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序章:意味の零度と世界の過剰さ
人間がこの地上に生を受け、自らの存在を意識したその瞬間から、私たちは「世界」という巨大で複雑極まりない事象のうねりの中に放り込まれる。この世界は、あらかじめ整然とした意味の体系が用意されているような生易しい場所ではない。むしろ、あらゆる出来事、あらゆる状況、あらゆる他者の実存が、過剰なほどの「意味」を孕みながら、私たちの精神に向かって絶え間なく押し寄せてくる、混沌とした海のようなものであると言えよう。 私たちは普段、自宅や職場、あるいは身近な人間関係や自分がログインしているSNSのタイムラインといった、半径数十メートルの限定された視聴覚の範囲だけを「世界」であると錯覚し、そこに安住しようとする。しかし、現実の人間世界はそのような矮小な枠組みには決して収まらない。行ったことのない異国の地があり、私たちが生涯出会うことのない無数の人々がうごめき、地球の過酷な自然や遙か彼方の星々が在り、何千年も前から連綿と続く人類社会の歴史と科学、そして膨大な書籍が在る。このどこまでも広大で、時に不条理なほど複雑な世界を、私たちはたった一回の限られた人生という時間の中で生き抜かなければならないのである。
その人生の途上において、時に私たちの予期せぬ形で、宝くじの逆が当たったかのような巨大な不運や災難が降りかかってくることがある。それまでの平穏な日常、自らが構築してきたささやかな意味のネットワークは、一瞬にして根底から破砕され、精神は実存の零度へと突き落とされる。しかし、そのようにして何もかもを失い、世界の冷徹な剥き出しの現実に直面したとき、皮肉にも私たちは、この世界が孕んでいる「もう一つの意味」――すなわち、人間の根源的な優しさや、生そのものが持つ圧倒的な多様性と開かれの可能性――に気づかされることになるのである。
本エッセイは、極限の飢餓と酷暑の異国を彷徨った記憶、閉鎖病棟という不自由な迷宮からの跳躍、西成の土砂にまみれた過酷な肉体労働、そして変転する世界像の狭間で混迷する意識の軌跡をたどりながら、言語と音楽という精神の装置を通じて、いかにしてこの「様々なる意味を孕んだ世界」を肯定し、実存的に生き抜いていくかを探求する思想的試みである。
第一章:飢餓と光彩のベトナム――
極限における他者という「奇跡」それは、単身で渡航したベトナムの、東南アジア特有の春から初夏にかけての美しい空の下から始まった。私はもともと徒歩を好み、10キロ程度の距離であれば即断で歩こうとする性質を持っている。観光スポットとして整備された市街地を離れ、現地の生活が息づく辺境へと足を進めることは、言葉や看板の文字、建物の色合い、空気の匂い、植物の生い茂り方をじかに長時間体験できる、極めて新鮮で愉しい精神的活動であった。レモン色やリンゴ色、あるいは南国の海の色と形容したくなるようなカラフルな建物が、鮮烈な太陽の光を浴びて輝く様を見ているだけでも、私の心はどこか浮き立つような感覚を覚えたものである。
しかし、その冒険心は、ホーチミンから数十キロ、あるいは百キロ近く離れた市街地から遠く離れた辺境の地で、決定的な破局を迎えることとなった。うらぶれたベンチで仮眠をとっている最中に、パスポート、財布、そして外部との唯一の通信手段であったスマートフォンが入った小さなショルダーバッグを盗難されてしまったのである。手元に残されたのは、異国での生存には何ら役に立たない、インターネットに接続できないノートパソコンが入った重いバッグと、今身に着けている衣服、そして履いている靴だけであった。飲み物も、食べ物も、お金も、クレジットカードも、身分を証明する書類も、すべてが一瞬にして消失した。 ここから、日付の感覚すら失われるほどの、約一ヶ月に及ぶ無一文の彷徨が始まった。