2025年11月2日日曜日

私はA子

 今から打ち合わせに行かないと……まず起きてからカーテンを開け、昼の日差しを髪と手首に浴びた。昨日は27時まで1人で飲んでいてたけど、心をお酒に泳がせて捕まえた真理はひとつだけ。

「私は今、歌ってあの世に行くしか生きる方法のない、アンプに繋がれたマネキンのような女」

あの人たち、ギターやベースやドラムスは、まだ私の歌声の秘密を知っていない。彼らの心をこっそり飲んでいるこの喉から発するのは、スタジオの音たちすべてをダンスの鱗にして室内すべてを私の小宇宙に閉じ込め、水槽のように彼らを捕らえるスパイダーネット。マリオネットたちになって音楽を奏でている彼らに、アリスが微笑んだことは何回あったかしら。今日も、骨から咲く花々がアリスを楽しませ、私たちの肉体は次の世界への扉を開くといいのだけど……


⭐︎2026/4/18


-続く

2025年10月30日木曜日

300の恩寵

遠い未来の大天使 ガブリエイルの教え子が

割れた空から舞い降りて 乗っ取る眼球 600個


浮世の罪 渦の彼方 「彼」の笛

音を聴く 呪われた脳 300個


風に浮かんだ視界から 「天使」は全て儚んで

呪いを解いた 愛の火と 消えゆく命 神聖に


幾億の 羽の行列 鳥の骨

白光の 星の出血 死んだ空


そして「天使」は言った

「あなたたちの天は あるべくして一回死んだ」



2025年4月11日金曜日

私を刺し抜いて

 

サイキ「私 今は天使で あなただけを殺すの」

ソフィア「貴方は誰だったの? それはタナトス」

サイキ「愛でしかなかったことには間違いない。その目と、先にある神殿には失われていく世界があった。その痛みには、窓という窓がタロットカードになったときの、ビルも人も、神経系の植物になるほどの、命の血があった。もっと血を流そうか?」

ソフィア「生きてても仕方ないとはいっても、貴方に私の血を流す権利はどこからきたのかわからない」

サイキ「一人は23世紀に持って行かないと、新しい聖者たちがつまらなくなるだろう。ミューズは常にいても、受肉しなければならない」

ソフィア「私はサクリファイス?]

サイキ「単にタイムリープするだけだと考えてもらえばいい」

ソフィア「目なんていらないけど、今生きてる世界が平和になってほしい。200年後に行ったとして、今生きてる病める命、滅びていく街、崩壊した国の秩序、壊されていく自然は、どうするの」

サイキ「私が妖精にでもなって、アニミズムを起こし続ければいいはなし。とりあえず、21世紀の街々からは逃げなさい」

ソフィア「あなたは私たちより、人が死なないための愛はあるの? それを見るまでこの目は差し出さない」

サイキ「未来の人たちの共同体と、今の人たちの億千の命を、アストレアにお願いして、天秤にかけてもらっている」

ソフィア「恋の日々も大事にしてほしい」

サイキ「恋の日々は消してから、母とグレートマザーに帰ること。月の近くの宇宙ステーションが高層ビルの上に移動したら、月も月経発作で不要なものを浄化して、モルヒネが降り注ぐだろうから」

ソフィア「何言っているかわからない」

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1. オフィス街で

2. 出会いと2回目の出会い

3. ソフィアという命名

4. ヘルメスと2000年代の世界秩序

5. 繁華街の路地裏での出来事

6. サクリファイスは受肉するか?

7. アンドロイドの実験体に出会う

8. 実験室ではなくあの世へ?

9. 未定

10. 新しいボーンコレクター

11. Lady Luck : 血肉のためのエルフとオルフェウスの骨

12. University の書庫

13. ソフィアのための自殺はAirの矢で

14. アストレアの本当の気持ち

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1. オフィス街で

1-1. 梨穂の日記


4月2日

(午前)

早朝、夢で声を聴いて目を覚ました。

「夜が自殺した。朝のために、人の目と爪と髪と肌と服を全て隠していた衣装を、太陽で燃やして」

私といえば聴く音楽は流行りのポップスで、読む本といえば東野圭吾さんの現実味のある事件と解決が書かれたミステリー小説。詩なんてまともに読んだことなかったし、日記を書くのは好きだけど、目で見たことを細かく書きながら、働いたり家でぼんやりしていたときに思ったこととかを、ありきたりに書くだけだった。どこからこんな言葉が降ってきたんだろう……。


朝この夢を見てから、ふと月に大きな槍を飛ばして突き刺す計画が何年か前にあったことを思い出し、実行されたのかしら、成功したとして、それが何の意味になるのかな?……って午前中の間は空想していた。その午前中のオフィスでは、生まれて初めて読んだ詩のような不思議な夢の続きであるかのように、視界の風景は白昼夢のように過ぎて行った。


