2023年10月31日火曜日

正義について

もちろん10代やそれ以前から、正義感が強かったり警察官になりたいと思う人はいるが、多くの場合、人は、社会に組み込まれ、その中で生活し、人間関係を構築しつつ会社などの組織内で活動をすることによって、だんだんと良心が強化され深化しながら良心が捉える機微の多様性も増していくものである。視聴覚や思考で捉えたさまざまな出来事の集積、それらに対する解釈や内省などの蓄積で、良心は、目の前の人の言動だけでなく、だんだんと社会全体の公益、人間全般の善へと触知範囲が広がっていき、まっとうな人格を持った人においてはやがて壮年期には正義といった観念を人格の重要な要素として抱くようになっていく。もちろん若くして飛躍的にそうさせるような出来事というのもあり、典型的な例としては目の前で友人が殺されたことから警察官を目指すことになった、などが挙げられると思われる。私の場合は、或る大規模かつマイナーであまり知られていない犯罪に直面したことから、比較的若いうちに正義といった観念を強く持つようになった。


正義は人をより社会的にする。正義を持つことにより、社会に蔓延る問題点を改善しようとすることに義務や使命感を感じ、社会公益の上昇に寄与することが人として意義のあることであると感じるようになる。あるいはある文脈では、個々人が個人的な良心をそれぞれ強く持つことにより世界はより平和になるということも言われることがある。しかしそこには社会というレベルが脱落しているように思われる。人間は社会的生き物であるからには、やはり個人のそれぞれの合計が世界を決定するというより、個人間の関係性の総体であるところの社会というものが個人をある程度決定する、少なくとも左右するというのはよく起こり、その社会を良くしていくことが個々人の内面や行状を良くしていくことに繋がると考えられる。個人の良心と世界平和という理念の中間層にありその二極を有機的に繋ぐところのものである社会というレベルにおける、諸々の制度、習慣、考え方、価値基準、行動様式などを、具体的により良い方向に持っていくことは、世界平和の理念の実現にも繋がるし、個々人の幸福にも繋がっていくものである。正義はそれを当たり前のように知っている。社会全般の改善が平和の実現や個人の幸福に繋がるということだけでなく、その改善に自分が参画することが、自分自身の個の生きる意義を増させるということも知っている。義務感によるものではなく、内発的なものとして社会公益のために献身することは、不特定の他者の幸福であるだけでなく、自身の幸福にもなるのである。そのような正義によって、人は社会を良くしていくものとして機能し、すなわちより社会的な存在になっていく。

2023年10月11日水曜日

ブラック・オパール


 

そっと夢 咲かせたの 光る銀河 閉じ込めて

あの子が 眺めてる 月の女神 首飾り


夜の花 輝き 風の中 妖精

さあこの世忘れて


あの子の目は ブラックオパール 

星の心臓 燃えた夜

孔雀の羽 散乱して 

狂った色の 夢が煌く



死んでも 夢見るの 青い蝶々 永遠に


呪われた宝石 夜に舞う幻

さあ黒い翼で


夢の中へ 逆さの塔 

死んだ鳥たち 飛び交って

壊れた空 骨の雨に 

騒いだ霊が 月に歌うよ



夜の花 輝き 風の中 妖精

さあこの世忘れて


あの子の目は ブラックオパール 

星の心臓 燃えた夜

孔雀の羽 散乱して 

狂った色の 夢が煌く

2023年10月9日月曜日

メタファー的世界観

 冬のある日、幼い子供が、降ってくる雪をみて、雪を「ちょうちょ」と表現したとしたら、これは一種のメタファーであるといえる。


フロベールは弟子のモーパッサンに「世界には一つとして同じ木、同じ石はない」と教えた。具体的な個々の雪は、大きさも、色も、それを構成する結晶の形も光の反射の具合も、他の個々の雪とは同じものは一つとしてない。その全て違うたくさんの個々の雪を人間が観察していく過程で、類似のあるいは共通の性質だけが抽象されて、細かい相違点は切り捨てられ、一般的抽象概念としての雪ができる。前人間的に雪という抽象概念があって二次的に個々の雪があるのではなく、たくさんの個々の雪をたくさん人間が見て知ることによって、人間は個々の雪を抽象しながら雪に対しての、ニーチェ風に言えば一般的な遠近法(=perspective 以下、perspective のことを遠近法と記すことにする)を"創出し"、そうやってはじめて抽象概念としての雪ができあがった。ところで先ほどの子供の雪の形容において、ある雪を「ちょうちょ」と表現するときも、実は原理的にはまったく同じようなことがおこっているのである。