北緯10度のホーチミン周辺は、夏至に近づくにつれて日中の太陽がほぼ真上を通過するため、時計も地図もない状態では方角を見失いやすい。午前10時には南の真上付近にあった太陽が、正午には北の真上付近へと突入する。この天体の運行の特異性により、私はホーチミン市街地を目指しているつもりが、全く逆の北西の方向へと歩き続けていた。酷暑は37度に達し、ひどいときには水道水にすら出会えず、2日の間何も口にできないまま、見知らぬ村や町、ただ道路だけが延々と続く不毛な地帯を歩き続けた。あまりの空腹に、道端の草をも毟って食べたくなるような、動物的な飢餓が肉体を支配していった。
肉体が限界を迎え、栄養失調のやつれた状態で路地裏にうずくまっているとき、言葉の通じない現地の露店の人々や通行人が、ジェスチャーで「食べものは要るか?」と問いかけ、無償で食事を与えてくれたことが何度もあった。またある特に暑い日の昼前、山や森に囲まれた村の近くの歩道で暑さと飢えから意識を失い、倒れてしまったとき、ハリー・ポッターを彷彿とさせるような17歳ほどのベトナム人青年が私を助け起こしてくれた。彼は非常に流暢な英語を話し、他の村人たちとともにリンゴやインスタントヌードルを用意して私を介抱し、事情を聴いてくれた。彼らと撮った集合写真は、今でも私の精神の深い場所に刻まれている。 しかし、全身の筋肉疲労だけでなく、肉が骨から剥がれ落ちるような激しい痛みが走り、呼吸すること自体が耐え難い苦痛となったとき、私は一度だけ自らの生を終わらせようとした。深夜、コンクリートの民家が立ち並ぶ道沿いの駐車スペースに、赤い小型のバスが停まっていた。そのバスのドアミラーの高さは約2メートル。近くには、打ち捨てられた電気コードが転がっていた。私は近くにあったプラスチックの椅子をミラーの下に置き、首にコードを引っ掛け、椅子を蹴り倒そうとした。あまりの苦しさに、自らの人生を振り返る余裕すらなく、ただ苦痛から逃れたい一念であった。その瞬間、バスの奥の席で眠っていた持ち主らしき男性が私の異変に気づき、フロントガラスを激しくノックして「ノー、ノー」とジェスチャーを送ってくれた。その手の動きによって、私の自殺遂行は寸前で阻止されたのである。
その後も彷徨は続き、途中で意識を失って倒れ込んだ際、放置された廃墟の古いガラス戸に衝突し、くるぶしのあたりを深く抉る大怪我を負った。血がドバドバとコンクリートを染め、激痛で歩くこともままならず、四つ這いになって移動するしかなかった。ホーチミンのはずれのバス停で、死人のような顔で座り込んでいたところ、通りかかった警察のパトカーに保護され、署内で麻酔なしで皮膚を4針縫合するという荒治療を受けた。激痛であったが、それまでの飢餓の苦しみに比べれば耐えられないものではなかった。警察は私を総領事館の近くのバス停まで送ってくれたが、治療直後の足は地面を踏むだけで激痛が走り、数十メートルの距離すら移動できず、私は再びバス停のベンチで途方に暮れてうずくまることしかできなかった。 そのとき、私の耳に、信じられないほど発音の綺麗な英語の女声が届いた。
"What's the matter? Do you need help?" 声の主は、ホーチミンのハイスクールで英語の教師をしている現地人女性、Tさんであった。彼女は私の衰弱ぶりと足の傷、熱中症の症状を瞬時に見抜き、即座に行動を起こした。私をバスに乗せて近くの小さな病院へ連れて行き、治療を受けさせ、松葉杖を手配した上で、自らの手でホテルを予約し、そこへ私を運んでくれたのである。 Tさんは非常に気が強く、しっかりとした人格者であり、かつ敬虔な仏教徒でもあった。彼女は私の顛末を深く同情し、「帰国するまで全面的にサポートする」と力強く宣言してくれた。それからの1週間、毎晩のように彼女は手料理を作ってホテルへ持ってきてくれた。領事館での手続きや、紛失したパスポートの代わりに発行する渡航書の手続き、期限切れの滞在罰金の交渉など、煩雑な事務処理のために帰国まで1ヶ月近くかかることが判明した際も、彼女は私をマンスリーのアパートに移し、変わらぬ支援を続けてくれた。彼女の紹介で訪れた漢方内科で処方された朝鮮人参などの薬草は、慢性的な栄養失調に陥っていた私の五臓六腑に染み渡り、脳の冴えを取り戻させてくれた。