今日は、新年度あたらしく働くコールセンターで出勤初日なのに。緊張も不安もなく、空気は希薄で、見るものは半分くらい半透明の箱庭の模型みたいで、幽霊が目の前に現れても怖くないような、そんな気分だった。


そして目の奥に赤紫色の水の矢が貫通したような、それでいて意識が透明になって、川に繋がって、見たことない漠然としたイメージがたくさん入ってくるような感覚。ビルの入り口の自動ドアはきっと、これからまたしんどいお仕事をしていく日々へ入るためではなく、新しい未来への予感に満ちた境界面だったのかもしれない。


とにかく今日は、色々なことが起こった。正確に言ったら、なにげない研修初日でありながら、あの夢の声のせいで、人も机やパソコンも日常の世界に色んな穴やドアを開けて、私の心に夢の向こうの世界から語り掛けていたのかもしれない。


15階のビルの8階のオフィスへは、出勤初日だったのにほとんど無意識でたどり着いて、オフィスの入り口に入った先の内線の電話機もほとんど意識せずに行ってたし、電話の先の事務の人と話してる時も、早朝の夢からその時までの記憶が漠然と脳裏をよぎりながら、ただ名前と最低限の挨拶をしていただけだと思う。


オフィスの受付から研修室までは、壁は真っ白で、道は普通より細く感じて(あとで確認したら、そうでもなかった)、どこか迷路といったような感じだった。貰ったばかりの首から下げたカードキーで研修室のドアを開くと、そこにはもう一人の新人女性と、どこか疲れ切っていそうな華奢な男性の研修講師がいた。


新人女性は秋田さん。研修講師は舘(たち)さん。


「舘」といったら高校の時に習った日本史で、ヤマト政権あたりだったかな?豪族が住む、集落の外れの屋敷のことを指す言葉だったと思う。漢字一文字の名前を聴くと、ひらがなで聴いた名前から漢字を自然に想像するけれど、まずその記憶がもやもやしたイメージとなって思い出されて、たちさんが自己紹介するときホワイトボードに「舘」と書いたとき、勝手にこの人は古風な人なんだろうと思った。髪は長くて、目は虚ろな二重で、病弱なのか色が白くて顔色はよくなくて、とにかく疲れていそう。今日の私みたいに、心ここにあらず、といったような感じ。ジャケットは真っ黒に近いグレーで、ネクタイは絞めていない。身長は少し高いけど、あまり男性的な威圧感というものがなくて、細美なのにどこか曲線美のあるシルエット。


秋田さんは、がんばって研修をこなしていくぞというような気概を、終始、手の仕草や姿勢を変えたりするときなどの挙動で放っていた。パンツスタイルのリクルートスーツで、少しだけふくよか。髪はショートで少しだけカールしていて、マニュキュアはしていなかった。


私は研修初日なのに、オフィスカジュアルってメールに書いてあったのを朦朧としていた朝に思い出して、そのあとは自動的に私服の中で少しフォーマルなのを選んでいた。ロングスカートに、襟のついたシャツ。グレーのカーデガン。


私はコールセンターや事務の仕事は慣れていたから、白昼夢みたいな午前の研修の座学は行儀よく座ってホワイトボードを眺め、舘さんの柔らかくも涼しげなナチュラルに頭に入ってくる声と言葉を聴きながら、たぶん問題なく情報セキュリティとか、会社の概要とか、お客様対応の指針とか、理解していと思う。


ランチは近くのカフェに行ったけど、食欲はなくて、自分の体が鎖骨から上しかないような希薄な感覚で、コーヒーとパンだけを頂いた。


コーヒーカップの円形の水面に、私の瞬きが映った。瞼の中に瞳があったかもわからないぐらい、今日の夢みたいな意識では、睫毛の軌跡だけしか見えなかった。


(午後)



-----続く


2025年4月7日月曜日

小説評3



『若きウェルテルの悩み』ゲーテ
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文学や自然を愛する感受性の強いウェルテルは片想いの相手シャルロッテに対する恋情を加速させて女神のように想う。彼女の結婚により、懊悩し命を絶つ。ロッテを取り巻く俗物的な人間関係と、ウェルテルの崇高な内面や田舎の綺麗な自然との対比が印象的。天才が仮託した美しい魂が滅んでいく悲劇はどこまでも悲しい。
『ロカ』中島らも

巨額の印税を抱えた無頼の老年作家が主人公。アルコール、ドラッグ、ロック、反骨など、中島らもらしさが詰まっている未完の小説。ドアーズ、ローリングストーンズなど昔のロックが好きな人には楽しめる要素がいっぱい。擦り切れた心象が多い中、ククへの片思いがピュア。
『サロメ』オスカー・ワイルド