「多種多様な物事の中から、類似している点をとりあげ、類似していない点を捨てることによって概念がしだいに形成されて来るかぎり、比喩がその基盤になっている。」(ショーペンハウアー)


つまり、雪と蝶の性質の類似点(例えば、宙を舞うものという性質)を、子供が見つけ出し、雪のことを蝶と表現した。これは子供が創出した一つの遠近法、解釈法である。この場合の過程では「その子供が見た雪」と「蝶」という"二つの"ものの類似点が見つけ出されて子供は雪を蝶と表現したことになる。一夫、抽象的な概念としての雪は、"無数の"個々の雪の類似点が探され相違点が捨てられて、一つの遠近法として出来上がる。原理的には同じことが起こっているのである。


雪のような物的なものに関してでなくても一般的に認識や感覚や心理に関しての概念も同じく、そのようなことがいえる。たとえば「悲しみ」にもいろいろなものがあってどれ一つとして全く同じ悲しみはないが、似たような感情を集め抽象していくことによって、「悲しみ」という名詞が対応する一つの概念に統一される。白い猫と黒い猫は見た目として異なるが、「猫」という抽象概念によって「猫」という同じ名前が与えられる。「白い」という形容詞も、いろいろな個々の白い印象が抽象されてはじめて、できた概念に名付けられた言葉である。概念や名辞は、さきほどの子供の雪の形容やショーペンハウアーの引用文を考えるなら、大量のメタファー作業、つまり類似点を抜き出し相違点を無視する抽象の作業によって出来たものであるといえる。

2023年10月8日日曜日

消えたオパール

 一昨日の雨と一緒に振ってきたダイヤモンドを燃やして火をつけて、朝の風には烏の声、乱れたヴィーナスの髪がビルの線という線になった時、放火の雲、禁止の窓、座興の電線、それらの綾取りに絞殺され、渡り鳥の95番目が死んだ。大切にしまっていたブラックオパールを堕ちていく鳥の死体目掛け投げようか。

 

女「そのヴィオラの弓どこで盗んだん」

男「山の麓に落ちてたん拾ってきた」

女「それで何をするの」

男「弦の張力でブラックオパールを落ちてく鳥の死体に当てる」

女「馬鹿」

 

雲から滴った凍った精液が電柱と電柱が描く五線紙に絡んだとき、ヴィオラの弓は壊れ、オパールとともに音符を象ったので、彼は鳥の死体に興味を無くした。その大きな音符が浮遊し漂う空、雲に霞んだ太陽の仄かな眼光が雲の切れ間から光のハープを作っているところに、彼のニヒリズムは新しい音楽を当てはめて、空の下で営為する街並みに対して哄笑と殺しの歌を与えた。殺されたのは朝の囁かな音楽に嬉しそうに向かって飛んできた蛙一匹だけだった。


格調高いコンサートホールでの偉大な音楽や奏者への恐怖から解放されたヴィオラの弓は、壊れながらも楽しそうに、彼の腕の気まぐれのままに、哀れな蛙の首の後ろ側を刺し貫いた。蛙の死体を投げた彼は、ただただ悲しくなったが、悲しみの対象は蛙の霊魂でも自身の良心でもなく、マグマから空高くまで監獄とされてしまった地球がやっと不意に遊ぶことのできたひと時を、彼の悪戯が壊してしまったかもしれないこと、そのことにふと大きな悲しみを感じたのだった。火をつけろ。