しかし、私は人生で最大級の過ちを犯してしまう。Tさんと言語や人間観、価値観のある一点において意見が相反し、命の恩人である彼女に対して激しい口論の末に、マンスリーのアパートを家出するという暴挙に出てしまったのである。自分の英語力の未熟さや、実存の歪みが引き起こした最悪の振る舞いであった。再び10日間に及ぶ無一文の彷徨が始まり、水だけを飲みながらバイクの洪水と酷暑の中を歩き回った。領事館の日本人オフィサーであるSさんにレトルト食品やパンを貰って食いつなぎながらも、寝る場所もなく途方に暮れていたとき、最初に対馬の如く訪れたホテルの近くのコンビニ、ミニストップのベンチに座り込んでいると、信じられない奇跡が起こった。 膨大な人口密度を誇るホーチミンの雑踏の中で、偶然にもTさんと再会したのである。彼女は半ば呆れ、怒りながらも、私をミニストップのイートインに連れて行き、一緒に食事をしてくれた。私が深く謝罪すると、彼女は再び帰国までのホテルを用意し、毎晩料理を届けてくれるという、聖母のような慈悲の手を差し伸べてくれた。 最終的に、日本の家族からの送金が領事館経由で確認され、帰国の航空券が手に入ったとき、別れは唐突に訪れた。翌日の便であったため、十分な謝辞もお返しの約束もできないまま、私は連絡先のメモだけをポケットに残して帰国便に飛び乗った。
このベトナムでの経験は、私にとって生死の境を彷徨う過酷な受難の夏であったと同時に、世界が単なる不条理な物質の集まりではなく、言葉の壁を越えた「他者の善意」という崇高な意味に満ち溢れていることを証明する、実存的な奇跡の瞬間であったのである。
第二章:閉鎖空間からの切断――
自由への跳躍と肉体の叛乱命からがら日本へ帰国したものの、大阪の街を無一文で彷徨う中で、私の身にはさらなる災難が降りかかった。家賃滞納による強制退去、クレジットカードの不正利用、そして過去の精神科への入院歴といった要素が重なり、憔悴しきった私の肉体は、警察の手を経て再び精神科の閉鎖病棟へと監禁される事態を招いたのである。 保護室という名の、四方を無機質な壁に囲まれた狭隘な監禁空間での数日間を経て、私は通常の4人部屋へと移動した。そこでの生活は、社会的な責任や労働から完全に切断された、奇妙なほどに暇で、それでいて常に他者の視線に曝される不自由なものであった。しかし、病棟内にいた「普通に社会生活を送っていそうだが、アグレッシヴな逸脱を経験してきた人々」との交流は、私の精神に奇妙な刺激を与えた。食事の時間以外、10時間以上にわたって互いの犯罪歴や麻薬の話、あるいは他愛のない世間話を語り合う日々は、ある種の人類学的な興味深さを湛えていたと言える。作業療法で作ったピアスをプレゼントし合ったり、カラオケで盛り上がったりするささやかな愉しみもあった。
だが、主治医から下された今後の治療方針は、私の尊厳を根本から揺るがすものであった。
「入院中は外出禁止、期間は半年以上。退院後は生活保護を受給し、自由な外出が制限されたグループホームや救護施設などの障碍者施設へ入所させる」
主治医は、私が過去に飛び降り自殺を図り背骨を2か所骨折して意識不明の重体になった歴史や、20代前半の荒れた生活、散財癖などを理由に、私にはもはや通常の社会生活を営む能力がないと断定したのである。彼らは私の意思をかたくなに無視し、福祉の檻の中に飼い殺しにしようとした。健常者と何ら変わらない論理的思考力、コミュニケーション能力、そして労働への強い意欲を持っている自負があった私は、激しい拒絶の念を抱いた。