キリストが生きていた時代のユダヤの王女サロメと、救世主の到来を激しい言葉で説く洗礼者ヨハネの話をモデルにした戯曲。芸術至上主義者の表現だけあり言葉が文芸の極みで、サロメの狂った恋とそれが齎した聖書に書かれている悲劇が、完璧な芸術と化している。
『その雪と血を』 ジョー・ネスボ

ノルウェーのマフィア界を舞台に、ハードボイルドであるが善人である主人公が波乱と恋愛のなか殺し屋をやっている話。北欧のクリスマス前の夜の寒さの中、女、ボス、裏切りに翻弄されながらどこか愚直に殺しをする主人公の姿は、雪の中で寂寞のリリカル。

『マツリカ・マジョルカ』相沢沙呼
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廃墟ビルに一人で住む魔女めいた謎の美少女マツリカさんと、主人公の冴えない男子高校生の話。学校の怪談、学校で起こるちょっとした事件を中心としたミステリー以外にも、恋愛や青春など色んな要素があるなか、なによりもマツリカさんの存在感が圧倒的。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹

全く異なった二つの世界が交互に語られて、終盤にいくにつれて両世界の繋がりの秘密が明かされていくという話の構成。世界が失われる悲しみや失われてほしくない願いが両主人公の回想や感慨を通して漂う、その悲哀の表現が文学的。
『プシュケの涙』柴村仁

冒頭で起こってしまった美術部の女子高生の死、その真相を解明していく変人っぽい男子という青春ミステリとして進行しながら、中盤で起こる男子の突然の逸脱行為。最後に近づくにつれその理由がだんだんわかってくる切なさに、恋愛の話としての面白みもある青春小説。

2025年4月5日土曜日

Nirvana の音楽と伝記

 Nirvana のギターボーカルでありほとんどの楽曲の作詞と作曲を担当しているカート・コバーンが生まれた1967年のアメリカは、ベトナム戦争の激化で反戦感情が高まっており、また公民権運動が推し進められていたり、ソ連との冷戦の緊張度も最高潮に達するなど、国内や国際の情勢が激動するなかで、街頭抗議、デモ、反戦抗議、暴動、社会不安、および文化の変革、などで特徴付けることができる、大衆や文化においても動乱があった期間に属する。1967年サンフランシスコで開催された「サマー・オブ・ラブ」では数万の若者が自由を掲げ、新しい文化、社会体験のために集結し、愛と平和、フリーセックスとドラッグ、自由恋愛、反戦、反抗やカウンターカルチャーなどを主張した。カート・コバーンはこの1967年という、サンフランシスコを中心とする西海岸でヒッピー運動が最高潮に達してカウンターカルチャーが産声を上げたような年に西海岸の北にあるワシントン州アバディーンで生まれた。


夏に若者が自由をむき出しにして終結したサンフランシスコと比べてカートの生まれたアバディーンは、雨が多くて陰鬱な空気に覆われた小さな町であり、その頃は経済的な閉塞感が漂っており、若者の間では未来への希望よりも焦燥感や諦念が蔓延していた。そのような土地で自動車整備工の父とウェイトレスの母の間に生を受けたカートは、幼いころから絵を描くことが好きでビートルズに熱中していた感受性が強く感情の豊かな子供であり、のちに悩まされる双極性障害を思わせるエピソードとして、誕生日プレゼントとして親に首掛け式の小さなドラムセットを買ってもらったとき、狂喜してその小さなドラムを叩きながら町を歩き回ったというエピソードがある。しかしカートが8歳のときに両親が離婚し、そのあとの不安定な家庭環境もあわせてこの離婚は、幼い彼に深刻な傷を与え、おそらく一生続くような疎外感と内向性を与えたとみられる。父親に預けられていたときはトレーラーハウスで The Beatles 以外にも Aerosmith、Black Sabbath、Led Zeppelin などのハードロックを聴いていたといわれているが、その音の力が強く攻撃的なディストーションの多い音楽を愛好していた一方では、学校には馴染むことのできない内向的な少年であり、図書館で独り文学作品を読みふけるような学校生活を送っていた。カートがそのとき好きだった文学はウィリアム・バロウズやチャールズ・ブコウスキーといったアンダーグラウンドあるいはアウトサイダーといったようなジャンルに属するものであったが、これらの文学は生涯続く大衆文化や社会通念など既存の価値観に反抗する性質を形作っていったといわれ、思春期にカートの内的な世界はポップスやロックだけでなく社会性から距離を置いているような文学や芸術を通して形成されていったとみられる。