2023年10月6日金曜日

集約としての抽象概念の効能

哲学には抽象的な言葉がよく出てくる。企業においては、「抽象的」というのは「曖昧」「漠然としている」といった意味でネガティブな意味で使われることも多い。では、哲学というのは曖昧なものなのか。決してそうではなく、非常に厳密な思考が要求される分野である。抽象的思考に慣れていない、あるいは抽象とは何なのかを一切考えたことのないような、庶民的な尺度から見ると抽象概念は曖昧に思えるだけであって、抽象が意味するところは決して曖昧とか漠然という様態ではなく、元来意味するところは「様々な具体から共通点を抜き出すこと」である。


Wikipedia「抽象化」によると

「思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を重点的に抜き出して他は捨て去る方法である。」


『心理学辞典』によると

「個々の事物に含まれている諸特性のうち,ある規準に関して共通するいくつかの特性だけが抽象された結果として形成される心的過程」


たとえば、「犬」「猫」「ネズミ」「熊」の上位概念は「哺乳類」であり、それは犬、猫、ネズミ、ゾウ、熊の共通点を抜き出して纏めてられた概念であるといえる。生物学においてはもちろん、この概念を形成するにあたって、無数の具体的な動物への観察や解剖などが為されるのであるが、それは生物学という学問を成立させるにあたって取られた科学的手法であって、一般の子供が「哺乳類」という概念を哺乳類という言葉を知らずとも自然に脳内に形成する過程は、抽象である。哺乳類より上位概念にあたる「動物」に含まれるところの、目、口があり、動き、食べるなどの特徴に照らし合わせて対象の哺乳類の具体例をとらえつつ、哺乳類を他の動物と分かつ特徴であるところの、四本の手足があり、毛があって、体温が高い、などを見分け、次第に哺乳類という概念が子供の中に形成される。この過程は抽象である。抽象という行為は子供も当たり前に行っていることであり、物事を曖昧にするのではなく、むしろ物事を明確にカテゴライズすることにつながる思考方法である。


抽象概念が曖昧だと思われるのは、抽象概念そのものの性質によるのではなく、抽象概念にあまり親しんでいない人たちがそれを適切に理解できないことからくる受け手側の知力の欠如、あるいは本来具体例を出すべき状況や文脈において一般例やその性質を挙げてしまう使い手の語法の不適切さから来ているものであり、前述のように本来は抽象という行為には、多様な事象が膨大な量で動きながら存在している人間界・自然界における事象群を明確にカテゴライズする効果がある。


この抽象の過程で、個々の事物や物事に含まれる諸性質の共通点が抜き出され、より抽象的な概念が形作られていくわけであるが、それはつまり裏返せば、抽象概念は数多くの個々の事物に当てはまる性質を述べている、ということを意味している。

2023年10月5日木曜日

ドストエフスキーのポリフォニーを可能にしたもの

 ドストエフスキーの小説においては、登場人物の言動も作中の物事も非常にダイナミックに動乱しているが、そのダイナミズムを可能にした創作の手法は、ミハイル・バフチンの言うように「ポリフォニー」にある。ポリフォニーは「多声音楽」を意味する音楽用語であるが、ドストエフスキーの小説の登場人物が非常によく喋り、ときには2~3ページにわたる長広舌をまくしたて、それが2人の対話においてだけではなく多人数が居合わせる場面でも為されることから、複数人の「声」の織り成す作品と特徴づけることは可能であり、「ポリフォニー」という用語をドストエフスキーの小説の際立った特徴に割り当てたのは、極めて正確な表現であると思われる。


ポリフォニーに対立する音楽用語は「モノフォニー」である。19世紀前後の西洋主知主義はモノフォニーによる思想の発言が顕著に見られる。宗教的にいうとキリスト教という一神論の影響下にあり、政治的にも絶対主義が蔓延ることの多かった西洋において、その知性は、唯一性が目指された。バフチンの言葉を引用するなら「単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパ合理主義が、近代におけるモノローグ原理を強化し、これが思想活動のあらゆる領域に浸透した。」(『ドストエフスキーの詩学』) 思想家の著作であれ文豪の作品であれ、そのモノローグ原理の影響は強く、形式的にも内容的にも著作家はその原理に無意識に規定されてきた。思想家は自分の唯一の思想を構築しその思想を単一の作者としての主体で緻密に述べる。作家は自分の表現したい思想や世界を一つ設定し、それを表現するために部品として登場人物や出来事を並べていく。