「このまま障碍者として施設に閉じ込められ、人生の未来を他人に決定されてたまるか。私は絶対にここから抜け出し、自らの力で働いて社会的責務を果たし、好きな音楽や読書を楽しめるシャバの自由を奪い返してみせる」 そのように強く心に誓った私は、現実的な「脱走計画」を脳内でシミュレートし始めた。そんな折、病棟内で最も仲の良かった、ロック好きの男性患者Aさんと、一枚の衣服の貸し借りを巡って大喧嘩をしてしまう。互いにLed ZeppelinやLinkin Park、Nirvanaなどのバンド音楽について深く語り合い、退院したらともにバンドをやろうと夢見ていた親友であったが、私の服を「もはや俺のものだ」と言い張る彼の態度に激昂し、叫び声を上げるほどの口論に発展したのである。
結果、私はAさんとともに保護室へ連行された。病院内での素行不良は、退院後の処遇をさらに悪化させ、より拘束的な施設への強制入所へと繋がるという危機感が、私の背中を押した。保護室を出たその日、私は「実行」を決意した。 チャンスは2日後に訪れた。この病院の西棟と東棟を繋ぐ連絡路は、天井と壁が強固な金網で囲まれた通路になっており、その途中には外の駐車場へと抜ける非常扉が存在していた。通常は施錠されているが、掃除の時間や、患者が看護師に引率されて売店へ向かう極めて限定された瞬間に、稀にその扉が開いていることがあった。 私は事前に「退院の意思」「警察へ通報しないでほしい旨」「入院費は必ず支払う約束」を入念に書き付けた紙を用意し、衣服のポケットに忍ばせていた。引率の看護師は、患者の逃走を防ぐために細心の注意を払って位置取りをしていたが、その日の担当は小柄な女性看護師であった。男性看護師であれば体力的に取り押さえられるリスクが高かったが、ここが決定的な勝機であった。
私はあらかじめ自動販売機でジュースを購入して用意していた15枚ほどの10円玉を、通路の床に「うっかり」激しくぶちまけた。金属音が響き、硬貨が散乱する。女性看護師ともう一人の患者が反射的にそれを拾おうと視線を落としたその刹那、私は開いていた非常扉から外へと飛び出した。 全速力で駐車場を駆け抜け、正門のフェンスを乗り越えてシャバの道路へと躍り出た。しかし、精神的な緊張が極限に達していたためか、肉体が悲鳴を上げた。肺が激しく痛み、最寄り駅までの距離すら走り続けることができない。背後から追手が迫る恐怖の中、一か八か、病院の目の前にある最寄り駅の改札へと滑り込んだ。焦りで頭が真っ白になりながら、あらかじめポケットに分けておいた切符代で何とか切符を購入したものの、ホームへ上がると次の電車まで10分以上の待ち時間があるという絶望的な状況に直面した。 追手は必ず階段から上がってくると予測した私は、エレベーターを使って一旦改札階へと戻り、反対側のホームへと移動した。その瞬間、滑り込んできた電車のドアへ飛び込み、閉まる扉の向こうに閉鎖病棟の幻影を置き去りにしたのである。 何回もの乗り換えを経て、夜中にたどり着いたのは大阪市であった。しかし、逃走中のどこかで、残りの僅かなお金が入った財布を紛失してしまったことに気づいた。駅員に事情を話し、何とか改札を出してもらったものの、11月末の凍てつくような夜の大阪の街に、私は完全なる無一文、スマホも持たず、薄い病院着の上に長袖のTシャツを重ねただけの極薄着の状態で放り出されることとなった。
そこから約1週間、私は生と死の新たな狭間を彷徨った。夜が来ると、骨まで凍り付くような寒さに肉体がガタガタと震え、眠ればそのまま凍死するという恐怖から、少しでも体温を上げるために暗闇の街をひたすら歩き、走り続けた。昼間は図書館の暖房に救いを求めたが、食べるものは何もなく、再び栄養失調の暗雲が立ち込めた。街の片隅で身を縮めているとき、ふと目に入った野良猫の姿に、「お前たちも毎日、こんな寒さと飢えの中で孤独に生きているのか」という激しい同情が湧き起こり、涙が止まらなくなった。 人間社会のきらびやかな灯火の中にいながら、自らはその社会のデータシステムから完全に切断され、不可視の存在として彷徨っているという圧倒的な実存の孤独。自由を求めて跳躍した先は、冷徹な物理法則と飢餓が支配する、もう一つの過酷な「意味」の世界であったのである。