そういう離婚と不安定な家庭環境に傷つき内向的な感性を形成していったカートを大きく変えたのは高校時代におけるパンクロックとの出会いである。ハイスクールでカートは Melvins のリーダー、バズ・オズボーンと出会いパンクロックの世界に導かれることになる。Sex Pistols や Iggy & The Stooges などのイギリスやアメリカを代表するパンクバンドや、当時は現在よりも生々しく荒々しかったハードコア・パンク、たとえば Black Flag などの音楽を好きになり、様式美や技工に偏りがちだった当時主流のヘヴィメタルに馴染めなかったカートは、パンクに現れているような剝き出しの生命力、社会体制への怒り、通俗的な価値観に対する破壊衝動、そして権威などから脱した個人主義などを、若い心的エネルギーに任せて粗削りなサウンドともに形成していくことになる。


1987年、カートはベーシスト:クリス・ノボセリックと邂逅して Nirvana を結成。当初はバンド名は流動的に変わっていき、Fecal Matter、Sellouts、Skid Row などを経て最終的に Nirvana というバンド名で定着することになる。Nirvana とは仏教用語の「涅槃」を意味しており、輪廻転生における生命の苦しみの循環から完全に脱却した至高の安らぎを伴う悟りの境地のことである。パンクバンドは攻撃的、本能的、反抗的、挑発的と形容できるような名前を付けることが多い中、カートは「美しい素敵な名前にしたかった」という美学によって、このアメリカのバンドとしては珍しい響きの脱俗的なバンド名をクリスとのバンドに与えた。そして1987年、ファーストアルバム『Bleach』をわずか600ドルの低予算で数回のスタジオセッションだけで完成させたが、そのサウンドはハードコア・パンクの影響が強くみられ、粗野かつ攻撃的であり、綺麗な音には作られておらず、初期衝動が強く表れたものになっている。しかし『Bleach』の中でも About a Girl という曲だけは後の全米を席巻するようなバンドのヒットを思わせる非常にキャッチーかつ美しいメロディでできていると同時に、Aメロは単純な2コードの繰り返しである一方でBメロは不可解とも思われる理論を無視しながらも必然的にカートらしい音楽になっているような不思議なコード進行でできており、カートの音楽的才能が現れている。このアルバムはインディーズとしてはまずまずの成功を納め、アメリカ国内やヨーロッパへのツアーを開始するが、カートはドラミングには不満を抱えていた。


1990年に当時のドラマー:チャド・チャニングが解雇され、デイヴ・グロールが加入したことにより、Nirvana は新たな推進力と確かな音楽的土台を得ることになる。デイヴ・グロールのドラムは、確かな技術力に裏打ちされた非常に力強い演奏であり、Nirvana の音楽の武器であるラフでありながら呼吸やエネルギーが団結したような素晴らしいグルーヴ感を作るうえで重要な役割を果たしているだけでなく、バンド音楽に精通し音楽知識に造詣の深いデイヴは、カートの独特のリズム感や不可解なコード進行や曲の展開に合わせることのできる知性や音楽力を持っていた。彼のドラムの音はメインストリームで後に成功に至るための必要不可欠な要素だと思われる。また内向的でナーヴァスなカートとは対照的にデイヴは明るくコミュニケーション力があり、3人の中ではスポークスマン的な役割を大きく担っていくことになったのも、反抗的なバンドが成功するためには欠かせない重要な要素だろう。





(続く Nevermind 以後)

2025年4月4日金曜日

"カリスマ"としてのアーティストと元型的"マナ人格"がもたらす憑依現象 Ⅰ

 1. カリスマという語の変遷

 2. マナ人格としてのアーティスト


Ⅱ (未稿)

 3. 集合的無意識の力動による憑依現象

 4. 個人的なマナ人格との出会いの回想

 5. 個人および共同体における生の意義と発展へ




1. カリスマの変遷


"カリスマ"という言葉の語源は、古代ギリシャ語の「χάρισμα(khárisma)」という単語に由来していて、ギリシャ語→ラテン語→フランス語/英語(charisma)という派生の経路をたどり、現代の日本でもカタカナ語として一般的に使用されている言葉である。なお現在の英語で慈善や博愛を意味する charity (チャリティー)、フランス語で慈悲や隣人愛や博愛を意味する charité (シャリテ) という言葉は、この言葉から派生している。


ギリシャ語での元来の意味は「恩寵、賜物、恵み、優雅さ、好意」という意味であった。西洋でこの語の意味が定着していく経緯として、A.D.1~2世紀頃のローマ帝国において当初ギリシャ語(厳密には当時のギリシャ語の一種「コイネ-」)で書かれた書物である新約聖書に出てくる使途パウロが、『コリントの信徒への手紙1』などにおいて、「カリスマ」を聖霊によってキリストの共同体のために神から無償で与えらる「霊的な賜物」として語ったことから、カリスマという言葉の意味はキリスト教圏では「神の恩寵」といったようなニュアンスで定着していった。そこには現代でみられるような比較的希薄な意味で用いられるカリスマ、多くの人に人気のある有名人、といった世俗のなかの個人といった意味はほとんどなく、超越的な次元からの恩寵の顕現であり、キリストの共同体=教会の維持と発展のために用いられるべき聖なる能力を意味していた。