このモノフォニー性を覆したのがドストエフスキーのポリフォニーであった。おそらく作家自身が多数の声を自身に内蔵していたのであろう。ドストエフスキーはキリスト教への信と不信を同時に抱えていたし、世を生きる人間としてもキリスト教精神に基づいた極めて高い倫理と、賭博にみられるような不道徳を同時に所有していた。おそらく矛盾を抱えてしまうほど物事に影響をうけやすく、ある真理や思想に熱く傾倒しやすい、非常に多感な精神を持っていたのだろう。また、矛盾を抱えるだけでなく、おそらく他者の人格や思想に対しての、強い感受性、受け入れる度量、簡単に疎外しない寛容さ、他者の心理を体験できる感情移入の能力なども持っていたのだろう。とにかくドストエフスキーの生活や作品や人格を辿れば、きりがないほど多種多様な要素が犇めき合っている。


このドストエフスキーという人物の精神は、西洋主知主義・近代合理主義の世界に簡単に相容れるものではなく、その枠に収まらずにむしろ文学の形式に革命的なモデルを提供したものであった。バフチンは「カーニバル小説」とドストエフスキーの小説を呼称している。形式として固定性が強く、一義的に一つの論理が順次展開していく思考方法、一つの道徳によって人の生活が規定される生活様式、などに特徴づけられるところの近代西洋的なモデルを、キリスト者的生活・近代的社会生活とするなら、その外的な拘束力をもつ枠組みを一時的にでも打ち破り人が解放的に欲動を現実化させる「祭り」のように、カーニバル文学としてドストエフスキーの小説は展開している。つまり登場人物の個々人が、社会的拘束や作品の設定による拘束を打破する個の強さを持ち、それぞれが己を強く主張して、ぶつかり合いながら自立駆動しているのである。

2023年10月4日水曜日

ショーペンハウアーにおける他学派排斥の理由

  ショーペンハウアーは、同時代の哲学、具体的にいうとフィヒテ、シェリング、ヘーゲルの哲学に対しては、極めて批判的だったことで有名で、特にヘーゲルの哲学、というかヘーゲル自身に対しては、ほとんどどの著作でも酷評、それも、「真のペテン師」「言葉のがらくた」「精神病院」のような暴言をつかって下ろすような揶揄を、言葉を変えながら徹底的に繰り返している。引用しておくと

「初々しい若い時に、無意味なヘーゲル流の哲学によって、首筋を違えて腐った頭は、……早くからまったく空っぽな言葉のがらくたを、哲学的思想とみなすようになる。」

(『意志と表象としての世界』・第二版への序文)

「さてもし、……あのいわゆるヘーゲルの奴の哲学は、膨大な量のごまかしを述べ、あらゆる知力を麻痺させ、あらゆる真の思考を止めさせ、言語をまったく不法に誤って用いることによって、完全に空虚で、意味を欠き、無思慮な、それゆえその結果が示しているように、まったく人を愚かにする、言葉のがらくたからなる似非哲学であると私が言うとすると、私は全く正しいというべきである。……さらにヘーゲルは、彼以前の誰とも違って、無意味なことを殴り書きしたのであり、そのためあたかも自分が精神病院にいるように感じないで、ヘーゲルが最も賞賛を受けている、例の『精神現象学』を読むことができる人は、精神病院に入院する資格があると私がさらに言うならば、同じように私は正しいというべきであろう。」

(『倫理学の二つの根本問題』)