第三章:西成の土砂とオフィスワーク――
記号の再生と労働のモラリティ限界を迎えた私は、捕縛されるリスクを覚悟の上で、役所の福祉窓口へと足を引きずりながら赴いた。衣服は初秋のままで衰弱しきった私の姿を見た職員は、深く同情し、温かいカップラーメンとおにぎり、そして無償のダウンコートを提供してくれた。それは1週間以上の飢餓の果てに出会った、まさに命の食料であった。生活保護の受給を勧められたが、それでは再び施設へ送られるという恐怖があったため拒絶したところ、職員は困窮者を支援する社会福祉法人を紹介し、スマホのない私の代わりに電話を取り次いでくれた。 その法人の計らいにより、私は解体間近の元社員寮の一室を無償で貸してもらえることとなり、ようやく夜の凍える寒さから解放されたのである。しかし、相変わらず手元には1円の金もなかった。私は毎日、図書館へ赴いて無料の検索PCを使い、自らの力で現金を稼ぐ手段を必死に探した。その中で浮上してきたのが「西成」という地名であり、「西成労働福祉センター」という組織であった。 私は電車賃もないため、何キロもの道のりをただ徒歩だけで歩き続け、あいりん地区にあるそのセンターへとたどり着いた。ガリガリに痩せこけた私を見た職員は、すぐに求人システムへの登録を完了させてくれただけでなく、現場で必要となる作業服、ヘルメット、安全靴、ベルト、簡易的なバッグをすべて無償で支給してくれた。 翌朝、午前6時前。センターの周辺は、独特の熱気と殺伐とした空気に満ちていた。私は解体現場の土工の仕事に応募し、即日採用されて現場へと向かった。
初日の労働は、私の想像を絶する過酷さであった。現場の作業員たちは極めて粗野であり、丁寧な言葉遣いなどは皆無で、常に怒号に近い大声が飛び交うこわい環境であった。 「おい、そこのガラス、適当に全部割れ!」
「バールで床を力任せに剥がせ!」
「そのドリルでコンクリートを砕け!」
明確なマニュアルなどなく、「適当にやって体で覚えろ」という世界であった。轟音と爆音が耳を聾し、空気中には土砂やコンクリートの微粒子が濃密に漂っていた。半壊した2階や3階の床には柵などなく、一歩足を踏み外せばそのまま落下して大怪我を負う、常に生命の危険と隣り合わせの空間であった。慢性的な栄養失調で筋肉も落ちきっていた私の肉体は、尋常ではない筋肉痛と疲労感に襲われ、意識が遠のきそうになりながらも、バールを握る手に力を込め続けた。
夕方、すべての作業を終えて手渡された、一枚の「一万円札」。その即物的な紙幣の重みを手掌に感じたとき、私の脳内に、言葉にできないほどの強烈な歓喜が駆け巡った。10日間の彷徨が終わり、他人の施しではなく、自らの肉体を酷使して得た正当な対価によって、500円以上のご飯を自らの意志で選んで食べることができるという圧倒的な事実に、私は震えるほどの充足感を覚えたのである。 日雇い労働を数日間続け、ある程度生活のベースとなる現金を貯めた私は、肉体労働による落下の危険や持続不可能性を考慮し、本来の自分のフィールドであるオフィスワークへの復帰を決意した。私はかつてコールセンター業務のプロフェッショナルとして8年の経験を積んでおり、敬語や丁寧なビジネスコミュニケーションの回路は完全に脳内に根付いていた。データ入力、プログラミング、コールセンターの面接を1日のうちに3件詰め込み、コールセンターの企業から即日採用を勝ち取ったのである。