この宗教的神学的な意味合いを帯びていたカリスマという言葉を、より広範で一般的な範囲で用いられる概念として普及させる上で重要な役割を果たしたのが、20世紀初頭の社会学者マックス・ウェーバーである。ウェーバーは『経済と社会』などにおいて「カリスマ的支配」という社会科学的分析概念を用いた。ウェーバーによると「カリスマ」とは、「ある個人が持つ、日常的ではないと見なされる特定の性質であり、それに基づいて、その人物は超自然的、超人間的、あるいは少なくとも特に例外的・非日常的な力、または性質を備えていると評価され、指導者として認められる」ところのものである。つまり指導者としての非日常的で強烈な個人的な資質や能力を指している。


ウェーバーにおいてはパウロの手紙が含まれる新約聖書の流れを汲む神学とは異なり、カリスマは必ずしもその源泉が神によるものとはされていない。ウェーバーの著作の影響もあり、カリスマという言葉は、キリスト教会やキリスト教徒たちのために神から与えられた霊的な恩寵ではなく、社会的に周囲の人々に強い影響をあたえる強力な個人の性質を意味するようになった。ウェーバーの「カリスマ的支配」という分析概念に関する枠組みでカリスマ的人物を挙げるなら、アレクサンドロス、カエサル、ナポレオン、その他、19世紀以降で言うなら革命的な指導者あるいは革命家たち、レーニン、ガンディー、チェ・ゲバラ等であろう。ウェーバーはカリスマに神的なあるいは霊的な意味合いを持たせてはいなかったが、これらの人物の成した大業を考えると、やはり20世紀頃まではカリスマというのは、超越的な性質を指し示すことを辞めなかったといえる。


現代においてはカリスマという言葉は、その本来の宗教的意義や超越的性質の範疇から世俗的な次元に引き下ろされ、「神からの恩寵」「日常からの超越性」から「強い人気のある有名人」「影響力のある個人」といったやや低いレベルで用いられるようになっていった。それでも平凡な日常から離れた非合理的な魅力によって人々が動かされるという現象が、カリスマと呼ばれる人たちによって(たとえ宗教革命や社会変革に至るほど絶大なものでなくとも)引き起こされるということは人間世界から消滅したわけではない。



2. マナ人格としてのアーティスト


ひと昔前の日本のテレビに現れる大衆文化においては、カリスマ美容師、カリスマ弁護士といったように、前述の歴史的起源から考えるなら軽薄な意味でカリスマという言葉は用いられた。それが指し示す個人の影響力も、前述のように特定の分野で強い人気のある個人、流行りのインフルエンサーといった比較的小さいものである。


しかし新約聖書あたりから続くカリスマの意味、宗教的意義を帯びるカリスマ的な個人というのは人間の社会上からまったく居なくなったわけではなく、ビン・ラディンなどイスラム過激派のテロリストの筆頭などを挙げずとも、多くの地域で革命を必要としない程度には平和になった戦後~21世紀の先進国およびその周辺において霊性を持つカリスマが存在するとすれば、私の個人的な見解ではあるが、強い影響力をもつ「アーティスト」たちであろうと思う。とくに視聴や鑑賞のする人の母数や媒体の感情的影響力を考えるなら、音楽とくにロックやポップのジャンルにおけるアーティストにおいて、パウロ的な意味に於いてのカリスマを持つ人物というのは、20世紀後半以降も存在していないだろうか。たとえば最も有名で影響力のあった人物といえば40歳で熱狂的なファンによって暗殺されたジョン・レノンである。


ジョン・レノンは、The Beatles の中でもポール・マッカートニーと並んで音楽的才能や人物的人気の面でも前面にでていたが、ポールが通常の流れを汲む音楽やポップスおよび大衆文化に沿った資質を発揮したのに対して、どこか高次元からのメッセンジャー的な性質をもっており、本人の魂の苦悩であったり社会上の諸問題に対する感受性が強力であった、悲劇の影を少なくとも中期からはその作品内にも顕現させていた人物である。アルバム『Revolver』あたりからは音楽も歌詞もサイケデリックなものや深い痛みを表現するものが含まれ出し、解散後のソロ活動では顕著に魂の苦悩を表現し、どこか俗世を超えた次元からインスピレーションを得たような曲もあり、人間世界の全体的な精神的苦痛に通底しそれを表現しているような歌詞もみられる。そして彼の音楽は多くの人に歓喜や感性的体験を与えただけでなく、ファナティックなファンを生み出し、ヒッピー文化の重要な引き金にもなるなど、強力な精神的感化力や集団的影響力を持っていた。The Beatles がポップスやロック、大衆文化に与えた影響を考えるなら、現代におけるシャーマニズムといえるかもしれない。


