっているような不思議なコード進行でできており、カートの音楽的才能が現れている。このアルバムはインディーズとしてはまずまずの成功を納め、アメリカ国内やヨーロッパへのツアーを開始するが、カートはドラミングには不満を抱えていた。
1990年に当時のドラマー:チャド・チャニングが解雇され、デイヴ・グロールが加入したことにより、Nirvana は新たな推進力と確かな音楽的土台を得ることになる。デイヴ・グロールのドラムは、確かな技術力に裏打ちされた非常に力強い演奏であり、Nirvana の音楽の武器であるラフでありながら呼吸やエネルギーが団結したような素晴らしいグルーヴ感を作るうえで重要な役割を果たしているだけでなく、バンド音楽に精通し音楽知識に造詣の深いデイヴは、カートの独特のリズム感や不可解なコード進行や曲の展開に合わせることのできる知性や音楽力を持っていた。彼のドラムの音はメインストリームで後に成功に至るための必要不可欠な要素だと思われる。また内向的でナーヴァスなカートとは対照的にデイヴは明るくコミュニケーション力があり、3人の中ではスポークスマン的な役割を大きく担っていくことになったのも、反抗的なバンドが成功するためには欠かせない重要な要素だろう。
(続く Nevermind 以後)