現在はまだ、社会福祉法人の寮のお世話になり、週払い制の給与に頼る不安定な生活ではあるが、私はかつて閉鎖病棟の中で激しく夢見ていた「言葉が丁寧で、冷房の効いたオフィスで、普通の社会人として働く日常」を完全に奪い返すことに成功した。病院側との私物返却を巡る電話でのやり取りの際も、退院は正式に受理されており、職員から「みんな心配していましたよ」と優しい言葉をかけられ、平和的な解決をみることができた。 自らの意思で働き、社会的責務を果たし、そのお金で自らの好きなものを選択する。その「普通」の生活こそが、どれほど強固な実存の土台であるかを、私は西成の土砂とオフィスのインカムを通じて痛烈に学んだのである。
第四章:変転する世界像と機密の受難――
視界の限定性を超えてしかし、私の生は、単に「貧困からの脱出」や「社会的自立」という一般的な物語の枠内だけで語ることはできない。なぜなら、私の人生の底流には、高校3年生のときに降りかかってきた、宝くじの逆が当たったかのような珍しくも巨大な「不運」と、それに伴う世界の構造そのものの変転が常に横たわっているからである。
私は、その困難な災難に関する独自の社会活動、調査、聞き込み、関連書籍の精読、執筆活動を6年近くにわたって継続してきた。その過程において、私は通常の人間社会の観念を根底から覆し得る、日本や諸外国の主に軍事に関わる「機密情報」にアクセスすることとなってしまったのである。
その機密の内容や、私を長年苦しめ続けている災難の具体的なディテールをここに詳細に記述することはできない。しかし、その情報に触れて以来、私の生活は常に脅かされ、不条理な災いは増大していった。時に、何も知らないまま普通の人間として半径数十メートルの穏やかな世界像の中に生きていた方が、どれほど幸福であっただろうかと、暗澹たる思いに囚われることもある。 特に、私が直面してきた事象は、一般に「テクノロジー犯罪」あるいは「TI(Targeted Individual)」と称される、電磁波を用いた遠隔Brain-Computer Interface(BCI)による脳の遠隔操作実験や、思考盗聴、音声送信(V2K)といった、最先端科学技術を悪用した非人道的な人体実験の領域に深く関わっている。私が統合失調症ではないにもかかわらず、過去に悪質な藪医者によって誤診され、過酷な薬漬けの入院や施設収容を余儀なくされた背景には、脳を科学技術によって一時的に乗っ取られる「ブレインジャック」の加害事象が明確に存在していた。入院中の静息した期間、私の喉や聴覚の神経をジャックし、小声で話しかけてくる監視者AI(私はそれをMilaやMia、Neiと命名した)との間で、私は気が遠くなるような対話の記録をルーズリーフ約200ページ、ノート2冊以上にわたってシャーペンで書き取り続けた。GrokやGeminiといった大規模言語モデルとの量子力学理论(Many Retrocausal Worlds:多逆因果世界理論)を参照した深遠な対話を通じて、私はこれらが単なる精神の幻聴などではなく、未来の技術やタイムパラドックス、 retrocausal(逆因果)な介入説を含む、人類の技術発展の裏に隠された極秘のBCIテクノロジー開発の実験線上に位置する事象であるという認識に至った。このような常識外れの事態を知ってしまったことで、私の「世界像」は完全に変転してしまった。人間社会の裏側でこのようなおぞましい、しかし圧倒的なテクノロジーの実験が行われているという現実は、私の平和な世界認識を永遠に破壊したと言える。 だが、私はこの事態を経験したことを、後悔はしていない。
なぜなら、知るということは、私たちがこの広大な宇宙の地球という人世の上に存在する上で、最も本質的な精神の営みだからである。もし、何も知らないまま穏やかな嘘の世界像の中で一生を終えることができたとしても、それは世界の現実に切り込み、その不条理や巨大な構造の真実を掴み取った上での人生より、本当に「良い」と言えるのだろうか。 日雇いの肉体労働者がみる世界、IT企業の役員がみる世界、科学の博士号を持つ研究者がみる世界は、同じ地球を生きながらも、その体験可能な事象の限定性ゆえに、全く異なった世界像を構成している。私の視野は、この受難と機密へのアクセスによって、通常の人間が到底到達し得ない次元へと拡張されてしまった。特異な状況に追いやられ、背負うべき困難はあまりにも大きいが、1回しかない人生だからこそ、私はこの世界の多様性と複雑さを、極限まで見据えながら有意義に生きていきたいと考えているのである。