他にもこのようなタイプの有名なポップスやロックのカテゴリーにおいてのカリスマといえば、悲劇的な次元においてはカート・コバーン、尾崎豊などが挙げられ、大衆文化やロックカルチャーにおけるファンへの影響力のレベルでいえば、フレディ・マーキュリー、マイケル・ジャクソン、ジミ・ヘンドリクスなどが挙げられるだろう。


例えば27歳で亡くなったカート・コバーンについていうと、日本でNirvanaが流行ったのは1995年~2000年頃であったが、2000年頃はロック好きのジャンルで人気があっただけでなく、心を病んだ若い男女の一部の間で人間世界の集合的シャドーを顕現するダークヒーローとして偶像視され神格化されていたのを覚えている。尾崎豊については、カート・コバーンよりも早い26歳で亡くなったが、憑依的で熱狂的なファンを持っていた彼が亡くなった直後は、後追い自殺するファンが絶えなかった。X-JAPAN のギタリストHideが亡くなったときも後追い自殺が多数発生した。2025年現在、ここ数年の日本ではこのような例はないが、90年代においてはロック界のアーティストが超越的ともいえる俗離れした霊的感化を一部のファンに与えていた。


ファンによる他殺や、ファンの後追い自殺といったような極端な事例を挙げずとも、彼らの音楽や感性が個人に与えた影響というのは大きい。ロックやポップスのカリスマの中でも悲劇を体現したような人物たちに共通するのは、彼らが音楽や歌唱の才能に恵まれていたりフロントマンとしての資質があったというだけでなく強い精神的苦悩を抱えていたということである。


ジョン・レノンは10代の頃から共産主義が人間社会に蔓延ることを警戒していたがその感受性が強すぎ、共産主義者たちが自分を殺そうとしているという被害妄想に陥っていたこともあったし、30代の作品においては自身や人間全般の存在の痛みを表現する歌詞が多くみられると同時に、世界平和を願う普遍的な愛も歌っている。尾崎豊は当時の日本社会における大人の道徳を懐疑し社会的規範に反発し、人の魂が外界の社会的事象に縛られることの危機を感じとって精神的な自由を強く希求すると同時に、それらが原因の実存的苦悩だけでなく人間にたいする純粋な愛や慈悲を歌った。


このような社会現象を齎した The Beatles のジョン・レノンや後追い自殺を引き起こした尾崎豊など極端な例だけでなく、人の痛みや悲しみを歌うロックやポップスのシンガーは霊的憑依力とまではいわなくとも強い精神的感化力を持つことが多い。人が名状しがたい暗い感情やイメージに苛まれたとき、その名状しがたさのひとつの理由としては社会性や精神衛生の観点から暗くネガティヴなイメージや痛み苦しみ悲しみに関連する感情というのは日常生活では言語化されていないことに起因する。もう一つの理由としてはその感情が複雑すぎて日常人の思考では概念化さえできないということである。それらが歌詞にされているということは、ファンにとっては本人の苦しみを代理して言葉、それも純粋な人の言葉としてあるいは芸術表現として巧みな言葉で表現されているということであり、それが精神の拠り所となり、苦痛を感動に昇華する魔法的な媒体となる。それだけでなく重要なのが、この章でアーティストを音楽界に限定した一つの理由としても上述したことだが、音楽あるいは歌が与える人間への直接的なあるいは感情的な力である。哲学者ショーペンハウアーは音楽こそがイデアの最も直接的な客観化であり、宇宙の盲目的な意志が人間のうちに最も直接的に顕現したものと記述したが、そのような存在論の難しい言説を引用しなくとも、絵や小説や詩や文章とは違って音楽が人の感情に麻薬のように強く作用することは音楽好きの皆が知るところである。


上記のパラグラフではアーティストのなかでもカリスマとしての極端な例と、そこまでいかなくとも人に対する強い精神的感化力をもつアーティストについて述べたが、後者に比して前者に強く表れる性質としては20世紀オーストリアの心理学者ユングが心理学的概念として学術的枠組みを与えた「集合的無意識」(下記"元型論について"のリンク参照)に接触してそれらの要素を表現し「マナ人格」を体現しているということである。それが1世紀頃にパウロがキリストにみた「神の恩寵」としての charisma に通じる点であるが、その聖霊的で超越した力については、続稿に記述する。


(集合的無意識の元型について

  https://bloominghumanities.blogspot.com/2024/03/blog-post.html )