このようにショーペンハウアーは、かなり感情的になってまでヘーゲルを攻撃している。もちろん多少行き過ぎている感も受けるが、ショーペンハウアーのような本気で自分が正しいと確信する世界観を打ち出そうとする哲学者というのは、世界の本質的な考察に関しては、真剣で、本気で世界の謎を解明しようと試み、その試みから得られたものを、人に述べ伝え、教えたい、そういう強い欲求を持っているのであって、自分が本質的でないと思った学派の哲学が一般に流布してしまうのは、哲学者自身にとっては、個人的に屈辱的であるだけでなく、後代の人が世界の本質に関して多大な誤解を引き継いでしまうという人類の知性に関する大きな懸念を催してしまうのである。自分はそれほどヘーゲルの哲学にはなじんでいなくて他の哲学者の著作から伺えるヘーゲル哲学を一部知っているだけなので、もちろん個人的にヘーゲルを批判したいわけでもショーペンハウアーを擁護したいわけでもないが、とにかく、ショーペンハウアーが、同時代の哲学をこれほどまでにこき下ろしたのは、彼がどれだけ哲学に対して真剣であったかを示すものであると思っている。単に仕事柄から哲学に取り込む、あるいは趣味として哲学をする、のではなく、強い信念を持って宇宙や生命の謎に答えを与えようと真剣に苦悩する、そういう哲学者は、自分が間違っていると判断した学説に対しては、真剣に戦いを挑むのである。


そしてショーペンハウアーは、哲学というのがそうあるべきものだと考えている。引用すると

「……詩人の作品は妨げあうことなく、すべて相並んで共存しうるばかりか、それらのうちでもっとも異質的な作品でさえ、同一の精神によってひとしく享受され鑑賞されることができるのに、これに対して哲学者の体系は、それぞれ生まれ出るやいなや、あたかも即位式当日のアジアのスルタンのように、はやくもそのすべての兄弟達の没落を担っているのである。……詩人たちの作品は子羊たちのように、柔和に相並んで生をたのしんでいるのに、哲学上の著作は生まれつきの猛獣であり、……そして今に至るまで、……すべてが互いに力尽きるまで激戦し合っているのである。……なぜなら、……哲学者の著作は、読者の考えをすっかり覆そうとするのであり、読者がこの種のものに関して今まで学び信じてきた一切のものをみずからの誤謬とし、それに費やしてきた時間と労力を無駄と断じ、そしてはじめから出直すことを求める。……」

(『哲学とその方法について』4)

2023年10月3日火曜日

哲学者による言語批判

 ニーチェとウィトゲンシュタインは、カントとヘーゲルを中心とするドイツ観念論だけでなく、ソクラテス・プラトンに始まる西洋哲学全般を批判した。ニーチェもウィトゲンシュタインも、あらゆる「形而上学」やそこで行われる「言語」使用を批判したのだが、その批判はまったく別の側面から為され、言語が価値を持つ尺度についての考えも、二人で全く違うものとなっている。


ニーチェがウィトゲンシュタインに影響を与えた形跡はあまりないようには思われるが、二人ともショーペンハウアーから別様ではあるが多大な影響を受けていることは確かである。ショーペンハウアーは哲学における言語使用の批判の先駆者であった。ショーペンハウアーは空虚な擬似概念が記号化されたにすぎないような一部の哲学における言語使用への批判を、とくにヘーゲルやその影響下の哲学者たちに対して行った。


ニーチェとウィトゲンシュタインは全く別の哲学を行ったが、共通点としては、二人とも最終的には「意志としての世界」「物自体」を認めず「表象としての世界」「現象」のみを認めた、少なくとも前者の言語化は認めず、後者の言語化を認めたということである。また二人とも、あらゆる現象に何らの必然性や因果性を認めず、すべての現象は偶然の産物であり、後に人間の理性のうちで因果性が与えられているにすぎない、と見做している点や、経験的な世界では一切の先験的なものは存在しないという点などでも共通している。


もちろん相違点もたくさんあり、哲学や日常における言語批判において、二人の考えのそれぞれの特徴や違いを考える。ウィトゲンシュタインは、言語の限界というのを設定し、言語の限界を超えるあらゆる言説は無意味であり、哲学的思弁の多くは言語の領域を超えてしまっていると批判する。ウィトゲンシュタインにとって言語が明確に表現できる領域とは、事実や経験に基づいているもののみであり、よって言語使用は自然科学的である限りにおいて有意味である。ウィトゲンシュタインによれば、「善」「美」「生」などのような、事実や経験から導かれる事象ではなく世界に関する包括的な観念といえるものについて、言葉で語るのは不可能であり、だから、それらについて哲学的に議論するのは空虚でしかない。哲学者達の言葉とは、言語の使用できる限界を超えたものについて饒舌を奮っているにすぎず、言語の誤用から生まれたものでしかないと言うのである。価値や倫理のような非経験的非事実的な命題に関しては、言葉で語ることはできない。実践や具体例によってのみ示される。カントは理性の限界を示し、物自体の世界については人間の認識は届き得ないとしたが、ウィトゲンシュタインにとっては、そのカントの言説ですら、言葉の限界を超えた饒舌にすぎないのである。物自体という超越的なものや、理性の先験的な性質を設定して、たとえ物自体が認識できないという理性の限界を示したとしても、それらの設定やその説明を基にして哲学を論じている時点で、それは、経験的ではなく、よってそれらの命題は言葉で表現したところで意味はないと言うのである。