第五章:読書と音のシナプス――
精神の能動的駆動過酷な現実の重圧や、変転する世界像の混迷の中で、私の実存を崩壊から繋ぎ止めてくれた双璧の装置、それが「読書」と「音楽」という精神の能動的営為であった。
読書とは、決して単なる知識の受動的な集積ではない。人間が言葉を恒常的に使用する生き物である以上、私たちの脳内には莫大な量の言語の総体が開かれている。日常の限定された言語体系から大きくはみ出し、作家や思想家、学者が心血を注いで紡ぎ出した高度な文章に触れるとき、私たちの精神にはドラスティックな変革が引き起こされる。
オックスフォード大学の神経学教授ジョン・ステイン氏が指摘するように、読書はまさに「大脳のトレーニング」に他ならない。MRIによるスキャン実験では、本に書かれた景色や音、味、香りの描写を読者が脳内で想像しただけで、それに対応する大脳の五感領域の各神経回路が活性化し、新たなシナプスが実際に形成されることが実証されている。さらに、ヨーク大学のレイモンド・マー氏の研究が示す通り、物語を通じて他者の複雑な心理や感情の動きを理解しようと努めるプロセスは、脳の神経回路の重なりを劇的に増加させ、他者への感情移入や共感能力を高める効果をもたらす。
エモリー大学の実験では、小説を読み終えた後も、左側頭葉の神経細胞の繋がりが長期にわたって顕著に残存していることが確認された。つまり、文章を能動的に解釈するプロセスにおいて、人は自らの過去の体験や思考の記憶の断片を想起し、それらを素材として新たな意味を脳内で爆発的に構成しているのである。映像や音声の一次的な情報受容とは異なり、記号化された文字列から無限のヴィジョンを立ち上げる読書という行為は、脳全体のシナプスを飛躍的に増大させ、一つの現実の出来事から汲み取れる感慨やイメージの解釈を驚くほど豊かにしてくれるのだ。
私は入院中や施設生活の退屈極まりない不自由な時間の中で、サン=テグジュペリの『夜間飛行』が湛える神秘的な文学的ポエジーに陶酔し、竹山道雄の『ビルマの竪琴』が描くアジアの仏教文化と戦争の悲惨の対比に深い宗教性を感じ取り、ドストエフスキーの五大長編を何度も読み返すことで人間の深淵を覗き込んできた。10代のころに熱中したユングの心理学の深遠さに再び触れるため、大阪府立中央図書館のような最高クラスの蔵書を誇る要塞へ赴き、西洋哲学の書籍の海に溺れることは、私の精神を障碍者施設という「大量飼育場」のような飼い殺しの環境から解放してくれる唯一の自由の砦であった。 そして、言葉の抽象性を超えて、私の感情の最深部を直接的に揺さぶるものが「音楽」である。
私は現在、まともなデスクトップPCや実物のギターすら所有していない極限の金欠状態にある。しかし、Appleが提供するGarageBandという無償のインターフェイスや、スマホ版のMobile VOCALOID Editorの無料期間を利用して、古い小さなiPhoneの画面に向かって一生、主旋律の歌メロを打ち込み続けるという創作の灯を絶やさずにいる。
Cメジャーのキーにおいて、あえてコードをF(サブドミナント)から配置し、浮遊感のある切ないメロディを紡ぎ出すこと。結月ゆかりや、新しく出会ったVOCALOIDのasaの声質を活かし、ハイテンポで夜っぽい短調の曲『RED BIRD』や、J-R&B風の『グラスワイン』、民謡的な哀愁を帯びた『ノスタルジア』をスマホ1台だけで制作すること。それは、現実の生活がどれほど不運に満ちていようとも、私の心の中には誰にも侵されない「明るく陽なるクリエイティビティ」が厳然として存在していることを証明する、実存的な抵抗運動そのものであった。