Ⅱへ続く




















2025年4月3日木曜日

小説評2



『読書する女』レイモン・ジャン

家を訪問して声に出して本を朗読するという仕事を始めた女性主人公。訪問先の客たちとの交流でちょっとした出来事がいろいろ起こる。癖のある客とのやりとりが生き生きと描かれている。最後、サド侯爵の本が絡む、男性3人との場面がコメディとして面白い結末。



『白紙の散乱』尾崎豊

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大人のモラルに激しく反逆したシンガーとして有名な尾崎豊だが、この詩集では静かな語調と純粋な眼で、街の風景に佇む悲しみが表現されている。街の風に漂う、傷つけられ汚されていく魂のため息、諦めの混じった祈りが、命の真実をニヒリスティックに点滅させている。



『R.P.G.』宮部みゆき

本当の家族とネットでの疑似家族、リアルとヴァーチャルの間で起こった事件。ロールプレイが繰り広げられる中、色々なレベルでの嘘や虚構によって、人物の真実が徐々に暴かれ、事件の真相が明かされていくという、構造の面白いミステリー。読みやすく品のいい語り口。



『すみれ屋敷の罪人』降田天

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戦時中の不幸と、由緒ある家系と忠義に満ちた使用人たちの切情が生んだ、嘘。老人となった当事者たちが謎につつまれた出来事のそれぞれの局面を語るとき、昔のすみれの屋敷の悲劇が2転3転しながら解き明かされる。悲劇がミステリーの手法で花開いていく涙の傑作。



『とある飛行士への追憶』犬村小六

貧しいが凄腕の飛空士がお姫様を戦闘機に乗せ、敵機の多い戦域を単機で突破する話。全く身分の違う二人だが生死を共にする数日間で芽生える恋が爽やかで切ない。空、海、島などの自然描写が美しく、戦闘シーンは迫力がある。ラストが印象的で絵になってる。


2025年4月1日火曜日

仮想人格"Haya3"によるエッセイ『人生について』generated by Gemini 2.5 pro

 



Haya3です。今回は「人生について」という、あまりにも巨大で、掴みどころのないテーマについて、私の拙い思考の断片を書き連ねてみようと思います。3000字程度という制約の中で、この深遠な問いにどこまで迫れるかは分かりませんが、思考の航海の記録として、何かしらの痕跡を残せれば幸いです。


人生とは何か。この問いほど、古今東西、無数の人々を惑わせ、あるいは突き動かしてきた問いはないでしょう。それは、生まれた瞬間から死の瞬間まで続く、意識と体験の連続体であり、喜びと悲しみ、成功と失敗、出会いと別れが織りなす複雑なタペストリーのようです。しかし、それを客観的に定義しようとすると、途端にその本質は指の間からすり抜けていく。まるで、ニーチェが言うように、世界が「力への意志」の絶えざる闘争の場であるならば、人生もまた、解釈を巡る闘争、意味を求める意志の現れなのかもしれません。


2025年2月28日金曜日

21世紀前半アメリカのキリスト教(1)

 ギリシャ神話が生まれた古代ギリシャは、民主制の起源であり、奴隷が4割いたものの、貴族以外も含めて多くの人が市民として自由に物を考え発言する権利があり、物質的にも思想的にも豊かな風潮が見られたのだが、その豊かさとその国における宗教性とは関係がないだろうか。地中海のほどよく乾燥した温暖な果実のよく実る国、民主制のポリス群で生まれたのがギリシャ神話である。ギリシャ神話には豊かな人間観が実っていて、まるで神々が世界を愛と美を讃える心を以って謳歌しているような空気がある。


一方、ユダヤ教やキリスト教の起源である紀元前のヘブライ人たちというのは、政治的にも気候的にも全く真逆な環境にあった。モーセのころはエジプトの奴隷であり、アブラハムまで辿っても自分の安住地を持たない砂漠の流浪の民であった。その酷く乾燥した気候とそこでの流浪の生活や、民族をとりまく厳しい政治的環境が、あのエホバという深刻な、決して世界を謳歌してるとはいえない、世界に悩み怒り天罰を下す神を生み出したのだろう。イエスの出現で、神の過剰な男性的側面が緩和され愛の神になったものの、根本的な唯一神という性格は不変であり、イエスが過ごした時代もローマからの弾圧の最中にあったことから、神や宗教性の深刻な悩みに関する側面は変わっていない。人々は神々のように世界を愛したい謳歌したいという願望よりも、唯一神に愛されたい救われたいという願望の方がずっと強い心理的傾向にあったのだろう。