2023年10月2日月曜日

心的現象における象徴

 心的現象における象徴


-------Wikipedia 「象徴」より-------

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1%E5%BE%B4

象徴(しょうちょう)は、抽象的な概念を、より具体的な物事や形によって表現すること、また、その表現に用いられたもの[1]。一般に、英語 symbol(フランス語 symbole)の訳語であるが[2]、翻訳語に共通する混乱がみられ、使用者によって、表象とも解釈されることもある[3]。

ハトは平和の象徴である - 鳩という具体的な動物が、平和という観念を表現する[1]。

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「象徴」「シンボル」というのは人間の営みの中でも精神的なレベルにおいてはかなり重要な役割を持っているものだと思われる。哲学者、言語学者、心理学者、色々なジャンルの学者が象徴について考察しているのだが、彼らは「記号」を「象徴」に対置させて議論しているか、「記号」の中に含まれてる特殊例として「象徴」を定義づけているか、そのどちらかであることが多い。ここでは、「象徴」が「記号」に対するものとして心にどのように顕れ作用するかを取り扱う。「象徴」は外部からの所与として人間の心に強く作用するものである。また、人間の心の運動によって事象に象徴性というのが与えられたりすることもあるというように、内側から外部的事象に付与されるところのものでもある。この象徴と人の心の関係、およびその動性を考えるにあたって、古典的な心理学が用いていた「意識」と「無意識」の構図を踏まえて論及していく。


人間には「言葉」という、他の色んな他人と意味をある程度共有している共通のツールがある。しかしもちろん、言葉では表現できないものを色々と感じ取っているのも人間の特徴である。ところで、言葉と言うのは、それが指し示す物・事象や事柄についての、一般的な意味を概念として示すにすぎない。つまり、林檎というのは数的にも無数にあり、形態的にも多種多様であるが、林檎という言葉が指し示す概念は一つである。その概念が表す性質は、無数の林檎の性質を抽象して共通点を抜き出して一つに纏め上げたもの、つまり無数の林檎の平均値である。林檎のような実態のあるものの名詞だけでなく、観念的なことを意味する言葉においても、ある程度そういうことが言えるのであり、とにかく、言葉というのは一般性の枠組みを規定するものに過ぎない。一般性を保って人と交換できて意味を一義的に理解しあえる言葉を、この考察の中では「記号」であると定義しておく。


ここで意識と無意識の構図を持ち出してみる。言語化できているということは意識によってその言語化対象の心的内容物を捕らえることができているということが前提になっているのだから、一般的用法における言語というのは、人々の意識の側において人々間で交換されるものである。言語は物事を明確に把握したり、他者と共通の意味性を安心して交換したりするために、生み出されたものである。一つの意味を表す表象であり他者と一義的に交換できる表象を記号とするなら、言語は基本的に記号性を強く持っている。人の顕在的な意識領域、他人とコミュニケートできる範囲での識域というのは、ほとんど記号的言語によって成り立っているといってもいい。


一方、無意識の領域の心的現象というのは、それが意識的な思考によって明確化できないのでたやすく外界へ表出できないという意味において、そこで体験する心理的過程が少なくとも体験している最中の本人にとっては独自のものであり一般性を持つ言語によって表現し辛く、他人と記号的交換によって共有することが出来ない傾向が強い。言語化困難であるが、無理やりにでも言語化しようとするとどうなるだろうか。ここで出現するものの一つとして、象徴が挙げられる。