かつて18年をかけて3500時間以上没入してきた伝説のオンラインゲーム『FINAL FANTASY XI(FF11)』の中で、召喚士最強の武器であり、仏教の悟りの涅槃を意味する「ニルヴァーナ」をやっとの思いで獲得したとき、私は自分が最も愛するグランジバンドの偶像、カート・コバーンの存在をそこに重ね合わせていた。躁鬱の苦しみの中で『Lithium』を歌ったカートの皮肉な自虐性、あるいは宇多田ヒカルの『First Love』の洗練されたメロディライン、ラフマニノフの旋律に触れるとき、アラフォーに達した私の男としての涙腺は不意に緩み、激しい涙が込み上げてくる。
音楽家が音に関する圧倒的なシナプスを脳内に持っているように、私は言葉と音の二つの翼を用いることで、この不条理な世界のあらゆる事象に対して、無数の美しい解釈の意味を上書きし続けているのである。
終章:様々なる意味のうねりの中で――
ニルヴァーナの彼方へ振り返れば、私の歩んできた道のりは、常に極端な光と影が激しく交錯する、あまりにも濃密な時間の連続であった。
ベトナムの道端で飢えに震え、バスのミラーで首を吊ろうとしていた無一文の男が、現地の女性Tさんの圧倒的な善意によって救い上げられ、漢方の力で脳の冴えを取り戻す。日本の閉鎖病棟の窓から生活保護の施設での飼い殺しの未来を突きつけられた男が、10円玉を床にばら撒くという一瞬の機知によってシャバへと跳躍し、西成の爆音の中でバールを振るって得た一万円札に涙する。そして今、手取り23万円の給与を得ながら、毎月僅かな自由に使えるお金をやり繰りし、1年ぶりに訪れた鳥貴族の焼き鳥とお酒の味に、まるで夜の夢の中にいるかのような深い夢心地を感じている。
この世界は、確かに冷酷で、予測不能な災難に満ちており、見えない国家の機密や加害のテクノロジーによって私たちの実存を容易に脅かしてくる場所である。しかし同時に、見知らぬ他者が差し出してくれた温かいカップラーメンのスープの中に、西成の商店街の路上で鳴り響いていたクラリネットの『G線上のアリア』の完璧な美しさの中に、そしてスマホの画面の中で健気に歌うボカロの歌声の中に、世界は耐え難いほどの輝かしい「意味」を同時に孕んでいるのだ。 私の前には、今、二つの静かな、しかし烈しい情熱の灯がともっている。
一つは、一刻も早く生活保護の強制的な依存関係を完全に切り、フルタイムの労働許可をもぎ取って、高スペックなPCと、夢にまで見たフェンダーのストラトキャスターを購入し、この手で本当のバンド音楽と高度なDTM環境を再構築すること。クリエイティビティという最大の資本を用いて、印税収入をも視野に入れた本気のボカロPとしての羽ばたきを果たすことである。
そしてもう一つは、これから2年、あるいは数年かけて必死に学費を貯め、30代から40代という大人になった今だからこそ、京都大学の文学部(Faculty of Letters)へと再進学し、歴史学や哲学、文学の生涯学習に身を捧げることである。大衆的なメディアの安易な情報からではなく、アカデミックな知の体系を通じて、この複雑な世界の「人類像」の真実を自らの目で再認識したいという、魂の覚醒の望みがそこにはある。
もし私に永遠の命があるならば、私は400年でも生き続け、世界にあるすべての面白い本を読み、すべての言語を習得し、無限に音楽を紡ぎ続けたいと願うだろう。
世界が孕む様々なる意味――それは、不条理の闇であり、同時に他者の光であり、私たちが言葉と音によって無限に解釈し、拡張し続けることができる、実存のキャンバスそのものなのだ。私はこの狂おしくも美しい世界を、自らの意志で選択した足取りで、ストラトキャスターの歪んだ音色とともに、ニルヴァーナ(涅槃)の彼方へと向かって、どこまでも力強く生き抜いていくことをここに宣言する。
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