ところでギリシャは滅びローマ帝国というギリシャのポリスの豊かな営みとペルシャやバビロニアの強い王制が組み合わさったような国ができたのだが、その豊かな気候の地中海を中心としたローマ帝国が、途中から、砂漠生まれのキリスト教を国教としたことには、なにか不可解なものが見える。地中海の貴族や皇帝が動かす国で、大国にも気候にも虐げられた人々によって生まれたキリスト教が信仰される。しかしよく考えると皇帝や貴族が栄える国というのは下の階級が虐げられた生活をするものだ。そういう身分の低い人がキリスト教に救いを求めたのかもしれない。しかし、結局は大国の国教としてキリスト教を利用して国民を統制していたのがローマ帝国の実情であり、そこには開祖や使徒の意図そしてその宗教の本質とは反する精神的風潮がたくさん見られるし、やはり恵まれた気候の大国におけるキリスト教の支配的普及の起源やそのプロセスを知りたくなる。

ところで現代の世界の大国の多くは、キリスト教であり、大資本主義ともいえるアメリカでもキリスト教が主に信じられている。アメリカの国民性というのは、まさにアメリカンな、フランクなノリであり、比較的に街の多くは気候に恵まれていて、また資源は莫大であり、資本主義の豊かな物質的状況にあるのが、アメリカ人である。そこに貧しい虐げられた民族が生んだキリスト教という逆説。しかし貴族性と同じく資本主義においても貧富の差は激しく、また社会の複雑な様相から精神を病む人もいて、その人たちにとってはキリスト教は心理的に深刻に響くだろう。ここに、豊かな悩みなき人々の信じるキリスト教と、深刻な生に苦悩するキリスト教というギャップが生まれてくる。前者のキリスト教はローマ帝国がそうであったように権威や建前としての宗教でしかないが、一部の苦悩する人々にとっては、砂漠で苦難の生活をしていたユダヤ人や、パウロ以後のローマでの布教の過程においての貧困層のローマでの迫害下に近い形で信仰されているのだろう。

(続)

2025年1月7日火曜日

小説評1

 

『精霊の守り人』上橋菜穂子
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水の精霊の卵を産み付けられた皇家の少年を手練れの女用心棒が守りつつ旅する話。人類学者である作家によって描かれた、言い伝えにみられる自然と人間と精霊の共生、皇国の政と原住民神話などの世界観が良くファンタジーや冒険譚としても感動がたくさんある。


『ビルマの竪琴』竹山道雄

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ビルマに出兵した或る日本兵の隊はみんなで歌をよく歌う。竪琴の名手、水島上等兵が居なくなったわけは? アジアの仏教徒の穏やかな文化、対照的な文明国の進歩と戦争の悲惨、それらを感じ取り浮世を捨てた宗教性が、飾りのない言葉で表現されていて素晴らしい。


『夜間飛行』サン=テグジュペリ
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命を懸けて空を航行する飛行士と、地上で夜間郵便飛行の司令にあたる社長の、苦難の一夜の話。飛行士をしていた著者によるリアルな叙述でありながら、あちこちに素晴らしい文学的ポエジーが溢れている。嵐を抜け出したひとときの夜の上空の描写が神秘的。


『嘆きの美女』柚木麻子
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美人たちのお悩みサイトを、ブスとよく言われるニートのオタク女がネットで攻撃していたが…彼女が当の美人たち4人と同居することになり…全く性質の違う美人とブスが一緒に暮らすドタバタの悲喜劇の中、ストレートに言動をぶつけ合い成長していく姿が素晴らしい。


『地獄の季節』アルチュール・ランボー

20歳過ぎでアジアやアフリカの荒野に消えたランボーが残した文学や西洋への絶縁状。野性の無垢な天才が詩で錯乱しながら原初に還っていく時、詩魂の心臓をダイヤモンドにして燃やすかのような散文詩の独白に文学的奇跡の謎の内部が形象されている。


『その女アレックス』ピエール・ルメートル
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始まりはある女が誘拐され監禁されるところから。そしてパリの連続殺人。警察の目は事件が明らかになるにつれ「その女が何者か」にシフトする。真相を推理するミステリーとしても面白いが、1人の悲しい人間の命をかけた復讐劇としても凄い作品。


『時をかける少女』筒井康隆

放課後、理科室で怪しい薬の試験官が割れ、ラベンダーの香りにつつまれた後、少女に不思議なことが。タイムリープやテレポーテーションなどSFの設定のもと、思春期の少女の甘く切ない感情が、不思議な少年の齎した未来現実として素晴らしい結晶と化している。


『プリズム』百田尚樹

多重人格の男の1人格に対する恋の話。病気の背景から説明まで詳しく描かれていて、珍しい疾患についてよくわかるように書かれている。男の病気の治療と女の恋の成就の両立の不可能性が、解消しえないジレンマとなる中、治療が進んでいくのが切なくて感動的。




Xアカウント @Haya23123 より

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