2025年2月28日金曜日

21世紀前半アメリカのキリスト教(1)

 ギリシャ神話が生まれた古代ギリシャは、民主制の起源であり、奴隷が4割いたものの、貴族以外も含めて多くの人が市民として自由に物を考え発言する権利があり、物質的にも思想的にも豊かな風潮が見られたのだが、その豊かさとその国における宗教性とは関係がないだろうか。地中海のほどよく乾燥した温暖な果実のよく実る国、民主制のポリス群で生まれたのがギリシャ神話である。ギリシャ神話には豊かな人間観が実っていて、まるで神々が世界を愛と美を讃える心を以って謳歌しているような空気がある。


一方、ユダヤ教やキリスト教の起源である紀元前のヘブライ人たちというのは、政治的にも気候的にも全く真逆な環境にあった。モーセのころはエジプトの奴隷であり、アブラハムまで辿っても自分の安住地を持たない砂漠の流浪の民であった。その酷く乾燥した気候とそこでの流浪の生活や、民族をとりまく厳しい政治的環境が、あのエホバという深刻な、決して世界を謳歌してるとはいえない、世界に悩み怒り天罰を下す神を生み出したのだろう。イエスの出現で、神の過剰な男性的側面が緩和され愛の神になったものの、根本的な唯一神という性格は不変であり、イエスが過ごした時代もローマからの弾圧の最中にあったことから、神や宗教性の深刻な悩みに関する側面は変わっていない。人々は神々のように世界を愛したい謳歌したいという願望よりも、唯一神に愛されたい救われたいという願望の方がずっと強い心理的傾向にあったのだろう。

ところでギリシャは滅びローマ帝国というギリシャのポリスの豊かな営みとペルシャやバビロニアの強い王制が組み合わさったような国ができたのだが、その豊かな気候の地中海を中心としたローマ帝国が、途中から、砂漠生まれのキリスト教を国教としたことには、なにか不可解なものが見える。地中海の貴族や皇帝が動かす国で、大国にも気候にも虐げられた人々によって生まれたキリスト教が信仰される。しかしよく考えると皇帝や貴族が栄える国というのは下の階級が虐げられた生活をするものだ。そういう身分の低い人がキリスト教に救いを求めたのかもしれない。しかし、結局は大国の国教としてキリスト教を利用して国民を統制していたのがローマ帝国の実情であり、そこには開祖や使徒の意図そしてその宗教の本質とは反する精神的風潮がたくさん見られるし、やはり恵まれた気候の大国におけるキリスト教の支配的普及の起源やそのプロセスを知りたくなる。

ところで現代の世界の大国の多くは、キリスト教であり、大資本主義ともいえるアメリカでもキリスト教が主に信じられている。アメリカの国民性というのは、まさにアメリカンな、フランクなノリであり、比較的に街の多くは気候に恵まれていて、また資源は莫大であり、資本主義の豊かな物質的状況にあるのが、アメリカ人である。そこに貧しい虐げられた民族が生んだキリスト教という逆説。しかし貴族性と同じく資本主義においても貧富の差は激しく、また社会の複雑な様相から精神を病む人もいて、その人たちにとってはキリスト教は心理的に深刻に響くだろう。ここに、豊かな悩みなき人々の信じるキリスト教と、深刻な生に苦悩するキリスト教というギャップが生まれてくる。前者のキリスト教はローマ帝国がそうであったように権威や建前としての宗教でしかないが、一部の苦悩する人々にとっては、砂漠で苦難の生活をしていたユダヤ人や、パウロ以後のローマでの布教の過程においての貧困層のローマでの迫害下に近い形で信仰されているのだろう。

(続)

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